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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
インタールード
271/328

出雲ハートブレイク



 オンリーワン出雲店。十二月二十七日。

 新しい朝に、一の気分は重かった。体を動かしている間は考え事が少なくて済む。だが、こうしてぼうとしている内は、どうしても思い出してしまうのだ。駒台のことを。彼女たちのことを。

 頭を無理やりに振って、思考を追い出す。考えても考えても答えは出ない。布団を跳ね除けて立ち上がろうとした。

「おいっ、いつまで寝てんだよ! 早く起きろって、よしかさんが朝飯まで作ってくれてんだぞ! 気配で察してとっとと起きろ!」

 石見の怒鳴り声に一は眉根を寄せる。

「起きてるよ!」

「返事くらいしろ!」

 一は苦笑するしかなかった。ここまで露骨に嫌われているのなら、気を遣う必要はないだろうと思ったのである。どうせならこちらからすり寄ってやれ、とも思った。



 洗面所で顔を洗った一は眠たそうな顔を連れてリビングにやってきた。キッチンからは美味そうな匂いが漂ってくる。中を覗こうと思ったが、柿木に止められた。

「お、おはようございます。あの、よしかさんは料理をしているところを見られるのが嫌みたいなんですよ」

「おはよう桜江さん。へえ、そうなんだ。じゃあ、今度邪魔してやろう」

 桜江は一が椅子に座るのを確認して、彼の隣を陣取る。その様子を見た石見がつまらなさそうに鼻を鳴らした。

「変わろうか、石見君」

「は? なんで? つーか何言ってんだよ。んな暴力女の隣に座ったら何されっかわかんねーし」

「いや、じっと桜江さんを見てたから。そういや、そのカチューシャ、かわいいね」

「あっ、ありがとうございます」

 お礼を言いつつおでこを押さえた桜江は、何故か顔を真っ赤にして石見をねめつける。

「余計なこと言うんじゃねえって! そいつ、変にアクティブなくせに根はへたれなんだからよ」

「よくご存じで」

 一はお茶を啜り、口元を歪めた。

「朝から楽しそうだね、少年少女。さ、ご飯をよそってあげよう。石見、お腹の減りはいかほどかな」

「よしかさんがよそってくれるなら何杯でもいけます!」

「よしよし、やはり男の子は食べなくてはいけないな。そっちの少年、君は?」

「俺は結構です。朝はあんまり食べないんで」

 柿木はエプロンを外して椅子に掛ける。彼女は一と石見の茶碗を取り上げ、眠たそうに彼らを見遣った。

「そうか。お腹が空いたらいつでも言うといい。桜江はいつも通り丼いっぱいで――――」

「――――はい?」

「……何でもない。自分でよそうといい」

 目力に圧された柿木がキッチンに引っ込む。一は楽しそうに振る舞いながらも、疎外感を覚えていた。



 少ない納品を片づけ、配送業者のトラックを見送る。一は体を伸ばし、店の前で掃き掃除を始めた。ふと、養老がいないことに気づく。駐車場に彼の車が停まっていたが、店にはいなかったのだ。

「……散歩かな」

 掃除はすぐに終わり、店内に戻る。柿木は髪の毛をうなじの後ろでまとめて、窓ガラスをせっせと磨いていた。

「柿木さん」

「よしかでいい」

「柿木さん。養老さんって、どこかに行ってるんですか?」

「ん? いや、どうだろう。彼は基本的に店にいるが。……そういえば、携帯電話で誰かと話していたな」

 誰かと連絡を取っているのだろう。一はさして気にも留めず、掃除用具を元の位置に戻した。そうしてから、やることがなくなったのに思い当たる。

「少年、手が空いているなら窓を一緒に拭こう」

 差し出されたダスターを見遣り、一は憂鬱そうに頷いた。掃除するまでもなく、窓ガラスはぴかぴかである。

「そういえば、養老さんも勤務外として働くことがあるんですよね」

「ああ、そうだよ。実際に戦っている姿を見たことはないがね。昔、といっても数年前の話だが、関東の支店を任されていたらしい」

 左遷されたのかと聞こうとしたが、一はその言葉が出てくるのを押さえた。

「左遷というやつだね。養老さんはあれで中々熱い人物なんだ。上と揉めてしまったと、本人から聞いたことがある」

「へえ。意外だ。そうは見えないんですけどね」

「あの糸のような目が開いた時、彼は真の力を発揮するのではないかと思っている」

 柿木がふらつく。太陽の光を直視してしまったのだ。彼女はその場から二歩下がり、楽しげに笑った。

「今の醜態。一人だったら馬鹿みたいだな、私は」

「よかったですね、俺がいて」

「しかし羞恥感は倍近い。出来れば今のことは絶対に覚えていて欲しい」

 一はガラスを拭きながら、忘れなくてもいいのかと尋ねる。

「いや、短い付き合いで悟ったのだが、君はどうやら天邪鬼らしいからね。忘れろと言えば、いやだ忘れないと返すに決まっている。だから覚えろと言ったのだ」

「そんなこと言われたら忘れないに決まってるじゃないですか」

「うん、そういうとも思った。……おお、見たまえ少年、大きなトラックが来たぞ。お客だ。笑顔で迎え入れるんだ。私は作り笑いが苦手だからね」

 意趣返しのつもりだろうか。一はダスターを柿木に握らせ、カウンターの中に立った。ほどなくして、トラックの運転手が店内に入ってくる。

「いらっしゃいませー」

 彼は常連なのだろう。一の顔を見て、おや、という顔を浮かべる。が、それ以上は気にした様子を見せず、慣れた足取りで店の中を回っていた。……一が出雲店に来てから、初めて目にした買い物客であった。


 昼食をとり、柿木と交代で桜江がシフトに入る。彼女はカチューシャを朝とは違うものに変えていた。どうしたものかと、一は低く呻く。

「ど、どうしました? もしかしてお腹でも痛かったり……」

「あ、いやいや、平気平気」

「この時間は暇なんですよ。よしかさんが朝の内に掃除しちゃってますから」

 この時間、は? 一はこの店が忙しくなることはないだろうと思いつつ、何も言わなかった。

「な、なので、お喋りしましょう。椅子に座ってたら怒られちゃうので立ち話になりますけど」

「あ、じゃあ聞きたいことがあるんだけど、いいかな」

 なんなりと、と、桜江は大人びた声を作って言う。

「桜江さんも勤務外なんだよね。戦うの?」

「私がですか? え、ええと、た、戦わない、かなあ。こないだ駒台に行ったのは……一さんたちにはごめんなさいって思うんですけど、ちょっとした観光気分というやつでして」

「え? そうなの?」

「ごっ、ごめんなさい。でも、ですが、だって、ここって静かでいいところだと思うんですがちょっと静か過ぎて何もなさ過ぎると言いますかですね。……よしかさんが一人じゃ心細いし行こうって言ってくれましたし私も暇を持て余していましたし」

 一は内心で頷く。確かに、ここはいい場所だ。しかし退屈でもある。時間を潰すことを探すのに疲れる程度には、客が来ない。海も森も、桜江たちにはただの風景にしか見えないのだろう。美味い空気も潮風も、慣れてしまっては何とも思えないはずだ。

「それにしんじのやつは他の人に舐められてはいけないとか子供みたいなことを言いますし」

 桜江の弁解はまだ続いていた。一は彼女の話を遮るようにして口を開く。

「けど、アレはすごかったね。神様の力を開放するってやつ」

「あっ。あ、そうでした。私としんじはよしかさんの助手ですからね。アレくらいは当然です。……本当は、私は応援する係で、しんじは見張りする係なんですよ。だから、他のお店の勤務外を見て、気が引けちゃいました。お給料もらい過ぎてるんじゃないかって」

「それを言うなら俺もだよ。結局、あの時は」

 言いかけて、一は沈黙する。三森のことを強く思い出したのだ。

「……? でも、よしかさんってすごかったんですよね。ここら辺って、ソレが出ないんです。だから私、ソレを見たのは駒台ので二回目でした」

「……一回目のことを聞いてもいいかな」

 桜江の表情が僅かに曇った。しかし、彼女はそれを吹き飛ばすような笑みを浮かべる。

「私、ここよりも遠いところにいたんです。けど、学校がソレに襲われちゃって。それからどうしても、学校には通えなくなっちゃって。トラウマというやつみたいです。思い出しちゃうんです。ソレや、死んじゃった人のことを。家からは学校が見えるくらいに近かったので、私だけこっちに来たんですよ」

 大変だったね。そう言いかけて、一は堪えた。桜江とは出会ったばかりである。だが、彼女に身に降りかかった災難を一言で片づけてしまうのは、彼には出来なかった。

「一さんみたいに強かったらよかったんですけどね。私、だめですから」

「だめなもんか。俺は、強くなんかないんだよ。たまたま、運が良くて、周りの人たちに助けられてたまたま生き延びてこられただけなんだ」

「強いですよ、一さんは。だってあの時、すごくかっこよかった。私、感動したんです。あんな風にソレと戦える人たちがいるんだって」

 ああ、と、一は桜江の目を見て、視線を逸らした。彼女の気持ちがよく分かったのである。その目は、その気持ちは、自分が三森に向けていたものと似ていたからだ。



 夕方になり、一はバックルームに戻った。出雲店のそれは作りこそ似ているが、北駒台店とは違って仮眠室がない。ロッカーは一人ずつ用意されており、彼は一番右端のものを使うことにしていた。

「……おう」

「ああ、お疲れ様。引継ぎは……特に言うことはないから、よろしく」

「おう」と、制服に着替え終わった石見はリーゼントを撫でつける。

「気合が入ってんなあ、石見くん。それ、毎日セットしてんの?」

 石見は面倒くさそうに首肯した。彼は勤怠の登録を済ませて、制服に名札をつける。

「勤務外ってのは舐められちゃだめだからな。特に、お前みたいな新入りにはよ」

「君って、不良なの? もしくは暴走族に入ってるとか?」

「昔つるんでたやつらがそういうのをやってた。俺も色々とやってたけどよ、けど、俺ぁ今は抜けたんだ。よしかさんがそういうのは嫌いだって言うからな。ただ、こいつだけは勘弁してもらったんだ」

 リーゼントを指して、石見はふっと笑みを漏らした。柿木との出会いを思い出しているのかもしれない。

「ふうん。そっか。よかったじゃないか、そういうのは男の勲章なんだって聞くし」

「うるせえなあいい子ちゃんがよう」

 強い攻撃性は打たれ弱さの裏返しだ。石見の家族は詐欺被害に遭っている。彼が両親から離れたのか、あるいはその逆か。不良という道に進んだのは、何を求めてのことだろうか。一はふと、彼が学ランを着ていたのを思い出した。

「でも、学校には通ってるんだよね。マジもんの不良は学校には行かないんじゃねえかなあ」

「……よ、よしかさんが高校くらい出とけっていうからだ」

 柿木は石見の姉か、母の代わりを務めているように思えた。

「学ランかあ。まるで正反対だな」

「あ? 何の話だよ? 誰と誰が反対なんだって?」

 一はしばらくの間、自分が何を言ったのかが理解出来なかった。

「あ、ああ、いや、知り合いが、ね」

「へえ、ああ。向こうの店のバイトか。どんなやつなんだよ。そいつも気合入ってんのか?」

「入ってたよ。俺の何倍も、何十倍もね」

 石見はにやりと笑う。好戦的な笑みであった。

「そいつとは一回会ってみてえな。駒台に行った時に会ってりゃよかったぜ」

 ここに来てから、思い出すのは死者のことばかりである。女々しいやつだと自分を叱りつけながら、これは一生ついて回ることなのだとも思い直した。



 オンリーワン出雲店。十二月二十八日。

 一はレジスターで現在の時刻を確認する。ちょうど、日付が変わったところであった。店の判子の日付を変え、新聞の返品作業を始める。数を数えると、殆ど売れていなかったことが分かった。彼は頭を掻きつつ、鋏と紐を取りに行こうとしてカウンターに戻る。……こうして、普通の業務をこなしていると思い出しそうだった。勤務外になる前、アイギスを手に入れる前、一人で店に残っていた時のことを、である。

 夜が深まるのと一人でいるのは危険だった。作業の手が止まる。一は全てを投げ出して眠りに就きたかった。

「おいおい、サボってんじゃねえよ」

 顔を上げると、石見が立っていた。一は、ドアが開くことすら気づいていなかったのである。背中の部分に龍の刺繍が入ったジャージを着ている石見は、一の後ろを指差した。

「……何?」

「十三番だよ。タバコ、一つくれ」

 偉そうに言い放つと、石見は気だるそうに一へ視線を遣る。

「じゃあ、身分証を。年齢確認出来るものを見せてもらえますか」

「てめえっ、俺は先輩だぞ!」

 ドアが開く。石見は身を固くさせた。入店したのは寝間着の上にカーディガンを羽織った柿木である。彼女は石見の姿を認めると、不思議そうな顔をした。

「おや、石見。何を憤っているのかね。一君がいやらしい本を売ってくれなかったのかな」

「違いますよ。こいつ未成年のくせにタバコを買おうとしたから止めてたんです」

 あ、馬鹿、と、石見が一を止めようとしたが遅い。

「……何? 本当かね、石見」

「ち、違うっすよ! 俺ぁこいつが甘ちゃんだと思って、確かめてやったんすよ! 俺みたいなガキにタバコを売ろうとするなんて出雲店にはいらねえと思って、です、ね……」

「石見。タバコも酒も、君には三年早い。前から言っていたじゃないか。ふう。私は悲しい。ああ、なんだか猛烈にふらついてきた」

 柿木が俯く。恐らく演技だろうと一は見破っていたが、石見はあっぷあっぷと地上で溺れそうになるくらいに慌てふためいていた。助け舟でも出してやろうと、彼は口の端を歪める。

「柿木さん。石見君の言ってることは本当ですよ。まあ、ばっちり追い返してやりましたけどね。石見君なりの心遣い、俺はありがたく受け取りました」

「ほほう、そうまで言うかね。では、ここは一君に免じて引いておこう。それよりも、肉まんが食べたくなってしまってね。一つください」

 太りますよと一は什器から肉まんを取り出した。

「んなことねえよ! むしろよしかさんはもう少し肉つけた方が魅力が増すんだよ!」

「代金は石見が払う。辛子は結構だ」

「よしかさん!?」

「ではな」と、肉まんを受け取った柿木は、すたすたと店外に行ってしまう。

 静まり返った店の中で、石見がぽつりと呟いた。

「助かったぜ。ありがとうよ。実はよ、ここに来たばっかの時、舐められねえようにタバコをスパーって吹かしてたんだよ。したらよしかさんにぶっ飛ばされた。あの日以来、俺はタバコにゃあ手を出してねえし酒の一滴だって口にしちゃいねえんだ」

「エロ本は?」

「うるせえな」

 石見は長財布から小銭を出し、カウンターの上に置く。肉まんの代金にしては、少しだけ多かった。

「なんだ。石見君も何か買うのか」

「いや、悪かったな。それでコーヒーでも買っといてくれよ。それから、俺のことはしんじでいい。君付けなんて虫酸が走るかんな」

 石見は根が素直なのだろう。自分の非を認められて、悪いと思ったのなら頭を下げられる人間なのだ。一は素直に厚意を受け取っておいた。

「じゃ、ありがたくもらっとくよ。しんじ、早く寝ろよ。柿木さんがこっそりこっちを見てるからな」

「げっ、マジか。じゃ、じゃあな」

 リーゼントが揺れて、石見は慌てて店を飛び出した。いいやつだな、と、一は彼のことを見直した。



 早朝になって、石見がシフトに入った。一は彼と交代し、着替えて外に出る。店前の灰皿近くで煙草に火をつけると視線を感じた。じいっと、石見が紫煙を見つめている。一は見せつけるように煙を口から吐き出した。

「おはようございます。そうかあ、一さんは喫煙者でしたっけ」

「お、おはようございます」

 養老が車から降りてくる。どこに行っていたのか気になったが、一は尋ねようとはしなかった。

「これは中々やめられなくって。養老さんは吸わないんですか」

「酒はやるんですけどね。……どうですか。この店には慣れましたか?」

「少しは、慣れました。やることは変わりませんからね。ただ、一人で夜勤やってると退屈で仕方ないですね」

 思い当たる節があるのか、養老は苦笑した。

「裏で雑誌でも読んでいてくれればいいんですよ。最低限の仕事さえやってもらえれば充分です。ただ、タバコはバックルームじゃあ吸えませんから気をつけてください。柿木さんに怒られてしまいますからね」

「そ、そんなんでいいんですか?」

「真面目なのはいいことですが、肩肘張ってばかりでは疲れます。のんびりといきましょう、のんびり。……それとも、戻りたいですか?」

 一瞬、養老から鋭い視線を向けられた。一はそれに気付かないふりをして、短くなった煙草を灰皿に落とす。

「どうなんでしょうね。たぶん、本当なら戻らなきゃいけないんですよ。でも、戻ったって意味がないとも思ってるんです。俺は、流されるまま、抵抗すらしないで、こうして、ここにいます」

「……一さん。世間や社会というのはね、一度ドロップアウトした者には厳しいところなんですよ。ただ、あなたはまだ若い。私とは立場が違います。好きなことを好きなようにやれればいい。もし、もしも駒台に未練があるのなら、そう実感したのなら、声をかけてください。お話したいことがあります」

 それだけ言うと、養老は店の中に入ってしまった。……未練。一は新しい煙草をつまみ上げて、ぼんやりと考えた。



「一さんっ、海を見に行きませんか!?」

 目が覚めたら桜江がいた。一は瞬きを繰り返す。夢ではなかった。耳の奥がきんと痛んでいた。

「……え、あ? 海なら目の前にあるけど」

「いいえ、もう少し眺めのいいところがあるんです。どうでしょうか」

 一は夜勤を終えて、眠りの淵にいたところを叩き起こされた。その張本人、桜江みとは彼の顔を覗き込んでいる。奇襲をかけられたのだと判断した時にはもう遅かった。

「今、何時……?」

「お昼を回ったところです。私と一さんは夕方からバイトなので、是非」

 混濁した意識でもって考えるも、暇なのは確かである。一は諦めて頷いた。

「着替えて準備するから、先に下りてて」

「はいっ、ありがとうございます!」

 どたどたと駆けていく桜江の後姿を見送り、一は枕に顔を埋める。何が起きたのかよく分かっていなかった。



 顔を洗い、着替えてコートを羽織り店の前に下りると、コンビニの袋を提げた桜江が小さく手を振るのが見えた。冷たい風が吹き、眠気を奪い去っていく。

「はい、一さんどうぞ。缶コーヒーとあんまんです」

「あ、ありがと。お金払うよ。いくらだった?」

「い、いえ、大丈夫です! あっ、おタバコならどうぞどうぞ。一さんってそういうの吸うんですね。ちょっとびっくりしました」

「言ってなかったっけ? ……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 一は煙草に火をつけてそれを口に銜える。桜江からコーヒーを受け取り、プルタブを押し開けた。

「ふう。……桜江さんはタバコが嫌いじゃないの?」

「臭いがついちゃうのはちょっと。けど、タバコを吸う人って大人っぽくてかっこいいです」

「しんじも吸ってたらしいよ」

「あいつはだめです。子供が背伸びしてる感じがし、て……」

 はた、と、桜江は何かに気づいた様子で、ううん、と唸った。

「一さん。しんじって、あれ、下の名前呼び捨てに」

「ああ、昨日そう言われたんだ」

「で、ででしたら、私のことも呼び捨てでいいんですよ?」

「みと」

「は、はいっ!?」

 ちょっとだけ面白い反応が見れたので、一は満足そうに紫煙を吐き出す。

「でも、俺の中では桜江さんは『桜江さん』って感じなんだよなあ」

「と、時々でいいので。お願いします」



 一と桜江は並んで歩き始める。車道には車どころか、他に人が通っていなかった。今日の海も凪いでいる。彼はあくびを噛み殺した。

「一さん、お昼ご飯はまだでしたよね? 目的地に着いたら、お弁当を食べましょう」

「うん。いいね、そうしよう。どれくらいかかるの?」

「すぐですよ、すぐ」

 桜江が車道の真ん中で踊るようにして歩を進める。一は危ないからと止めようとしたが、誰も通らないのなら問題はないかと思い直した。

「もうすぐ年越しですねえ。お蕎麦、よしかさんが作ってくれると思いますよ」

「楽しみだなあ、そりゃ」

「私たち、イベントごとには目がないんです。楽しみにしててくださいね」

 頷き、一は立ち止まる。桜江の姿が眩しかった。一日一日を精一杯楽しもうとしている。生きている。彼女には辛い過去があり、今も苦しみを抱えている。だが、自分のように立ち止まろうとはしていない。

「……一さん? どうしました? あ、やだなあ。もうお腹が減ってきちゃったんですか?」

「そうだね。いきなり起こされて、ご飯を食べる暇もなかったから。ああ、嘘だよ嘘。気にしないで」

 勾配が少しだけ急になり、一の足腰に苦痛を訴え始めた。坂道を進むと、桜江の言う目的地が見えてきた。彼女が指差したのは石段である。正確には、それを上った先の境内であった。

「神社?」

「でも、小さいですし、神主さんもいません。大したものじゃあないってよしかさんが言ってました」

「中々堪えるなあ。桜江さんは」

 無表情で見つめられたので、一は焦って言い直した。

「みとは、結構体力があるんだね」

「えへへ、女子力ってやつですね。鍛えてますから」

 楽しげに言って、桜江は石段を上り始める。一は彼女に追いつこうと必死だった。



 朽ちかけた社へ伸びる石畳。参道には枯れた葉が落ちている。掃除する者はいないのだろう。放置された神社は恐ろしいというよりも、物悲しく見えた。一は石段を上りきり、鳥居を潜らず、その場に腰を下ろす。桜江はとうに境内へ到着しており、彼にペットボトルのお茶を差し出した。一はそれを有り難く受け取る。

「いい眺めだと思いませんか?」

 海が見える。島が見える。山が見える。遠くに、建物がぽつぽつと見えた。それだけだった。眺望は素晴らしいのだろうが、何故か、一の胸を打つことはなかった。それはきっと、この場、この街に愛着が湧いていないからだろう。

「桜江さんはここからの景色が好きなの?」

「……実は、あんまり。でも、よしかさんやしんじは好きだって言うんですよ。一さんにも見てもらおうと思ったんですけど。どうでした?」

「俺も、ぴんと来ないかな。なんか、景色を見る前にここの荒れ具合を見てさ、悲しくなった」

「あ、そ、それ、私もなんです。最初に連れてきてもらった時に、どうしても神社の方に気を取られちゃって。第一印象が悪かったんでしょうか。ちょっと勿体ないかもしれないですね」

「勿体ない、か。そうかもね」

 二人は顔を見合わせて、笑い合った。

「なんか、ごめんなさい。ザ・無駄足って感じでしたね」

「いや、いいよ。折角こっちに来たんだからさ、色んなところを見たかったし」

「あ、それじゃあ、今度休みをもらってどこかへ行きましょうよ。案内したい場所、まだまだあるんです」

 魅力的な提案だった。自分には勿体ないものだと、一は思った。桜江には、返答出来なかった。彼女も察したのか、無言で提げていた袋を掲げる。

「お弁当、食べましょうか」

「うん。そうしようか。ああ、腹が減り過ぎて泣きそうだ」

 嬉しい反面、向けられる好意が怖かった。まっすぐな目が怖かった。一は割り箸を銜えて、ぼうっとした様子で海を見つめる。船が通った。あれはどこに行くのだろうと、益体もないことを考える。……一は、きっと、自分にはこの街を守れないのだろうと直感していた。

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