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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
インタールード
270/328

駒台ルーザー



 ぼくはおやふこうものです。



 一一は全てを思い出した。

 何故自分が駒台に来たのかも。

 何故オンリーワンの店員となり、勤務外を志したのかも。

 何もかも。

 自分が、何をしたかったのかも。


 ――――俺は親不孝者だ。


 全ては家族の、友人の、同郷の者たちの無念を晴らす為に。

 一一の全ては、復讐を成す為だけに存在している。捧げる必要がある。足は怨敵へと近づく為に。腕は力を振るう為に。この身は、故郷を燃やし尽くしたモノを殺す為だけにある。

『どうして、どうして忘れていたんだ』

 悔しくて歯痒くて腹立たしくて死にそうになる。復讐。それを忘れていただけではなく、自身の過去すらを記憶のどこかへと置き去りにしていたのだ。……ふと、我に返る。記憶とは、なんだ。過去とは、どこにある?


『あなたの探してる人は、目の前にいるのよ。気づかなかった? それとも、忘れてた?』


 タルタロスからやってきた女の囁きがリフレインする。

 記憶も過去も、どうしてそれが本当だと言い切れる。復讐という大切な事を忘れていた自分の記憶も過去も曖昧であやふやなものだと、どうして思えない。一一は、自身が一一だという事実を疑い始める。自分が、一一の顔を借り、過去を騙り、記憶を偽っているのではないかと。植えつけられた記憶で語り、縫い付けられた目的に沿って動くロボットではないのかと。一一の皮をかぶった何者かが、自分という男の正体ではないのか。一度疑えばきりがなかった。何せ、答えを寄越す者はどこにもなく、答えを示すものはどこにもないのだ。復讐者であると同時に簒奪者なのか? 一一は、否、一一だったかもしれない男は思考の渦にいとも容易く飲み込まれた。


 おれは、もしかして本当に『円卓』のメンバーではないのか?


 浮かび上がった新たな疑問は、妙にしっくりと来た。すとんと胸に収まる響きであった。復讐。復讐、復讐、復讐だ。自分はオンリーワン北駒台店の長を――――二ノ美屋愛を殺す為だけに生きてきたはずだ。ならばオンリーワンと敵対する『円卓』の席を担っていてもおかしくはない。故郷を、ソレの大軍ごと焼き尽くし、踏み砕き、殺し抜いた女。一一の住む町を消失させたのは空を駆ける襲撃者ではない。人間だ。同じ種類のモノたちが、自分たちを壊した。終わらせたのだ。彼らの目的も意志も過程も関係がなかった。結果が全てだ。町を守ろうとした二ノ美屋たちが結果的には町を壊した。何も守れなかった。


 だから俺は殺してやるんだ。思い知らせてやるんだ。


 地には骸が。空には翼持つ怪物が。炎と煙に巻かれ、大地を抉られた町が『男』に残された唯一の過去であり、記憶であった。



 島根県出雲市。潮風を受けながら森の中を進む。隣町へと延びる、海岸沿いに敷かれた二車線の道路を進めば、それは見えてくる。オンリーワン出雲店は西端部にぽつんと建っていた。近くに民家はなく、商店もない。二階建ての建物は、一階がオンリーワンの店舗として、二階部分は居住スペースとなっている。森を背にし、海を臨む出雲店に訪れる客は少ない。観光客か、長距離のドライバーくらいのものである。

「長閑だと言えば聞こえはいいんですけどねえ。実際、閑古鳥が鳴いてるだけなんですよ」

「……そう、ですか」

 出雲店の駐車スペースは狭い。大型のトラックなら大抵の場合、車道からはみ出てしまう。それでも他に通る車は少なく、大した問題ではなかった。

「さあて、着きました。ようこそ、オンリーワン出雲店へ」

 灰色の乗用車が停まり、運転席からスーツ姿の男が現れる。四十を迎えたばかりの彼の名は養老正秀(ようろう まさひで)。出雲店の店長を任されている男であった。彼の物腰は穏やかというよりもやけに低い。白髪交じりの短い黒髪と、糸のように細い目が特徴的であった。

 養老に遅れて助手席から降りたのは中肉中背の男である。彼の名は一一といった。

 一は息を吸い込む。錯覚かもしれないが、空気が違うと思った。透き通っているような、そんな感覚を覚える。

「荷物はもう、部屋に届いていると思いますよ。どうしましょうか。先に、皆さんに挨拶しておきますか? ああ、一応皆さんとは顔見知りでしたっけ」

「出来れば、先に部屋へ……」言いかけたが、店の中から三人の店員が現れた。皆、見覚えがあったので、一は気まずくなった。養老は申し訳なさそうな顔を作り、一に微笑みかける。

「いや、やっぱり挨拶からで。大事ですからね」

 一も作り笑いで答えた。



 いいのかね、と、柿木よしかがぽつりと漏らす。彼女は、石見と桜江と話す一を見つめながら、養老に問いかけた。彼は車のドアに背を預けながら、困ったように笑む。

「うちとしては、人が増えるのはいいことだと思いますよ。助かりますし、何より、変化があるというのは嬉しいものでしょう。人間というのは、変化がないとだめな生き物ですから」

「……そうではないよ。彼の意思はどうなのかと聞いている。あの街を出て、ここに来てもよかったのかね」

「私は頼まれただけですから。それに、上からは詮索するなと釘を刺されていますからね。……メドゥーサ。アイギス。話くらいなら聞いています。そして、向こうで何があったのかも、大体は。一くんにとっては、いい息抜きになるといいのですが」

 柿木はじっと一を見ていた。今の彼は、あの日の夜とはまるで別人であった。何者にも恐れずに立ち向かい、噛みついていた者とは違う。死んだ魚の、とは聞くが、正しくそれに近しい目をしていた。笑ってはいるが作ったものだ。何もかもを嘘で塗り固めようとしている。

「嫌なことがあって逃げてきたのかな。だけど、失礼な話だ。ここは楽園ではない。ここだって戦う者たちの集まる場所で、いつ戦場になるか分からない。すると私たちは彼の愛人のような……くだらない関係に成り下がってしまうよ」

「愛人とは、随分な言い方ですねえ。しかし、柿木さんはそういう人すらも受け入れてしまいそうですが?」

「……むう、その通り。私は情が深いと自負しているからね。けれどね養老さん。逃げ場など、この世のどこにも存在しないんだよ。全てを忘れて生きることは不可能だ。一くんがここに何を求めに来たのか、その答えによっては私にも考えがある」

 養老は細い目で柿木を見遣る。

「どうするのですか?」

「たぶん、無茶苦茶甘やかしてしまうだろう。それはきっと、私にとっても彼にとっても、とってもよくないことなのだろう。……とりあえず、今日の晩御飯は私が作ろうじゃないか。養老さんが出ている間に、いい魚をいただいたのだ」

 十二月二十六日。一一、オンリーワン出雲店に到着。同時に、同店の勤務外店員として在籍。



 抜け殻のような姿で、虚ろのような眼だ。だが、

「次は何をしたらいいですか?」

「え? あれっ、もう終わらせちゃったんですか?」

「お客さんも来ませんし、納品片づけるだけなら、まあ」

 一の仕事は早かった。同系列の店で働いていたということもあったが、柿木たちよりも要領がよかった。桜江は目をきらきらとさせていたが、柿木は面白くないと思っていた。彼の真意が読めないことが気に入らなかったのである。

「おやおや、桜江は随分と……一くんを歓迎しているようだね」

「よしかさん?」

「ふふん」と、柿木はいやらしい笑みを浮かべた。一を困らせてやろうと思ったのだ。

「一くん。学校はどうしたのだね。旅行気分で出雲に来たのなら」

「大学には休学届けを出しました。アパートはまだ引き払ってないんですけど、たぶん、オンリーワンの人たちが勝手にやってくれてるんじゃあないですかね」

 何だかまずいことに触れそうな気がして、柿木は口を噤もうとした。が、口は勝手に動く。生来、彼女はおしゃべりであった。

「ここで暮らすつもりかね?」

「やっぱり、迷惑でしょうか」

「そっ、そんなことないですよ! よしかさんはたまに意地悪ですから無視してください!」

 一は苦笑する。柿木は桜江をじっと見つめた。今日の彼女は……心なしか気合が入っていた。いつもはしようもないロゴの入った色気のないシャツの上に制服を着ているが、今はいわゆる、『お出かけ用』のシャツを着ている。おかっぱ頭は寝癖がついていることが殆どだが、今日に限ってはきちんとセットされていた。薄くではあるが、化粧までしている。

「なんだ桜江。この少年のことが好きなのか?」

「な、何を……言ってるんですか。嫌だなあ、あ、あははは」

「しかし少年。君も罪な男だ。桜江を一目惚れさせるとはね。まあ、ここで生活していてるとまともな男と出会えないのも確かではある」


「ひどいじゃないっすか、よしかさぁーん! ここには俺がいるじゃないですか!?」


 ウォークインで作業していた石見が叫んだ。

「地獄耳だな、石見は」

「何もないところですけど、その、ゆっくりは出来ると思いますから」

 その言葉に、一は戸惑ったように頬を掻く。

「そういうわけにはいかないかな。俺だってここで働くんだし、ましてや、観光気分で来たわけじゃあないからさ。……あ、外掃除でもしてきますね。桜江さん、箒とちり取りはどこにありますか?」

「けっ、敬語とか別にいらないですっ。大丈夫です! えっと、じゃあ、私についてきてください。こっちです」

 年長風を吹かせる桜江を見て、柿木は小さく微笑んだ。



 ウォークインから出てきた石見は、外で掃除をしている一を認めて鼻を鳴らした。彼のことが気に入らなかったのだ。駒台でソレと戦った日の夜、初めて会った時から気に入らなかった。柿木が一を好意的に見ていることもそうだが、何よりも彼の目が嫌だった。全てを見通し、諦めているような――――死人のような目だった。

「中学生じゃねえんだぞ」

 一は捻くれ、世界を斜めから眺めている。石見はそんな印象を受けていた。

「しんじ、一さんが気になるの?」

「……全然。ただ、ムカつくだけだ」

「ふうん。どこが?」

 目だ。そう言うのは簡単だが、説明するのは面倒だったので、石見は何も言わなかった。桜江は彼の腹を殴ろうとした。

「なっ、何すんだ!?」

「なんとなく」

 桜江は大人しそうな外見をしているが、その実、喧嘩っ早い性質である。何かあると口より先に手が出るのだ。ただ、彼女は一の前では猫を被っている。

「お前はさ、あんなやつのどこがいいんだ?」

「えー? わ、分かんない。けど、なんだかほっとけない感じがして。ぼ、ぼ、母性本能をくすぐられるような?」

「何恥ずかしがってんだ?」

 放っておけない。なるほど、と、石見は得心する。だが、一はそれを望んでいるようにも思えた。彼はきっと、線を引いているのだ。人の良さそうな顔の裏では何を考えているのか分からない。



 ――――きっと、俺のことを話しているんだろうなあ。

 店の中にいる石見と桜江に一瞥を遣ってから、一は溜め息を吐いた。掃除を始めたが、外には空き缶の一つとして落ちていない。ごみ箱を覗いても空っぽであった。出雲店は北駒台店よりも規模が小さい。客の数も商品の種類も、北駒台の半分程度だろう。

「オンリーワン、か」

 出雲店はコンビニエンスストアとしての売り上げを期待されていない。極論、店として機能していなくても構わないのだろう。必要なのは、ここにソレと戦える勤務外がいるかどうかである。驚いたのは、店員があの三人しかいないということだ。駒台に柿木たちが援軍として来た時も、養老が一人きりで留守を預かっていたらしい。

 西に進めば九州だ。そこは退治屋立花の管轄であり、オンリーワンは手出しできない。実質、出雲店は本州の最西端の砦となっている。不思議なことに、この近辺にソレは現れないと聞いていた。神々の集う地に、古今東西の怪物も警戒をしているのかもしれない。そんなことを考えながら、一は空を見上げた。今頃、皆はどうしているだろうか。……頭を振る。自分は全てを捨てて、ここに来たのだ。彼女たちを思うことすら許されないだろう。

 一は、オンリーワンの情報部から出雲店へ行くことを勧められた。強制ではなかった。その気になれば無視して、駒台に居残ることも出来たのである。しかし、北駒台店にはもう、誰もいない。


『一一。貴様には二つの道がある。一つは駒台に残る道だ。だが、残ればオンリーワンは貴様を庇えなくなる。タルタロスはまたいつか、貴様の前に姿を現すだろう。貴様には円卓のメンバーとしての疑いがかかっているのだ。勿論私は、そんなくだらないことを信じてはいない。が、信じる者も近畿支部にはいる。この街で今までと同じように生活するのは困難であると言える。……もう一つの道は――――』


 一は春風麗の言葉を思い出す。彼女は、一が二つ目の道を選んだことについて何も言わなかった。ただ、さようなら、とも言わなかった。

 戻れるものか。

 戻るものか。

 一は唇を噛み締める。糸原は自分の代わりにタルタロスへ連行された。ジェーンは未だ眠り続けている。立花は姿を晦まし、ナナはその活動を停止している。堀も炉辺もダメージを受けて前線には復帰出来ていない。戻ったとしても、誰もいないのだ。三森冬はもういない。この世のどこにもいないのだから。あの街には色々なものを残し過ぎている。だが、気力がないのだ。二度とは歯を食い縛れない。立ち上がれそうにない。誰かを守る為には戦えない。そのつもりが、欠片だって湧き上がらない。次にあの街へ戻る時は、守る為ではない。きっと、彼女を、二ノ美屋愛を殺す為に力を使うのだと確信していた。

「怖い顔になっていますよ、一さん。お客様が来たら、驚いて逃げてしまうかもしれません」

「……ああ、すみません。ちょっと、緊張してたみたいです」

「そうですか」と、養老がにこやかな笑みを浮かべる。彼は堀に似ていると、一はなんとなく思った。

 養老は背広を脱ぎ、それを車のボンネットの上に乗せてから、四肢を伸ばした。

「それよりどうですか、出雲店は。前にいた店よりもこじんまりとしているとは思いますが」

「なんというか、アットホームな感じですね」

「あははっ、なるほど、確かにそうだ。ああ、そうだ。皆とはやっていけそうですか?」

 一は答えに窮した。その様子を見て養老は苦笑する。

「石見君には嫌われているみたいですからね」

「彼はいささか攻撃的ですが、ああ見えて警戒心が強いんですよ。小心だと言ったら、石見君は怒り出すでしょうけれど。……昔、家族が詐欺師の被害に遭いましてね」

 返答に迷ったが、養老から切り出したのだ。一は言いにくそうに口を開く。

「……彼のご家族は?」

「石見君は今、彼の祖父母と暮らしています。学校は冬休みですからね。今はこっちで」

 石見の両親がどうなったのか、一は尋ねなかった。

「桜江さんも冬休みなんですね」

「ああ。彼女は、学校は辞めてるんですよ。石見君と同じく、一年前にここでアルバイトを始めたんです。ご家族は健在ですが、学校がソレに襲われて、ちょっと、いろいろあるんですよ」

「あー、それじゃあ、柿木さんは?」

 一は柿木が苦手だった。彼女の、こちらの意図も何もかもを見通したがる目が嫌だった。

「あの人は、由緒正しき神社の娘さんでしてね。八百万の神々、その力を引き出せるのが今代、彼女だけだったんですよ。オンリーワンには協力してもらっている、という感じですね」

「巫女さんだったんですか。……似合わねえなあ」

「はっはっは、本人に言ったら気を悪くするかもしれませんねえ。あとで報告しておきます」

「やめてくださいよ!」

 養老はくつくつと喉の奥で笑った。案外、癖のある男であった。一は頭を掻き、困ったような笑みを浮かべる。

「皆、いろいろあるんですよね」

「そうでもなければオンリーワンには来ませんよ。一さん、あなたにだってそのいろいろがあるはずでは? ……そんな顔をしなくても、無理に聞き出そうとは思いませんよ。ここはゆっくりなんですよ」

 言って、養老は森を見て、眼前の海へと視線を遣った。凪いだ海は酷く、穏やかであった。

「時間というのはいついかなる時でも変わりません。しかし、今の海のように静かに流れる時もあれば、嵐のように、あっという間に感じる時もあります。ここは、人が通らない。私たちはここで、通り過ぎていく人をじっと見つめているんですよ。そうして、一日を終えるんです。まるで理想的な老後じゃあないですか」

「俺みたいなよそ者は、ここには似合わないんじゃないんですか?」

「かと言って、何もなければつまらないですし、寂しいんですよ。一さん、人間とは一人では生きられないんです。どんな形であれ、誰かと繋がりを持ちたがる。気にしないでください。時間なら、ここにいる限り無限に感じられます。ゆっくりと、いろいろを解消していけばいいんです」

 養老の声は穏やかである。彼の言葉は、一の心にすっと染み渡った。それもいいかもしれないと、一は目を細める。ここは、考え事をするにはあまりにも静か過ぎた。



 出雲店の二階部分には幾つかの部屋があった。一は自室に通されるよりも先に、リビングらしき部屋に案内された。キッチンと繋がっている洋室には北駒台店の仮眠室と同じような家具があった。長机があり、人数分の椅子が用意されている。思ったよりも普通の家、という感じがして、一は面食らっていた。

「さ、さ、一さん。こっちの席にどうぞ」

 桜江に椅子を引かれて、一はそこに座った。彼女はその横の椅子に座る。

「おい、みと。別にいいけどよ。そこは俺の席だろ……こ、拳を握るんじゃねえよ」

 石見が一の対面に腰を落ち着かせた。食欲をそそる香りがして、一は無意識の内に腹を摩る。どうやら、柿木が何かを作っているらしい。調子外れな鼻歌が聞こえてきて、彼は頬を緩めた。

「よかったですね、一さん。今日は久しぶりによしかさんが晩ご飯を作ってくれて。あの人、いつもは面倒くさがって廃棄のお弁当を並べるだけなんです。本当はすごく料理上手なのに」

「おいてめえ。今だけは感謝してやる。エプロン姿のよしかさんはすげえ珍しくて、美人だからな」

 どうやら、自分は歓迎されているらしい。面映ゆくなり、一はテレビの方へ視線を逃がした。

「あ、ご、ごめんなさい。食事中はテレビ、だめなんです。よしかさんってば、変な礼儀を気にするといいますか」

「変とは失礼な」

 大皿を持った柿木が姿を見せた。確かに、彼女はエプロンをつけている。が、一は何とも思わなかった。

「おおっ、よしかさんの手料理……! あざーっす!」

 石見と桜江がキッチンに行き、用意を手伝う。一も席を立とうとしたが、柿木に押しとどめられた。

「少年、君も褒めていいんだぞ」

「俺は食事にはうるさいですよ」

「はっはっは、では、お礼の言葉は食べてもらってからのお楽しみとしよう」

 柿木はエプロンを外し、席に着いた。

「よしかさん、お味噌汁はどれくらい……あ、ああっ、そこは私の席ですよう!?」

「場所などどこでもいいではないか」

「だったらどいてくださいっ」

「ああっ! よしかさんがエプロン外してる!?」

 煩かった。だが、その喧騒の中にいるのは、妙に心地よかった。

「おや、ようやく笑ってくれたね」

「……? さっきから笑ってましたけど」

 一は訝しげな視線を柿木に送る。彼女は息を吐き出した。

「嘘くさい作り笑いならここに来てからずっとしていたみたいだけれどね。君の本当の感情を見られたのは、今が初めてだよ。ふふふ、見てやった。悔しいだろう」

 別に。そう言って目を背けるしかなかった。柿木の料理は美味かった。



 風呂に入り(銭湯以外の風呂は久しぶりだったので、一は勝手に感動していた)、あてがわれた部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せて来た。駒台から出雲店まで高速バスと養老の車を乗り継ぎ、数時間はかかっている。昼間に到着し、そのまま仕事を始めて、終わったのが夜の九時頃だ。日によっては仮眠すら取れずに店内へ戻ることになると聞き、げんなりとした。石見と桜江はまだ十八歳になっておらず深夜帯で働けない。今は柿木が一人でフロアに立っている状態だ。

 ――――たった一人、か。

 少しだけ、心細かった。もしソレが来たなら、一人きりで戦わなければならないのだ。自分には出来そうにない。きっと嬲られ殺されてしまうだろう。

 ちらりと、一は部屋の中を見回した。元は物置だったのだろう。布団を敷けばスペースには余裕がない。駒台から家具を殆ど持ってこなかったが、彼はそれで正解だと思った。……どうせ、人一人が生活する空間なのである。他者を気にすることはなかった。



「おや」と、柿木が楽しそうに手を上げた。

「どうも」と、一は少しだけ気まずそうに返す。

 柿木は千円札や硬貨を数えていたらしい。一が彼女の作業を見ていると、柿木はくすぐったそうに笑った。

「どうにも暇でね。ここいらは夜になると、ただでさえ少ない人がさらに減る。これが終わったら、商品を端から端まで綺麗に並べ倒すつもりだよ。見たまえ、この店の床を。暇に飽かせて常にぴかぴかなんだ」

 一は何気なく床に目を落とす。確かに、鏡のように磨き上げられていた。埃一つ落ちておらず、天井を映している。

「今、スカートの中も見放題だぜ、とは考えなかったかい?」

「どうせここに来るのは長距離の運ちゃんだけなんでしょうに」

「いやいや、夏ともなれば薄着の美女が」

「……本当に?」

「うん。私服となれば私もスカートを穿くからね」

「あ、じゃあ、いいです」

「君は照れ屋だなあ」

 柿木は硬貨をレジスターに戻し、カウンターから出てきた。眠たいのだろう。ゆらゆらと揺れている。目の隈は常よりも濃かった。

「さて、まだ午後の十時を回ったところだ。少年、時間はあるだろう? 私と話でもしないか?」

「もうしてますけど」

「陽が昇っている頃には出来ない話をしよう」

 期待はしていなかったが、何故か一の胸は高鳴った。馬鹿めと、彼は内心で自嘲する。



 外は暗かった。海から吹く風は身を切るように冷たい。一は身震いをして、缶コーヒーのプルタブを押し開けた。

「座りませんか?」

「地べたにかい? よしておくよ。私は、立ち話が好きなんだ」

 一は店の前に座り込む。尻が冷たくて飛び上がりそうだったが、堪えた。

「話って、なんですか」

「そう構えなくてもいいじゃないか。ただ、そうだね。はっきりと聞いておこうか。何があったんだい?」

 答えず、一は空を見上げる。月は満ち始めていた。じき、満月になるだろう。

「近畿支部の炉辺という女史に言伝を頼んでおいたのだけれど、無駄になってしまったようだね。私は君に、気をつけたまえと言いたかったんだ」

「気をつけろ、か。確かに、もう少し早く聞きたかったですね」

「話してくれないか?」

 言いよどむ。何故ならば、まだ、一の中で終わったことではないのだ。きっと、あの夜を一生引きずり続けて生きていくのだろう。そんな確信があった。

「では、はっきりさせて欲しい」

 一は顔だけを柿木に向ける。彼女はずっと一を見つめていた。

「君は、あの街に戻るつもりがあるのかな。あったとして、いつになる?」

「それは、分からないです。俺には目的があったんですよ。だから、必ず戻らなきゃいけない。けど、いつ戻ればいいのかが分からないんです。それにここは……思っていたよりも居心地が良過ぎる。柿木さん。俺からも一つ聞いていいですか?」

「よしかでいいというのに。……いいとも。好きなだけ」

「どうして、俺に優しいんですか」

 ふ、と、柿木は頬を緩ませる。

「それは違う。きっと、ここに来た人皆に、私は君と同じように接するよ。手料理を振舞うだろうし、話をしようと持ち掛けるはずだ。君は、たまたまなんだ。自惚れないでくれ、とは言わないな。私はたぶんお人好しでお喋りで、寂しがりなんだ。そして、人に料理を作ってあげるのが好きなだけだ」

「ああ、残念です。俺はあなたのことが苦手だけど、嫌いじゃあないですから」

「お返しのつもりかな? ただ、今日は腕によりをかけた。きっと、君以外の人には、そうしなかっただろうとも確信しているよ。なあ、少年。駒台に戻れば辛い目に遭うよ。痛い思いもする。たぶん、死にたくもなる。そう考えれば、ここは楽園じゃないかね?」

 たぶん、否、きっと柿木の言う通りなのだろう。ここは楽園なのだ。嫌なことから逃げ出した者の住まう場所なのだ。

「この世のどこにも楽園なんかないんですよ。ましてや逃げて逃げて、そうして辿り着いた先が、そんないいところであるはずがない」

「……ふふ、せいぜい甘やかしてあげようじゃないか。ここから離れたくないと言わせてみせる」

「ここから離れたくないよう」

「君は意地が悪いな!」

 一は笑った。心の底から。だが、同時に自身を嫌悪する。口先だけなのだ。何を言っても、一一が駒台から離れたことに違いはない。コーヒーをぐっと呷ると、胸の中の澱が蠢いたような気がした。

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