さよならバイバイ
「それじゃ、シートベルトをしっかり締めておいてください」
言って、堀がアクセルを踏み込んだ。
黒いワゴンが嘶く。
速度を上げ、真っ直ぐな道を飛ばしていく。
うう、と呻き声が車内から聞こえた。恐らく一が漏らしたものだろう。
がたがたと揺れる車内で、一はアイギスを抱え下を向き、三森はしっかりと、フロントガラスを通してアラクネを睨み、糸原は一を見てにやにやと笑っていた。
「行きますよ」
堀が言った次の瞬間にはもう、黒いワゴンは衝突音を撒き散らして、アラクネに突き刺さっていた。
堀の説明した作戦とは、
「まず、車を奴にぶつけます」
「はああ? それが作戦だっての?」
気にせず、堀が続きを話す。
「それだけではアラクネに大したダメージが通りません。ガードされる可能性もあります。いえ、確実に受け止められるでしょうね、その為の多足でしょうし。で、受け止められたと、します。私は前進し続けますから、皆さんにはその間に車から降りてもらいます」
「降りてどうするんですか?」
一が不安げに尋ねた。
「まず、糸原さんに残り七本全てとは言いませんが、足を何とかしてもらいます。レージング、私はまだ直接威力を見た訳ではありませんが、話に聞くだけでも中々のモノと伺ってはいます。そして次に一君。アイギスを使ってもらいます。正直、能力の程は半信半疑なんですけどね。そもそも、一君にはもう残ってないでしょうし、十秒とは言いません、一秒、アラクネの動きを止めてください。三森さんが後は上手い事やってくれますよ」
「え、おい、何だよ。私には指示はねェの?」
「いやあ、あなたに指示する事なんて、殆どありませんよ。分かってますよね? そこまでお膳立てして、何をするかなんて分かり切った事聞かないでくださいよ」
堀が笑顔でそんな事を言う。
「ちっ、結局は力ずくじゃねェかよ」
「あら? あんたにはお似合いだと思うけど?」
「うるせえ。おい、ミスるンじゃねえぞお前ら」
「あ、はい」
「はーい」
「それじゃ行きましょうか」
「……頼むぞ、ホント」
こうである。
そして堀の言ったとおり、猛スピードで突進するワゴンは蜘蛛の足でがっちりと掴まれていた。ワゴンのタイヤはけたたましく音を上げ、空回りしている。道路には跡が残り、黒い筋を作っていた。
蜘蛛は、七本の内六本で車を掴み、残り一本で車のあちこちを刺そうとする。
「降りて下さい!」
まずは助手席から三森が飛び出した。フロントガラスを割ろうとしている蜘蛛の足を払い除ける。
次に一、糸原が後部座席から降りた。
「退いてっ」
糸原が腕を振り上げる。三森が蜘蛛から離れた。蜘蛛の足の根元に、銀色の線が絡みつく。七本全てにレージングが照準を合わせた。
後は引き裂くのみ。
が、
「硬いっ!」
土蜘蛛の足と違って、アラクネのそれは簡単には千切れなかった。
しかも蜘蛛はそんな事気にせず、堀の乗った車を壊そうと無理矢理に腕を動かす。
蜘蛛に引っ張られるように糸原がじりじりと前に進んでいく。
「信じらんない! 何なのこいつ、馬鹿力過ぎるわよ!」
「口動かすなら手ェ動かせ!」
「っさいわねっ!」
糸原が喚きながら、腰を落とした。引っ張られまいと、力を込める。それでも、蜘蛛の方がやはり力が強い。
「一、ボーっとしてないで手伝いなさいよ!」
「え、あ、え? どうやって?」
「私を抱いて!」
「ええ!?」
「馬鹿女! 血迷ってんじゃねェよ!」
「とにかく何とかしてよー」
言われて、一が糸原のお腹に手を回す。力を込めて、糸原を支えようとした。
「痛いっ、お腹痛いっ! ちょっとっ、もっと優しくしてよね、初めてなんだから!」
「さっきから頭おかしいですよ」
「ふざけてンじゃねえよ!」
三森の怒号が響く。
二人も遊んでいるつもりはないのだが。
だが、これでアラクネから引っ張られる事は無くなった。神話級の怪物、アラクネとは言えども、彼女に武勇は無い。そもそもが、機織だった女性なのだ。一と糸原、二人がかりで何とかなるレベル、レベル。
「うわあっ」
一が叫ぶ。
突然、蜘蛛の力が強まった。
……幾らアラクネといえど、人間二人の力でどうにかなる訳なかった。アラクネが力の重心を、車から糸原に変えただけの事だった。アラクネの元へと引き寄せられていく二人。
「何やってンだよ!」
作戦は第二段階で破綻したように思われた。
が、ワゴンのタイヤが激しく回転し始める。堀がアクセルを踏みつけ、ワゴンの最高速までスピードを上げたらしい。パワーバランスが糸原側へと移ったため、少しは自由が利くようになったのだ。
アラクネが再び車と膠着状態に陥る前に、堀のワゴンが突っ込む。フロントガラスが割れ、タイヤも磨り減り、ボンネットが何故か吹っ飛んだ。
そしてアラクネの体勢が崩れる。
「糸原さん!」
分かってると言わんばかりに、糸原が指を、腕を動かした。振り上げていた腕を、力の限り振り下ろす。
銀の閃きが蜘蛛の足に奔った。アラクネの足から体液が噴き出る。
「一!」
糸原がレージングでもぎ取った足は五本。残りの二本は仕留め切れなかったが、アラクネの捕縛から、ワゴンが脱出するには充分だったし、ダメージも与える事が出来た。
その様子を確認した一がアラクネの真正面に立つ。足が震える。心臓の鼓動は早くなる。戦えると言った筈だが、怖いものはいまだに怖い。それでも、それでも一はアラクネの真正面に立つ。
――作戦は次の段階へ。
後は、アイギスでアラクネを止めるだけ。
だが、アラクネもじっとはしていない。残った足で、遮二無二攻撃を開始する。
「うわあっ!」
一が叫んで、しゃがんで、蜘蛛の足を回避した。
――やっぱ駄目だ、怖いっ!
「う、あ……」
「馬鹿! 何やってんのよ、立って構えなさい!」
糸原の助言も、一の耳には入らない。
――かっこつけるんじゃなかった、くそ、くそ!
「来るぞ!」
三森が叫ぶも、一は反応しない。
蜘蛛の次の攻撃がしゃがみ込む一に襲う。
「ビビってンじゃねえよ!」
見かねた三森が、一と蜘蛛の間に飛び出した。一に向かって振り下ろされた足を、三森が素手で掴む。
「目ェ開けろ!」
一を庇っている為、三森も派手な動きが取れないでいた。
――力を使えば、巻き込ンじまうな……。
「体を起こせ! 立ち上がれってンだ!」
一が顔を伏せたまま、鼻を啜り立ち上がる。
二本目、最後の蜘蛛の足が一たちに襲い掛かった。
三森は、右手を蜘蛛の足から離して、振り下ろされる二本目の足を掴む。
片手で片足を、片手で片足を。
しかし、人間とソレとでは圧倒的に力が違う。一対一、同じ条件で力比べをしても、三森が押されるのは自明の理であった。
三森の後ろで、一が下を向いている。
「……てめェ、やるって言ったろうが。何だよ、帰ったら私に話があンじゃねえのか? おい、言っとくけどな、私は、はっ、私は、ここじゃ死なねェからな。力を使って、でも、お、お前を、こいつと一緒に殺すぞ、それが嫌なら、嫌なら……」
一の顔を見ないで、アラクネを睨みつけながら、三森が息を吐く。既に三森は肩で息をしていた。
「見せてくれよ、さっきみたいによ」
「……俺は、やっぱり……」
一が口を開く。
「悪ィ、やっぱビビるよな、嫌だよな」
一は答えない。答えられない。
「なら、一緒に死ぬか? なあ、ただで死んでやるのもヤだろ? この虫ッケラによ、最後の最期に見せてやろうぜ。人間様の意地ってモンをさ」
――そうだよ、生きてるって事じゃないか。
痛いのも、怖いのも、震えてるのも
全部全部、俺がまだ生きてるって証拠なんだ――
「三森さん、俺が叫んだらいってください」
「あぁ?」
一が傘を広げる。
「後ろの事は気にしないで、あいつを何とかして下さい」
もう一度、今度は本当に。
「お前、私が手ェ離したら死ぬぞ?」
「征ってください」
一がゆっくりと顔を上げる。
真っ直ぐにアラクネを捕らえる一の双眸。
ややあってから、
「……ちっ、なら死ねよ」
三森が地面に唾を吐いた。
今度こそ、本当に。
一がアラクネの真正面に立った。
風が一の前髪を揺らす。
アイギスを前方に構え、蜘蛛の目玉を見つめる。
アラクネも、一を見ていた。
一には、初めから、何となくだが分かっていた。
アラクネ。
堀に話を聞いたとき、、一匹だけ手強い、止まらない蜘蛛を見たとき、アテナからアイギスを受け取ったとき、アテナから話を聞いたとき。
アラクネ。
元は人間だった、腕の良い機織だった、蜘蛛になるまでは。
恨んだろう、怨んだろう、呪ったろう。
自分を蜘蛛に変えた女を、神を。
アテナを。
ちら、と一がアイギスを見る。自分がアイギスを、アテナの物を持っているから。
アテナは、追われていると言っていた。匂いをつけられているとも。
誰に? ただの、知能の低い、低級の蜘蛛に?
「違うよな……」
ぼそり、と一が呟いた。
ずっと、憎んでいた。
アテナを追っていた。只管、只管に。
そしてアテナの匂いが染み付いたアイテムを、自分が持っている。アテナを追っているアラクネを、アテナの関係者である一が倒す。
これは運命か、それとも一の使命なのか。
否、皮肉か。
また一が顔を下げる。
「ごめんな……」
「おい、まだか? 私ももう限界なンだけどよ?」
――ごめんな。
「アラクネ!」
一の朗々とした叫びが、静寂を切り裂く。
夜の闇へと。
どこまでも届くような、響くような。
一瞬、三森が出遅れたが、蜘蛛の足を離すと、一足飛びでアラクネの懐へ潜り込んだ。
アラクネの足が一へ襲い掛かる。だが、一はそんな事を気にせずに、アラクネへアイギスを向けた。
――あなたも、怖かったでしょう、嫌だったでしょう、悲しかったでしょう。
銀の光が、折り重なる。
一の手前、アラクネの足の手前。
幾重にも光が走る。線を引く。
一へ届く前に、アラクネの足が何かに引っ張られるかのように動かなくなった。
長い髪を無造作にたなびかせ、白い腕をスーツの袖から覗かせる。
指の動きは器用に、激しく動く。
そして何より美しい。
「一、やっちゃって!」
糸原がレージングを操りながら、そんな事を喚いた。
一が糸原を見て、微笑む。
――死にたくないですよね、生きたいですよね。
俺も、そうです。死にたくないし、生きたいんです。
「止まって下さい!」
悲痛な声。
瞬間、一の広げていたアイギス――ビニール傘――が輝く。
怪しく、黒く、鈍く輝いた。
それは瞳だった。
見るもの全てを虜にしてしまうような、妖艶な光。
「あ……」
一は理解した。
アイギスの能力。
アテナとの契約。
力の正体。
蛇姫。
メドゥーサ。
――だから俺は、俺は。
あなたを殺します。
俺が生きたいから。
ごめんなさい、許してくれなくても、構わないです。
糸原が力を込めずとも、アラクネの動きが止まっている。
残った二本の足は、中空で止まったままだ。
糸原がレージングを軽く引っ張ると、アラクネの足がいとも簡単に千切れた。
「うっそ、止まったの……?」
「三森さん!」
自分のするべき事は、一に返事をする事じゃない。
全身全霊、全力全開。
体中全部の力を今に賭け、ソレを殺す事。
それが自分のするべき事と、三森は分かっている。
三森は拳を高々と突き上げ、アラクネの、人間で言うなら心臓部に風穴を開けた。
「これじゃあ足りねェよなあ!?」
三森の全身を、爪先から、頭の天辺まで行き渡るように血液が走る。
熱くなる。燃え滾る。
三森の体が熱を帯びて、火を放つ。
舞い上がる火の粉。
赤く、紅く、真赤に!
三森はアラクネの内臓器官を掴み上げ、引き摺り出した。飛び出たモノから順に燃やし、灰になる。
煙は黒く、高く暗闇へと舞い上っていく。
――人間のまま、あなたを殺せなくて、ごめんなさい。
やがて、あれだけ大きかった蜘蛛の体は、何分割にもされ、燃やされ、灰にされ、煙になってしまって。
その光景を滅茶苦茶に壊された車の中、運転席に深く腰掛けた堀が愉快そうに、楽しそうに笑いながら眺めていた。ひとしきり笑った後、ゆっくりと息を整え、
「素晴らしい」
と、堀が唇の端を軽く持ち上げた。
「さよなら、俺に似てる人」
そう言って、一は夜空を見上げた。
女神に酷い目に遭わされた、哀れな人。
知らずの内に、一の眼から涙が毀れた。ぽたぽた、と服を濡らし、地面を濡らす。
「一……」
おい、と一に駆け寄ろうとする糸原の肩を三森が掴んだ。
「今は、話し掛けない方が良い」
「何よ、偉そうに……」
「偉くねェよ」
「分かってるわ。そんな事、分かってるわよ」
さよなら、そして、ごめんなさい。
俺が初めて殺したヒト。