アッシュ
誤算があった。
否、仮にアグニが三森の力を計り違えていたとして、一個の人間である彼女と神とでは大きな差がある。神が人に屈する事はありえない。……神が、本物だとしたならば。
元来、アグニという神は天上の神々に供物を捧げる役割を持っている。しかし、現世に現れ、三森の家族を襲った瞬間から、彼は、その役を降りてしまったのだ。問題なのは、彼が自分で降りた事に気づいていないという点である。いつしか、アグニは神々の為ではなく、己の欲を満たす為に生贄を、供物を探す存在と成り果てていた。
名は力である。
役は気である。
神話から解き放たれ、本来の役を見失った者は、別の名を得る事となる。俗世に塗れれば格が下がり、力を失うのだ。
「……精霊を」
今、アグニは驚愕している。己が存在を脅かす者を目の当たりにし、狼狽している。
「精霊を、飲み込んだ、のか……?」
炎を司り、自らも炎の化身である神が、ただの人間に対して、抱いてはいけない感情を持ってしまった。誰にも傷つけられず、何にも触れられないはずの自身が、酷く頼りない、ちっぽけな存在になったと錯覚している。
アグニ自身はいまだ気づいていなかった。彼の心の内を占めている得体の知れないモノが、恐怖という感情である事を。
「真っ赤な、鬼だ」
目の覚めた立花は、ぼうとした頭と、はっきりしない意識の中で、それだけを口にした。
今、店前にサラマンダーの姿はなく、人の形をした炎がゆらゆらと揺らめいている。それが立花には鬼のように見えたのだ。
赤鬼は一歩ずつ、地面の感触を確かめるようにしながら、ゆっくりと進み始める。向かう先にはアグニがおり、ソレは立ちすくんだまま、酷く怯えている様子であった。
ああ、と。ようやくになって一の口をついて出たのは、そんな、どうでもいい事であった。
「なんだ。ああ、そうか」
炉辺が三森から力を戻した時、淡い光が彼女の背から見えた。その光が炉辺の下に戻ったのを確認するよりも早く、事態は急変した。アグニを組み敷こうとしていたサラマンダーが、掻き消えたのである。強い風が吹いて、炎を飛ばしたのではない。アグニが熱を開放し、弾き飛ばしたのでもない。忽然と、まるで、今までそこにいなかったかのように消失してしまったのだ。
そして、新たな炎が生まれた。人の姿をした――――否、アレは人である。一は事実を認識したくないと、強く意識しているが、彼とてその正体には気づいていた。真っ赤な塊と化したのが、三森であるという事に。
「案外、何とも思わないものなんですね、人間って」
炉辺が力の制御を誤ったのかもしれない。気を失った彼女から、結果如何について尋ねるのは不可能であり、聞いたところで事実は変わらない。……失敗したのだ。一たちの希望、理想、願望が打ち砕かれて形となったモノが目の前を悠然と歩いている。
「……アレは、みつ、もり……なのか?」
店長は呆然とした様子で立ち尽くしていた。一は彼女の狼狽した様を横目で見遣り、先の光景を脳の中から追い出そうとする。だが、消えない。消えるはずがないのだ。三森の背から、蜥蜴のような生物が這い出て、消えてしまった瞬間が。彼女がサラマンダーを飲み込み、体に炎を纏わせた瞬間が。……初めて彼女の炎を見た時、彼女の差し伸べた手を握れなかった時、共に戦った時、くだらない話で盛り上がった時、くだらない話で言い争った時、クリスマスツリーの下で目を合わせた時、何一つとして、消えてくれなかった。
苦しさから逃れられた訳ではない。ただ、苦しいと思う何かを失ってしまったのだ。
体は依然として熱を帯び、皮を、肉を、骨を焦がしているはずである。だが、三森の表情は変わらない。足が焼け焦げ、腕が燃え落ちても、サラマンダーを取り込んだ際の力により、炎が体の代わりとなっている。
「これで、私もお前と同じって訳だ」
「精霊の力を取り込むなど……馬鹿な、もはや、人の所業ではない……!」
「……あァ、だな。もう、百パー完璧にバケモンってことだ」
三森は笑おうとしたが、うまくいかなかった。
彼女は、サラマンダーを従えたのではない。まして取り込んだのでもない。炉辺から借り受けていた力を返却した瞬間、精霊との契約めいたものは強制的に破棄され、サラマンダーは三森にも牙を剥こうとしたのだ。しかし、彼女は知っていた。火を司る精霊は、身に巣食うのではなく、心に巣食うのだ、と。燃え盛る激情を餌とするサラマンダーは、三森の復讐心を好んでいた。だから、彼女は心を売った。それだけでも足りず、肉体を、命を対価として払った。結果、三森は一時的にサラマンダーの能力を得たのである。制限時間は、サラマンダーが彼女の支払った対価を食い尽くすまでであるが、それで充分だとも三森は思っていた。
「ゆっくり恨み言吐いてる時間はねェからさ、まぁ、終わらせようぜ」
「ごっ……! まさか、まさか、ありえん! こんな、こんな……っ」
三森は少しだけ腕を伸ばそうとしたが、代わりに、炎がアグニにまで届いた。サラマンダーの火炎はアグニの下半身を焼き尽くす。ソレはすぐさま肉体を再生させるが、その都度、業火が肉体を焼いた。
「炎を、炎が焦がし、焼くだと!?」
サラマンダーの炎から逃れようと、アグニは距離を取る。だが、燃え盛る火炎はソレを逃がさない。アグニは腕を振り上げ、攻撃を打ち消そうとして熱を放つ。三森の腕に当たる部位が消滅したが、次の瞬間には再生した。
もはや、戦闘は殴り合いじみたものに成り下がっていた。炎が火を飲み込み、大きくなった業火を熱風が吹き飛ばす。繰り出される攻撃は互いの体を抉り、貫き、消える。
アグニとて、再生能力が無限という訳ではない。役を違えず、自らを過たなかった本来の彼ならば、力の全てを発揮出来ただろう。だが、今のアグニはまがい物に近しく、肉体を構成する炎は有限となっていた。
三森は時間との勝負に追われている。自らがサラマンダーに食われるのが先か、あるいは、アグニを食い尽くす方が先か。
――――どっちにせよ、死ぬけどな。
「あァァァァァァ畜生やってらンねぇ! やってらんねェよなァ!?」
「ニエがっ、ニエの分際でっ、骨まで燃えろ……!」
「ンなもん、とっくに燃えちまってるぜ!」
一が歩き出そうとしたのを認めて、店長は彼に声を掛けた。やめろ、と。だが、一は振り向こうとしなかった。
「お前が、いや、誰が行ったところで邪魔にしかならん。だいたい」
融解した周囲の地面やフェンスを見遣って、店長は眉根を寄せる。
「お前もああなりたいのか? 近づけばアイギスなど関係なく、燃え死ぬぞ」
「……俺は何をしてんでしょうね。一人にさせないって決めたのに。なのに、三森さんは一人で戦ってる」
一は唇を噛み締める。今、自分の手で握り締めているのはあの日の消火器ではない。女神から賜った、ギリシャ神話の至宝アイギスなのだ。勤務外としてソレと戦い、今日まで生き残った。経験を得た。決意を得た。ゆらゆらと揺れ続ける心と共に、ここまで来られた。自分は強くなったのだと、一は、そう信じていたのである。
「俺、何も出来ないんですね」
無力だった。結局、あの日から何も変わらないのだと思い知らされて、一は乾いた声を漏らす。
「泣いて、騒いで、こうして、馬鹿みたいにぼうっと立っているだけだ。俺はもう、普通の人間なんかじゃないのに……!」
「違う」
何が。そう問い掛けた一の声を震えていた。
「確かに、お前はつるべ落としに殺されかけていたような、普通の人間ではなくなった。だけどな、三森は今、一人で戦っているわけじゃない。あいつが命を捨てようとしてまで戦っているのは、復讐心に駆られたから、それだけじゃない。三森は私たちを守ってくれている。あいつの後ろには、私たちがいる」
俯いていた一は、弾かれるようにして顔を上げる。
「一人じゃないんだ」
「それでもっ、俺は! 俺は……アイギスを、メドゥーサを使わなかったんです。は、あはは、だって、使っても無駄だって、俺はきっと、心のどこかでは諦めてたんですよ? 誰も勝てっこない。ここで皆が死ぬんだって。俺は、端っからクズだ! あの人と一緒に戦ってなんかなかった!」
「だったら今、使えばいい。もう、終わらせてやるんだ」
店長の声も震えていた。終わらせてやれ。それが誰に対して向けられた言葉なのか、一には分かってしまい、彼は涙を流した。
ありがとう、と、心中で呟いた。
「ありがとう」と、声に出して呟いた。
元の四肢は殆どが失われてしまったが、どうやらまだ喉は焼かれておらず、ものを考えられる脳も残っているらしい。
「余計な真似しやがってよ」
体の半分が融けたナナは機能が停止するまでアグニに拳を振るい続けた。彼女は、その攻撃が届かな
いと分かっていた。
得物を失った立花は激痛と熱に苦しみ、気を失うまで徒手空拳で戦い続けた。
「バカが。くだらねェ。くだらねェ」
狼の血を呼び覚ましたジェーンでさえも、フェンスに叩きつけられて、そこからもう動かない。
虎の子のドローミを燃やし尽くされた糸原だが、心が折られる事はなかった。ただ、肉体がついてこないだけである。
「……本当に、どうしようもねェよな」
三森は――――三森だったモノは、振り返る事が出来なかった。一の顔を見られなかった。恐ろしかったのである。彼が今、どんな顔をして、どんな目で自分を見ているか。想像するだけで、燃え尽きてしまいそうだった。
炎が、炎を食らわんとする。
三森とアグニは互角の戦いを繰り広げていた。だが、互いが決め手に欠けている。四肢を焼き尽くしても残っている部位が一欠けらでもあった場合、両者は瞬時に再生を始め、肉体を再構成させる。ならばと巨大な火炎を出そうものなら容易に避けられてしまい、反撃を受ける。頭を焼けば頭を焼かれ、腕を燃やせば足を焦がされる。相手が怯まない以上、致命的な隙は作れなかった。アグニの再生力は有限となったが、長引けば不利になるのは三森の方である。
一秒とは言わない。一瞬で構わなかった。持てる全ての力を使い切ってしまえば、アグニを倒せる、、目の前の仇を殺せる――――。
「やれっ、三森さん!」
――――好きな人を、守れる。
アイギスが光輝を帯びる。メドゥーサが声に応えて、彼女がゆっくりと瞼を開ける。標的をねめつけた一が声を発し、
「おォォォォっ、か、あああ! アァァァァアアァァァァァ!」
閃光が周囲を焼く。何かが弾けるような音が断続的に響き、爆発が熱と風を撒き散らす。視界を燃やされ、鼓膜が焼かれたような衝撃を受ける。
「くたばれ! くたばれ! くたばれっ、何もかもこの世にゃ残さねェ! 向こうに逝けると思うなよ! 私の家族に謝れるなンざ思うなよ!」
火の神が断末魔の叫び声を放った。事実を真実と受け止められないまま、ソレはがなり声を上げ続ける。しかし、今わの際にアグニは、綺麗だと、そう言った。精霊の炎を目に焼き付けて、そう言って息絶えた。天上に供物を捧げてきたアグニは役を降りた。私欲に駆られるだけの存在と成り下がった。しかし、ソレは最後に自らを供物として、天へと上っていこうとしている。……その魂の行き先は分からない。サラマンダーによって燃やし尽くされたモノの行方など、誰にも分かるはずはなかった。
赤い嵐の中、一は叫んだ。三森の名を呼んだ。だが、返事はない。目を開けられず、立っていられず、喉を焼かれるような思いをしながら、それでも彼は――――。
――――大したものじゃない。俺はただ、あなたに。
静寂の中、何もかもが、融けて、煙を上げている。一は歩こうとした。だが、靴の裏が地面にべったりと引っ付いて、動きを奪われる。これ以上三森に近づけば、靴どころか、足から融け落ちてしまうだろう。
構わなかった。飲み込む唾すら持ち合わせておらず、一は躊躇なく、足を踏み出す。だが、彼の体が燃えるような事はなかった。
「……光?」
淡い光が一の全身を包んでいる。彼は振り返り、店の前へと視線を遣った。そこには、堀に抱えられた炉辺がいる。先まで気を失っていた彼女は申し訳なさそうな顔を作り、しかし、微笑んだ。儚げなそれは一に事実を伝える事となる。……サラマンダーの残り火の影響を受けずにいられるのは、炉辺が一に力を貸したからだ。そして、彼女に出来る事はもう何もなかった。
「ふゆちゃんを、お願い」
頷き、一は三森へと向き直る。
「……三森さん」
「なァ、どうなったよ?」
横たわった三森には足がなかった。全身を包み、肉体を構成していた炎からは解放されたが、サラマンダーに血を吸われ、肉を奪われ、臓腑すら食われている。彼女の腰から下は灰となりつつあった。それは火の粉と共に風に遊ばれている。三森の両腕も下肢と同様の有様であった。
「私は、約束を守れてンのか」
残された部位は少ない。そして、時間が経つにつれ、徐々に、徐々に人としての形を失っていく。三森は視力をなくしかけているらしく、一の声を頼りに、彼の方に向かって話しかけていた。
「アグニは、あなたが倒したんですよ。仇なら、ちゃんと討てたと思います」
「私の家族のこと、聞いたンだな。……ごめんな。言えなくて」
「いいんです。そんなの、もう」
三森の体は既にサラマンダーとの取引に使われている。彼女に残された猶予は幾許もなく、いずれ消えてなくなってしまうだろう。その事を、一も分かっていた。
「これ以上は来ンなよ。お前は炉辺さんに力を借りてるけどよ、私に触ったらお前まで取られちまうからな」
差し伸ばした手を、一は中空で持て余した。彼の手は、舞い散る灰を握り締める。
「ごめんな。置いてっちまって。楽しかったのにな」
「また、次がありますから。今度はもっと」
「ねェよ。ないよ、そンなの。私のことだからさ、分かってる。慰めなんか」
「そうでしょうね。三森さんは自分のことしか分かってない」
慰められて欲しいのは自分だ。一は俯き、しかし、目を逸らした瞬間に三森がいなくなってしまうような気がして、すぐに顔を上げる。
「俺はあなたとなら死んでもいいと思ったのに……!」
「……置いてっちまって、悪ィ。けどな、後悔はしてねェよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないって」
嘘だった。
三森は、死ぬのが嫌だった。この世界から消えてなくなるのが怖かった。
「仇は討てた。お前らだって守れた。充分だよ。満足してる」
満足などしていなかった。
死体どころか、魂すらこの世には留まれない。何もかもを失い、奪われて、忘れられて、消える。生きた証すら残せずに死ぬのだ。
「バカだ、あなたは」
「泣いてンのか?」
一の零した涙は地に落ちる前に蒸発する。
「私が泣かしたンなら、世話ねェよな。さっきから謝ってばっかだ」
「謝るくらいなら……」
「うん。マジで、だよな。あのな、約束、ここまでだ。お前を守ってやりたかったけど、こっからは私じゃ無理みたいだからよ」
「そんな、そんなこと言わないでくださいよ!」
三森は小さく首を振る。
「こっからは、さ、お前がみんなを守ってやってくれよ」
「俺はあなたを守りたかったんだ! こんな、どうしてっ、俺がもっと頭良かったら! もっと強かったら!」
何を言っても遅く、全てが言い訳じみて聞こえる。そんな一の言葉を、声を、三森は黙って、優しく聞き届けてやった。
「私らみたいなンは、自分以外に誰か一人でも守ってやれれば御の字なんだ。でも、お前は違うだろ? なァ、だから泣き止めって。やだぜ。最後に見るお前の顔が泣き顔なんてさ」
涙腺が機能していなくてよかったと、三森は内心で苦笑する。そして、いよいよ視界が塞がりかけてきた。
「……罰が当たったのかもな。私だけ、こんなに幸せな気持ちでいられて。あいつらから、お前を独り占めしようとしたから」
体の感覚がなくなる。心が軋みを、悲鳴を上げている。
「なァ、メイドによろしくな。お前はまじめだけど、もっと適当にやってもいいンだぜって。実は、私は大人じゃないンだよ。って。女子高生にさ、言っといてくれ。お前のが大人だよって」
「そっ……じ、自分で言えばいいじゃないですか」
「チビにはさ、謝っといてくれ。やっぱ、あの時言ったのは嘘だって。本当は…………あ。あァ、あのキツネにも。あいつが選んでくれるって服、ちょっと楽しみにしてたンだよなァ。堀さんには、炉辺さんをよろしくって」
「だから! どうしてそんなの俺が!」
「頼むよ」
そう言って、三森は一がいるであろう方を見た。薄れかけた視界と消えかけた世界の中、彼は仕方なさそうに頷いたような気がした。
「店長はさ、アレで駄目なところがあるからよ。あの人のこともちゃんと見といてやってくれ。炉辺さんには、今までありがとうって。そンで、麗にはさ、仲良くしてくれてありがとうって」
「分かり、ました。でも、俺には? 何か、言ってくださいよ……!」
「お前に、かあ」
一に言いたい事は山ほどある。
「言ったら、我慢出来なくなっちまうからなァ」
クリスマスが終わったら、一緒に年を越してみたかった。初詣にも行って、休みを貰えば暖かい場所に行きたかった。春が来れば一の通う大学を見たかった。夏が来たなら糸原たちを連れて海に行って、秋になればゆっくりとしたペースで山を登り、紅葉を眺められたらどんなに良かっただろう。次の冬はまたツリーを見て、イルミネーションを綺麗だと、素直に感想を言ってみたかった。何よりも、もっとここにいたかった。彼と話し、一緒に過ごしたかった。同じように、同じ場所で、同じ時間を生きたかった。
「だから、もういいよ」
「言えばいいじゃないですか! 我慢なんかしなくていい! もういいだなんて、そんなのって!」
最後に、触れて欲しかった。自分で触るな、近づくなと言っておきながら、寂しくて仕方がなかった。三森は一に向けて手を伸ばそうとするが、彼女の腕は既に消失している。
「……そっか。だめか。そういや、さ、なンか、プレゼントが欲しいとか言ってたっけ。お前、何が欲しかったんだ?」
一は何かを言ったが、三森の聴覚はサラマンダーに食われ始めていた。
「名前を。名前を呼んで欲しかったんです」
三森は何も言わず、困ったように微笑んでいた。
「結局、あなたは俺たちを名前で呼んでくれなかった。知ってます? 気づいてましたか? けど、春風のことは名前で呼んでましたね。俺は、それが羨ましくて仕方がなかった。いや、妬ましかったくらいです」
一が三森の異変に気づくよりも先に、彼女が口を開く。
「なんか、たりねェとおもってたんだよな」
三森は、舌足らずで、どこかぎこちない口調だった。
「……三森、さん?」
「でも、これでまんぞ、く、した」
風が巻き起こる。一は少しの間だけ、目を瞑った。
「ほら」次の瞬間、一の目に、儚く舞い、散るものが映る。
「ゆきだ」
一たちの周囲を、ふわふわとして、真っ白で、ひらひらとしたものが漂っていた。彼は、暫くの間は何も言えなかった。
「きれい、だよなァ。なんか、あかいけど」
「ええ。そうですね」
雪は降っていなかった。
三森が目にしていたのは、自らを燃やし尽くそうとしている証、灰であった。降っていたのではなく、それは、風に巻かれて天へと上っていく。火の粉と共に、ゆらゆらと。
「――――とても、綺麗だ」
出来る事なら、この世界から逃れようとする灰を全て受け止めて、抱き止めてやりたかった。一は涙を流しながら、ただただ、『雪』を見つめる。
その内、三森は声を発さなくなった。一はそこで、彼女の目だけでなく、耳も奪われてしまったのだと気づく。気づいた時にはもう、何もかも遅かった。まだ、伝えていない言葉があった。しかし、彼女は何も見えず、聞こえないのである。
「知ってましたか」
一は三森に語りかけた。彼女はただ微笑む。
「俺、あなたのことが」
ばちっ、と、乾いた音がした。
三森が逝った。
最期は早かった。小さな爆発が起こり、そうして、三森の肉体はこの世から消えてなくなってしまった。
「ふゆちゃん……! うっ、あ、ああああ……」
炉辺の泣き声を聞きながら、店長は煙草に火をつける。
「お前も、私より先に逝くのか」
置いていかれた。その気持ちが、店長の胸の内を占めていた。彼女は思い出す。この店を任されてから今まで、多くの勤務外がいた。いいやつも、悪いやつも、皆、いなくなった。若い者が無残に殺される事にも慣れた。いつしか、何も出来ないのだと言い訳する自分がいるのに気づいた。
神野剣という少年がいた。
三森冬という女がいた。
二人はやがて、『多くの勤務外』の中に入るのだろう。いいやつと、悪いやつのどちらかに分類されるのだろう。
悲しくなる。寂しくなる。だが、許してくれとは言えなかった。
「……そっか。あいつ、死んじゃったの」
糸原が目を覚ました時、全ては終わっていた。一と炉辺が泣いている。辺りに立ち込めていた熱気は少しずつ収まりつつあった。……何もかもが、どうでもよくなった。
三森が死んだ。
ただ、それだけの事だと自分に言い聞かせても無駄だった。涙が止まらない。悲しいのか、腹立たしいのか、処理出来ない感情が入り混じって、何も言えなかった。
その内、地面から伝わる振動を感じて糸原は視線を上げる。死肉を貪りに禿鷲が来たのだと、彼女は強い憤りを感じた。