Red Hot
ツリーから放たれるイルミネーションは眩く、ざわめきを形成する恋人たちが遠い世界のモノだとしか思えなくなってしまい、一は広場から離れようとした。彼は、三森の後を追いかける事が出来なかったのである。
「用事、か」
三森のいう用事とは、イブの夜に男を一人きりで置いていくよりも重要な事柄なのだろう。無様だと、一は苦笑した。彼女と仲良くなれたはずなのに、今はこの様である。
「振られたか」
「どこから見てた?」
「今来たところだが、三森冬が一人で走って行ったところは見ていた」
一は嘆息し、人ごみを離れたところで煙草に火をつける。彼の吐き出す紫煙を見ているのは、春風であった。
「こんな場所でサボってていいのかよ」
一の口調は刺々しいものになっている。だが、春風は怯まなかった。
「先に一つだけ言っておく。三森冬は決して、お前のことが憎くてこんな場所に置いていったのではない」
「……だったらなんだってんだ」
「私はサボりではなく、仕事の一環としてここにいる。現在、ソレと戦っている北駒台店の勤務外だけでは危険かもしれないからだ」
「ソレが出たってのか? 何も、こんな時に出なくたって……」
助けを求めるかのように、一はクリスマスツリーを仰いで見る。
「三森冬は、二ノ美屋店長からソレが出たと聞いたのだろう。だから、一一、お前を置いて店に戻ったのだ」
俺よりも、ソレが大事だというのか。喉元まで出掛かった言葉を、一は必死に押し留める。彼の様子を見遣って、春風は息を吐いた。一を馬鹿にするかのような態度であった。
「一一。お前は、三森冬のことを何も聞かなかったんだな」
「っ、聞いたよ! 聞いたし、話した!」
思わず、一は叫んでしまう。三森からは、サラマンダーについて聞いた。一は、彼女の抱えていたもの全てを理解出来た訳ではない。しかし、分かり合えそうだったのだ。横合いから言われる筋合いはなかった。
「聞いたんだな? なぜ、三森冬がサラマンダーと出会い、それをその身に宿したのかを」
一は応えられなかった。春風の返事にも、期待にも。……一は結局、三森に対して線を引いたままであった。聞いてしまえば戻れなくなると、踏み込めずにいたのである。
「残念だったな、一一。三森冬にはな、全部を擲ってでもやりたいことがある。たとえお前があいつの恋人だったとしても、恐らくは、こうなっていた」
「やりたいことって、なんなんだよ……!」
「それを私に聞くのか?」
本人から聞き出せなかったのに、ここで『ずる』をするのか、と、春風は目で言っている。それでも、一には彼女に縋るしかなかった。
「ならば約束しろ。二度と、あいつを一人にしないと」
「お前、三森さんのなんなんだ? 何様だよ、てめえは」
「私は三森冬の友達だ。一一、お前はあいつのなんだ? 恋人か? 違うだろう」
三森の事も、現れたソレも、今、店がどうなっているのかも、一には何一つして分からない。立場が上なのはどちらか、彼は、それだけはよく分かっていた。
「頼む。教えてくれ」
心が痛い。
胸が締めつけられて、息が苦しいのは、走っているせいではない。
心が痛い。
痛いほど、嬉しいのだ。心臓が踊っている。それを自覚しながら、三森はひたすらに駆けていた。今、彼女の大部分を占めているのは一人の男である。ツリーの下に置き去りにした一ではない。彼の事よりもずっと思ってきた。ずっと会いたくて、会いたくてしようがなかった。彼に会う事だけを思い続けて、ここまで来た。もう、気持ちは抑えきれなくなっている。
「やっと、やっと……!」
三森の顔には、喜色が張りつけられている。風を切って走る度、足を踏み出す度、男との距離が近づくのを感じて、喉の奥が勝手にひくついていた。震えは声となる。声は口から溢れて、笑みが零れていた。三森の体からは火の粉が散り始める。制御の利かなくなった感情はそのまま、炎となって顕現する。
――――焦らしてくれるじゃねェかよ! 五年も!
数年越しの再会を夢見て、三森は笑った。手負いの獣すらも慄かせる、好戦的なそれであった。
「三森には両親がいた。……やつも人間だからな、親がいて当然ではある。が、五年も前になるか。あいつは家ごと、家族を焼き払われた。やったのは人ではない。ソレだ。あいつは、炎を使う怪物に、何もかもを燃やされたんだ」
春風は無表情に、淡々とした口調で喋る。だが、今の一には、彼女が全くの無感情ではないと気づいていた。
「やったのは、サラマンダーってソレか?」
「いや、違う。むしろ、アレが三森冬を助けた。あいつの家族を殺したのは、アグニと呼ばれるインド神話の神だ」
アグニ。神という言葉に、恐れを抱く事はなかった。一はその名前を、口中で何度も呟く。
「……話は長くなるかもしれん。一一、歩きながら話そう」
「ああ、分かった。野郎、どんなやつなのかを教えてくれ」
「聞いたところで、どうにかなるとは思えん。だが、死神から私を救ってくれたお前なら、なんとかしてくれるかもしれないな」
一と春風は連れ立って歩く。逸る気持ちはあったが、彼は心を静めようと努力した。
「アグニは火を使うと言ったが、使役よりも支配に近い。さらに言うなら、やつは火、そのものなのだ。太陽、稲妻、祭火、かまどや、我々が怒りを覚える際の心と、火に関するものに偏在している。人が炎なしで生きられない限り、アグニはどこにでもいる」
「反則じゃねえか、そんなの」
「それが神というものだ。……アグニはあらゆる火を司るが、その中でも特に、やつはある儀式においての祭火として重要視される。アグニは、捧げられた供物を燃やして煙とし、それを天へ届ける。天の神々は供物によって地上へ降りるわけだ」
「人間と神様との橋渡しをしてるってわけだな」
頷き、春風は話を続ける。
「しかし、今は違う。現在のアグニは仲介者としての役割を果たしていない。それは、供物を捧げる者がいなくなったからだ。アグニに対して頭を垂れる者がいなくなり、やつは供物を確保出来ず、神々に対して何も出来なくなった。だから、アグニは自ら供物を捧げるようになったんだろう」
「だから、三森さんが襲われたってのか?」
「ソレにとっては誰でも良かったんだろう。しかし、三森冬はその時にサラマンダーを宿した。アグニから見れば、極上の供物だ。……やつが何故三森冬を生かしておいたのかは分からん。だが、一つの仮説は立てられる。ソレは、待っていたんだろう。三森冬の憎悪を育てて、より強い炎になるのを待っていた」
「……だけど、ソレは出てきやがった」
供物を捧げる時期を待っていた。そのアグニが姿を見せたのだ。ソレの狙いは三森に間違いない。一の拳は小刻みになって震えていた。
「出会うべくして出会った。なあ、一一。お前には三森冬が止められるか?」
「止める? そんな必要ねえよ。アグニってのを叩けば済む話じゃねえか」
「……今、アグニは北駒台店にいる。現場にいた勤務外とは交戦中だ。だが、どうにかなるとは思えんのだ」
「なるんだよ」
悔しかった。
悲しかった。
許せなかった。
やるせない思いが、一の心をずぶずぶと深いところに沈めていく。
「春風。お前が俺にどうこう言うんじゃねえよ」
春風は気づかなかった。一は、彼女に対して怒っていたのではない。彼は嫉妬していたのだ。
弾丸が燃え落ちる。
刀は溶かされる。
鉄の拳は融解し、燃焼を起こす。
鋼糸は対象に届くよりも先に熱を受け、繰り手の掌にそれを伝えた。
勤務外たちは旗色が悪いのを認めていたが、引こうとは思わなかった。ここで背を向けたところで、ソレが逃がしてくれるはずもないのだ。
彼女らが相手にしているのは、炎そのものである。使役しているわけでもなく、支配しているわけでもない。アグニとは、炎なのだ。物理的な干渉は、彼が認めない限りは一切が届かず、無に帰する。
「……さて、囲んだのはいいけど」
糸原が口の端をつり上げた。諦めにも似た笑みである。自分たちの攻撃ではダメージを与えられない。それどころか、端から届いていないのだ。四方を固めただけで、アグニは動こうともしなかった。ただ、供物となりうるモノをじっと見つめるだけである。
ナナは眼鏡の位置を押し上げようとしたが、右腕の肘から先が溶けているのに気づいた。
「恐らく、一途も通らないのでしょうね。ジェーンさん、妙案はありますか?」
「テイル巻いて逃げる。これがベストね」
「逃げたくないよ」
立花はアグニを強く見据えていた。彼女の持ってきた刀の内、二本がソレによって溶かされている。雷切を抜くタイミングを窺っているらしいが、抜いたところでアグニを切れるとは思っていなかった。
「でも私は死にたくなーい。こんなん詐欺よ。やってらんないっつーの」
四人がこの場から引かないのには理由がある。彼女らは三森を待っていた。彼女なら、アグニと同じように炎を使う者になら、万に一つの勝機があると信じているのだ。そしてまた、アグニも三森の到着を待っている節が見受けられた。彼が本気で戦っていたならば、ここにはとうの昔に四つの骸が転がっている。
「ゼンザってのは、クールじゃないけどネ」
「適材適所という言葉もあります。情けない。マスターに合わせる顔がありません」
アグニはしばらくの間、無言を貫いていたが、ふと、何かに気づいたように後方へ視線を遣ると、
「かかかかかかかかかかかかっ!」
とたん、大笑した。
その瞬間、アグニの周囲の熱が上がり、風が吹き荒れた。熱風に煽られた勤務外たちは悲鳴を上げて、熱さから逃れようとして地面に蹲る。
「来たかっ、ニエが!」
アレだ。
捜し求めていたモノが、そこにいる。アグニの顔を認めた瞬間、三森の胸中には様々な感情が巡り、脳内ではえもいわれぬ興奮が駆けた。
殺意を手放して、感情を発露させる。三森の憤怒と同調するかのように、彼女の身体からは火炎が顕現し始めた。ちろちろと、炎が空気を舐め、周囲一帯を燃やし尽くそうとする。
「良き火だ。良き日だ。ここで出会ったなら、食らうが我の定めよ。ならば食われるが汝が定め」
アグニは三森の怒りを受けて、満面の笑みを浮かべる。彼女は獣を思わせる笑みで受けた。
「……ミツモリ、まさかアレの知り合いなの?」
ジェーンですら三森の憎悪を感じてたじろいだ。
「待ったぜ。この時をよ……!」
三森にはもはやアグニ以外のモノが認識出来ていない。彼女から放たれる炎は弾けて飛び散り、糸原たちにまで降り注いでいた。
「下がった方がいい。巻き添えを食らうぞ」
「店長さん? だけど、ふゆちゃんだけじゃ……」
店から現れた店長は首を振り、手出しはするなとだけ告げた。
「お前らがいても、どうにもならない」
立花は悔しそうに唇を噛み締めるも、糸原に腕を掴まれて、交代を余儀なくされる。
「ムカついてんのは私も同じよ。……ねえ、店長。あんた、こうなることを知ってたわね。あいつとソレとで何があったのかも。何もかも。それを分かってて私らを出したのよね?」
「だったらお前はどうする」
「……舐めてんじゃないわよクソ女。ソレを殺した次はあんたを切り刻んでやる。言い訳用意しとくんなら今の内だからね」
糸原は立花を宥めながら、店の前に腰を下ろした。
「お前らはどうする?」
「指示には従います。今のところは、ですが」
「アタシも同意見よ。イトハラとね」
「頼もしいことだ」
無表情のまま言ってのけると、店長は煙草に火をつけた。
口を利く必要はなかった。どうせ、聞く耳を持っている相手ではなく、そも、口を吐いて出るのはお決まりの文句だけだろう。そう思って、三森冬は、両の拳に炎を纏わせる。対するアグニは構えず、小さな火すら起こさず、ただじっと彼女を見つめていた。
「……精霊の炎か。きれいだ」
アグニは恍惚とした表情で呟く。三森が距離を詰めても、彼は動こうとしなかった。
「この時を待っていたのかも知れん。ニエとして、このようなものが現れるのを」
「おおぉ、ああっ!」
頭部に、腹部に。三森は大振りの拳をアグニの体にぶつけ続ける。しかし、攻撃の全ては通用していない。彼女の体が衝突する寸前、アグニは三森の炎と自身の炎をぶつけて、相殺している。
アグニには肉体を用いた打突が一切通用しない。拳も、脚も、自身の一部を炎と化す事で無効化する。
「無駄だ」と、アグニが嘲るように言った。
口の端をつり上げた三森は、拳に炎を纏わせる。空振りした右の拳は空を切り、赤々とした火の粉が風圧によって舞い上がった。
「無駄だと言っている」
アグニの、赤銅色の肌が熱を帯び始める。至近距離にいた三森は熱気を感じて顔をしかめた。ソレは手を前に出す。アグニの触れた空気が爆ぜ、空間が焼かれた。しかし、三森には届かない。アグニは炎そのものであるが、彼女もまた四大の精霊、炎のサラマンダーを宿す身である。
「……ほう。アレに、随分と気に入られているようだ」
「嬉しかねェよ!」
眉根を寄せたアグニは、『抉られた』肩を見遣った。
「だけどなァ!」
三森はサラマンダーと契約した訳ではない。ただ、その身に巣食われているだけだ。彼女の背には大きな痣がある。蜥蜴が這っているようなそれは、炎の精霊が強制的に宿ったという印であった。その事を恨まなかった時はない。しかし、今は違う。どんなに鍛え上げた肉体も、選び抜かれた武器であってもアグニには通用しない。通じるのは唯一つ、サラマンダーの――――三森冬の炎だけなのだ。今、彼女はその事実を喜び、噛み締める。アレを殺せるのは、この世で唯一人、自分だけなのだと。
「てめェをやれるってンなら、ちったァ救われるってもんだ!」
繰り出す炎はアグニの炎を侵食する。消失した部位は瞬時に修復するも、ソレは距離を取り、興味深そうに三森を見つめた。細瑕とはいえ、アグニにとっては初めての経験である。ソレはこの世に生れ落ちて初めて受けた傷を再度見遣り、笑った。
「精霊の火を喰えるなら、お前という存在を生かしておいてよかったと心底から思える。正しく、極上」
「……喰えよ。腹いっぱいな」
三森とアグニの戦闘を見ている者からは、両者の力量が互角であるかのようであった。事実、二人の能力は酷似している。三森も、アグニも、炎を生み出し、それを操って戦っている。しかし、実際は違った。サラマンダーに憑かれた三森は炎を生成し、放出し、操作する。一方、アグニは三森と同様に火炎を操作するだけでなく、肉体を炎と変えられる。彼にとって人の身は仮初の姿であり、腕を切り飛ばされたとしても欠損した部位の修復は容易である。
アグニは、いわば炎そのものだ。しかし三森は人であり、炎ではない。炎を使っているに過ぎないのだ。ソレと能力は似ているが、根本的に違う。彼女が一方的に殺されないでいたのはサラマンダーによるところが大きい。彼女とて熱を感じ、油断をすれば火傷もする。アグニの業火から三森を守っているのは炎の精霊の影響であった。
「……ほう」
アグニはサラマンダーの存在と力に気づいていたが、三森を守っているのがサラマンダーだけではないという事にも気づき始めていた。彼は次なる贄を見つけたと、口元を歪める。
「ニエよ。お前の中には激しい炎と、温かな火が同居している。サラマンダーと、ソレは、何者だ?」
答えず、三森は炎の飛礫を放った。ソレは手をかざすような事すらせず、飛来するモノをより強い熱で掻き消してしまう。
「それは、充たしてくれるのか?」
「知るかァァァァァ!」
二つの火柱が上がり、周囲には熱風が吹き荒れた。……ただ一人、店長だけが三森の不利を見抜いていた。今は、彼女がアグニの興味を引いているだけに過ぎず、飽きられてしまった時が三森の、ひいては、自分たちの最期の時なのだろう、と。
「……呼ぶしかないか」
店長は白い息を吐き出す。気は進まないが、むざむざと殺されるのだけは我慢がならなかった。
彼は血溜まりの中に立っていた。空風が吹く度に男は頭から倒れてしまいそうで、討ち滅ぼした敵の亡骸を踏み越えながら、新たな敵を標的として見定めている。
「ねえ、堀くん」
目を瞑れば、その時の彼を、あの場面を、今でも鮮明に思い出せる。黒々とした血に塗れた彼の横顔は、胸を強く締め付けた。槍を杖代わりに、折れた足を震わせて、嘔吐しながらも立ち上がり、戦おうとする。そんな男の意思に、炉辺は目頭が熱くなった。
どうして、戦おうとするのだろうか。
何故、戦いたいと思えるのだろうか。
他者と競う事が辛くて、争いを目にするだけでも苦しい。役を降り、任から逃れようとした。そんな自分では、永遠に分からないのだろうな、と、炉辺はぼんやりと思う。
「……堀くんはさ」
炉辺はもう一度だけ、目を瞑った。瞼を開いた時、彼女の瞳に映るのは一人の男である。凶戦士のような面持ちをした彼ではなく、慣れないデスクワークに苦しむ、スーツ姿の優男だ。槍ではなく、万年筆を握り締め、今にも嘔吐してしまいそうな、そんな表情をした――――。
「すみません。店長から連絡が入りました」
「あ、そ、そう。忙しくなってきたのかもしれないね」
「もしもし? ええ、私です。は? いえ、一応、炉辺さんも近くに……」
電話をしながら、堀は椅子から立ち上がる。彼が凝り固まった体を解している最中、
「三森さんの? あの、もしかして、例のソレが出たんですか?」
「――――っ、ごめん!」
炉辺は、堀の手から携帯電話をひったくった。
「もしもしっ、もしもし、あいちゃん、あいちゃんだよね!?」
『なんだ、炉辺か? 怒鳴らなくても聞こえている。そして、お前にも話が聞こえてしまっていたようだな』
「今、ふゆちゃんはどこっ」
『店だ。店の前で、ソレと戦っている。……察しの通り、現れたのは三森の仇だよ。アグニだ』
「待ってて。すぐに向かうから」
言い捨てて、炉辺は堀に電話を突っ返す。
目を瞑れば思い出す。まだ幼いと呼べた頃の、在りし日の彼女を。
初めて出会った時、少女は――――三森冬は、自らの体に炎を纏わせていた。サラマンダーを制御出来ず、牢獄のような部屋の隅に蹲り、怯えた目でこちらを見上げていた。簡易のベッドは真っ黒に焦げており、炉辺はそれを見遣り、少女の力に同情した。
「へいき」
三森は首を振り、近づくなと目で訴えかける。
「へいきだから」
炉辺はそっと手を伸ばし、三森の頭を撫でた。
身寄りを失った三森は、彼女の特異性に目をつけたオンリーワンの監視下の元、炉辺の家で暮らす事となった。一緒に暮らそうと、炉辺が提案したのである。
「どうして、炉辺さんは私と」
「うーん?」
三森がサラマンダーの力を押さえ込めるようになるまで、数ヶ月かかった。彼女が二十歳になる日の、前日の事であった。力を使えるようになったと判断され、明日からでも、三森冬はオンリーワン戦闘部の一員となり、ソレと戦う事になる。
炉辺の家までの道すがら、三森の口数は少なかった。炉辺はただ、優しく彼女の手を握ってやっていた。
「どうして、一緒に暮らすのかって?」
「だって、あいつらがマンション貸してくれるンだろ? 一人暮らしで充分だって」
すぐには返答せず、炉辺は握っていた手に少しだけ力を込める。彼女は、三森が心配だった。力をコントロール出来たとはいえ、サラマンダーの能力は未知数であり、野良猫よりも気まぐれである。精霊が機嫌を損ねれば、三森の体は一瞬かからず灰と化すだろう。
「んー、寂しかったから、かな」
「寂しかったら猫でも飼えばいいじゃンか」
「猫とはお話出来ないじゃない。一方通行で終わっちゃうよ」
「そンなもんかね」
言って、三森はジャージのポケットから煙草の箱を取り出した。炉辺は彼女の喫煙に関して咎めなかった。サラマンダーをコントロールするには、日ごろから炎に慣れ親しむ必要がある。その一環として三森にはライターを持たせており、気持ちを落ち着かせる為に火を見つめろとも伝えてあった。
「そんなもんじゃないかな?」
「そっか。そういうもンか。……ありがとうね、炉辺さん」
「……またやったの?」
三森冬という少女は、生来、激しやすい性格ではなく、むしろ大人しい部類であった。ただ、サラマンダーに憑かれて以降、感情を表に出しやすくなった。だが、悪い事ではない。感情を制御出来ない事は、サラマンダーを制御出来ないという事に繋がっているのだから、むしろストレスや鬱憤を溜め込み過ぎる方が危険といえる。
「けど、女の子なのに」
頬に残る痛々しい痣を認め、炉辺は溜め息を吐く。
「先にごちゃごちゃ言ってきたのは向こうだし」
「同じ職場のお仲間なんだから、仲良くしないとだめだよ?」
「……私は、炉辺さんがいればいい」
「やだ、ちょっときゅんとしちゃう。でも、喧嘩はよくないよ。ぜったい」
ソファに深く腰を沈めながら、三森はテーブルの上にあった煙草の箱に手を伸ばしかけた。
「お客様、喫煙席はあちらでございます」
炉辺はにっこりと微笑んで、ベランダを指す。寒風の吹きすさぶそこには、小さなデッキチェアと、スタンド式の灰皿が置かれていた。
「あんなところにいたら風邪引いちゃうよ」
「サラマンダーちゃんで温まればいいじゃない」
「アレはカイロでもなんでもないんだって!」
忌み嫌っていたはずの力とも、三森は向き合えるようになっていて、それが炉辺には嬉しい事であった。
二年経ち、春風の弟がゲデによって殺された後、三森は戦闘部を辞めた。だが、彼女の能力を惜しんだオンリーワンは二ノ美屋店長に彼女を預け、三森を北駒台店の勤務外店員として働かせる事にした。彼女はそれを拒まなかった。
「部屋を出てく?」
炉辺は雑誌から顔を上げて、風呂上りの三森をじっと見つめた。顔が上気しているのはそのせいだけではなく、緊張や、怒りといった感情をも孕んでいるからだろう。
「うん。社員からバイトになったけど、マンションはやっぱ貸してくれるンだって」
「どうして、ここを出てくの?」
「だから……」
「私が嫌いになったの?」
違うと、三森は首を振った。
「嫌いになったのは、たぶん、自分のことだよ。それに、一人で色々、考えたいこととかあるし」
「相談事なら私がいるじゃない。それに、ふゆちゃん一人だと……まあ、家事は出来ちゃうか。いつから一人暮らしするつもり?」
「早けりゃ、明日からでも」
「そう」と、炉辺は落胆の息を吐き出す。引き止めたとしても、三森は応じないだろうと分かっていたからだ。
炉辺乙女は、神を恨んだ。
「折角のクリスマスなのに、なのに、なのに……!」
寒空の下、炉辺は嗚咽を漏らす。……あの日、彼女は三森に嘘を吐いた。一緒に暮らそうと言ったのは、自分という存在と、三森の境遇を重ねていたかっただけなのだ。彼女には幸せになって欲しいと思った。無理だと知っていて、そう、望んでいた。
今はもう、嘘はない。
三森はもう、一人ではない。彼女と同じ気持ちを理解し合える者が傍にいる。幸せになれるかもしれなかった。自分はとうの昔に諦めてしまったモノを、三森になら――――。だが、彼女は幸福をそっと掴む事よりも、強い激情に身を任せた。抗えなかったのだ。
炉辺は涙を拭き、決心する。止めなくてはならない。復讐者に身をやつすのは、今の三森には似合わないのだ、と。