Fire Cracker
オンリーワン近畿支部、戦闘部のデスクで、堀は書類を睨みつけるようにして、キーボードをかちかちと叩いていた。彼にとってデスクワークは苦行でしかない。イブの日に一人きりで作業しているのが辛いのではない。生来、堀という男はじっとしているのが苦手だったのだ。彼は凝った肩を指で揉み解し、息を吐き出す。
「おー、お疲れみたいだね」
背後から声を掛けられたが、堀は驚かなかった。彼はとっくに、彼女の存在には気がついていたのである。堀は眼鏡の位置を直してから振り返った。
「はい、差し入れ。お安いコーヒーだよ」
「いやあ、ホットとはありがたいですね。何せ、一人きりで心まで冷えていたところでしたから」
紙コップを受け取り、堀は柔和な笑みを作る。
「ああ、そっかあ」と、炉辺は堀の机に腰掛けた。
「今日は、クリスマスイブだもんね。あれかな、みんな、有給を使ってデートかな?」
「そういう人や、家族サービスをする方もいますが、怪我人も出てしまって。何かあるまでは私一人ですよ。全く、聖夜だといえソレには関係ないんですがね」
「ふうん。寂しかった?」
炉辺は悪戯っぽく笑う。堀は目を細めて、コーヒーを口にした。
「ええ、まあ。ところで、炉辺さんはどうしてここに? 何か、医療部の方であったんですか?」
「ううん。私もお休みだよ。暇だったから、来ちゃったの」
「……相変わらずだ。あなたは」
「迷惑だった?」
ある意味では、と、堀は内心で舌打ちする。……自分が何も出来ないのを知っていて、炉辺は屈託のない笑みを見せるのだ。
「天使みたいな悪魔なんですね、炉辺さんは」
「そうかなあ。あ、ふゆちゃんはどうしてる?」
「三森さん、ですか? さあ、分かりませんね。一応、彼女はシフトに入っていなかったと思いますが」
「あの子も、早くいい人を見つけてくれたらのう」
炉辺は声を変えて、遠い目をして言った。
「心配ですか?」
「うん。堀君と一緒。二人とも、私は心配だ」
「私も三森さんも、あなたに拾われたようなものですからね。あなたのお陰で、こうして生きていられる」
「それは、違うと思うけどな」
堀は昔を思い出す。戦いに明け暮れ、血に塗れているだけだった日を。彼が地獄のような場所から逃れられたのは、炉辺が救いの手を差し伸べたからである。堀は、彼女に縋った。そうして、今を生きている。
「それに、堀君は満足してないんだよ。こうやって真面目に仕事をしてるけど、本当は違うんだよね」
「何が、ですか? 私は」
炉辺は堀の言葉を遮り、彼の目をじっと見据えた。
「戦いたいんだ、堀君は」
「……炉辺さんはサンタクロースを信じますか?」
「はぐらかすの?」
「私は信じていないんですよ。ただ、プレゼントをくれるのは素敵なことだと思っています。炉辺さん、私は、欲しいものが二つあるんです」
「私、サンタさんじゃないんだけど」
「知っています」
堀は嘯き、紙コップの中身を飲み干す。一息に呷ったせいで、喉が焼けるようだった。
「でも、あなたにしか与えられないものだ。私は、それが欲しい」
そして、堀は望むものが手に入らないと知っている。炉辺は表情を変えないまま、机から下りた。
「ごめんね。私は、堀君の欲しいものを知ってる。ううん、持ってる。けど、私はサンタさんじゃないし、もしも私が神様だったとしても、あげない。あげられないんだ」
「ええ、分かっていますよ。言ってみただけです」
「その代わりといってはなんだけど、今日は堀君にずっと付き合ってあげるね」
「……もはや生殺しですよ、それは」
おお、と、広場についた一は声を上げた。まるで、お祭りの会場みたいだと思ったのである。
広場は、雑多な屋台が円を描くようにぐるりと軒を並べており、その中心には巨大なクリスマスツリーが鎮座していた。飾り付けは済んでいるので、後は暗くなるのを待つばかりといった状態である。イルミネーションが始まるまでかなりの間はあったが、大勢の人で賑わっていた。
「駒台にもこんなところがあったとは」
「来たことなかったのか?」
「ええ、まあ。あんまし、こういうところとは縁がなくて」
「ま、私もあンまし来たことはなかったけどよ。けど、なんか、いいな、こういうの」
三森は眩しそうにツリーを見上げる。
「けど、ハラ減った」
「花より団子ですね。じゃ、何が買ってきましょう。……お、たこ焼きじゃん」
「あ、じゃ、それにするか」
「いやいや、ここは三森さんの好きなものにしましょうか。ピーマンとか食べられます?」
三森は無言で一のアタマをはたいた。彼はそれを甘んじて受け入れる。
「や、好き嫌い多そうだなーって」
「私は何でも食べられるっつーの」
「夫婦喧嘩も?」
「私は犬かっ。……料理とか作れンの?」
一応は、と、一は頷く。尤も、レパートリーは少なかった。
「三森さんは得意ですよね。お弁当、美味しかったし」
「さんきゅー。じゃ、また今度持ってきてやるよ。迷惑じゃなかったらだけどな」
「あ、火を使うおかずはやめてくださいね。加減が絶望的に下手くそだったんで」
「よし、こんがりしとくわ。癌になりそうなくらい真っ黒にしてやるよ」
昼時という事もあって、どの店もそれなりに繁盛している。一と三森は行列を避けて、人波を縫うようにしながら進んでいた。
「うわっ、金魚すくいがある! 勘違い感すげえ!」
「食うもン探せよ」
「じゃ、これすくって食べましょうか。結構美味いらしいですよ」
「……食べたこと、あンの?」
「いや、糸原さんが言ってました。あの人、犬を食ったとか素面で言いますから、真偽を確かめるのはやめときましたけど」
「なんだよ。やっぱりお前、あいつと仲いいンじゃねェか」
おや、と、一は首を傾げそうになった。三森はつまらなさそうに、ともすれば拗ねた様子だったのである。やきもちですかと尋ねるのは躊躇われたが。
「まあ、そりゃ同居人ですから。けど、それとこれとは話が別だったりします」
一は三森の手を握って歩き出す。
「はぐれたら嫌でしょう?」
「見つけンの面倒だしな」
「お、あっちに焼きそばがありますよ。この、なんつーか、ソースの焦げるような匂いっていいですよね」
「そうかァ? 別に、何とも思わねェけど」
「ソースは男の子の味だから、三森さんになら分かってもらえると思ったのになあ」
「そりゃ悪かったな。悪いついでに……」
一は短い悲鳴を上げる。三森がぐっと力を入れて、彼の手を握り締めたのだ。
「ちょっと、ゴリラみたいな真似はやめてくださいよ。リンゴよりか弱いんですから、俺は……あ、チョコバナナですって。テンション上がってきました?」
「おっ、こっちじゃフライドチキンが売ってンぞチキン野郎」
「俺はチキンなんかじゃねえぞ! 断じてだ!」
三森は、一のトラウマスイッチを踏んでしまった。
「急に怒鳴ンじゃねェよ。引くわ。手、離してもらっていい?」
「この手は離さない。君の魂ごと離してしまう気が……」
「すンませーん、牛串一つくださーい」
「聞けよ。しかも一つってなんだよ。というか牛串て」
「だって美味そうだし」
「お、俺と牛串とどっちが大切なんだよ」
「お前。……あ、千円からでお願い」
「やったー、牛串に勝ったぞー」
うるさいと、一は口の中に串物を突っ込まれてしまう。
「口開くとお前は馬鹿だから。それでも食ってろ。あと、飲み物は何がいい?」
「……お茶」
「さっき、どっかで見たな。ま、いっか。どうせだからさ、ぐるっと一周しようぜ」
今度は三森が一の手を引いて歩き始める。彼は釈然としないながらも、彼女に付き従うように足を進めた。
ぐるぐると、何週も屋台を回っている内に、買い過ぎてしまったのではないかと、一は息を吐いた。両手で抱えた袋の山は、既に冷たくなりつつある。
「三森さーん、そろそろ食べましょうよ。ベンチだって空いてきたじゃないですか」
ずんずんと歩いていた三森は立ち止まり、歩きにくそうにする一を振り返って見た。
「あー、悪いな、荷物持ちさせちまって。そンじゃ、あっちの方座るか」
四人がけのベンチも、恋人たちが居座れば第三者は入ってこない。実に良くできた無駄なスペースだと、一は心中で笑った。
「残したらバチが当たりますね」
「いまさら神様なんて怖くねェよ。もうとっくに何人か殺してンだしよ」
神殺しを名乗った女はベンチに座り、一から荷物を受け取る。ツリーの真下にあるベンチだったので、彼女は不満そうに鼻を鳴らした。
「こっからじゃ見えねェなぁ。どっちにしたって、暗くならなきゃ意味ないけど」
一は三森から少し距離を取って座る。
「最初の方に買ったたこ焼きなんて温くなってますね」
「いや、心配ねェよ」と、三森は一からたこ焼きの容器を掠めて、それをじっと見据えた。
「睨んでても何もなりゃしませんって」
が、一はたこ焼きから湯気が上がるのを目にし、驚愕する。
「……あ。そういや、前にもこんなことしてましたっけ」
三森は以前、一の前で、解凍したばかりの肉まんを熱して、勝手に食べていたのだ。彼はその事を思い出す。
「容器は燃えないんですか?」
「あっ、話しかけンなよ集中してんのに。こう、うまいことやってンだからよ」
「レンジ要らずですね。一家に一人、三森さんがおすすめです」
「何言ってやがる。こンなことするのはな、めったにねェよ。ライター代わりに使われンのはヤだからな。今は奮発してるだけだ」
「俺のために、だったりしますか」
「そうだよ」
意外にも、素直に答えられてしまったので、一は何も言えなくなってしまう。
「次は何がいい? ……なんだよ」
一はたこ焼きを爪楊枝で突き刺し、それを三森の口元に近づけている。
「ほら、あーん」
「ガキじゃねェぞ私は。自分で食べられるっつーの」
「乗ってくれると思ったのに……」
一は諦めて、たこ焼きを自分の口に運んだ。
「けど、そうか。いい考えがあるって、このことだったんですね。外でも、食べ物が冷めないように出来るから」
「……それもあるけどよ」
じっと、三森は隙間を見つめる。一が故意に、二人の間に生んだそれは、線であった。距離感でもある。ここから先には踏み込んで欲しくないと、そう思ったからだ。
「寒いだろ」
言い訳がましい言葉を口にして、三森は一の方へと詰める。彼女の体は熱を帯びていて、その事に気づいた一の心臓は高鳴った。
「……ああ、そういうことでしたか。今、三森さんって恥ずかしかったりします? それとも、怒ってるんですか」
感情の制御が難しくなると、三森はサラマンダーの生み出す炎を操作出来なくなる。そう、彼女が言ったのだ。
「普通さ、ンなこと聞くかよ。とことんまで腐ってんのな、お前は」
一は答えず、二つ目のたこ焼きに爪楊枝を刺した。
「あははっ、お前さー、耳すげェ赤いぞ。捻くれてるけどよ、そういうとこは素直だよな」
「あなたがそれを言いますか……ところで、夜までどうするんですか。イルミネーションまでだいぶありますよ」
「いいよ、もう。このままで。あったかくしてやるからさ」
「ここにずっと?」
「いやか?」 よく似ている。三森が一を素直ではないと評すように、彼女もまた、そうなのだ。一は首を振り、小さく笑う。
「風邪引いても知りませんからね」
死と時間は平等である。誰にでも、同じく、等しく。時は経過し、死は必ず訪れる。巨万の富を築いた者にも、全てを失った者にも、誰にでも。
だが、結果は同一でも過程には差異がある。家族に看取られて安らかに逝く者がいれば、理不尽な災禍に巻き込まれ、絶望の色に染まったまま、嫌だ嫌だと喚きながら殺される者もいる。
死は平等だ。だが、今際の際に見るものは人によって違うのだ。それは幸福であったり、後悔であったり、憎悪であったり、最期の時は様々に色を変える。
眠っていたらしい。
頭を預けていたのは、一の肩であった。三森は目をこすりながら、すまないと口にする。
「はしゃいで疲れて寝ちゃうなんて、子供っぽいところがあったんですね」
「悪い。つーか、どれくらい寝てた?」
一は腕時計に目を遣り、ツリーを指した。三森は、陽が落ちているのに気づく。広場には人が増えており、寒さは厳しさを増していた。
「起こしてくれてもよかったのに」
「疲れてるんなら、寝かしてあげようと思って。最近、忙しかったですし」
「ありがとな。……ホントだったらさ、今頃、家で寝てたのかもな。つまンねェドラマ見ながら、クリスマスなんか興味ねぇよってツラして」
「誘ってよかった。来てくれてよかった。三森さんがいなかったら、俺も、きっと家にいたんでしょうね」
ありがとう、と、内心で告げる。一がいなかったら、彼が自分を選んでくれなかったら、こんなにも温かな気持ちにはなれなかった。
三森は、一の手に、そっと自分の手を重ねる。
「あいつらに悪い気がする」
「あいつらって?」
「店のやつら。ケーキ売るのに必死になってンぜ。サンタの格好してよ、文句ばっか言ってそうだよな」
「ああ、確かに」
一は苦笑するが、三森は上手く笑えなかった。悪いと言ったのは、そういう意味ではなかったのである。しかし、真実を口にするのは躊躇われた。それこそ、彼女らに悪いと思えて仕方がなかった。
「……この後さ、店に顔出すか」
「冷やかしにでも行きますか?」
「いや、お前を返そうと思って。私だけ、いい目を見過ぎてる気がするから」
「俺はものですか。まあ、いいかもしれないですね。ケーキでも買って、裏で食べるってのも」
楽しくて、嬉しくて、自分は今、きっと幸せなのだろう。……三森は、幸福というものに慣れていなかった。しかし、こんな気持ちが永遠に続かない事を知っている。いずれ消えてなくなるものなら、いっそ自分のタイミングでそれを手離したかった。
「私はさ、あいつらも嫌いじゃないンだ。あいつらは私を嫌ってるかもしれないけど、いいやつらだし、仲間だと思ってる」
「友達じゃなくて?」
「なンか、そういう感じじゃない。戦友っつーのかな。そんなの、いたことねェからうまく言えないけどよ」
「……糸原さんは」
一は煙草の箱をポケットの中で弄び始める。
「あの人は、素直じゃないんです。だけど、百鬼夜行のあと、三森さんの話をすることが増えました。仲良くなりたいんですよね、きっと。けど、変にプライドが高い人だから」
「前に、あいつにな、丸くなったとか言われた。そうかもしれないけど、たぶん、丸くなったってのはあいつも同じなんだと思う」
三森は、人は、他人の中に自分を見ると店長が言っていたのを思い出す。
「三森さんは、皆が自分を嫌ってるかもしれないって言ったけど、皆だって、俺だって同じように思ってます。今まで一緒にソレと戦ってきたんです。そんな人たちを嫌いになれるはずないんだから。だから、心配しないでいいんですよ」
「……お前を盗ったのにか?」
「あれ。いつの間に盗った気でいたんですか。俺は風のように自由な男ですよ。そう簡単に好きには出来ないと……お?」
三森はじっと一の顔を見つめる。彼の胸に手を置くと、心臓が強く高鳴っているのが分かった。
「忘れてた。お前って、口だけは回るンだよな。こうしないとさ、騙される。本当は、腹ン中はどうなってるのか」
「まいったなあ。三森さん、俺も確かめていいですか。有り体に言うと胸を揉んでもいいですか」
「スミクズになる覚悟が出来てンならな」
「とっくにしてますよ、そんなもん。でも、クズにはなりたくないのでやめときます」
「だいたい、触っても面白くねェと思うし。要するにこんなもん脂肪の塊だぞ」
戦う時に邪魔になる時もあって、切り落としてやろうかと思う日もあった。その事を一に言うと、彼は溜息を吐いてしまう。
「どこの部族ですか、あなたは。と言うか考え方が男前過ぎる。そんなんじゃモテませんよ」
「一回つけてみりゃお前も分かるって。自分にねェもんだから良く見えるだけだぜ」
「そういや、胸の大きい人は肩が凝るとか言いますね。話は変わるんですけど、三森さん、今、肩凝ってますか」
「話変わってねェよ」
一が舌打ちしたのを、三森は聞き逃さなかった。
「ナチュラルにセクハラしてきやがって。しばかれても文句言える立場じゃねェぞお前」
「いや、なんか三森さんならいいかなって。ほら、立花さんあたりにこんな話したらアレですけど」
バナナは腐りかけがうまいと言う。しかし性根が腐りかけた人間は人の神経を逆なでにする事がうまいだけであった。
どうして、こんなやつとここにいるのか分からなくなり始めた時、広場に歓声が沸き起こった。その声に弾かれるようにして顔を上げると、眩しい光が目に飛び込んでくる。
「やっと始まりましたね。で、感想はどうですか」
「うーん」綺麗だ。おもちゃ箱をひっくり返したような飾り付けをされたクリスマスツリーは、三森の目にはそんな風に映る。
「木が光ってる」
「わざわざ見に来なくてもよかったかなー、なんて思ったでしょう」
「一人だったら、こんなもん見ても燃やしてやるとしか思えなかっただろうな」
三森は立ち上がって、手を伸ばした。届きそうで届かないものは、幾つも目にしてきて、諦め続けてきた。常人が普通に生きていれば、さしたる苦労もなく出来る事ですら、彼女には羨望と嫉妬の対象であった。
「やっと、人間になれたって感じがする」
「クリスマスに誰かとツリーを見るのが? やめてくださいよ。そんなんで人は決まりませんって」
「うっせェばーか。お前には分かンないだろうな、こういうの。……嘘だよ。木が光ってるとか。すっげェ綺麗だ。クリスマスツリーってさ、夢の塊だよな」
「……サンタさんみたいな格好の三森さん」
水を差された気がして、三森は不機嫌そうに一を見遣った。
「お願いがあるんです。プレゼントが欲しいなあって」
「サンタはな、いい子にしかプレゼントをやらねェンだ。けど、私はサンタじゃねぇからな。聞くだけ聞いてやるよ」
「物が欲しいわけじゃないんです。踏み込むつもりだってない。ただ……」
「あ、わりィ」
携帯電話が震えていた。無視しても良かったが、相手が店長で、メールでの連絡だったのもあり、三森は液晶の画面に視線を落とした。
「……ごめん。プレゼントはまた今度な」
携帯電話をしまい込んだ三森は、俯いたまま、終わりを告げた。一は、重たく、固くなった息を吐き出す。
「本当に、悪い。埋め合わせはする。……行かなくちゃ、ダメなんだ」
三森はもう、一の顔を見られなかった。彼もまた、三森を見る事が出来なかった。彼女は一に背を向けて躊躇うような素振りを見せたあと、何もかも振り解き、捨て去るように駆け出した。
運の悪いやつだと、糸原はほくそ笑んだ。北駒台店には四人の勤務外がいたのである。夜が深まりつつあった頃、ソレが現れたと聞いた時は嘔吐しそうなほどに気分が落ち込んだが、さっさと片付けてケーキを売ろうと思い直した。
店長は、珍しく申し訳なさそうな顔でソレの接近を告げた。どうやら、相手は店に向かってきているらしい。糸原たちは店前にセットしたケーキや什器の類を店内に運んで、ソレを迎え撃つ準備を始めた。
ほどなくして、全員が得物を手に、店の前に並んだ。詳細な情報は言い渡されなかったが、糸原は気にしなかった。
「……せっかくのクリスマスなのに」
ぼそりと、立花が呟いた。
「ソレには時間も場所も聖夜も、何も関係がありません」
「それにしたってタイミングが悪いよう。ケーキだって、ようやく売れてきたところだったのに」
「幸か不幸か、ここに一とジャージ女以外が揃ってんだから、さっさと片付けりゃあいいのよ」
言って、糸原は口の端をつり上げる。
「……敵性物体の接近まで、あと十秒です。右方から来ます」
「初手はどうする、チビっ子」
「ソレが見えたと同時にクリスマスプレゼントをぶっ放すワ。怯んだところを囲めばラクショーね」
「来ます」
ソレは、恐ろしい怪物の姿をしている訳ではなかった。翼を持ち、飛行している訳でも、家々を破壊しながらやってきたのでもない。ただ、歩いてきたのだ。人間の姿をしたソレは、店前にいる勤務外を認めた後、にいっと、笑ってみせたのである。
「…………なに、こいつ」
ジェーンの撃ち込んだ六発の弾丸は、男に辿り着く前に、この世から消えてしまった。
彫りの深い顔つきの男は、二十代後半にも見える。男は、クルターと呼ばれるインドの民族衣装を上半身に、下にはデニムと、何の変哲もないスニーカーを履いていた。彼は黒髪を手で撫でつけながら、何事かを口中で呟く。
「弾、当たったわよネ」
リロードしながら、ジェーンはもう一度男に目を遣った。
「いいえ、ジェーンさん。弾丸は消失したのではありません。ソレの周囲の気温が、僅かに上昇しています。そして、弾丸が間近に迫った瞬間、ソレの周囲の気温は爆発的に上昇しました」
「それって、つまり……」
ナナは頷き、無表情のまま告げる。
「弾丸は融解したのです。それも一瞬で。ソレは三森さんと同じく、炎を操作する能力を所持していると思われます」