泥中の蜘蛛糸
「……店長さんってさ、働いてるのかな」
店内から客の姿が見えなくなった頃、レジ周りにある雑貨の補充をしていた立花がぼそりと呟いた。
「ボスが?」 カウンター越しにいたジェーンは、なんとなく監視カメラのある方を見遣る。
「どうでしょうネ。シフトだってお兄ちゃんが決めてるし、発注だって堀か、お兄ちゃんがやってるみたいだし。たまにはレジを打つけど」
「いっつもタバコ吸って、椅子に座ってるよね。それか、パソコンをカチカチやってる」
ジェーンは大きく頷いた。
「ペイドロボウね」
言ってから、ジェーンは自分が、一応はオンリーワンの社員である事を思い出した。
「……アレ、やってるコトはアタシも変わらない? アルバイトと同じだし……」
「ジェーンちゃん?」
「タチバナ」
「え、あ、な、何?」
「今日は、アタシ、がんばる」
立花は何の事だか分かっておらず、楽しそうに首を振る。
「それよりもボスね。たしかに、ボスらしいところがまったくナイわ。と言うかムノーね」
「でも、こないだはいっぱい指示を出してて、なんか、こう、すごかったよね?」
「ンー、ボスだって本気になればソレとの戦いだけはムノーじゃない、ケド……」
思い返せば、店長は、『普通』の事がまるで出来ないのか、やろうとしない。通常の業務に関してはアルバイトよりも劣っているのだ。
「だから、雇われてるのカシラ」
「えっと、どういう意味?」
「ボスはオンリーワンの店長しか出来ないって意味。ノーマルのコンビニには向いてないのね。こういう、アブノーマルなトコだからなんとかなってるんじゃあないノ? 他の仕事はまるでダメだけど、ソレとの戦いには向いてるから」
「ジェーンちゃん」
「何?」
「ジェーンちゃんって、頭いいね!」
立花は納得しているようだが、ジェーンは首を傾げる。それにしても、随分と局地的な採用ではないのか、と。
「……でも、ボスを責めればアタシにも返ってくるような……」
「けどさ、店長さんはボクが来てから戦ったことないよね、たぶん」
「さあ、アタシは見てない。but、一応は戦えるんじゃナイの? ボスなんだし」
「そうなのかなあ、やっぱり。そうでもなきゃ、あんな風には言えないもんね。ソレと戦った経験がなくちゃ、たぶん無理だと思う。……強いのかな?」
一瞬、立花の眼光が鋭くなったが、ジェーンは気のせいだと思い込んだ。
「切りかかってみたら分かるんじゃナイの」
「ううん、けど、店長さんって、たぶん、刀みたいなのは使ってないと思う。ほら、筋肉のつき方がさ。ジェーンちゃんも見たら分かると思うけど、筋肉って」
「ワカンナイ。何、マッスルって見て分かるモノなの?」
「分かるよ? 扱う武器によってさ、筋肉だってよくなるところが変わってくるもん」
「……筋肉」
自分の体をためつすがめつ、ジェーンは肩を落とす。この会話は、年頃の女の子としてはどうなのだと自らの境遇を嘆いたのだ。
「どっちかと言えば、店長さんはジェーンちゃんと似てる気がする」
「それって、ボスのウェポンがガンだってこと?」
「ちょっと違う気もするけど、たぶん、そうだと思う。それより、ジェーンちゃんはもっと鍛えた方がいいんじゃないかな。ふっふーん、いつもボクにえらそうなこと言うけど、ボクのが鍛えてるんだからね」
「別に。お兄ちゃんは『ノーマル』の女の子が好きなんだし。自分の腹筋見せびらかすような女なんてお兄ちゃんのディフェンス範囲外だし」
「ボク、今日から太ろうと思うんだ」
職場こと、オンリーワン近畿支部の戦闘部のオフィスに戻った堀は、憂鬱そうに息を吐いた。握り締めた紙コップは、くしゃりと音を立てる。彼の様子を見かねたのか、近くにいた藤原は堀に声をかけた。彼を悩ませている原因に、心当たりがあったのだ。
「よう。また北の店長になんか言われたのか?」
「そんなところです。やはり、二ノ美屋さんは、私たちを疑っていますね」
「予定調和っつーか、予想どおりだな」
言いつつ、藤原はペットボトルの中身を一息に飲み干す。
「あの女はイヌの振りをした何かだからな。しかも、こないだは昔の同僚とご対面しやがって、血が騒いだってのも考えられる。二ノ美屋、か。アレの経歴を考えりゃ、オンリーワンに目を向けるのも当然だぜ」
「いやあ、真実を知りたいのは私たちも同じだと言うのに。困りましたねえ」
「……まあ、だな。けど、これ以上情報をやらなきゃどうしようもねえだろうがな。それよか、気になってんのは北駒台じゃねえ。モグラだよ。やつら、動きを見せなかったじゃねえか」
堀は椅子に座りなおし、モグラ――――タルタロスについて思った。オンリーワンとタルタロスは『業務提携』をしており、協力体制をとっているはずである。だが、彼らはアレス戦を非常時とは捉えず、援軍の一つすらよこさなかった。
「いつもと同じだと思いますけどね。彼らは、基本的には死体漁りが本業なのですから」
タルタロスについて知る者は殆どいない、と、されている。堀ですら、彼らの住処である地下に足を踏み入れた事はない。
「情報部みてえなもんだからな。事後処理がやつらの仕事だ。だが、動きがなさ過ぎると、あまりにも不気味だぜ。だいいち、メリットはなんだ? 汚れ仕事請け負って、何がしたいんだ?」
「木っ端には分かりませんね。ですが、その存在は胡散臭いの一言に尽きます。ソレに関する犯罪者を投獄する施設とも聞いていますが、実態が見えない。糸原さんからある程度の話は聞いていますが、彼女は嘘を吐きますからね。どこまで信じていいものか」
「糸原……ああ、あの、『天気屋』の片割れな。確か、モグラが隠してたもんを盗んで、捕まったんだってな。けど、今は見逃されてる」
糸原四乃が盗んだのはレージングと呼ばれる糸である。彼女はタルタロスに捕まり、逃げ出して、今に至る。
「しかし、どうやって抜け出したんだろうな」
「答えてくれませんでしたよ。しかし、協力者がいたんでしょうね。これもやはり聞きかじりでしかないのですが、地下は迷宮と化し、内部の事情に詳しい者でなければ地上には辿り着けない、と」
「モグラどもも一枚岩じゃあないってことか」
はたして、一枚岩の組織が地球上のどこにあるのか。堀は苦笑し、紙コップをゴミ箱に投げ捨てる。
「案外、『円卓』の隠れ蓑だったりしてな。こっちの情報は、何故かモグラに筒抜けみたいだしよ」
「ですが、その確証を得る方法はないのでしょうね。……全く、分からないことだらけだ」
「分からないといやあ、ありゃすごかったな。俺ぁあいつとは入れ違いに戦闘部に来てよ、生で見るのは初めてだったからな」
「何のことですか?」
藤原はにやりと笑い、ペットボトルをゴミ箱に向けて放り投げた。あらぬ方向に飛んだゴミは、床に落ち、ころころと転がり始める。
「三森だよ。あいつがなんて呼ばれてたのか、やっと意味が分かったって感じだな」
「いやあ、私も最初に見た時は驚きましたね。体から炎を放つ。まるで」
「まるで人間業じゃない――――いや、人じゃない、か?」
人ではない。
堀は三森の事をそこまで言うつもりはなかったが、不思議と、その言葉は自然に思えた。
「いや、ここにいねえやつを悪く言うつもりはねえんだけど。けどよ、腐ってもアレスってのは軍神だったんだ。ただの炎じゃあソレは焼けねえぞ」
「何か、特別な火だと、藤原さんはそう考えているんですか」
「まあな。だが、追求するつもりはねえさ。火の正体が、三森の正体がなんであれ、あの力に助けられてるのは確かなんだ」
藤原の顔は悟りを開いたような、健やかな笑みに満ちている。
「ところで、新車はどうなりましたか」
「修理中だ! うるせえよ!」
曇ってきたな。口中で独りごちると、一は家路を急いだ。夕飯の材料に足りないものがあったので、彼はスーパーへ行っていたのである。足を速めている内、傘を持ってくればよかったと、再び天を仰いだ。
雲だ。
一面の雲が、空を覆い隠していた。分厚く、陽の光さえ遮ってしまう灰色の壁から、何故か、一は目を離す事が出来ないでいる。見慣れたはずの景色が心を捉えて離さないのだ。
「……行こう」
ふと、一は誰かに見られているような感覚を覚えた。彼は何気なく振り返り、そこで、目を見開く。びくりと肩を震わせる女が、遠慮がちに一を見ていたのだ。コートを羽織った女は、ヒルデであった。どうして彼女がここにいるのか、そう思うよりも先、一はヒルデに駆け寄り、声をかけている。
「…………元気、だった?」
「ええ、まあ。お散歩ですか? よければ、付き合ってもいいですか」
「あ、そういうんじゃ、なくて」
常のヒルデは緩々と、ともすれば眠たそうに話す。しかし、今の彼女は眠たいのではなく、気まずそうにしていた。いたずらの見つかった子供のような――――。ヒルデがここにいる理由は分からないが、自分の家の近くにいたのだ。恐らくは、自分に用があったのだろう……そこまで考えたところで、一の頬が緩む。頼りにされているのかもしれない。そう思うと、嬉しかった。
「…………喧嘩を。私、シルトと喧嘩して」
ばつの悪そうな顔をしたヒルデは一を見ようとしない。俯いたままである。
「あの子の家には、その、いられなく……」
「ああ、家出したんですか」
「……っ! そっ、その」
ヒルデは顔を上げ、それからすぐに俯いた。彼女の頬も、耳も、真っ赤に染まり切っている。
「そ、そう……」
得心して、一は両腕を組む。ヒルデには逃げ込むあてがなかったのだろう。彼は、ヒルデを自宅に招こうかと考えて、また、彼女自身もその行為をあてにしていた節がある。一個人としては問題など何一つとしてなかったが、同居人である糸原が何を言うかが気になった。
「降りそうですね。よかったら、俺の部屋に来てください」
「…………いいの、かな」
「ええ、雨宿り感覚でお邪魔しちゃってください」
言外に、頭が冷えたらシルトのもとに戻った方がいいと、一は言った。聡いヒルデも彼の意を汲み、緩々とした動作で頷いた。
帰宅した一が、南駒台店の勤務外店員を連れてきた。糸原は嫌そうな顔をして、ヒルデを見遣る。
「買い物するのはいいけどさ、女引っ掛けてくるなんて思ってなかったなー、私」
「友達を家に呼んだだけじゃないですか。ヒルデさん、気にしないで上がってください」
玄関の三和土で立ち尽くすヒルデは、部屋の中をきょろきょろと見回していた。一は買ってきた食材を片付けながら、じろりと糸原をねめつける。
「何よ? もしかして、出てけ、とか、邪魔だ、とか言うつもり?」
「お客さんです。お茶くらい入れてくれたっていいじゃないですか」
「私の客じゃないのよ、そいつは。あんたの客ならあんたがもてなしなさいよ。……何よ?」
糸原はヒルデに目を向ける。その視線に敵意こそこもってはいなかったが、歓迎しているといった雰囲気ではなかった。
「…………迷惑だったら、私」
「ヒルデさんは気にしないでくださいね。そこの、なんか、居候? みたいな変な人がごちゃごちゃ言ってるだけですから」
「引っ叩くわよ」
「だったら今月の生活費入れてからにしてくださいね」
舌打ちし、糸原はごろりと寝転がる。一は彼女の態度が気に入らなかったらしく、糸原の尻を軽く蹴飛ばした。
「セクハラ。ケツの毛まで毟り取るわよ」
「セクハラはどっちですか。ほら、あんたでかいんだから無駄にスペース取ってないで小さくまとまっててくださいよ」
「でかいって……もうっ、どこ見て言ってんのよ!」
「昼間からダラダラしてんじゃねえぞって言ってんだデカ女」
「シッ!」
一の脛に蹴りを入れると、糸原は寝たままの姿勢でファイティングポーズを取る。
「いい顔してんじゃないわよチビ助が。私にはお茶を出さない時だってあるってのに」
「いや、糸原さんお客じゃないし」
「もてなしなさいよ。こんな美人なお姉さんをもてなさないなんて、ありえないわ」
「美人は三日で飽きると言います」
「ブスは三日で慣れるってね」
「……少しくらい顔のつくりがいいと、三日で飽きられるくらい調子に乗るんでしょうね。自分はちやほやされて当然だって。中身がドブスじゃどうしようもないなあ、あっはっは」
「それさー、暗に私が美人だって認めてるってことだよね」
「粋がるなよ!」
「じゃあ嬉しがる」
ヒャッホー! 立ち上がり、糸原は片手を突き出して飛び跳ね始めた。もはや見慣れた奇行だったので、一は無視してお茶を淹れ始める。
「あ、ヒルデさんヒルデさん。早くこたつで温まっておいてくださいよ」
ヒルデは促されるまま畳に上がり、勧められるままこたつに入った。
「あっ、そのお茶っ葉いいやつじゃん」
「埃立つから大人しくしててくださいねー。というか素面ですよね? だとしたらやっぱり頭おかしいんじゃないのかなこの人」
「なんだとう、言ったなこいつめー! そんな生意気なこと言ってると包丁で刺すからね」
「いきなり真顔になって言うのやめてください。まあ、俺が死んだら糸原さんも生活出来なくなって死ぬでしょうけど」
「はっ、死ぬかよバーカ」
「米を洗剤で研ぐバカに言われたくねえよ!」
「アレはお茶目よ。イタズラだったの。……ホントよ、信じて?」
「目が笑ってんぞ」
「ごめんね、一。目だけに、アイしてるから許し、プークスクス」
「せめて最後までちゃんと言えよ!」
自分で言って自分だけで笑い転げる糸原は至って正常である。だが、彼女の常を知らないヒルデからすれば、魔物よりも恐ろしいモノに思えた。何より、言い争う二人を見て、ヒルデは『よくない』と思ったのである。
「…………けっ、喧嘩は」
「あははははははははははっ、あー、おかしい。あっ、冷静になったら誰か殴りたくなってきた」
「鏡見てください。手頃なやつがそこに映ってますから」
「子猫パーンチ」
「がふっ! いってえ……」
「子猫キーック」
「そんな鋭い蹴りを放つ猫がいるか! 猫に謝れ!」
「何よ。猫派? だったら子猫派の私とは戦争ね」
「子猫派ならあと少しじゃねえか。もっと歩み寄る姿勢見せろや」
「けっ、喧嘩は……よくないよ」
「は?」 と、糸原は一を両足で締めつけながら、ヒルデを見遣った。彼女が何を言っているのか、全く理解出来ていない様子である。
「…………だ、だから、喧嘩は」
糸原は首を傾げて、一はタップを繰り返す。
「喧嘩って、別にこんくらい普通だし」
「そうなの?」
「まあね。こいつったらさー、私が構ってやらないと寂しそうな目ぇすんのね。だから仕方なく遊んでやってんのよ」
「ぎ、ギブ……たす、たしゅけ……」
顔面を蒼白にしつつある一には気づかず、ヒルデは何かを考えている様子であった。
酒気と喧騒に一が目を覚ますと、部屋の中は随分と窮屈なものになっていた。彼と糸原とヒルデだけだった部屋には、いつの間にか、中内荘の住人が揃っている。
「かははははははっ、呑め呑めヒルデ。そういう時はな、呑まなきゃやってらんねえんだって」
「相変わらずのうわばみですこと。よろしいですか『神社』、淑女とは」
「ちあきーん、私のコップも空になってるんだけどー?」
「あー、はいはい。ほーら満杯やで四乃さん」
「…………もう、呑めない」
「オレの酒が呑めねえってのか!?」
一は、もう暫くは寝た振りをしていようと思った。一人だけ素面でいれば、山田に絡まれるのは間違いなかったからである。
「……しっかしさー、こう、女だけで飲んでるとさー、クリスマスなんかもこんな感じになっちゃうのかなって思わない? 足りないわ。ロマンチックが欲しい」
糸原がらしくない事を言ったので、一は噴出しそうになった。
「別にオレはいいと思うけどな。いいじゃねえか、男なんかいなくても楽しけりゃ。それともあんたは当てでもあんのかよ?」
「そんなんゆうてもどうせアレやろ。ここにおる皆、師匠頼みになるんやろ」
しん、と、場が静まり返る。
「否定はしませんわ。私、ウーノと過ごせるなら……ああっ、なんと素敵な聖夜になるでしょうか!」
「一人占めすんなよ。どうせ、お前と一でいても、ビビってろくなことにならねえって。そんなんよりここで皆で呑もうぜ」
「あんたは呑めりゃなんだっていいんじゃないの?」
「栞さんかて、師匠と二人きりになったら、また半泣きで帰ってくるんとちゃうの」
居たたまれない。一は寝返りを打ち、かしましい者たちに背を向ける。
「じゃあ勝負だな。一を誘って、乗ってもらえりゃ勝ちってやつだ」
「何それ? そんなの私が勝つに決まってんじゃない。やるだけ無駄よ、むーだ」
「負けを恐れているのですか。ふふ、では、私は勝負に乗らせていただきます」
おい。おい、と、一は内心でつっこみを入れ始めた。
「なんか、その三人やと全員だめっぽいなあ。うちはやめとこ。全滅に百円賭けるわ」
「……私もやらないとだめなの?」
「ヒルデか……なんか、ヒルデに持ってかれそうな気がする」
「最悪のパターンね」
最高だろうが、と、一は叫びそうになるのを我慢する。
「はあ、クリスマスか。『天気屋』やってる時はそんなの気にしなかったのにな」
「オレも『神社』の仕事殆ど終わっちまってよ。何かを追っかけてる時は、他に何も考えずに済んだっての」
「ふう、『貴族主義』も潮時でしょうか」
「人外多すぎへん? まあ、それ言うたらうちもそうなんかもしれんけど」
「……私もワルキューレだし」
ふとした拍子に、心の澱は押し流され、吐き出されてしまうものだ。時としてそれは、アルコールと共に、である。こんなタイミングで聞くような話ではないと思うが、聞き耳を立てずにはいられなかった。
「……ふう」一は気づかれないように息を吐く。彼は、クリスマスに思い入れなどなかった。ゴーウェストの家で世話になっている頃は違ったが、駒台に来てからは祭日という言葉にも、響きにも、心が躍った覚えはない。期待されているのも、好意を向けられるのも悪い気はしない。むしろ、嬉しかった。しかし、誰かと二人きりで聖夜を過ごす事は想像出来ないのである。……ただ、一人だけが一にとっての例外であった。
北駒台店のバックルームで、ジェーンと立花は肩を落とした。気落ちした二人を強く見据えると、店長は愉しげに告げる。
「では、ソレの討伐にはお前らで向かってもらう。店のことはナナに任せろ」
「……あと少しで交替だったのに……」
「もうっ、どうしてこんなタイミングで出るの?」
立花は竹刀袋を杖代わりにして体から力を抜いた。
「そいで、どんなやつが出てきたの?」
「ああ」と、店長は煙草に火をつける。
「ハルピュイアだ」
そこで、ジェーンは違和感を覚えた。しかし、彼女は店長が説明するのを優先し、疑問を口にするのは後回しにする。
「ギリシャ神話の怪物だよ。ハーピーとも呼ぶか。……顔面が女で、鳥の体を持っている」
「飛ぶの? それ」
「ああ、飛ぶ。黄泉の国の王に仕えるモノで、禿鷲の羽と鷲の爪を持つ。意地汚く、食べ物を貪り、食い散らかした残飯や食料に自らの汚物をまき散らかしていく、と、されている怪物だ」
「……セミみたいな怪物だね」
店長は苦笑して、灰を床に落とした。
「元々は、つむじ風や竜巻の女神だったとも言われている。飛行能力を持ち、類まれなスピードを備えている」
「ヤッカイなエネミーってコトね。ああ、だから、アタシとタチバナなのかしら?」
「へっ、どういう意味?」
「以前、お前らはアンズーと呼ばれるソレを落としている。あの、馬鹿でかい鳥の怪物だ。ハルピュイアとは勝手が違うだろうが、なんとかなるだろう」
だが、と、ジェーンは心中で反論する。馬鹿でかい怪物が相手ならともかく、ハルピュイアの的はアンズーよりも小さいだろう。尚且つ、ソレにはスピードもある。飛び道具を持つ自分ならまだしも、立花の得物では不利どころかまともには戦えない。ならば、銃火器を備えるナナや、炎を操れる三森、糸原なら更に効率よく立ち回れるだろう。
「ねえボス、ソレは一匹だけ?」
「いや、ハルピュイアは群れで行動する」
「えーっ、なんだか、大変そうだなあ。はあ、ボクにも羽があったらよかったのに」
「質問は以上か? ならば駆け足」
「リトルウェイト、ボス。……ずいぶんと、詳しいのネ」
店長は目を逸らさずジェーンを見つめた。
「いつもなら、支部からの資料を見ているじゃない」
「ハルピュイアのことか? 以前にもこの街に現れたからな。私とて無能ではない。それくらいの情報なら覚えているさ」
「そ。じゃあ、いい。一つだけ確認なんだけれど、倒してもいいのね?」
「お前たちの仕事はそれだ。行け」
「ねえ、ジェーンちゃん」
バックルームを辞した二人は、ハルピュイアの目撃されたであろう現場へと向かっていた。しかし、ジェーンは店を出てからじっと何かを考えているようで、立花の雑談には付き合おうとしなかったのである。
「……何?」
「さっきから黙ってるけど、どうしたの? おなかでも痛いの?」
「ハルピュイアって飛ぶのよね。だったら、今から現場に行ったって、ソレがいるとは限らナイって」
ああ、と、立花はこくこくと頷いた。
「確かにそうだよね。しかも速いんでしょ? ボクたち、ちゃんとやれるのかなあ」
「やれないかもしれない。けれど、ボスにはそれでいいのかもネ」
それでは困るのではないか。ソレを放置したままのこのこと戻るわけにはいかない。立花は、消極的なジェーンに対して、僅かな苛立ちを覚えた。
「ちょっと、気になるコトがあるの。……電話って、鳴ってた?」
「電話? お店にってことだよね?」
通常、ソレが出現した際には、情報部からオンリーワンの支店へ連絡がいく手はずになっている。今回も、電話があったからこそ自分たちが出勤する羽目になったのだと、立花はそう思っていた。
「鳴ってたんじゃないのかな?」
「でも、アタシには聞こえなかった。電話なんて鳴ってなかったと思う。いいえ、鳴っていなかったわ」
「それっておかしくない? じゃあ、どうして店長さんはソレが出たなんて分かったんだろう」
「ボスのケータイに直接かかってきたのかもしれない。でも、今まではそんなコトなかった」
それきり、ジェーンは口を閉ざしてしまう。立花も自分なりに考えてみたが、結局、まともな答えは得られそうになかった。
空を見上げる。空っぽだったそこは、いつの間にか、翼を持った怪物で埋め尽くされていた。耳障りな声が周囲の音を食い尽くしている。立ち上った紫煙は羽ばたきによって掻き消され、怪物たちは甲高い声で笑った。
視線を下げる。土の上は、たくさんの死体で埋め尽くされていた。得物を握り締めたまま息絶える者がいた。ソレの足を握り潰したまま、己の喉笛を切り裂かれた者がいた。四肢を引き裂かれ、食われた者がいた。生存者は皆、蛮声を上げる。仇討ちを叫び、また一人、中空へと連れて行かれる。
同僚たちは今わの際まで戦士であり続けたのだろう。この街を、この国を守ろうとしていたのだろう。そして、自分もまた護国の士となろうと、彼女は決意する。弾が残っているなら戦える。仲間がいなくても戦える。四肢がもがれても、臓腑を抉り出されても、命が尽きてしまうまで戦える。
――――それが、償いだ。
自らの得物を肩に担ぎ、彼女は、短くなった煙草を吐き捨てた。