コロポンの機織女
「私は機織の女神、アテナをも凌ぐ織り手よ」
とある女が、自慢げにそう言った。
その言葉を聞いたギリシャの女神、アテナは怒りを覚えた。
だが、アテナも鬼ではない。慈悲深い、人間を超える存在なのだ。事実、アラクネは優れた織り手であったし、処罰を与えるのも勿体無い。そこでアテナは老婆へと姿を変え、愚かな彼女を諭す為に、決して神々の怒りを買ってはいけないと忠告した。
「ふふ、神様が何だって言うの? 怖くも何ともないわ、やれるものならやってみなさいよ」
神を馬鹿にして、彼女は高々と笑った。
アテナは老婆から、鎧を纏った自身の姿に戻る。
だが、神を目の前にしても女はうろたえもせず、落ち着いた風だった。
アテナが言う、ならば勝負だ、と。どちらが優れた織物を作れるか、と。
「良いでしょう」
女は自信ありげに言った。
やがて、織物勝負が始まった。
アテナは、ポセイドンとの勝負に勝ち、自身がアテナイの守護神に選ばれた時の物語をタペストリに織り込んだ。勇壮で、勇敢で、勇気に満ち溢れた作品。
一方女は、ギリシャの主神ゼウスの浮気、不義、落ち度についての、神を滑稽に仕立て上げた物語をタペストリに織り込んだ。女の作品は、非の打ち所のない、とても優れたもので、美しかった。
アテナすらそれを認めてしまうほどであった。
「どう? 幾ら神でも私には勝てないのよ」
だが、アテナは激怒した。嫉妬からではない。女が織り込んだテーマについてだ。アテナの親でもある主神ゼウス。彼の事を馬鹿にされたのだ。許せるはずはないだろう。
アテナは女の織機を叩き壊し、憎きタペストリを引き裂き、最後に女の頭を強く打ち据えた。
女は自分の愚考、愚行を認め、恥ずかしさのあまり逃げ出して、自らの首を吊った。
神をも恐れぬ、神をも超えた機織の女が一生を終えた。
それでも、アテナは女を許せなかった。
怒りが収まらず、女を呪うようにトリカブトの汁を撒いた。すると、女の体が少しずつ崩れていった。トリカブトの汁と混ざり合うようにして、人間の形が崩れていく、壊れていく。やがて原型を留めずに、女の体が液体と化した。
アテナが嗤った。
先ほどの液体が、ゆっくりと固まっていき、何かの姿を成していく。
おぞましいほどに大きく、醜い姿。
生まれる、何か。
「――――!」
声にならない声を上げ、それが取り乱した。
その様子を見届け、アテナが姿を消した。
紅い目玉、多足、醜いからだ。
変身物語、ギリシャの蜘蛛女、否、女だった蜘蛛。
アラクネの物語。
異例。
異例中の異例。
オンリーワン近畿支部の情報部に、緊張と怒号と罵声が行き交い、飛び交う。
「状況は!」
「川北店、似津真天五、牛鬼が七! 北駒台店、土蜘蛛四十三! 大百足が四国エリアから近畿エリアへ近づいています!」
「浅沼勤務外死亡! 手塚勤務外重傷、伊瀬店、戦力がもう無いです! 増援を!」
「だああ! どうしろってんだよ!」
同時に、しかも群れを成してソレが活動する。
今まででは有り得ないケース。
示し合わせたかのように、全国各地にソレが現れた。
情報部の片隅、サンダルを履いている少年がモニターを見つめる。
「旅さん、どう思いますか?」
眼鏡を掛けた知的な女性が、その少年に声を掛けた。
どう見ても、女性の方が年上だったが、少年に敬語を使っている。
「今までの奴らとは違うね。今回、群れを作ってあいつ等は襲ってきた。となると、中心がいるはずなんだ、群れを束ねるリーダーがさ。だってそうだろ? 賢い奴がいなきゃ、集団を作るなんて事、基本頭の悪い奴らが出来るはずないからね。つまりさ」
旅と呼ばれた少年が一旦言葉を区切った。自分よりも背の高い女性の反応を確かめるように、顔を上げる。
「つまり?」
「その賢いのが遂に出てきたんだよ。うん? って言うかやっと、ね。マズイね、下手したら神話級の怪物とか出てきちゃったんじゃないの? 嫌だよ僕は。あいつらしんどいんだからさあ」
「……一つ、面白い話が有りますよ?」
女性がくい、と眼鏡の位置を直した。その仕草は、中々様になっている。
「本当だろうね?」
「駒台の土蜘蛛についてですが、どうやら梟さんが絡んでいるようですね。部下がついさっき教えてくれました」
「アテナが? で、土蜘蛛。蜘蛛でしょ? えー、そんなのないよー。あの人負けず嫌いって言うか、何と言うか、性格悪いって言うか。とにかく厄介事を持ち込みすぎなんだよね!」
少年がぷんすか(この表現が似合うので)怒りながら、文句をぶつぶつ言い出した。
「おらァ!」
三森の右ストレートが、蜘蛛の足にめり込む。
だが蜘蛛はダメージを意に介さず、三森の拳がめり込んだままの足を乱暴に振り払った。
「くそっ」
三森の体が浮いた。浮かされた。
蜘蛛は三森がくっ付いている足を、地面に叩き付ける。
「痛ェ!」
三森はダメージを受けたが、その衝撃で、三森の右手が蜘蛛から抜けた。
今度は蜘蛛が攻撃を仕掛ける。八本のうち、二本を巧みに使い、三森を追い詰めていく。
三森は避け、払い、受け止めて攻撃をやり過ごしていくが、とても反撃は出来なかった。
出来ないのだ。
蜘蛛の攻撃が早すぎる。避ければ、攻撃され、払っては第二撃が、受け止めれば次の足が。
それでいて、散漫な攻撃。時間を潰しているような、暇を三森で弄んでいるような適当なコンビネーション。
――私を誰だと思ってやがるっ!
三森の右手が赤く燃え上がる。
蜘蛛の足を掴むと、瞬時に右手の温度を上げた。焦げ臭い匂いが辺りに漂う。やがて、三森の手の中で、蜘蛛の足が爆発した。
「どうだよ!?」
鬼の首でも取ったように、嬉しそうに三森が叫んだ。
八本のうちの一本。
蜘蛛は失った足も、足を奪い取った三森にも視線を遣る事は無く、只管に一を見ていた。数ある目玉の内、一つとして一以外を見る事は無く。
「ねえ、あいつさっきから私たちを見てない? 気持ち悪いんだけど」
糸原が蜘蛛を見ないように言った。
「そうですか? それより、今のうちに俺たちは店に戻りません? 店長に言って、他の社員に来てもらった方が良さそうですよ」
一が気にせず、そんな事を言う。
「ふうん、三森さんは良いんだ?」
「でも、俺たちにはもうどうしようも無いですよ。なら助けを呼びに行った方が良いと思います」
「……あんたがそう言うんなら、別に良いけどね」
糸原が立ち上がる。
「お?」
一たちの耳に駆動音、エンジン音が聞こえてきた。
「なあんだ、迎えが先に来たじゃない。ラッキー、歩かなくて済んだ」
こちらに走ってくる黒いワゴン車を見ながら糸原が呟く。
車が道路の真ん中で乱暴に止まった。
ドアを開けて出てきたのは、眼鏡を掛けた優男。オンリーワン近畿支部社員、北駒台店スーパーバイザー、堀。
「車に乗って下さい!」
「はいはい、言われなくてもそうするわよ」
「堀さん! 三森さんが!」
三者三様、見事にバラバラと言うか。会話が成り立っていなかった。
「とにかく一君、糸原さん車に乗って! 三森さんも一旦戻しますから!」
「何か様子がおかしいわね」
不思議に思いつつも、一と糸原が車の後部座席に乗り込む。
だらり、と糸原が体を伸ばし、傷口に手を当てた。
「……大丈夫ですか?」
「ん? んー、駄目かも、痛いし痛いし痛い。あんたこそどうなのよ?」
「俺は別に大丈夫ですよ。怪我は無いけど、疲れました……」
ふう、と糸原が息を吐いた。
「でも。何か、生きてるって感じがするわ……」
「……そうですね。けどもう、後は社員に任せて、家に帰って寝たいです」
外からは、堀と三森の声が聞こえてくる。
三森は無性に怒っている様子だったが、少しずつ声は大きくなり、近づいてきた。
バン、とドアが乱暴に開け放たれる。
「邪魔すンじゃねェよ!」
悪態を吐きながら、三森が助手席に乗り込んだ。
少し遅れて、運転席に堀が座る。
「皆さん、とりあえずはお疲れ様です。本当に、一人も犠牲にならず、良くやってくれました」
と、堀が労いの言葉を三名へ掛けた。
「ホントよ、ホント。私なんて勤務外の仕事今日が初めてなんだから! さっさと病院に連れてってよね。あー、骨折れてるわ絶対。こういうのって、店から何か出んの? 慰謝料とか、保険とかさ?」
「うるせェ女だな」
「何よ!」
「ちょっと車ん中で喧嘩しないで下さいよ」
一が二人の仲裁に入る。
「大体だな! 何でお前がここにいンだよ!」
「あ、それは、その……」
「ハッキリ言いやがれ!」
「皆さん、私の話を聞いてください」
「声がでかいのよヤンキー。ホント何で頭悪い奴らは声がでかいの? 馬鹿だから声のでかさで威嚇とかしてるわけ? 生きてるだけで迷惑よね、ねえ、一?」
「ンだと!? てめえ私が来なきゃ死んでたンだぞ! 礼の一つでも言ったらどうだ!」
「あはは、アリガト。超助かった、ついでに車降りてくれない? そしたらもっと助かるんだけど」
「てめェ!」
「止めて下さいってば!」
「皆さん」
透き通った、落ち着いた声。
一たちは、車内の温度が下がった、ような気がした。
声の発生源は、眼鏡を光らせてにこやかに笑っている。蛇に睨まれた蛙に、一たちは成り果てた。あの三森ですら、額に冷や汗を浮かべ、顔を引き攣らせている。
「話、聞いてくれますか?」
声も出せずに、三人は頷くしか出来なかった。それでは、と堀が車を、蜘蛛とは逆方向に発進させた。
「おいおい、どこに行くンだよ?」
「まずはソレから距離を取ります」
堀の言葉に、糸原が眉をひそめる。
「どういう事? このまま家まで送ってくれるんじゃないの?」
「いやあ、そうもいかないんですよ。そもそも。あいつを倒さなければ帰る家も無くなりますよ」
「高が土蜘蛛一匹、あのまま私がやってただろうが」
三森が不満げに口走った。
「土蜘蛛なら、ですがね。群れを作っていたから分かりませんでしたが、あれは違うんですよ」
「土蜘蛛とは違う?」
一が堀に尋ねる。
「ええ。あれはアラクネと呼ばれるソレです。ギリシャ神話の、まあ、悲劇のヒロインと言った所でしょうか」
「足が八本もあって、口から糸を吐くヒロインなんて聞いた事無いわよ」
聞きたくも無いけど、と糸原が自分の言葉に付け足した。
「マジかよ……」
と、三森が下らなさそうに呟く。
「今日が勤務外初日のお二人には、分かり難いかもしれませんが、名前付きは厄介何ですよ。とにかくその強さは日本の妖怪とは比べ物になりません。何と言っても神話に出てくるモノですからね」
「道理で」
一がひとりごちた。
思い返せば、あの大きい蜘蛛だけは他の土蜘蛛と違って手強い印象を受ける。
「ワケ分かんない。じゃあ何でそんな奴をさ、私らがどうにかしないといけないのよ? もっと強い奴連れてくれば良いじゃない」
「……この話はあまりしたくなかったんですが、各地でソレが出現したんですよ。しかも殆どのソレが群れを作って、です」
堀が気まずそうに話した。
「各地って、具体的に範囲は?」
「世界各地です」
堀の言葉に一と糸原が固まる。
ちっ、と舌打ちして、
「やられたな。上手い事ウチの戦力を分散させられたって訳かよ。で、どうすンだよ、堀さん?」
三森が堀へと疑問を投げかけた。
「とにかく我々に出来る事をするしかないでしょう。具体的には、アラクネを倒す事になりますね。それでは、今から作戦を説明します」
「作戦ですって? ちょっと、私たちは正義の味方でも何でもないのよ。ただのバイト、しかもコンビニの! 今の話聞いて、あいつに喧嘩ふっかけるなんて嫌よ私っ」
「なら黙ってろ。お前の声は耳障りなンだよ」
「ちょっとちょっと、もしかしてヤンキー、あんたまだあの蜘蛛とやり合う気なの?」
当たり前だろ、と三森がさも当たり前に言った。
「……一君は? どうしますか、勿論私は、これ以上の戦闘を君に無理強いさせる気はありません。店まで戻ると言うのなら戻りますよ」
ああ、帰れるんだ。
堀の優しそうな言葉が、一の胸を打った。
――そうだよな、俺ってド素人だし、そもそも怖いし疲れたし。今日は家に帰って寝たいし。
糸原が一の顔を覗き込む。
三森がミラー越しに一を見ている。
――けど。
「俺もやります」
ハッキリと、一が言った。
一がちら、と三森を盗み見る。表情こそハッキリとしていなかったが、一の目には、三森が笑っているように見えた。
「ありがとう、一君」
堀がにっこりと、優しく笑う。
「……っ! 馬鹿! バァカ! 何考えてんのよ! あんたが行ってもすぐに殺されるのがオチよ、絶対危険よ危ないわ!」
糸原が声を荒げ、一へ掴みかかる勢いでそんな事を言った。
「で、でも俺は……」
「駄目よ! 私と一緒に店まで戻るのよ、んで後は全部他の奴に任せたら良いじゃない! 漫画の主人公みたいな事言ってんじゃないわよっ」
今度は本当に糸原が一の襟元を掴む。背の高い糸原が一の襟元を掴んでいるその光景は、いつかのカツアゲのようだった。非常事態に、非常にシュールな絵面だった。
「俺だって、本当は嫌です。怖いです。帰って、全部忘れて寝たいです。でも、でも、俺たちが逃げても、もう何も変わらないんですよ……。今まではずっと、ソレの事なんて関係ないって思ってました。誰かがやってくれるだろうって、何とかしてくれるだろうって……。けど、違うんですよ。もう駄目なんですよ。こんな所まで来ちゃったんですよ、俺は……。もう戻りたくても戻れないんです、このまま三森さんや堀さんに後を任せて尻尾巻いて逃げても、ソレは、確かに居るんですよ? この街に、俺たちが住んでる駒台に居るんです。誰かがやらない限り……。だから、俺は、俺は……!」
半泣きで、一が自分の思いの丈を訴える。
「馬鹿」
糸原が一の頭を引っ叩いた。
意味が分からず、一が糸原を見る。
「……私だって、そういう事は分かってるつもりよ」
もう一度、糸原が一の頭を引っ叩く。
「私の目の前で死んだら駄目だかんね」
「……一緒に来てくれるんですか?」
どかり、と糸原が座席に踏ん反り返った。
「良いわよ、行ってやろうじゃない。さあ、さっさと作戦とやらを説明しなさいよ」
笑いを堪えきれず、堀が高らかに、声に出して笑う。
「良いですね、良いですよ。やっぱこういうのも戦場には必要ですね。どう思います? 三森さんは」
「うっさいな」
ぶっきら棒に三森が返した。
「さて、説明する前に、まずはお二人にこれをお返しします」
そう言って、堀が汚れたビニール傘と、血に塗れた糸を片手で取り出す。紛れも無く、一のアイギスと糸原のレージングだった。
「必要になりますからね。拾っておきました」
二人はお礼を言う。
一が雑にアイギスを掴んでいるのに対し、糸原は大事そうに両手で糸を抱えていた。
「おい」
「……」
「……」
「……」
三森が舌打ちする。
「おいって言ってンだろ!」
とは言っても、名前も呼ばずに誰が誰を呼んでいるか等、そんなチームワークはこの四人にはまだ存在していなかった。
苛苛した様子で、三森が振り向き、後部座席へ身を乗り出した。
「お前だよ」
と、一の頭を拳骨でどつく。声を出さずに、一が頭を抱える。
「あ、ヤベ。手加減してねェわ」
「ちょっと何してんのよ!」
「うるせえ、お前だってこいつの頭叩いてたじゃねェか」
「私のは愛情表現よ!」
糸原が面倒な事を喚きつつ、一の胴体にパンチを入れた。
「とにかくだな。何でお前が勤務外になってンだよ?」
「……帰ったら説明します」
「……あンな、私らはいつ死んでもおかしくない立場にいるンだよ。そういう事は話せる内に話しとけ。後悔する暇なンかねえぞ、私らには」
それでも、と一が顔を上げないまま、
「帰ったら、ちゃんと説明します。必ず三森さんと話します。その、色々と」
きっぱりと言った。
「そうかよ」
三森はそれ以上何も言えずに、再び座席へ戻った。
「いやあ、楽しいですね」
「何がですか」
「あっはっは。楽しくなりそうですよ。それじゃ、そろそろ真面目にいきましょうか」
堀がハンドルを握りながら、愉快そうに笑う。
「どうでもいいけど、さっきのあんた死亡フラグ立ちまくりよね」
「うえぇっ?」
正しく糸原の言う通りだった。