少し黙ってろ
走るのに刀が邪魔だった。捨ててしまおうかとも思ったが、武器もないままに追いついたとして、それでは意味がないのだと気付く。こんな単純な事にも、よく考えなければ気付けない。疲れているんだな、と、立花は自らを慰めた。立ち止まってしまおうとも思った。
だが、
「……これって」
剣戟の音が聞こえてくる。刀と剣がぶつかり、火花を散らしている。立花の足は自然と、独りでに動き始めていた。
近づくにつれ、戦っている者の輪郭がはっきりとしてくる。……和装の女と、髪の長い男だ。その二人が、得物の切っ先を向け合い、対峙していた。
「………………お母さん?」
マルスとの闘いに臨む前、立花は新に、母親に連絡をしていたのである。自分は、今日死ぬのかもしれないと、そう言ったのを思い出した。
立花の瞳から涙が零れ、頬を伝い、落ちる。新が自分を心配してくれている事を思い、感極まったのだ。彼女は敵の存在を忘れて、母の元へと走り出す。
「お母さんっ、お母さん! ボクっ、ボクだよ! ボクはここにっ」
その声に、新が目を見開いた。彼女は立花の存在を認め、
「戦場でっ、そのように笑う者がおりますかっ!? 恥を知りなさい、恥を!」
「ひっ!? え、えっ?」
一喝した。
「……あー? あんた、子連れでこんなとこに来てんのかよ? 正気?」
フーガはげらげらと笑う。新は彼をつまらなさそうに見遣り、狼狽する立花をねめつけた。
「真、話は後です。連ねでいきます。分かっていますね?」
「う、うん! じゃなくて、はいっ」
何が何だか分からないまま、立花は得物を構える。前後を挟まれたフーガは半身になり、立花と新へ視線を遣った。
フーガは新を見遣る。……彼女の剣力は、酷く恐ろしかった。鬼や魔を斬り続けたとしても、ここまでの力は得られまい。刀を扱うだけなら、立花新という女の横に並ぶ者はいないだろうと思われた。
「連ねを!」
「うん!」
だから、フーガは立花真ではなく、新を警戒する。二人同時に仕掛けてきたとしても、立花ならばどうにかなるだろうと判断したのだ。
立花が、新が、同じ速度で、同じ呼吸で地を蹴り、刀を閃かせる。
「……きやがれ――――なっ!?」
瞬間、フーガの視界から二人の姿が掻き消えた。彼は焦るが、咄嗟に上方を見遣る。
「さん」新は、フーガから逃れるようにして高く跳躍していたのだ。彼女は、フーガの首元を狙って短刀を振り下ろしている。
「うざってえ!」
「のう」立花は、フーガから逃れるようにして身を低くし、疾駆していた。彼女は、フーガの足元を狙って雷切を払っている。
――――連ね。
「があっ!」
「って、おい、どっちを……」
さん、のう、があの掛け声と共に放たれた二対の白刃は、フーガの両足を切り払い、彼の首を薙ぎ、捨てた。
フーガは一つ、見誤っていたのである。彼の読み通り、新の剣力は常人を遥かに超えたものであった。しかし、立花のそれも、人の域を超えるものだったのである。
新の言う連ねとは、『立花』を名乗る者、あるいは『立花』に比肩し得る者が二人いて初めて成り立ち、繰り出せる連係を指していた。新の放った『連ねの天』は上方に跳躍し、敵の視界から消え、首を薙ぐ。立花の放った『連ねの地』は姿勢を極端に低くし、敵の視界から逃れ、両足を切り払う。天と地を繰り出す両者が、同じ速度、同じタイミングで技を仕掛ける事で標的の判断を鈍らせ、仮にどちらかが切り伏せられたとしても、その後の戦闘を有利にする為の、
「ひっ、酷い! 酷いやっ」
「……やかましいですよ真。それよりも、先の振る舞いは何ですか?」
捨て身の技であった。つまるところ、連ねというのは、どちらかが死んでも構わないという前提で使われるのだ。
「ボクが狙われてたらどうしてたの!?」
新は短刀を血振りし、溜め息を吐く。
「あのような輩の剣が、あなたに届くとは思えませんでした。第一、狙われるのなら私です。首か足か、失うのなら足の方がマシでしょうに。……これでも気を遣ったのですし、あなたという者を信用していたのです。私は」
「ホントに?」
「ええ。それより……」
立花は小首を傾げた。新が言いにくそうにして、口を開きかけたのである。
「……真、怪我はありませんか?」
「すり傷とか、かすり傷ならいっぱいあるけど……」
「よかった」
「お母さん、何か言った?」
いいえと首を振り、新はフーガの死体を見遣った。
「さて、マルスさんの実力とはどれほどのものでしょうか。……もしかして、先の男性が? それにしては、思っていたよりも……ですが、アレは人の身では……」
「あっ、そうだ。そうだよっ、早くはじめ君を追いかけないと!」
「では参りましょう。……しかしその前に、先ほどの行為は『立花』としてあるまじき……」
「そんな場合じゃないよ!?」
「ぎゃっはっはっはあ!」
一の体が吹き飛ぶ。シルフは持ち堪えようとするが、その甲斐も虚しく、一はアスファルトにこすり付けられながら転がっていく。
「おいニンゲンっ、なあにをやってんのさ!?」
「痛い……痛いぃぃぃ」
涙を服の袖で拭い、一が立ち上がった。マルスは椅子の足を彼に向け、げらげらと笑う。
『おい、一』
一は舌打ちした。スピーカー越しの店長の声が癇に障ったのだ。
『ついさっきな、糸原たちがマルスの仲間をさくっと仕留めたそうだ。ついでに、立花親子もマルスの仲間をざっくり殺したそうだぞ』
「……あ?」
マルスの顔つきが変わる。店長は彼を見て、口元に笑みを湛えた。
『つまりだ、そこのマルス君には、もう誰も、誰一人として、仲間なんてものはこの世からっ、跡形もなく消えたって話だ! はっ、これは愉快だぞ。とても分かりやすい。どういう意味か、分かっているな?』
一は生唾を飲み下す。マルスの仲間は、もういない。全て息絶えた。ならば、自分の敵は一人だ。やる事は、一つだ。
「クソババアが! オレ様の動揺誘ってるつもりかよ!?」
『私は一銭の得にもならん事はしない。マルス君、お前如きに小技を使う必要など、ない。私はただ事実を述べただけだ。まあ、動揺するのなら勝手にしてくれ。私は知らん。お前なんかどっちでもいいし、どうでもいい』
「殺してやる! てめえだきゃあ、必ずだ!」
『はっはっは、あまり強そうな言葉を使うな。弱く見えるぞマルス君』
一は息を吐き出した。呼吸を整え、握力の回復を待つ。……マルスは激昂している。しかも、自分に対してではなく、店長に対して怒っているのだ。
「好き放題言いやがってクソババアが」
『一、聞こえてるぞー』
マルスは椅子の足で地面を殴り、そこを破壊する。散らばる破片が店長のすぐ横を掠めていったが、彼女は身動ぎ一つ、瞬き一つしなかった。
「人間如きがよう、オレ様たちにっ、偉そうにしてんじゃねえ! てめえらはただなあ! ここでくたばってりゃいいんだ! 大人しくぶっ殺されときゃあいいんだよ!」
「あら、まるで自分が人に劣っていないんだぞ、とでも聞こえるわ」
聞こえた声が、一たちの注意をひきつける。声の主に気付いた店長は嫌そうに舌打ちし、一は瞠目し、マルスは、酷くうろたえていた。
真白い羽を広げ、丸い目をぎょろりと向ける。首をくるくると回転させ、それは――――梟は、人間のように、嫌らしい笑みを浮かべていた。梟の傍には少女がおり、彼女の格好は薄茶色のフードだけというみすぼらしいものであった。
「お久しぶりね、人間。それと、私の可愛い勇者」
言って、梟は一に目を向ける。彼は答えず、ただ、彼女を見据えた。
「……頃合いだと思っていたところだ。なあ、女神」
「おーおー、穏やかじゃねえなあ」
「北さんまで。どうして、今頃……」
一は北を睨むようにして見つめる。北はにやりとした笑みを浮かべ、煙草を口に銜えた。
「悪かったな。まあ、今回に限っちゃ俺が出張る必要はねえさ。何せ相手は」
北の視線はマルスを捉える。マルスは、先程から女神を睨みつけたままだった。
「ふ、ふふっ、そうね。中途半端に神が出しゃばっても仕方ないわ。あなたも、そう思うでしょう? ええと、あなた、今はマルスとか名乗っているんでしたっけ?」
「……クソアマが」
殺意をぶつけられても、女神は、アテナは怯まない。彼女は心底から楽しそうに笑うのみだ。
「説明してくださいよ、北さん。これは、どういう事なんですか?」
「俺か? いや、まあ、その、なんだ。俺が言ってもいいんだがよ、俺は、坊主を怒らせるつもりはないんだぜ?」
「……いいわ。私から話すから。さて、勇者さん? 私たちがこの場に来たのは、そこのマルスと戦うって訳ではないの。ペルセウスを連れて来たのは、私の護衛という意味合いが強いわ」
一は露骨に嫌な顔を作り、アテナを見据える。
マルスは仕掛けるタイミングを窺っているのか、口を開く事すらなかった。
「俺は勇者なんかじゃない。あなたが、それを一番分かっているはずじゃあないですか」
「それでも、私にとってあなたは勇者だもの。それより、もう分かっているわね。そこの男が、本当のマルスではないという事を」
一は頷き、続きを促した。
「ローマ神話の軍神が、そこの男のような愚劣極まりない真似をするはずないもの。彼は、真に高潔よ。ねえ、マルス?」
マルスは――――マルスと名乗っていた男は黙したまま、鋭い目つきを保っている。
「……私はね、この戦いを見届けに来たの。あなたにアイギスを与えた、その意味を確かめに来たの。そうね、その手伝いをしに来た、というのはどうかしら?」
「回りくどいな。要点を話せばいいだろう」
店長に急かされ、アテナは不服そうに息を漏らした。
「勇者……ああ、いいえ、一。あなたになら、もう分かっているのかも。そこの男と私は、ちょっとした知り合いなの。そう、出会えば殺し合いに発展しちゃうくらいの、ちょっとした」
一は長い息を吐き出す。気持ちの整理が必要だった。……彼には、今回の戦いの原因に近いものが分かりかけていたのだ。
「くだらねえ……!」
吐き捨てるように言って、一はマルスと、アテナをねめつける。
……くだらない。あまりにも、茶番が過ぎる。自分は、自分たちは女神の掌の上で踊り続ける道化でしかない。アイギスをその身に宿した時から、始まっていたのだ。
「……そうか。あの時の土蜘蛛、いや、アラクネを差し向けたのは」
店長もまた、一と同じように何かに気づく。彼女は忌々しげにアテナを見据えつけた。
「ええ、そこの男よ。私を殺そうとしたのね。尤も、実際に差し向けたのは別の『円卓』のメンバーよ。一、あなたも会っているはずだけど」
一の脳裏を過ったのは、緑色の髪をした女だった。アラクネが現れる時に出会い、カトブレパスとの戦闘時に殺しかけた女だ。
「そう、か。アレも『円卓』の」
「私は、ずっとこいつに追われていたの。でも、やっと出会えた。アイギスを渡しても問題のない人間とね。それがあなただったの、一」
「俺が……?」
羽を広げて、アテナは大声を上げた。
「勘違いしないで欲しいのは、一、あなたには何一つとして特別なモノが宿っていないという事よ。ただ、あなたはあの時、あの場で、あの瞬間、私の傍にいた。それだけなの。アイギスを使うには、資格も、条件も必要ないのよ。この私が、力を貸し与えるだけなのだから!」
アテナは続ける。
「でも、あなたには資質があった。この男を、マルスを殺してくれるという一点においてのみ、確信があったの。ああ、彼なら、絶対に、やってくれるのだと。……あなた、以前からこの男を知っていたわね?」
「…………え?」
一の呼吸が、少しの間だけ止まった。
「私の勇者は、私の探していた者は、私の障害となるモノを必ず殺してくれる人間よ。一、あなたは、その条件を満たしていたの」
「何を、言ってんだ……? 俺は、マルスなんて奴は知らない。殺すも何も」
初めて、出会ったのだ。間違いなく、今、ここで。一はうろたえ、彼の声は震える。
「少なくとも、私と出会うより前に、あなたは、そこの男を知っていた。接点があったの。それに、あなた、どこか空っぽだったわ。……アイギスにはメドゥーサが宿っているの。もう、知ってると思うし、彼女に会ってると思うのだけれど」
店長も、北も、口を挟む事は出来なかった。
「アイギスは物質ではない。概念よ。それを理解し、自身に根付かせるには、ある程度の……そうね、容量が必要なのよ。頭の中身が空ならいいのだけど、馬鹿には渡せない。私は、頭のいい人間が好きなの。だから、きっとあなたには何もないのね。記憶や、記録が。忘れてるの? それとも……」
「何なんだよっ、そんなの!? 俺が、俺が何だって言うんだ!? まるで、まるで俺が……」
言いかけて、一は硬直する。
「……まあ、よしとしましょうか。本題は、この男が何者なのか、ですもの。ねえ?」
「あー、そーだな」
アロハシャツの男は乾いた笑い声を漏らし、空を仰いだ。
「ここまで来たんなら、いーや、てめえがオレ様の前まで来たんならもう関係なんかねえよ。わざわざそのムカつく面ァ見せたんだ。ここでケリつけようって事なんだろ?」
「ええ、そうよ。私の勇者は、あなたと渡り合えるほどに成長したわ。もう充分、これなら勝てる。今なら殺せる。長かった鬼ごっこも終わりよ」
「覚悟決めてろ。処女の神様よォ、初めては痛いって言うけどな、そんなんじゃあすまさねえ。死ぬほど、死んだ方がマシってほどに痛めつけてやらあ」
「名を隠し、名を被り、名を騙る。あなたのような卑怯者に捧げるものなんて、何一つとして持っていないの。ねえ、アレス?」
店長はつまらなさそうに煙草を吹かした。……マルスではなく、アレス。今まで敵対していたモノの正体が明らかになったのだが、もはや、些事でしかない。
一は歯噛みする。彼は、アテナによって自らの存在を否定されたようなものなのだ。空だと、そう言われたのである。そして、アイギスを与えられた理由を、今になって思い出したのだ。
「じゃあ、何か? 俺たちは、あんたらに巻き込まれたようなもんじゃねえか。……俺は、こいつを殺す為だけに……」
アテナは首を傾げ、首を回した。
「何を言ってるの? ただの人間が、神と関われたのよ、光栄だと、そう思うのが普通でしょう」
まるで、いや、正しく、今の自分は道化で、操り人形だった。一は吐き気を堪えつつ、蹲るのを堪えている。
「今までやってきた事全部が、あんたの為だった。そんな話があるかよ……! なんだよ、それ。ふざけんなよ、あんたがこの街に来なけりゃ、アレスがここに来る事もなかったんじゃねえのかよ!」
「それはどうでしょうね。第一、こいつが来なくても、他の怪物は現れていたはずよ。その時、あなたはアイギスを使い、メドゥーサに頼ったはずよ?」
使った。
頼った。
しかし肯定は出来ない。否定する材料が見当たらない。一は自身の存在を確かめられず、堪えられず、胃の中のものを戻した。嗚咽し、吐き続ける。
「……もう、やめろ」
店長が目を逸らし、目を瞑る。アテナは嬉しそうに口を開いた。
「さあ、勇者、アレスと戦いなさい。殺しなさい。あなたは、その為にアイギスを与えられた。それだけの為に、今日まで生きてきたの!」
「やめろ……! 違う、こいつは、一は、そんなものの為に、お前のようなモノの為に生きてきたんじゃない!」
「何よ。違わないわ。私のお陰で、ここまで来れたのよ?」
「黙れっ、何が女神だ。何が神だ。お前らは、人の世界にそんなものを持ち込むなっ。ここは、私たちの生きる場所だ! それを無理矢理に冒そうとするなら、最初から来なければよかったんだろうが! オリンポスの山に引きこもっていればいい。私たちは、お前らに一切の興味なんかないんだ。勝手に、人の知らない場所で野垂れ死ねばいい!」
「……言うじゃない、あなた。私に、このアテナにそこまでの口を利くのね」
一一という輪郭が、ぼんやりとしている。一は己の吐瀉物を見つめながら、荒い息を吐いていた。
女神アテナから、神盾アイギスを借り受けた。確かに、その力を使い、今まで生き延びてきた。その事実が曲がり、変わる事はない。自分は、言わばアテナにより生かされてきたのである。……だから、彼女に従うのは当然だと、そう思うようになり始めていた。
アレスを殺すのが、自分の役目で、全てなのかもしれない。空っぽだと言われた自分には、お似合いじゃないか。アレスを殺す理由はない。ただ、女神に従えばいい。
「はっ、そうだよな……」
自嘲気味に笑うと、喉に何かが引っかかり、むせる。えずき、咳き込む。もはや、気力は失せていた。立ち上がる事すら選びたくなかったのである。どうせなら、このまま、大人しく殺された方がマシだとすら思えた。
『本当に、そう?』
店長が怒鳴っている。感情的な彼女は珍しく、一は、何故だか少しだけ嬉しくなっていた。
『あいつに、従うの?』
一は目を瞑り、ゆっくりと呼吸をし始める。息を吸い込みながら、己という存在を確かめる。
「……くだらねえ」
アテナは女神だ。
アイギスは神具だ。
アレスは、ただのソレだ。
「くだらねえ……!」
誰の思惑も、恣意も、目論見も、自分には関係ない。俺は俺だと、一一は、自らに言い聞かせる。今日、ここでアレスと戦うのは、アテナの為ではない。迷う事はなかった。アイギスを使うのは、この街で、明日を生きる為なのだ。
「……シルフ、生きてるよな?」
「シルフ様、さっきからマジの空気になってたぞ。まあ、なんか難しいからわかんないけどさ、オマエはオマエだよ。シルフ様は、オマエがオマエだから手を貸してるんだ。あんな鳥の言う事なんかほっとけばいいのさ」
優しげな笑みを浮かべたシルフは、一の体をぎゅっと抱き締める。
「よし、行こうぜ、メドゥーサ」
『……誰を、止めればいい?』
一は、緩々とした動作で立ち上がる。動いた彼を見て、北が口の端をつり上げた。
「やっちまえ」と、英雄が背を押した。
白い梟が、一の視界に入る。
「その人に、触るんじゃねえよ」
「……一? お前、平気なのか?」
ああ、と、一は声を漏らした。自分は、空ではない。女神が言っていたように、たとえ脳に何も入っていなかったとしても、構わなかった。何故なら、今の自分には寄り添ってくれる者がいる。肩を並べてくれる者が、心配そうに見つめてくれる者がいる。だから、今はこれでいい。これだけでいい。
「あら、もう吐き気は治まったの?」
アテナが言った。一は答えなかった。
「……店長。たまにそんな風にしてくれるから、あなたはずるいんですよ」
「平気なんだな?」
「許可を。許してください。俺はもう……」
道化でも、操り人形でもない。今の自分には意思がある。一時は女神の気にあてられて自身を見失ったが、もう、その心配はなかった。
「へえー、んじゃま、オレ様とやろうぜ。てめえをぶっ殺した後で、そこの鳥をぐちゃぐちゃにすっからよォ。そんでもって最後はそこのババアだ。皆殺しだ。公平に、平等になあ」
アレスが笑む。一もつられて笑っていた。彼のようなモノが、一番やりやすかったのである。なにも考えず、戦うだけで済むのだから。
「分かった」と、店長は言い切った。
「一、構うな。全ての責任は私が取る。お前は、お前のやりたいようにやればいい。…………最初から、こう言ってやれれば良かった。駄目だな、私は」
「……実は優しいですよね、店長って」
「うるさいな、お前は」
「じゃ、行きます」
「うん、いってらっしゃい」
一はすぐそこにいる店長に背を向けて、北を、アレスを、そして、アテナを見据えた。
「あんたには感謝してる。でも、それとこれとは話が別だって時もあるんだ」
「何を言って……あなた、まさか」
アテナの顔が強張る。
「もう、俺の邪魔をするな。『そこで止まってろ、アテナ』」
メドゥーサの能力は、いかに女神が相手とは言え通用するのだ。力を失い、本来の姿を保てない彼女では、蛇姫の眼に耐えられない。
「……な、ど、し、て……」
「へえ、喋れんのか? すげえな、流石神様だ」
皮肉を込めて、一は楽しそうに言った。
滅多に見られるようなものではないと、北が噴き出し、アレスも腹を抱えた。
アレスは、一という人間をアテナのおもちゃだとしか認識していなかった。だが、やはり人間というのは何をしでかすか分からないものである。だからこそ面白いと、彼は満足げに頷いた。
「よーーーーう、人間。オレ様、どうやら丸裸みてえだなあ」
手駒をなくし、仲間を失い、家族を奪われた。名を暴かれ、残ったものは体一つだ。
「けどな、てめえは殺す。アテナも殺す。ついでにそこの、アテナの駒も殺して、ババアも殺す。そこんとこに変わりはねえ」
面白いもんは見させてもらったけどな。そう言って、アレスは、やはり、折れた椅子の足を構える。
「仕切り直しだ。……あんたが退けば、それで済むんだけどな」
「ぎっ、はっはっ! 舐めんなやクソが。てめえらがムカつくって事に変わりねえって言ったよな!?」
一もアイギスを広げて、戦いへの意思を表示する。
羨ましいと、アレスは思った。自分には、アレがない。力がないのだ。
「てめえのそれは知ってるぜ。何度も見てきたからな。何でも防ぐ、ズリい盾だ」
だが、と、アレスは口元を歪める。
「オレ様にもな、何でもぶっ壊せてぶっ殺せる、力ってのがあんのよ」
「その、折れた椅子がか?」
「まあな」
アレスは背に手を当てる。矢傷が、先刻からしくしくと疼いていたのだ。……彼には、ベローナのような頑丈な肉体は備わっていない。ティモールやフーガのように武器を扱えない。それでも、アレスには執念だけがあった。
「こうやってタイマンでよ、真剣勝負ってのは、なんか痒いんだよなあ。だけどまあ、たまにはいいって思えるよなあ!」
一は呻いた。シルフはアレスの動きに反応出来なかった。人間と神では、根本的な部分で差が現れる。
アイギスに椅子の足が衝突し、一は押し切られた。彼はたたらを踏み、転倒を避けようとして足に力を込める。だが、アレスは追撃し、再びアイギスを殴りつけた。
「野郎……!」
「ぶっ壊してやらあっ」
アレスは一ではなく、アイギスを狙っている。彼ではなく、アテナを見続けている。
「啖呵切ったんだ! 喧嘩はこっからだよなあ!?」
「吠えてんじゃねえぞ人間がよォ!」
アレスの猛攻は凄まじく、これまでの比ではない。一は、もはや地を舐めるような体勢で彼の攻撃を凌いでいる。
「シルフゥ――――!」
「神が何さっ、オマエは!」
風が爆発し、アレスは後方へと退く。一はその隙に中空へと逃れ、呼吸を整えた。
「オマエは、ニンゲンってのをバカにし過ぎてる」
「……精霊ごときがオレ様に意見する気かよ?」
「地べた這いずってばっかで、見えないものが多過ぎるんだ、オマエは。ヒトの世界は変わったぞ。もう、オマエらがいた時みたいにはいかないんだ。シルフ様たちみたいなのはっ、こいつらと一緒に生きてくか、それを諦めてどこかに隠れるしかないんだ」
一はシルフの言葉を受け、彼女にも考えがあったのだと知る。
「もういっこあるぜ? そいつはなあ、ニンゲン様とやらと、死ぬまでぶっ殺し合うってもんだ! どっちかしか生きてけねーなら、てめえらが諦めやがれ!」
「……オマエは、ここで死んだ方がいいと思う。そうしなきゃ……」
「オレ様がこんなとこでくたばるかよ! 降りろっ、そこから潔くなあ!」
アレスが小石を投擲する。一は咄嗟にアイギスで受け止め、腕に痺れが走った事に驚愕した。
「何から何まで平行線っつーか、真逆なんだな」
「オレ様が殺すっ、てめえらを!」
「ここまで来たんだ、てめえなんかにやられてたまるかよ!」