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「あのボケ娘、行きやがったわね」
糸原は舌打ちし、立花の背に向けて中指を立てようとした。
「おやめ下さい。我々の品位が疑われてしまいます」
「ちょっとよそ見ストップ! また来るっ!」
ジェーンが銃を構える。ベローナは地を蹴り、一気に間を詰めた。
ベローナは極端だった。
行くか、行かないか。
詰めるか、詰めないか。
一か零しかない戦い方である。それでも糸原たちは彼女を止められない。疲労が判断を鈍らせ、ダメージの残っているジェーンを庇う為、満足な攻撃に転ずる事が出来なかったのだ。彼女らは距離を取りつつ、牽制を続け、ベローナから逃げるしか出来ないでいる。
「……っ、このっ」
ジェーンは悔しそうに顔をしかめて、トリッガーを引いた。弾丸は空を切り、地を穿つに留まる。ベローナには、未だ届いていなかった。
北駒台店までの道程も半ば以上を越えたところだろう。マルスは、未だ活動している巨人と死者の兵たちを掻き分けながら、血塗れになって進む。開けた空間が見えて、マルスはその空間の中心に立つ女を認めて、足を止めた。
女の周囲には細切れにされたソレの肉片が飛び散っている。だが、彼女の和装には一切の汚れが見当たらなかった。血の一滴、肉の一片すら受けていなかったのである。
「……あら、どちら様?」
女は――――立花新は楚々とした笑みを浮かべた。この場には相応しくないであろう類のそれである。
「オレ様か? オレ様は、世界一いい男だ」
「そうですか。生憎と、私はそんな世界知りませんし、要りませんね」
新は懐紙を取り出し、血に塗れた刀身をそれで拭き取った。彼女は、濡れそぼち、赤黒くなった懐紙を捨て、
「ふッ」
それが中空にある内に、微塵に切り刻む。
「僭越ながら、『立花』と対峙する、あなたの顛末をお見せしました。……名のあるモノとお見受けしました。いざ、お覚悟を」
「芸ならよそで見せろよな、姉ちゃん」
「え…………姉ちゃん?」
「あ? 女だろ、てめえ?」
マルスは首を傾げた。彼は人でなく、神である。長い時を経たであろうマルスにとっては、新も、金屋も、ジェーンでさえも、皆同じに見えるのだ。更に言えば、彼にとっては、女であれば何でもいいのである。
「そうですね! 私はお姉ちゃんですね!」
「すげえ笑顔になりやがった。気持ち悪ぃなあ、てめえ……」
「あなたのような良いお方を斬るのは忍びないですが、娘の為、いえ、旦那様の……いいえ、私の為に、死んでいただきましょう」
気が触れて、たがの外れた女だ。マルスは倒れ伏したソレの得物を拾い上げて、それを適当に構えてみせる。新は表情を引き締め、彼を睨み据えた。
「そんなもので戦おうと言うのですか」
「オレ様にとっちゃ、これで充分なの……よォ!」
マルスが腕を振り上げる。ただ、それだけの動作だった。そこには磨き抜かれた技などない。石となったソレの得物は、もはや棒と変わりない。
「うっ……!」
それでも、新は目を見開いた。マルスの攻撃は地面を穿ち、大穴を作っていたのだ。破片が四散し、彼女の視界を覆う。がなり声が右方から聞こえて、新は刀の腹をそちらに向けた。瞬間、乾いた音が――――彼女にとっては絶望的な音が鳴る。
「オッケエエエェェェ!」
刀身が真ん中から折られて、くるくると回りながら宙に舞っていた。新は懐から短刀を出そうとするも、マルスはそれよりも早く動いている。彼は棒状の石で日本刀を叩き折ったのだ。その勢いのまま、新へと襲いかかる。
素手で防ぐか。片腕を犠牲にして逃れるか。かわすか。どれでも好きなものを選べばいいと、マルスは嗜虐的な笑みを浮かべた。
「舐めるな」
だが、新はマルスの計算通りには動かない。彼女は折れた刀、その根元の部位で突きを放ったのだ。雷のような速度に、マルスは得物を手放して、身を低くする事で攻撃をかわすしかなかった。そのまま彼女に付き合えば、相打ちに持ち込まれると踏んだのである。
「……なんつー女だ。死ぬのが怖くねえのかよ?」
新は折れた刀を捨て、短刀を取り出し、鞘を懐にしまい込んだ。
「この程度で恐怖を覚えるほど柔に鍛えられていませんから。……八つの頃、鬼と対峙させられたのを思えば、今は和室でお茶でも点てているかのようですわ」
「言うじゃねえかよ」
ここで新と戦うか。背を向けるか。マルスは考える。考えて、考えるのは面倒くさいと思考を止める。
「焦がれるほどの強さ。どうか私に見せて下さいな」
「たまーに、てめえみたいな人間がいんだよな。オレ様たちとは、また違った方向に狂ってやがるのがさ」
「……狂う? あなたは、自分がおかしいと自覚しているのですか? 馬鹿馬鹿しい。私は正気です。狂気に囚われた風に見えますか。見えてたまるものですか」
「いや、狂ってるぜ」
「私の正気は他ならぬ私自身が証明します。他人に理解を求めるつもりも、理解されたいとも思いません」
例外はいますがと付け足し、新は短刀を握り直した。
マルスはやれやれといった風に立ち上がったが、後方からやってくる者を認め、肩の荷が下りたような気分に陥る。
「わりーけど、オレ様ここまで。あと、あんたの相手は息子がやるからよ。よろしく頼むわ」
「……息子。ああ、あの……確かに親子ですわね。良く、似ています」
「別に追っかけてきてもいいけどよ、そんときゃ間違いなく殺すぜ」
「まあ、いいでしょう。あなたの相手はうちの娘か、旦那様にお任せしますので」
「げひゃひゃひゃっ、そうかよ。そいつぁ楽しみだな!」
情報部とのやり取りを終えて、店長は不味そうに紫煙を吐き出した。
「マルスがこちらに向かっているようだ。着実とではあるが、確実に近づいてきているらしい」
「……三森さんたちはどうなりましたか?」
「追ってはいるが、追いつけるかどうかは微妙なところだな。マルスは手駒を面倒な位置に残してきている。その手駒とやらには、情報部、一の知り合い、立花新らが当たっているとの報告は受けた」
堀は頭に手を当てる。
「一君の知り合い? フリーランスですか?」
「いや、大学の友達だ」
「なんじゃあそりゃあ!?」
藤原が大声を上げて、店長はうるさそうに目を瞑った。
「とにかく、マルスとてここまではそう簡単に来れまい。最大戦力が集まっているところへのこのこと顔を出すんだ。勤務外にフリーランスが十重二十重と囲みを作っている事だろう。はたして、突破出来るものか」
「おい。何か、すげえ嫌な予感がするんだけどよ。まあ、いいか。とにかく、あんたは逃げる用意をしとけよ。車なら出してやるから」
「あれ? 藤原さん、新しい車を買ったんですか?」
「おおよ。貯金を使い切っちまったが、俺のランクルちゃんが帰ってきたぜ」
それこそ嫌な予感がするな。堀は決して口には出さず、心中にしまっておいた。
「申し出は有り難いが、その必要はない。バイトを残して帰る社員がどこにいる」
「店長、指示はどうしますか。うちの勤務外は南の方に固まってるらしいですが」
「指示なら出した。死ぬまで帰るな、全軍突撃だ。ここまで来たなら出たとこ勝負の、力だけのぶつかり合いだ。そういう頭の悪い展開も嫌いではないし、我々はいつだってそういう事をしてきたんだ」
「力と力、ですか」
死者の群れも巨人も、殆どが消えた。数による戦いは終わり、残ったのは強敵と言えるソレだけである。
ぶつかり合えばどちらが有利なのか、本当に店長は分かっているのか? それとも、馬鹿なのだろうか? 堀はじっと彼女を見据えたが、何一つとして判然としなかった。
「来たぞォ、こいつが親玉だ!」
「飛び道具っ、撃ってけ! ここで仕留めろ!」
「正面からきやがった!」
勤務外たちを見回した。
死亡し、負傷した者は医療部によって運び出されている。ここにいるのは、逃亡を選ばず、闘争を選び、死に物狂いになって戦い続けてきた者たちであり、彼らの数は三十にも上っていた。
弾雨に晒されながらで、マルスは口元をつり上げる。
駒台に至るまで、何人かの仲間が犠牲となった。この街に着いて、息子が死に、娘が殺された。残った仲間も、何人かはここで殺されてしまうのだろう。
それでも、ここに来て良かったと、マルスは思っていた。
「なっ……!? 嘘だろォ!?」
「続けろっ、撃つのを止めるな!」
マルスは投擲される石を、矢を、弾丸を避けなかった。自身に飛来する全てを殴りつけて無効化していたのである。彼の拳には傷一つ付いていない。
「ンなもんでなァ! オレ様を止められっかよ!」
飛び道具は通用しない。
勤務外たちを指揮していた本郷は自らの得物である斧を構え、マルスの接近を待った。
「おもしれえ」
「……?」
呟き、誰よりも先に飛び出し、マルスへと接近戦を挑んだのは『神社』の山田栞である。彼女は拳を打ち合わせて、制止の声を無視して地を蹴り、疾駆した。マルスもまた、山田の接近を快く思った。彼はその場で立ち止まり、棒立ちになって彼女を待つ。
拳と拳が衝突し、
「重た――――!?」
「いいんじゃねえの!?」
山田が驚愕に目を見開き、マルスは彼女を力だけで弾き飛ばした。山田は地面を転がりながら、腕に走る鈍痛に顔をしかめる。
「次はどいつだ?」
両手を広げて、マルスが高笑いを上げた。
山田に続いたのはヒルデ、シルトの両名、そして、
「よくも『神社』をっ」
アイネである。
最初にアイネが鞭を伸ばした。マルスはそれを煩く感じ、拳で払う。が、右側から大鎌が、左側からは槍が迫っていた。
マルスは右腕を使っており、左腕で槍を弾く事が出来ても鎌は防げない。そのはずだったが、彼は鎌の刃先を額で受け止め、あろう事か、力で押してヒルデを退かせた。
「…………頭突きで?」
「石頭がっ」
弾かれた槍は破壊され、使い物にならない。シルトは舌打ちし、マルスから距離を取る。
ヒルデが再び接近を試みるのを認め、アイネが鞭を振るった。
「SMかよ、こういうのもいいな。オレ様、好きかもしんねえ」
鞭の先端の速度は、時に音速にも達する。しかし、マルスは鞭の先端をしっかりと握って受け止め、アイネの手から奪い取った。
マルスが、遊び半分のような気軽さで鞭を振るう。ヒルデの構えていた大鎌に当たり、それを砕いた。
ヒルデは得物を二度見遣り、
「ほーらよそ見しちゃ駄目だぜ」
「くあっ……!?」
撫でるような早さの鞭を頬に受けただけで、がくりと膝をつく。
アイネはスカートの中に手を入れて、ガーターベルトに挟んでいたレイピアを抜いた。だが、マルスは彼女が構えるよりも先に鞭で打ち据え、レイピアを、やはり破壊せしめた。
馬鹿な、と。アイネはバックステップで距離を取りつつ、現実をそうだと認識出来ないでいる。何故、鞭で刃が砕けるのだ。本来なら、その鞭は彼女の持ち物である。自身の得物のスペックなど把握していた。だからこそ、理解が出来ない。革製の鞭で金属を破壊するなど、不可能に近い。扱う者の筋力が優れていたとして、物理を無視しているようなものだった。
「でも、こいつも飽きちまったなー」
マルスは鞭を投げ捨てて、
「お?」
「おおおおおあっ!」
中空から飛来するものを見た。体を捻り、三節棍を振り抜こうとする勤務外の男である。
マルスは攻撃を回避し、着地した男のこめかみにハイキックを見舞った。ぱん、と、音が弾け肉が弾けアイネの目が細まっていく。
「あーあーあー、だよなー。やっぱオレ様、男には手加減出来ねーんだよなー」
「では、私には加減してくれるのかね」
ふらりと、幽鬼のような女が現れた。彼女は錫杖で体を支え、今にも倒れてしまいそうな様子であった。女は、オンリーワン出雲店の柿木である。
「おっ、おっぱいでけえな、てめえ。いいぜいいぜ、ちったあ加減してやんよ」
「そうかね」
へらへらとした笑みを浮かべながらマルスが近づく。柿木は錫杖を持ち上げ、目を瞑った。
「…………てめえ」
「これでも加減をしてくれるのかね?」
錫杖の先端からは光が灯っている。覚えのあるそれを、マルスは歯を食い縛り、目を血走らせながら見つめていた。
頭に血が上ったマルスを数人の勤務外が囲んでいる。だが、彼は柿木しか見ていなかった。
マルスを囲んでいる勤務外は四名である。その中には、店長の旧友であろう青笹の姿もあった。彼らは各々の武器を構えて、仕掛けるタイミングを測っている。
「てめえがあの光をやったってわけか。いいぜぇぇぇぇ、その正直なところはよう」
「私の数少ない美点ではある」
言って、柿木は錫杖を払った。光の粒子が広がり、刃のような形に固まる。マルスは光の剣を避けて拳を突き出した。が、鉄球を持った勤務外の、若い女が彼を阻む。
鉄球がマルスの顔面を捉える瀬戸際、彼は鉄球を手で払った。それだけで、勤務外の得物はぼろぼろと崩れていく。
「どいてろ」
マルスが勤務外の腹に蹴りを入れた。その一撃を受けた女の腹部に穴が空き、彼女は血を吐きながら崩れていく。
他の勤務外が動いた。
ヌンチャクが、拳が、トンファーがマルスに襲いかかった。ほぼ同一のタイミングで仕掛けられた攻撃を、マルスは僅かな差を見切り、順に対応する。まずはトンファーを足の裏で受ける。次いでヌンチャクを、最後に拳を受け止めて、
「が、ああああ……」
「ひっ、ひぎっ」
「あっ! あ、あっ!?」
その全てを破壊する。
得物を失った勤務外は、一瞬の隙をつかれて様々な場所を砕かれ、引き裂かれ、千切られた。唯一、青笹だけが蹲る事なく立っている。マルスは彼に目を付けて、凶暴な笑みを浮かべた。
懐に入り込んだマルスが青笹の腹に手を当てる。それだけで彼の巨躯が浮き上がった。右腕を失い、肺を傷つけられた青笹は喀血し、意識を手放しかける。中空に浮かされ、後頭部に肘打ちを食らう。地面に叩きつけられ、背中を強かに踏みつけられる。
「タフだなあ、てめえ」
「…………に、の……」
「終わりだけどな」
こめかめをサッカーボールのように蹴飛ばされ、青笹の頭部が地にこすられながら、壁面へと叩きつけられた。
それでも尚、マルスの気が晴れる事はなかった。彼は青笹の右足をもぎ取り、それを剣に見立てて、構えたのである。
柿木は醜悪な振る舞いから目を逸らしたかったが堪えた。彼女は錫杖を杖代わりにし、薄く微笑む。
「それが君の武器か。何とも、度し難い」
「うるせえよ、クソアマが」
マルスが得物を――――青笹の右足を振るった。柿木は錫杖で防ごうとするも、高く、乾いた音と共に、
「……馬鹿な」
「じゃあな」
錫杖が四散する。
柿木は屈み、マルスの攻撃を回避した。しかし、彼は止まらない。振り下ろされる青笹の右足が彼女に迫る。……その瞬間、マルスの背に一本の矢が突き立てられた。彼は憤怒の形相で後方を睨めつける。
だが、怒りに身を震わすのはマルスだけではない。矢を放った黄金も、その傍に立つ本郷も、高井戸も、仲間の死を侮辱した神を睨み返していた。
「そーかそーか。やる気満々って奴だな。いいぜ。いいね。そーーーーうこなくっちゃあつまんねえもんなあ!?」
黄衣ナコトはマルスから距離を取り、彼の戦いぶりを離れたところから見ていた。
最初に思ったのは、マルスがどうしようもない化け物だということである。彼に殆どの攻撃は通用せず、生身で肉体を破壊しうる力を所持し、多数の勤務外、フリーランスを前にしても戦意が衰えない。ナコトは考える。自身が『黄衣の王』を使ってもダメージを与えられるか分からない。……否、恐らくは不可能なのだろう。
「逃げますか」
ここに残り、戦えるフリーランスはもはや自分しかいない。『神社』は倒れて動けず、『貴族主義』は戦意を喪失して動けない。残っているのは、退屈そうにあくびをする灰色の獣と、マルスという一個の力に恐怖するイヌたちだけだった。
「ぎゃはっ、はっ、ぎゃっはっはっは! どうした!? どうしたよ、誰もこねえのか? なあ、おい、仇討たなくていいのかよ? オレ様を! 殺さなくてもいいのかよォ!?」
誰が、アレを殺せると言うのだ。
本郷、黄金、高井戸の三名も既に地に伏している。
ナコトはバイアクヘーを呼ぶ準備をしつつ、自分がマルスに狙われないように祈った。
マルスは内心で安堵していた。何せ、『力』を使うのにも限度がある。勤務外を甚振るのは至極楽しいが、酷く疲れるのだ。
目的は別にある。自分は、北駒台店の長と戦争をしているのだ。だから、頭を取る。勝利を掴む。ここで散り、ここで散るであろう仲間を思い、マルスは足を踏み出した。
「退けや、死にたくなけりゃあな」
一歩。また一歩と進む。
マルスが近づくにつれ、道を塞いでいた勤務外の数が減っていく。人垣が左右に割れて、マルスの為の道が開ける。
一歩。また一歩。
マルスは歩き出す。歩き続ける。既に視界からは勤務外が失せ、フリーランスが消え、
「……よう、そこにいたかよ」
気に入らない女がいた。
女は簡素な椅子にふんぞり返り、こちらをぼうっとした表情で見ている。一目で分かった。こいつが、こいつこそが――――!
一方で、女もマルスの存在に気がついていた。彼女も、一目で分かったのだ。彼こそが、自分の、自分たちの敵なのだと。
だから立ち止まる。
だから向かい合う。
北駒台店店長二ノ美屋と、軍神マルスが対峙する。
「てめえが、あの電話のババアだな?」
「さて、ババア? ここにはそんな奴見えないが」
「……約束どおり、ぶち殺しに来てやったぜ? 感謝しとけよ、なあ?」
マルスが右手で何かを払った。北駒台店の駐車場まで藤原が吹き飛んでいく。
マルスが左手で何かを払った。空手だった堀が、北駒台店のガラスをぶち破り、店のフロアを転がっていく。
上がる悲鳴。起きる動揺。
「『戦争』のルールを決めてなかったなあ」
「ルールか」
「そう! ルールってのは大事だよなァ? 終わりがなくちゃあ、戦争ってのはしまらねえ。割とマジでな。だからよ、今決めた。オレ様が決めた。オレ様が死ねばてめえらの勝ち。で、クソババア、てめえが死ねばオレ様の勝ちだ。どうだ? 分かりやすくていいだろ? お?」
「そうだな」
だが、この二人には無縁であり、無用なものであった。
彼には彼女が、彼女には彼以外のものが目に入っておらず、気に留めもしない。全てがそこにあるようで、ないのだ。
「他にルールの追加はないのか?」
「シンプルってのがいい戦争の条件よ」
「そうか」
「そうだよっ、まあ、遠慮なくくたばれや!」
マルスが腕を振り下ろす。店長は僅かに顔を逸らし、その攻撃をかわした。椅子が粉々に砕けると、彼女は大儀そうに立ち上がり、胸元のポケットに手を入れる。
「……なんだ、今の?」
「なんだ。手加減してくれたんじゃなかったのか?」
言って、店長は煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせた。マルスは納得のいっていない表情を浮かべたが、彼は気を取り直して、折れた椅子の足を掴む。
「ところで、一つ言い忘れた事があるんだが」
「聞いてやるぜ。オレ様は寛大だからな」
「そうか。ババアと言っていたが、アレは、私を指していたのか?」
マルスは椅子の足で自分の肩を叩き、店長を見て笑った。
「他に誰がいんだ?」
「そうか。……やれ、一」
「――――ッッ!?」
北駒台店の屋根上から、シルフに抱きかかえられた一が飛び出す。急降下したその先には無防備なマルスがいた。
一はアイギスの石突き部分を向けながらマルスへ迫る。
「クソがっ」
毒づき、マルスはその場から飛び退いた。アイギスは何者をも捉えられず、地を砕くに留まる。
軍神は椅子の足を一に向け、大きく口を開いた。『誰だてめえ』と声を荒らげた。
一は息を吐き、店長を見遣る。……ナナを置いてきた。立花を置いてきた。ジェーンを置いてきた。糸原を置いてきた。三森を、置いてきた。
シルフは三森を嫌っている。嫌悪している。忌避している。だから、一は彼女を見捨てるような形で、自分だけ店まで戻った事を悔いていた。
「何をやってんだ、俺は」
皆と合流する為に、皆と一緒に戦う為に、死ぬ為に。
「オレ様の話聞いてねえのかてめえはよォ! 耳がねえならいらねえよなあ!?」
アイギスを広げる。シルフが風を集める。一が覚悟を決める。
マルスは一足飛びで一の眼前にまで近づき、折れた椅子の足を振るった。『剣』と盾が衝突し、互いが目を見開く。
これは、何だ?
再び、マルスが接近を試みた。一はアイギスを構えるも、シルフがそれを拒む。彼女は風を使って、彼を後方へと逃がした。
「てめえ! てめえっ、てめえ!」
「……こいつは」
マルスが踏み込み、突きを繰り出す。一はその突きを、アイギスで斜めに受け流す。
突き、防ぐ。斬り、かわす。払い、受ける。繰り返される攻防に終わりの時は感じられない。
攻める者、防ぐ者。両者は違和を感じていた。己の得物が、相手の得物とぶつかる度に既視感を覚える。出会った事はないはずだった。しかし、魂は訴えている。
こいつを、殺せと。
一が持つのはただの傘だ。
マルスが持つのはただの椅子だ。
互いが、傍から見ればがらくたのようなモノで命を張り合っている。
だが、一が持つのは女神の賜わした神具、アイギスだ。
ならば、と、一は考える。目の前の男、軍神と呼ばれるモノ、マルスが持つのは、何だ?
「臭う。臭うな……! てめえから、くせえもんがよ!」
マルスの速度が上がる。彼の顔面に張り付いていた憤怒の色が消え、徐々に、喜びの感情に染まっていく。
「そうかよっ、そうか! そう言う事だったのかよ!?」
「ああっ!?」
「それだよ、それ! てめえが持ってたのか! だから、ここはこんなに臭ってやがったんだな!?」
一にはマルスの言動が理解出来ない。
「何の話だ……?」
だから問うた。
「それだってんだろ。その、クソッタレの盾の事言ってんだ」
マルスは答えた。
一はシルフに目を遣り、彼女は彼の意を汲み取る。風の力で舞い上がり、一はマルスから距離を取った。
「おーいっ、てめえこら! どこ行くつもりだっつーの」
「……お前。これを、アイギスを知ってるのか?」
知らずの内に、一の声は震えている。マルスは『円卓』のメンバーだ。だから、彼がアイギスを知っている事に対して驚きはない。ゴルゴンも、ザッハークも、アイギスを知っていた。だが、彼らとは違う。マルスは、アイギスの存在を知っているだけではない。何か、それ以上のものがあるのだ。
「知ってるも何もなァ」
マルスは頭を掻きつつ、面倒くさそうに一を見上げた。
「んなクソムカつくもん、忘れるわけねーだろーが」
「お前、何だ?」
「……だからマルスだってんだろ」
メドゥーサを使えば、マルスの正体ははっきりするだろう。その名を呼び、蛇姫に頼めば、マルスの動きは固まり、止まるはずだ。仮にメドゥーサが力を使わなかったとして、アロハシャツの男がローマ神話の軍神ではない事が判明するだろう。
「シルフ。降りてくれ」
「いいのか?」
「ああ。いいんだ」
一は目を瞑る。メドゥーサを使う気はなかった。マルスと名乗る男が、実際はそうでない事に何となく気がついていたのである。……否、確信していた。心のどこかで誰かが叫んでいる。
自分は、この男を殺す為だけに生まれてきたのではないか、と。