ギャクテンサヨナラ
地上を見下ろす者もいれば、地上を見上げる者もいる。
そこは、小さな部屋だった。
その部屋には、扉と窓と机が一つずつ、椅子が二つあるだけで、他にはもう何もない。窓からは、何処までも広がる荒野が見える。空は暗く黒く、地には草木の一本すら生えていない。隆起した土と転がる岩だけが点在していた。
その荒れ果てた大地を、じっと眺める者がいた。彼女は、それ以外は何もしようとせずに、退屈そうに溜め息を吐き、時間が過ぎるのを待っているだけかのような様子である。
何も起こらない。
何も変わらない。
「今日は、騒がしいのね」
そのはずだった世界が、今だけは違っている。やけに騒がしく、いやに煩かった。
黒いローブを纏う女はフードを深く被っている。彼女はフードを押し上げて、音の正体を確かめようとした。女は白い指先を口元に当てて目を見開く。その表情を確認出来る者はこの場にいなかったが、彼女は確かに驚いているようだった。
そうして、今日は珍しい事があったのに気付く。『力を貸して欲しい』と頭を下げられたのだ。女にとっては大した労力を使うでもなく、持て余していたものなので、快くとはいかないが一応はその申し出を引き受けたのである。どうやら、自分が力を貸した事でここも、地上も煩くなっているらしかった。
何かが起こっている。
何かが変わろうとしている。
女は天井を見つめた。赤錆びたそれが目に入り、彼女は物憂げに息を吐く。……地上ではきっと、何かが始まっているのだ。彼女にとっては非常に羨ましく、妬ましい。除け者にされているような気がして、自分から望んだ事だとも忘れて、女は苛立つ。
『ここから出ないんですか?』
彼が何度も言い続けてきた質問を思い出して、女は――――タルタロスのエレンは薄く微笑む。
ここから出るつもりはない。だが、彼の味方でありたいとは思った。
一の鼻の穴には、丸めたティッシュペーパーが詰まっていた。彼の情けない顔を見て、三森は心中で笑っていた。
北駒台店の勤務外はマルスたちを目指して駆けている。ジェーンが先頭を行き、石となったソレの間を器用にすり抜けながら走っていた。
「三森さん」
「あ?」
鼻声の一を見ず、三森は答える。
「どうして、俺を置いてったんですか」
「あンだよ、寂しかったんかよ?」
「……皆もそうだ。もしかして、打ち合わせとかしてたんですか?」
「いや、気付いたらあいつらも一緒になってただけだ」
一はきっと疑わしげな顔つきになっている事だろうが、三森はそれを無視した。
「追いついたンだからよ、もうあんまし気にすんな。あんまりガタガタ言うと……」
言い掛けて、三森は口を噤む。
「ガタガタ言うと、なんですか?」
「あー、い、いや、なンでもねェ。ただ、アレだ。しつけェ男は嫌われちまうぞって言いたかったんだ」
「ああ」と、一は間の抜けた声を発する。
「それは困りますね。これ以上三森さんに嫌われるのは我慢出来ないですから」
「だったら黙ってろよ? もうすぐ、ソレだ。ぶっ殺し合いになるンだからな」
「そうします」
そう言った一の声は弾んでいた。
「巨人を前に出せ! オレ様たちの楯になんだからよォ!」
マルスは前方を指で示し、声を荒らげた。そして彼は、店の裏に置いてあったモノに目を向ける。
それは、チャリオットだ。
チャリオットとは、古代で用いられた戦争用の馬車である。皮革と柳のような柔軟な材料で作られたそれは、古代の戦において主力とされていた。だが、チャリオットはその性質上地形の影響を受けやすく、御者の操作技術に頼っている為に酷く脆い構造をしている。高速移動しながらの飛び道具、加速をつけた破壊力は驚異的だが、やはりデメリットの方が目立つのだ。……普通の人間が扱うのならばの話ではあるが。
「いや、やっぱいつ見てもいいわなあ、これ」
「譲ってくれないかなー。それが駄目だったら奪っちゃおうかなー」
マルスのチャリオットは、二輪戦車を四頭の馬に牽かせた、クアドリガと呼ばれるものである。火、炎、災難、恐怖の名を冠した四頭の神馬が、屋根のない、台車のようなものを牽きながら現れた。
通常、チャリオットの乗員は二、三人に限られる。しかし、黄金の額帯を付けたマルスの神馬には並外れた力が備わっているのだ。巨大な車体には、十を超える者を乗せられる。
この規格外のチャリオットがマルスの用意していた奥の手であった。自分を含めた同胞らを乗せ、神馬の力で以って強引に戦場を突破する。その際、立ち塞がるモノは踏み潰し、蹂躙するだけだ。
「おらっ、とっとと乗り込めよ! つーか誰にもやんねえぞこりゃあ! 行くぞ野郎ども、戦争の始まりで、終わりなんだからな!」
待機していた巨人どもが立ち上がる。その刹那、空中から落下してくるモノを認めて、マルスは瞠目した。
ビルよりも、鉄塔よりも高く、雲や星に程近いところにいる。少女は街並みを見下ろして、覚悟を決める。ガーゴイルの背から飛び降りるのは、恐ろしくもなんともなかった。少女は、自分の体なら耐えられるどころか、なんともないと知っているのだ。
「じゃ、ちょっと行ってくるね」
「ええ、すぐにお迎えに上がります」
「ありがとっ」
手を上げ、少女は空に身を躍らせる。暗い空は夜の海にも似て、吸い込まれそうだった。躊躇しない、勢いのある跳躍を見せた彼女は、立ち上がろうとする巨人を認め、見定め、赤い舌を覗かせる。
降下し、加速する重力に引き寄せられ、風に舞い上げられた少女の髪が逆立っていた。彼女は目を逸らさず、少しだけ気持ちよくなって、四肢を伸ばした。ぐるりと体を動かして、夜空を見上げる。手を伸ばせば、線になった星を掴めそうな気がした。
「なんて……」
少女は体を反転させ、拳を強く握り締める。この身に宿らされた力を無駄にするつもりはない。
「すごいんだっ、こんなの!」
鳥と行き違う。素肌を刺す風と冷気。ぐんぐんと近づく地上。少女はおかしそうに笑い、今だけは自らの境遇に感謝する。
南駒台店が見えて、マルスが、彼の同胞が、チャリオットが見える。彼らは皆、一様にこちらを見上げていた。
間もなく地上である。少女は巨人の内、一体に狙いを定めると、ソレの頭部目掛けて落ちていく。突き立てるようにした彼女の拳は、
「なっ……んだコイツぁ!?」
「オレらより無茶苦茶じゃねええかよォ!」
巨人の頭と衝突した。
盛大な音と共に、ソレの頭部が爆発したかのように四散する。血肉が噴水のように噴き上がり、雨のように降り注ぐ。巨人は前のめりに倒れ、その際に衝突音が轟き、土埃が舞い上がる。
鮮血の雨を浴びた者たちは身構えたが、その中の誰よりも少女の動きは速かった。彼女は軽くステップし、中空で体を捻らせて、別の巨人の腹部に回し蹴りを見舞う。ぱんっ、と、風船が弾けたような音が鳴り、ソレの腹回りが抉れる。
「やっべえ、あのガキ……とっ、止めろっ、止めなきゃやべえって、止めろォォォォ――――!」
マルスの声に従い、彼の息子であるフーガと、マルスの妹、ディスコルディアの息子であるポノスが駆け出した。二人の姿を認めた少女は、三体目の巨人へと急ぐ。そのスピードに追いつけず、フーガ、ポノス両名の攻撃は呆気なく空振りした。
巨人は少女の姿を認めたのか、右腕を振り上げる。しかし、彼女の前では絶望的に遅かった。その行為は抵抗にもならなかったのである。少女は地を蹴り、ソレの右腕を殴りつけて、弾き飛ばした。その勢いのまま、今度は巨人の左腕を蹴り飛ばす。両腕を失ったソレは間近に迫った少女の乱打を受けて、木っ端微塵に砕け散った。
その瞬間、返り血を受けて立ち止まった少女に向かって数本の槍が飛来する。ディスコルディアとデュスノミアが投げつけたものだ。
少女は袖で顔を拭きながら、自身を狙う槍をかわし、叩き落とし、殴りつけ、
「いただきます!」
最後に飛んできた槍の柄を掴み、己のものとする。そして、彼女は四体目の巨人に奪い取った槍を投擲した。
槍はソレの胸部に突き刺さり、少女はそれを追いかける。彼女は高く跳躍し、中空で縦に回転し、ソレの頭部にソバットを叩き込んだ。巨人の胴体部分から、攻撃を受けた頭部が、まるでだるま落としのようにして後方へと飛んでいく。
五体目の巨人を見据えた少女だが、後方からの襲撃を察知し、その場から飛び退いた。彼女に襲い掛かったのはマルスの姉、ベローナである。返り血をそのままにし、髪を振り乱すその姿に、少女は軽い嫌悪感を覚えた。
「クソガキがァ!」
大振りのパンチを避け、少女はベローナの背後に回った。彼女はベローナの背を掌で打ち、軽々と吹き飛ばす。一撃を喰らった彼女は、巨人の腹に激突して苦悶の声を漏らした。
少女は止まらない。
彼女は、肉塊とぶつかりバウンドしたベローナを追いかけ、彼女を上方から蹴り抜けたのだ。ベローナは耐えられず、再び巨人の腹にぶつかってしまう。少女は巨人の腹の上に着地し、強く踏みつけた。ソレはその勢いに圧され、仰向けに倒れ込む。
巨人の数は、残り二体にまで減らされていた。少女は地面を殴りつけ、アスファルトの破片を手にする。彼女はその場でぐるりと回転し、その破片を巨人目掛けて投擲した。次の瞬間には、巨人の顔面は破裂している。
「チクショウっ、クソがっ、爺さん! 余計な事しやがりやがってよォォ!」
マルスが叫んでいた。青髭との親交があった彼は、少女の正体に気がついていたのだ。
少女は追い縋ってくるディスコルディアとハルモニアの脇をすり抜け、
「あなたっ、何故私たちの邪魔を……!?」
心の中で彼女に答える。
菓子パン一つ分。その借りを返すだけだと、少女は笑んだ。その笑みに気圧され、ハルモニアは絶句する。
「時間がっ」
少女の肉体はぼろぼろだった。青髭の無茶な改造を受け、その肉体にはガタが来ている。……少女が、その事実を一番良く分かっていた。だから、彼女は短い時間しか戦えないのだとも理解している。少女は咄嗟に、空を仰ぎ見た。
ガーゴイルが降下を始めているのが見えると、少女は短く呼気を吐き出し、走り出した。
少女は瓦礫を踏み砕きながら跳躍し、最後まで残っていた巨人の頭の上に着地すると、そこを踏み台代わりにして、更に高く跳び上がる。ソレの頭部はその衝撃に耐えられず、四方に肉を撒き散らした。
「ガーゴイルさんっ」
「むうっ」
つらそうな顔を浮かべる少女は、ガーゴイルの翼に手を掛ける。ガーゴイルは眼下のマルスらを認めて、即座にその場から離れていった。
後に残されたマルスは、少女を追う事など考えられなかった。彼は、少女がもたらした災禍を認めると、歯軋りして意味の成さない声を喉から迸らせる。
「クソがあああああああああああ! 誰か、誰でもいい! 姉ちゃんを戦車に乗せろっ! ヘルっ、ヘルちゃんよォ! てめえがさっさと死人を出さねーからこうなっちまったんだろうがァ!?」
叫び、マルスはヘルヘイムの使者を探した。だが、彼女の姿はどこにも見当たらない。
「……おい。おいおいおいおいおいマジかマジかよ」
――――やられた。やられたっ、やられた!
ヘルヘイムの使者は南駒台店から離れた場所に逃げ出していた。彼女は、何も赤い少女を恐れた訳ではない。無論、彼女の暴力的なまでの能力は恐ろしいが、逃げ出した理由はそれではない。
残った巨人が全て粉々にされてしまったのは口惜しいが、死者の兵さえ召喚していたなら話も違っていただろう。問題は、その死者が呼び出せなかった事にある。
「裏切り者、裏切り者……っ!」
使者は歯噛みする。
彼女が呼び出していた死兵は、彼女自身の『持ち物』ではない。借り受けたものだったのである。ヘルヘイムの使者は今更に気付いたのだ。力を借りた相手が、悪かった事に。彼女が頭を下げたのは、タルタロスの支配者とも呼ぶべき、エレンと名乗る女である。
使者は、エレンに邪魔をされたのだ。借りていたものを無理矢理奪い取られたと、彼女は認識している。召喚するのに必要な穴が開く事はない。エレンは使者へ力を貸すのを止めたのだ。その理由は使者には分からない。その理由を知っているのは、エレンだけなのだから。
砂埃が舞い、激しい衝突音が聞こえてくる。誰かが、自分たちよりも先にマルスと戦っているのだ。一は覚悟し、アイギスの柄を握り直す。
「見えたッ」
ジェーンが短く叫んだ。一はじっと前を見つめる。……巨人の肉片、南駒台店、そして、
「馬車?」
四頭の馬と戦車、そして、そこに乗り込むマルスたちが見えた。
「いいえ、マスター。アレはチャリオットと呼ばれるものです。高機動戦闘を可能とした、古代の戦争で使用されたものなのです」
「高機動って、マジかよっ」
「そんな事より一、あんたの後ろにくっついてる女誰よ? 何、背後霊?」
「シルフ様はオバケなんかじゃないぞ! 風のせーれーだぞっ、えらいんだぞ!」
「後にしてくださいよっ」
馬の嘶きが耳朶を打つ。ようやく追いついた。やっと辿り着いた。しかし、マルスたちは自分たちの苦労など知った事ではないと言わんばかりである。
「逃げられちまう……おいチビっ、先に言って撃ちまくってこい!」
「アタシのガンだけじゃ止められナイ!」
巨大なチャリオットと、それを牽く規格外の大きさの馬を見てしまい、一の気持ちは萎えかけていた。
敵陣を突破すると言えば聞こえはいい。だが、実際は赤い少女から、追い縋る勤務外たちから逃れる為の逃走なのだ。
四頭の馬の鼻腔から、白い息が上る。御者台のマルスは手綱を引き、鋭い声を放った。
「親父っ、前から何か来てんぞ!」
「パパだってんだろ! そんなもんなあ、轢き殺しちまえばいいんだよ!」
振動が御者台に、荷台に伝わる。マルスは迫る勤務外を認めた。
火、炎、災難、恐怖の名を冠した神馬が嘶き、走り出す。疾走するチャリオットを前にした者たちに成す術はないだろう。
「ひゃっはっはっはァ! はっはあ! おらっ、殺すぞ! どけどけっ!」
「うっ、うわあああああ!?」
戦う気は失せていたはずだ。チャリオットに追いつきそうになった勤務外たちはチャリオットの進路から逃れようとして、横っ飛びになって地を這い蹲る。彼らの悔しそうな目が、マルスには実に心地良かった。
体は疲れ切っていた。
戦闘が始まってからは休む暇も与えられなかった。何度逃げ出そうとしたか、何度投げ出そうとしたか数え切れない。それでも、糸原は決して諦められなかった。もう、打ちのめされて泣くのは嫌だったのである。
「ひゃっはっはっはァ!」
マルスは笑っていた。四頭の馬を操り、勝ち誇っていた。彼は自分の勝利を確信していたのである。糸原はチャリオットを見遣った。マルスはきっと、自分たちを石ころのようなものだとしか思っていないのだろう。認めた瞬間、彼女は指を動かしていた。
「……一番、痛いところか」
昔、ある男が言っていた。
勝利を確信した時こそ危ないのだと。ならば、自身が勝利する為にはどうするか? 簡単だ。相手が笑っているところを、一番えげつないタイミングで、思い切り殴りつけてやればいいのだと。
指を動かし、腕を伸ばし、糸を巡らせる。
糸原は寝転がったままの体勢でドローミを放ち、
「ぶち切ってやる……!」
指で糸を弾いた。
刹那、夜を銀色の光が切り裂いていく。線となった軌跡は次々と閃き、神馬の脚を切断し始めた。中空を神馬の脚が舞い、
「おっ、おおおおおおおおおおお!?」
「ふざけんなよォォォォ!?」
体勢を崩した馬から転び始め、荷台の部分からはマルスの同胞が、御者台からはマルスが投げ出される。
糸原はドローミでマルスらを刻もうとして、勢い良く立ち上がった。
「ざまあみろっつーの!」
どれだけ待ち続けていただろう。
軍神と名乗る男に街を荒らされ、人を殺され続けていた。南駒台店は壊滅し、各地から呼び出された勤務外は痛めつけられた。
一の鼻息が荒くなり、ティッシュペーパーが独りでに飛んでいく。苦痛に呻く神の馬。六名の、軍神の同胞。そして、御者台から吹っ飛んだマルスを確認し、彼は声を荒らげた。
「ナナっ」
「万事、心得ております」
ナナがスカートを捲り、その内から何かの部品を取り出した。彼女はそれを器用に、素早く組み上げ始める。
ジェーン、立花の両名が各々の得物を構え、駆け出した。彼女らに続き、三森も地を蹴る。
彼女らを迎え撃つのはポノスと、失神から覚醒したベローナの両名だ。まず、立花の刀とポノスの剣がぶつかり合った。火花が散り、立花は歯を強く噛み合わせて、ポノスを力ずくで押し返そうと試みる。
「フリィィィィィズッ!」
「またガキの相手かっ」
ベローナの拳が空を切る。ジェーンは身を低くし、至近距離でトリッガーを引いた。しかし、ベローナは撃ち出された弾丸を避け、ジェーンの腹を狙って鋭い蹴りを放つ。
ジェーンはベローナの攻撃を回避し、彼女から距離を取った。離れた位置から銃撃を繰り返し、ベローナを後方へと追い遣る。
チャリオットから投げ出されたマルスには三森が向かっていた。彼女は、尻を向けたマルスを見遣り掌から炎を生み出している。
「親父はやらせねえっ!」
「クソが退いてろ、邪魔でしかねェ!」
だが、マルスを庇う為にフーガ、ディスコルディア、デュスノミアの三名が前に出た。三森は火球を投げつけるも、フーガは剣でそれを切り裂く。
「こっから先は通さねえってんだ! つーか親父っ、さっさと起きろや!?」
「いいえ、そこで眠ってもらいます」
一と、組み立てを終えたナナが並走し、マルスに迫った。彼女は『一途』を片手だけで持ち、眼鏡の位置を押し上げる。
立花がポノスを押さえ、ジェーンがベローナを追い遣る。三森は一人でフーガ、デュスノミアの相手をしており、
「通すはずないでしょう!?」
「通させるんだよ! シルフ様とニンゲンがな!」
「ところがどっこいってな! やれっ、ナナ!」
一がシルフに風を使ってもらい、アイギスでもってディスコルディアを防いだ。ナナは彼らの脇をすり抜けて、一途を両手で構える。マルスは頭でも打ったのか、倒れたまま動かない。
「距離、計算するまでも!」
ナナは疾走しながら、一途の銃身部分をマルスに向ける。彼女はアスファルトを踏み砕き、己が得物を前へと突き出した。
「ギャース!?」
「糸原さん!?」
「お父様っ」
躊躇いはない。ナナはトリッガーを引き絞る。瞬間、白煙と蒸気が立ち上った。
液体火薬によって打ち出された金属製の杭は標的を見逃さない。灼熱の鋼鉄は空気を呑み込みながら、螺旋を描いて突き進む。
……はずだった。
「なんと……っ!?」
ナナは瞠目する。そこで転がっていたはずのマルスは、何者かによって蹴飛ばされ、一途から逃れたのだ。
代わりに、放たれた杭をその身で受ける事になったモノは、
「お父様、逃げ……」
顔面を打ち抜かれ、上半身を爆散され、余った部分を撒き散らしながら遥か後方へと吹き飛んでいった。ナナの眼鏡には大量の血液が付着し、彼女のヘッドドレスには溶けかかった内臓がべったりとまとわりついている。場には臭気が立ち込めるが、ナナには何も感じられなかった。
死んだのはマルスではない。
殺したのは別の誰かだ。
「しのちゃんのばかーっ! 役立たずーっ!」
「うるさいっ、馬をやったのは私じゃないの! いいから、早く!」
ナナは状況を確認する。どうやら、糸原がマルスの仲間を押え切れなかったらしい。そいつが、マルスの身代わりとなったのだろう。
「早くそいつを追っかけなさいよ!?」
はっとして、ナナは前方を見遣った。マルスの背が、段々と遠くなり始めている。逃げられてしまうと認識し、彼女は役目を終えた一途をその場に置いた。
北駒台店の勤務外では、ジェーンの足が最も速い。彼女は、逃げたマルスを追おうとするが、ベローナに行く手を遮られてしまう。一方的に無視するには、あまりにも危険な相手であった。
ジェーンは咄嗟に後方を見遣る。状況は、よいものとは言えなかった。マルスの同胞、その内の一人を殺害したのは喜ばしい事だが、肝心の本命を見逃している。のみならず、立花はポノスに押さえられており、出遅れた糸原とナナは別の者たちと交戦していた。
「俺が行くっ」
「…………そんなっ?」
一はシルフに力を借り、中空に飛び上がっている。ジェーンは狼狽する。まさか、マルスに一をぶつける事になるとは思ってもみなかったのだ。彼だけでは、あまりにも荷が重すぎる相手だろう。
「誰かっ、お兄ちゃんを!」
「どきやがれェェェええええッ!」
その時、低い、唸り声のようなモノと共に、天を衝かんばかりの火柱が立ち上った。三森はフーガ、デュスノミアを熱風で追い遣り、
「私が行く、お前らは自分で何とかしとけ!」
わき目も振らず駆け出した。ジェーンは彼女を援護するべく、ベローナに銃口を向け、凶暴な笑みを浮かべる。動けば撃つ。必ず殺すと、彼女の視線は訴えていた。
ベローナはジェーンを見返した。銃口こそ突きつけられているが、彼女にとって銀の弾丸など大した脅威ではない。問題なのは、マルスの行方である。彼はきっと、北駒台店の長を狙いに行ったのだろう。たった、一人きりで。
ずるいじゃないかと、ベローナは口の中で呟いた。
「……ポノス、そのままそいつを押さえときな。ディスコルディア、デュスノミア、フーガ! お前らはあいつを追いかけろ」
「させると思う?」
トリッガーに指を置いたままのジェーンが問い掛ける。ベローナは両の拳を打ち合わせて、血走らせた目で、彼女を強く見据えた。
「構えろクソガキ」
「Bite me! お兄ちゃんのジャマは……」
言いかけたジェーンの表情が凍りつく。瞬きした次の瞬間に、ベローナが目前まで迫っていたからだ。ジェーンはリボルバーを連射するが、弾丸は標的を見失い、全て地面にめり込む。
ベローナの拳がジェーンの背を衝いていた。激しい衝撃を受け、ジェーンは短く叫び、バウンドを繰り返しながらアスファルトを転がっていく。その先には糸原とナナがおり、彼女らはジェーンを救う為に攻撃の手を止めてしまった。
隙が出来るのを待っていたのだろう。ディスコルディアたち三人は駆け出し、三森の背中を追いかける形で逃走を開始した。
「さて、アホな弟を持つと姉ちゃんってのは苦労するもんだね」
マルスを追いかけるのは一と三森の二人だが、ディスコルディアたちは三人だ。数的にはこちらが有利かもなと、ベローナはそんな事を考える。
この場に残っている勤務外は四人だ。立花はポノスが押し留めている。ベローナは、残った三人全てを相手にするつもりだった。
「ハルモニアをやったのは、あの眼鏡女か」
マルスの身代わりとなり、無残に殺された妹を思い、ベローナは怒りに体を震わせた。
「チャリオットをダメにしたのは黒い女……てめえら全員ぶち殺し確定だっ! さあ、来なっ、勤務外!」