箱庭ロックショー
言われるがままに左腕を掲げる勤務外の間をすり抜けるようにして、一とシルフが宙を滑走する。誰もが彼らを見つめていた。忘我の表情で、呆れたような顔で、様々な顔が一を見ていた。
その時になって、一は自身が勤務外として優れていなかったのに気付く。自分は、傍から見れば異常なのだ。ソレの力を借りて空を往き、誰かの力を当てにしてソレとの戦いに臨む。その事が、『普通』の勤務外からすれば異端なのだと、ようやくになって気付けた。だからどうしたと、笑い飛ばした。
「行くぞっ」
「どこへ!?」
風が巻き起こる。
「前だっ、前に行け! そこにあいつらがいる!」
「つったって!」
シルフは両足付近に風を呼び寄せ始めた。収束する、歪な風の固まりが爆発する。彼女は一を連れて跳躍したが、前方には巨人が二体立ち塞がっていた。
「叩き落されるぞ!」
「行くんだよ! シルフだろ!?」
肉体に負荷をかけるような強烈な加速が終わり、一の身体を緩やかな浮遊感が包む。巨人は腕らしき部位を振り上げて、一たちを狙っていた。
一は、遥か後方にいるはずの店長に視線を遣っていた。
「ほうら、跳ぶぞ。知らないぞ、私は」
店長はおかしそうに言って、煙草に火をつけた。彼女は美味そうに紫煙を吸い込む。
「跳ぶ? 何か見えたんですか?」
「ああ。見えたさ。こっちをしっかり見ていやがった」
堀は不思議そうに尋ねてくるが、店長にはもはや笑う事しか出来ない。
策も、術も、案も、何もかも関係なかった。一一は自分勝手な感情だけで空を跳んでいる。風の精霊を味方につけて、それだけではなく――――。
「いいさ、もう。私が口出ししたって聞きやしないんだ。好きにやって、好きな時に、好きなところで死ねばいい」
「いやあ、しかし、何故だか楽しそうですね」
「そう見えるか? お前の目も節穴だな、堀」
行け、と。店長は内心で呟いた。
ティモールは天を仰ぎ見た。
隻腕の精霊に抱かれた、いけ好かない勤務外が跳躍している。気持ち良さそうに、楽しそうに。が、高度が足りない。彼らの先には巨大な肉塊がそびえ立っているのだ。
ざまあみろと、そう思うはずだった。
「なんだこいつ、すげえでけえな!」
「……はしたない。よろしいですか、淑女とは」
「おっしゃオレが一番乗りだ! 邪魔はさせねえぞデカブツ、おらっ、おら、どきやがれえええええ!」
白い小袖と緋色の袴が翻る。疾駆するのは、まるで銀色の風だった。
「でええええええええああああああああっ!」
巨人の腹部に、勢いをつけた重たい一撃が突き刺さる。
ティモールは目を見開いた。彼の眼前で、巨人が呆気なく、仰向けに倒れていくのが見えたのである。倒したのは一人の女だ。彼女は晒しを巻いた拳を掲げ、豪快に笑っている。
次いで、
「猪突猛進とは正にこの事ですわね」
巨人の首部分に皮製の鞭が絡み付いていた。
その鞭を頼りにして、深い蒼を湛えたドレスが舞い踊っている。縦巻きにカールされた、ゴールデンブロンドの髪が風に揺れている。
「何の冗談だっつーの……?」
童話から抜け出してきたにしては、あまりにもお転婆過ぎる。プリンセスが抜いたのはレイピアであった。彼女は自らの得物を巨人の頚部に刺し込み、ぐりぐりと抉り回してから、一切の躊躇なく抜き去った。
「まあっ、実にすっきりと……!」
どろどろとした体液が大きく裂けた傷口から噴き出している。巨人はたたらを踏み、片膝をついたところで女によってとどめを刺された。
「していませんことっ!」
「――――――――――ッッッッ!」
耳朶を劈いたのは、獣の咆哮である。肉食獣を思わせる凶暴なそれが、戦場にいた者たちに襲い掛かった。死者の兵は制止し、巨人は緩々とした動作で、やがて動きを止める。獣の吠え声に驚愕したのではない。その声には、魔法のような力が込められていたのだ。
死者の兵が派手な音を鳴らすと共に、次々と地に伏していく。ソレらは脚を噛み千切られ、食い千切られているのだ。
「ハッ、ミーはこう見えてグルメなんだけどな。オーガニックじゃない、ゲテモノ食いにもほどがある!」
ティモールは死者の兵に駆け寄る事はせず、事態の推移を様子見する事に徹した。見えない何かが、自分たちに牙を剥いているのだ。得物の切っ先を向ける方向すら分からず、彼はただ唸り声を上げる。
「ほうら行きなリトルボーイっ、嬢ちゃんは任せたぜ!」
月を背に、灰色の獣がその姿を躍らせる。しなやかな跳躍は巨人の拳すら掠らせない。
「犬っころだと!?」
「違うね。ミーは……」
死者の軍勢に対して、凄まじい風圧を持つモノが向かっていった。
風は奔り、数多の音を掻き消し、砂埃を巻き上げて前進する。莫大な量のエネルギーがソレどもに衝突し、一緒くたになって弾け飛んだ。
砂煙が晴れるや否や、ティモールの死角から何かが飛来する。彼は咄嗟に避けると同時、その正体を見極めた。……鎖である。その先端には分銅のようなものがついていた。
「おや、こんなところに犬がいますね」
「わんわんわん! 違うってんだろ! って聞こえやしねえよな!」
「……勤務外か……?」
「勤務外ですって?」
膝をつくティモールをちらと見て、彼女は改めて、蔑むような視線を彼に向ける。
鎖を手元に戻し、酷薄な笑みを顔面に貼りつけたのは、薄汚れた本を抱えた少女である。彼女はセーラー服の上から鎖を巻きつけ、ハンチング帽と眼帯の位置を丁寧に直し、酷く鬱陶しそうに口を開いた。
「天上天下、世界で一番可愛いフリーランスを捕まえといて、何がイヌですか」
――――フリーランス!?
ティモールは現れた三人のフリーランスと、一匹の獣を見比べる。何故、この場に彼女らが顔を出したのかは不明だが、自分の敵に回ったのは確かなのだ。彼は気を入れなおして、剣の柄を握りなおした。
その刹那、あまりにも異質な風が吹く。刃風だと認識するより先、肌を刺す強烈なプレッシャーがティモールを振り向かせた。すぐそこまで、ぎらついた光を放つ大鎌の刃が迫っている。彼は地面を転がるようにしてその攻撃を避けた。ティモールはすぐさま体勢を立て直し、襲撃者を認める。
ティモールを見下しているのは、パジャマの上にコートを羽織った女だった。
彼女は感情の宿らない瞳でティモールをじっと見据えている。その隣には、肩で息をする若い女がいた。彼女は槍を杖代わりにして、必死の形相である。
「てめえもフリーランスってのか? それとも、勤務外か?」
大鎌を持った女は視線を動かさず、口だけを開いた。
「…………どっちでもない」
「あ?」
鎌が空気を、周囲の空間を切り裂く。唸りを上げる凶悪な形状の得物がぴたりと止まると、その切っ先はティモールに向けられていた。
「…………勤務外の私は終わったもの。あなたたちに終わらせられた。私は、ただの戦乙女。あなたは死ぬ。それだけ」
「寝ぼけた話しやがってよォ! 誰が誰を殺すんだって!?」
「私が。あなたを」
ティモールにとって目の前の女は死神なのだ。そう、彼自身が気付くのには、長い時間がかからなかった。
「なあ、今さっきさ、すげェ音がしなかったか?」
「ナナの方でも確認しました。どうやら、後方での戦闘が激化しているようです」
三森は獣じみた笑みを浮かべた。
「そうかよ、雁首揃えて臆病者やってる訳じゃあなかったって事か!」
死者の兵は尽きない。燃やしても、裂いても、貫いても、斬っても、磨り潰しても、死体に集るうじ虫のように湧き出てくるのだ。
だが、その一方で勤務外たちの戦意も尽きる事はない。
「でかいの来たわよ、みんな伏せて!」
巨人が腕を払う。それだけで土ぼこりが舞い上がった。立花がソレの腕部に刀を突き立てようとするが、別の巨人が彼女の動きを封じる。
断続する銃声に、三森たちの聴覚は麻痺しかかっていた。あるいは、とうに全身を巡る神経は麻痺していたのかもしれない。
増え続ける死人と動きを止めない巨人が、勤務外たちの体力をじわりじわりと奪い続けていた。気力だけを糧に、彼女らは戦闘を続行している。
「もう、ミツモリっ、とっとと燃やせばいいじゃナイ!」
「うるせェチビ。温存してンだ、温存」
「出し渋って死んだらそこまでってのも忘れないでよ」
三森たちにとっては、ソレの囲みを突破するだけならば造作もない。だが、その先で待ち構えているモノを考えれば、余力は残しておく必要があった。しかし、彼女らにはどれだけの力を使い、残せば良いのかが分からないのである。
二体の巨人が崩れ落ちる。
死者の群れが千切れていく。
ティモールは寝巻きの死神に追い詰められている。
「だから言ったろ」
「……あいつら、知ってるぞ。なんだよニンゲン、知ってたんならシルフ様にも言えばいいじゃんか」
障害のなくなった一とシルフは、集めた風を使い切るまで中空に留まり続けていた。
「なんとかなるもんなんだって」
「まあ、そうだけどさ」
一は楽観的だが、シルフには気がかりな点があった。それは、力を上手く使えていないという事である。彼女は巨人の攻撃を受けており、意識が乱れ、肉体の構成すら満足には行えていないのだ。加えて、一の『風遣い』は酷く荒い。付き合う自分もどうなのだとは思っていたが、シルフは溜め息と共に葛藤を押し流した。
「そろそろ降りなきゃダメなんだけどさ」
一は眼下に目を遣る。死者の兵がそこら中で蠢いていた。が、途中で降り立てられそうな建物は存在しない。全て、巨人どもが打ち壊していたのだ。
「あ、そこの電柱とかどうよ」
「無理だって、高さが足らないもん。もう、どうすんのさ。また風を集めなきゃいけないのに」
「……まあ、じゃあ、その辺で降りろよ」
その辺、と、一は指差すが、その先にはやはりソレが列を成している。
「死ぬ気かよ」
「その気はねえよ。足の一本くらいはいいけどな」
シルフは息を呑み、周囲の状況を確認した。だが、このままではソレの群れ、その中に飛び込むしかないのである。
情報部からの連絡が途絶える。藤原は安堵し、無線を地面の上に、並べるようにして置いた。
「さて、なんか色々言ってたが、車だの、部外者だのが入り込んでるとか」
藤原は思案するも、彼に決定権はない。店長に指示を仰ぐのが筋だろうと、藤原はゆっくりとした動作で腰を上げた。その瞬間に、彼の視界の端に映ったのは和装の女である。何者だと訝しげに思ったが、声を掛けるよりも早く、女は立ち去った。
「って、おい。おいマジかよ」
女が向かったのは、戦場である。彼女はわき目も振らず、細長い何かを手に駆け出していたのだ。止めなくてはまずいと、藤原は店長を大声で呼びつける。
「……ああ、藤原。今までどこにいたんだ?」
「てっ、てめえは……! 俺がどれだけ苦労を……いや、ちげえ。女が一人向こうに行ったろ? 止めなきゃやべえだろうが」
店長は紫煙をぷかあと吐き出して、傍らに立つ堀を見遣った。
「女? さて、私にはそうは見えなかったがな」
「いやあ、アレは鬼か何かの類ですよ」
「あるいは鬼子母神かもな。全く、わざわざこんなところまでご苦労な事だ」
のん気に話し込む二人を見て、藤原は怒りが霧散するのを感じた。どうやら、紛れ込んだのは一般人ではないらしい。そして、店長たちの顔見知りなのだ。つまり、普通ではないのである。
戦場の空気には慣れ親しんでいる。生まれた時から戦う事を宿命付けられており、自身が生きる意味と言うのは、正しくそれで、それしかない。縋るように他者の命を啜り、己を守る為にはやむをえない犠牲なのだと認識していた。
だが、今は違う。今だけは違う。この手に握った得物は、自分の為に振るうのではない。
「……黄泉比良坂を越えてきたような人たちですね」
立ち並ぶ死者の兵を前にしても、女は止まらない。
勤務外よりも、フリーランスよりも、灰色の獣よりも前へ、更に先を目指して疾走する。
「あぶねえぞ!?」
「って言うかまた誰だよ!? 勤務外か!?」
勤務外でも、フリーランスでも、ソレでもない。
女は白鞘から己が得物を抜き取った。現れたのは、透き通った輝きを放つ刀身である。彼女は身を低くし、掬い上げるようにしてそれを振るった。死者の脇腹から入った刃は止まらない。その勢いを殺さぬまま、隣の死人の腹までも両断する。
「波遊ぎでも持ってくればよかったかしら」
血振りをすると同時、女は死者と死者、その間の狭い空間に身を滑り込ませる。その位置から回転するように刀を振るった。四方、八方へ向けられた斬撃をかわせるソレはいない。彼女は一度斬ったモノに興味を持たない。前を見据え、姿勢を低くし、短い跳躍を繰り返して距離を稼ぐ。そうして、邪魔になるソレを切り伏せて進み続けるのだ。
自分の為ではない。
最後に残った愛を注げるかもしれない、そんな人物の為に戦いに来たのだ。
「待っていてくださいな、あなたっ」
「ナナちゃん、そっちからも敵が……くしゅんっ!」
「可愛らしいったらないわね。あざといけど」
「ええ、あざといですね」
「アザトース」
「きっと誰かがボクの噂を……はじめ君かなあ、えへへぇ」
降下する一は、思わず目を瞑った。地上の死者が手を伸ばしている。自分を、殺そうとしているのが分かったからだ。
「知らないぞ、ホントに降りるからな!」
涙声のシルフを落ち着かせようとして一は口を開いたが、結局、震えるばかりで声は出なかった。目を開けた時、首を失った死者の兵が見えて、彼は絶叫する。
「あ、あなたっ!」
「……は?」
地上には、和装の喪服を着た女がいた。彼女は手を振ろうとしているのだが、同時に刀を振り回す事にもなっていて、近くにいたソレは見るも無残な姿に変え果てられていた。
「な、なんだあいつ? 知ってるのかニンゲン?」
「い、いや……」
見間違うはずはないが、何故、九州に戻った立花新がここにいるのかが理解出来ず、一は着地するのを必死で拒んだ。嫌だ嫌だと首を振る。
「嫌とはなんですか!」
「だ、だって!」
「蜜月を! 照れずに降りていらっしゃいな。結婚! 私たちは、真に分かり合えたのですから。何を恐れる事が初夜! ありましょうか。さあ、一さん。いいえ、私の旦那様。共に娘を迎えに子沢山! 行きましょう」
言語中枢が故障している新の周囲には、死者の兵の体が飛び散っていた。
「理性ってもんがないんですか!?」
「愛の前では無力です」
「駄目だ話が通じない。……シルフ、風を集めるんだろ? 次に跳べるまではどんだけかかる?」
「ちょっとだけ」
そのちょっとが、自分にとっては命取りになるかもしれないのである。一は足をばたつかせて、地上に辿り着くまでの時間を少しでも稼ごうとするが、
「えい」
「ひっ」
両足を新に捕まれ、引きずり落とされてしまった。シルフは、一を強引に引きずる新をねめつけたが、彼女の眼力をまともに受けて黙り込んでしまう。
新は一に馬乗りになり、たおやかな微笑を浮かべた。
「真から連絡がありまして」
「は、は、はあ……? いや、それよりも、あの」
「なんでも、マルスとかいう神との決戦に臨む、とか。流石は私が唾をつけただけは、そう思って、ひしと耐えようとしていたのですが、恋慕の情に逆らえる人間などどこにいましょうか。いてもたってもいられず、こうして馳せ参じたというわけです。あの……はしたないと思わないでくださいね」
「思うに決まってんだろ!」
「さーてヤる事さっさと済ませちゃいましょうか」
「いやだあああああああ!」
新は暫くの間一を見つめ、時折、近づいてくるソレを血祭りに上げていたが、ふと、困ったような笑みを見せた。
「……いけませんわね。どうも、照れ隠しが過ぎたようです」
困り顔を見せられた一の方が困っている。が、彼は何も言わないでおいた。
「ふう、本当は、あの子がどうしているか気になって、つい、ここに来てしまったのです」
「……そ、そうですか。それはよかった」
「でも、子供の喧嘩に親が出張ってはよそ様にどう思われるか不安で仕方なく……」
神との決戦を子供の喧嘩と言ってのける新を、一は改めて恐ろしいと感じる。彼はさり気なく彼女を押して、シルフの傍に立った。
「一さん、私はここで気持ちを落ち着けてからあの子を見に行きます」
「えーと、お一人で大丈夫ですか?」
「まあ、お優しいこと。ですが心配はいりません。私を誰だと思っておられるのですか? 熟れても『立花』の五代目です。ソレに遅れを取るような事はありません。……それよりも、そちらの女性は?」
新はシルフを流し目で見遣る。シルフは怯えたように肩を震わせた。
「ああ、見てれば分かりますよ。シルフ、そろそろ行けるよな?」
「うん? うん、うんうん、早く行こう! な!? もう行こう!?」
シルフは一を後ろから抱きすくめ、足元に風を集約させる。そうして、大した間も置かずに空中へ飛び出した。
残された新は興味深そうに、中空へと滑り出した一たちを見つめている。
「精霊すらも使役するとは……ふ、ふふ。本当、私の目も冴えていますね」
怪しげな笑みを湛えた新は、背後から忍び寄るソレの首を斬り飛ばした。
剣と鎌が衝突し、闇夜に火花を散らす。
ヒルデはアスファルトを削りながら、鎌を振り上げた。ティモールは受け止められないと判断し、バックステップで距離を取る。だが、彼女はすかさず追撃体勢に移る。
「くっ、うお、うおおおおおお!?」
無言で追い詰められ続け、ティモールは恐怖を紛らわせる為に怒声を放った。
――――よりにもよって!
「このオレがビビっちまってるってのか!?」
鎌を薙ぎ、払い、時には突く。ヒルデは表情を変えないまま、しかし、唇を強く噛み締めながら得物を振るっていた。
ヒルデは、叫びたいのである。感情の赴くまま、獣のように怒りを発したい。だが、そうはしない。強過ぎる怒りは腕を、思考を鈍らせる。『痛いほど』理解しているのだ。だから、声を荒らげるのはとっておく。
「なんとか言えやてめえは! なんだ!? なんだってんだ!? オレが何をしたってんだ!?」
ティモールは自分たちのやった事を知っている。南駒台店の人間を悉く殺害したのを覚えている。しかし、その場にはヒルデも、シルトもいなかったのだ。彼は殺意もなく、笑顔で人を殺せる。一方で、覚えのない殺意を、謂れのない敵意を向けられる事には慣れていなかった。
「オレが! てめえに! 何を!」
「…………なんとか」
カッとなって切りかかるティモールだが、その動きがぴたりと止まる。動けないのだ。
ヒルデから放たれる静かな殺意が、ティモールを躊躇させている。
「バカじゃん、あんた」
死者の兵の顔面を貫き、つまらなさそうにそれを放ったシルトが、ティモールを見遣った。
「私らもさ、人間なんて結構殺したようなもんだし、そういうもんもたくさん見てきたよ」
「だから、なんだってんだ?」
冷や汗を流しながらでティモールは尋ねる。
「えーと、だから、アレ。うん。そう」
シルトは一人で納得し、おかしそうにティモールを指差した。
「ヒルデさん怒らせるヤツなんかそうはいないって話。ま、どうなるかはあんた次第だよね」
「……は、そうか。てめえら、南駒台、オレたちがぶっ殺してやった連中の仲間って訳だ」
ヒルデの肩が僅かに動く。
「あー、あーあーあー殺したぜ。そうかそうか、敵討ちってヤツか。……大変だよなあ、弱いってのはさ。でも、ま、オレらにとっちゃあなんでもいいのよ。要は、気持ち良くなれりゃあそれでよしなんだからな。その点、てめえらの仲間は最高だったぜ?」
「…………そう」
「いーい具合だったあ。程よく弱くて、いてえいてえと喚きやがる。んでもって、サイッコーな、ま、具合だったわ。女の命乞いってのはそそるそそる。泣かせるに限るぜ、ああいう手合いはな」
「…………そう」
「あ?」
大鎌が唸りを上げた。大振りの一撃はティモールを驚かせたが、それだけである。当たるはずもなく、虚しく空を切るに留まった。
ヒルデの視線は鋭く、見るものを底冷えさせるほどに恐ろしかった。彼女は両腕にあらん限りの力を込めて、怨敵を打ち破らんとしている。
「うわ、キレちまったかよ。けどな、割と真面目に言ってんだぜオレは。オレを楽しませて死んだんだし、最後の最後で女としての喜びっての? そういうの感じてたんだし、本望ってもんだろうが」
振り回される鎌を、ティモールはへらへらとしながら回避し続ける。
「男はしらねーけどな! オレにゃあそんな趣味ねーからよ、ひゃひゃひゃ!」
「…………こ、ろす……!」
もはや、感情を抑える事は不可能だった。ヒルデには理解出来ない。他者の命を奪うだけでなく、弄ぶような精神が。理解しようとも思えなかった。
ヒルデの攻撃を鈍らせているのはティモールへの憎しみだけではない。彼女は、自らをも憎んでいた。……何故、その時に店にいられなかったのか。何故、もっと早くに戦場に来られなかったのか。同僚を、金屋を助ける事も出来たかもしれないのだ。なのに、自分は選べなかったのである。寒空の下で泣き濡れて、戦うのを恐れていたからだ。
「う、ああっ……!」
ヒルデは、自分自身を許せなかった。
「いいなあ、その顔がよォ! ビビって泣きまくるのを想像しただけでっ、いきり立っちまうぜえ!? なあっ、おい!」
シルトは手を出せなかった。ヒルデとティモールの戦闘についていけない、と言うわけではない。ヒルデは言ったのだ。自分が、殺すと。ならば、少なくとも今は見守るだけだ。
「……こんな展開になるなんてね」
周囲では、見ず知らずの勤務外や、フリーランスたちがソレとの殺し合いに勤しんでいた。怒号と剣戟、悲鳴と金属音が懐かしく、妙に心地よい。
「けどあいつ、つめてえなあ。私らが来たんだから、声の一つや二つはかけろっつーの」
飛び立った一を思い出し、シルトは不機嫌そうに鼻を鳴らす。同時に、よかったとも思った。流石に、今のヒルデを彼に見られたくないと、気がかりでもあったからだ。