アラクノフォビア再び
一はただ見ている事しか出来なかった。見ている事だけしていたかった。
見て、いたかった。
演舞。
三森が拳を振り上げる。蜘蛛が燃えた。
三森が拳を振りかざす。蜘蛛が焼かれた。
三森が蹴りを繰り出す。蜘蛛が灼かれた。
演武
――炎舞。
三森の周りには火の粉が舞い落ち、蜘蛛の欠片が舞い落ちている。炎を体に纏わせて、怯え狂う蜘蛛たちに向かっていく。怒りや憎しみと一緒くたにして、打撃をぶつけていく。アスファルトを溶かしながら、蜘蛛を溶かしながら彼女は進む。
それは暴力で暴虐で暴戻の化身だった。
やがて、三森を取り囲んでいた蜘蛛の数は、両手の指で数えられるくらいに減っていた。あるものは怯え、あるものは竦み、あるものは後ずさり、あるものは怒りを露わにして向かってくる。
三森は決して緩めない。歩みを止めはしない。
「どうした? ビビってンじゃねぇよ、来いよ」
蜘蛛に人間の言葉で挑発をかける。
通じる筈もない。
蜘蛛たちは三森と距離を保ちながら、それでも三森への包囲だけは解かなかった。
三森はソレに近づきながら、ジャージのポケットに手を突っ込む。取り出したるは、赤い箱。突っ込んだ右手だけ、器用に炎を消しながら箱を燃やさないようにして。
そうして箱の中身を口に銜える。
煙草だった。
頭を振って、火の粉を散らす。その中でも割と大きめな火の粉に目を付けると、鷲掴んで、煙草に押し当て火を点けた。退屈そうに煙を口から吐き出し、首の骨を鳴らす。
「つまンねぇなあ、所詮は虫かよ」
三森はそう言って、まだ燃え残っている蜘蛛の遺骸に唾を吐き捨てた。
煙草を銜えたまま、今度は両手をポケットに入れる。
そうして、肩で風を切るように歩き出した。
向かうは標的、向かうはソレ、向かうは敵、向かうは蜘蛛。
真っ直ぐに炎が進む。
その姿はまるで。
そう、まるで。
「ヒロインからはかけ離れてるわよね」
そう呟いて、糸原が地面に座り込む。
「え? 何がですか?」
「別に。それより、なんかもう余裕ね、目には目を、化け物には化け物って奴だわやっぱ」
皮肉っぽく糸原が笑った。
それを見て、一が微妙な表情になる。
「三森さんは、俺たちを助けてくれたんです。そんな言い方無いでしょう」
「るっさいわね、あのヤンキーが仕事サボってなきゃ、私はこんな怪我しなくて良かったのよ」
あんただって、と言い掛けた所で糸原が口をつぐんだ。
「あー、何でもないわ」
「……そうですか」
再び一が黙り込む。
その様子を見て、糸原も静かになった。
そして、再び一が魅せられる。
あの炎、あの動き、あの人。
一度ソレと戦ったからこそ、やっと一には分かった。
――凄い。
世間では騒がれ、一般人には疎まれ蔑まれ、ソレと戦う存在。人間の敵と、自身の命と金を賭けて戦う勤務外。異能の、異常の力を持つ化け物。
一もつい先日まではそう思っていた。
勤務外は、化け物だと。
事実、何一つソレと戦う力を持っていない者からは、そう見えるのだろう。
だが今の一はそうは思っていなかった。
立ち上がり、夢遊病患者のように、ぼうっと一点を見つめる。
その一点こそ三森冬。
一の視界では、また一匹三森が蜘蛛を仕留めている所だった。
まるで、テレビの中のアニメヒーローでも見ている感覚を一は覚える。
遠い国のお姫様。ブラウン管の中のスーパーマン。蜘蛛と戦う勤務外。
そんな一を、糸原は冷たい目で射続けていた。
凄まじい音を立て、オンリーワン北駒台店の前に、黒いワゴン車が止まった。
店の前とはいうが、殆ど道路の真ん中である。
「堀か」
呟き、店長が目を細めた。
「ああ、あの……」
意味ありげに梟が笑う。
落ち着いている二人だった。
ややあって、勢いよくドアが開く。
「どうなってますか!」
堀だった。
「説明すんのが面倒だ」
店長が煙草に火を点けながら、本当に面倒くさそうにぼやく。
「そんな事言ってる場合ですか!」
「分かった、分かった。おい、説明してやれ」
「……私が?」
梟が、嫌よ、と白い顔を背けた。
「蜘蛛は? もう片付けたんですか!」
「落ち着け堀。糸原と一が行ったし、三森も何だかんだで現場に向かってるだろ。問題ない」
店長が遠い目をしながらそんな事を言う。
「一君が? どういう事ですか、って何だか店長。もうどうでも良いって顔してますよ」
「当たりだ。もう皆死んじまえ」
「なるほど……あなた絡みですか……」
と、眼鏡の位置を直しながら、堀が梟に話しかけた。
梟、アテナは何も言わない。
「とにかく私も現場に向かいます。ですが、あの子達に手土産の一つも無いのでは社員失格ですよ。アテナ? あなたの事です、何か隠している事はないんですか?」
ふっ、と軽く笑って、アテナが堀を睨みつける。
「……アラクネ」
土蜘蛛の数は残り四体にまで減っていた。
三森を囲むようにして、じりじりと蜘蛛が距離を詰める。
そんな状況で、三森は不適に、不敵に笑う。三森がすぅ、と息を吸い込むと、銜えていた煙草が短くなった。煙を吐き出しながら、吸殻を吐き出す。吸殻は火の粉を散らせながら音を立て、地面に落ちた。
ポケットから右手だけを出して、肩を回す。
落ち着いた雰囲気の三森を見て、焦れてしまったのだろうか、土蜘蛛の一体が三森に襲い掛かった。
繰り出される足。
何かが弾ける音。
三森の体に纏わり付いていた炎が大きくなる。
蜘蛛の足が三森へ届く前に、その炎の熱によって足が焦げる、溶ける、無くなる。足を失った蜘蛛はバランスを取れずにふら付く。大儀そうに三森がその蜘蛛へと近づき、蜘蛛の頭部に当たる部分へと拳を叩き付けた。テレフォンパンチだったが、そんな事は関係ないし問題にもならなかった。蜘蛛の頭部、と言うか体半分を根こそぎ奪う威力で、勢いが止まらず、地面にまで三森の拳が突き刺さる。
半分になった蜘蛛は、痙攣のような動作を見せた後、やがて動かなくなった。
隙だらけの三森に、別の蜘蛛が背後から攻撃を仕掛ける。
足音のお陰で三森は奇襲に気が付いてはいたが、後ろを振り返らずに、ポケットから左手を抜き取り、そのまま裏拳。三森の左手は、蜘蛛の目玉を貫いていた。だが致命傷には至らない。そう悟った三森は左手に力を込める。蜘蛛の体の内側にまで拳を食い込ませると、左手を発火させた。蜘蛛が自身の内部から焼かれる。やがて、三森が蜘蛛に出来た傷口を掻き回しながら、拳を引き抜いた。堪らず、蜘蛛が悶絶し、後ずさった。
そんなソレを横目に、三森が地面から、右腕をゆっくりと引き抜く。振り返って、退屈そうに、つまらなさそうに蜘蛛を一瞥し、一歩踏み込んだ。ミディアムレア状態の蜘蛛へケンカキック。蜘蛛の体が内側から外側から壊れて、ばらばらになって四散しながら吹き飛んだ。
ソレを二体仕留め、息をつく三森の肩に鈍い衝撃が走る。
三森が鈍く痛みを訴えている肩を見ると、蜘蛛の足が乗っていた。
「やりやがったな……」
三森は低く呟き、その足に手を伸ばし、掴み上げる。全身に力を込め、そのまま蜘蛛を持ち上げた。半分中空に浮かされている蜘蛛は、手足をもがきながら抵抗をしている。
蜘蛛が掴まれている八本の内の一本は、ギシギシと音を立てて、三森の握力によって痛めつけられていた。
残った最後の蜘蛛が捨て身で向かってくるのを確認して、三森が持っていたソレを投げつける。衝撃と衝撃とがぶつかり、蜘蛛の体がひしゃげた。
三森は、もう動けそうに無い二匹の蜘蛛に歩み寄り、手を差し伸べる。その手から火花が散り、辺りには光が放たれ、蜘蛛の体からは黒煙が立ち昇った。
「さァて、残るはデカいのが一匹か」
さっきまでの土蜘蛛とは、比べ物にならないほど大きい蜘蛛を見ながら、楽しそうに三森が言う。三森の右手が熱を帯びる。轟々と炎が唸りを上げて揺らめく。爪先で地面を蹴って、頭を下げ、姿勢を低くし、蜘蛛の元へと踏み出した。距離は二十メートルも離れていない。すぐに大蜘蛛の懐へと潜り込み、右手を突き出す。
蜘蛛は避けようとも、受けようともせずに三森の攻撃をもろに食らった。
――あぁ?
あまりにもあっけない幕切れ。
感じすぎた手応えに三森が呆けてしまうほどだった。
カーテンコール。
閉じていく緞帳を、蜘蛛の足が阻む。
手応えはあった、あったが、それはあくまで三森の感覚でしかない。攻撃を受けた大蜘蛛はどうだったのか。
効いたのか、効いていないのか。
三森の横っ腹を、大蜘蛛が足で薙いだ。完全に防御を忘れていた三森が、抵抗も出来ずに地面を転がる。這いつくばってからようやく、三森が呻き声を上げた。
……三森の身体能力は常人のそれを遥かに凌ぐ。防御をしなかったとはいえ、並のソレ程度の力では三森に傷を負わせるのは難しい。その上、蜘蛛はソレの中でも低ランクに位置づけされている。知恵が無い事、武器が無い事が理由に挙げられるが、その蜘蛛が勤務外に、しかもオンリーワンでもトップクラスの実力を誇る三森にダメージを与えたのだ、腕力だけで。
「……やばいんじゃない?」
糸原が一に声を掛ける。
一はすぐに言葉が出てこずに、ええ、とか、はい、何かで答えを濁した。
「鎌鼬や釣瓶落としの時とは違うのに……」
「何それ? 日本の妖怪よね?」
ええ、と一が返す。
「前に三森さんが倒したソレです」
「で? 今あいつがぶっ倒れてる事と関係あんの?」
少し顔を引き攣らせながら、糸原が三森を指差した。
「……俺が居ないんですよ。俺が居ないのに、三森さんがやられてる……」
「あんたって、たまーにわかんなくなるわ」
糸原のぼやきを聞き流しつつ、一が以前の戦闘の事を思い出す。
釣瓶落とし、鎌鼬。
一が目撃した、三森とソレとの戦闘記録。
つまり、どちらの場合にも、戦闘の場には一が居た。
勤務外ではない一が。一般人の一が。力を持っていない、つまりは役に立たない、足手まといの一が。
だが、今三森は一を守る必要もなく、足手まといに邪魔される事もなく、言うなれば枷の嵌っていない状態で戦えている。何も気にすることなく、ソレとの戦闘だけに力を注げる状態。
その状態の三森が、倒れている。
虫は良く燃える、と。
三森の能力を考えた相性の上でも、ランクでも、絶対ではないが、ほぼ負けるはずの、傷を負うはずもない戦闘で。
――痛ェ……。
腹を摩りながら、三森が顔を苦痛に歪める。
骨は折れているのか、中のモノは無事なのか。それすらも分からない。
込み上げる吐き気を耐え、何とか顔だけ上げて、ソレのいる場所を確認した。
居る。
さっきと変わらない場所で、悠然と、勝ち名乗りを待っているかのように立っている。
「……なめやがって」
なぜ、止めを刺しにこないのか、相手が油断をしているのか、それとも自分が舐められているのか。決まっている。舐められている。
大蜘蛛からすれば、三森が幾ら実力のある勤務外とだとしても、それでも、餌である人間の中の一人に過ぎない。
三森の体が熱くなる。
怒りで、憎しみで、恨みで、怒りで、恐怖で。強く、堅く、血が出るほど拳を握り締める。
「やってやろうじゃねェかよ!」
少しふら付くが、立ち上がり、声を荒げ、三森が再び蜘蛛へと向かった。
蜘蛛の視界には、確実に三森が入っているはずだが、気にする事もなく、蜘蛛はなぜか一の方を向く。
まるで何かを欲しているように、望んでいるように、焦がれているように。
――まるで、恋焦がれているように。
赤く、紅く瞳を輝かせながら。
「アラクネ?」
堀ではなく、店長が訝しげにアテナを見た。
「……人の名前、ですか?」
今度は堀が尋ねるが、アテナは口を閉ざし続ける。
ちっ、と舌打ちして店長が煙草を投げ捨てた。
「おい、黙るな。答えろ、アラクネとは何だ?」
神に対してもこの傲岸不遜な物言い。
堀は少しばかり恐怖した。二ノ美屋店長に。
「……別に、大した事じゃないわ」
「なら言え」
と、店長が視線を鋭くさせ、アテナを責める。
やれやれ、と息をついてアテナが重たそうに口を開いた。
「大した事じゃないわ。私のキライな女の名前よ」
「女の名前? 何だ、ホントに大した事ないじゃないか。損したな」
店長が暢気にそんな事を言う。
ただ、堀だけが深刻そうな顔をしていた。
「いえ、待って下さい。確かアラクネとは、ギリシャの……」
「あら、私たちの方も知っているの? 博識ね、信じられないわ」
アテナが堀の言葉を茶化すように、軽やかに言う。
「あなた、とんでもない事を私たちに黙っていましたね」
「堀? 何の事だ?」
「……アラクネとは、蜘蛛にされた女の名前ですよ」
「……おいおい、何を……」
言いつつも、店長は嫌なものを堀の顔から読み取っていた。
「そして、蜘蛛にした張本人が」
「懐かしい話ね」
遠い目をしながらアテナが呟いた。
そんな感慨深い表情をする鳥を見ながら、店長は、これから死ぬまで梟を見たらついつい殺したくなるんだろうなあ、なんて思っていた。