カウンターアイデンティティ
狂人が首を素手で薙がれた。
野獣が串刺しにされていた。
マルスに組み伏せられたフレイヤは、覚悟を決めた。彼女はこれから起こるであろう自身の不幸を想像する。それでも、決意は揺らがなかった。
「お? おいおい何笑ってんだ。これからてめーはあひんあひん喘ぐだけなんだからよ。とりあえず泣き喚けって。そっちのがそそるんだよ、オレ様はな」
「退きなさい、ゲスが」
「おおおおおおおおっ!? おっ、おおおお……」
一瞬の隙を突き、フレイヤが膝を立たせる。マルスの股間に命中し、彼は奇声を上げて飛び跳ねた。マルスは地面をごろごろと転がりながら泣き喚いている。
「てっ、めえええええええ! やりやがった! やってくれやがったなコラアアア! 使いもんにならなくなったらてめえだきゃあ! てめえだきゃあただじゃあすまさねえぞ!」
フレイヤは右耳の大きなピアスを摘み、それを捩った。ぱきん、と、乾いた音を立てて、ピアスが二つに分かれる。中に仕込んでおいたのだろう。出てきたものを握り締め、彼女は自嘲気味に笑む。
「これだけは使いたくなかったのに」
開いた掌にあるのは、三つの錠剤であった。それは、南駒台店の勤務外店員に配っていたのと同じものである。即ち、狂戦士、野獣に変化する『魔法の』薬だ。フレイヤは躊躇わず、三つ全てを口に運び、一息に飲み込んだ。
「……なんだ、それ。今、何を飲んだんだ、てめえ」
マルスは立ち上がろうとするが、激痛の為か動けなかった。彼の情けない様を見て、
「色に走るからああなるんだよ」
「バッカ、すげー痛いんだぞアレ」
「これだからアニキは……」
「写メ撮ろう。写メ」
外野が好き勝手に口を開く。
「よくもっ、よくも私を……っ、あっ、あがっ……!」
苦しそうに喘ぎ、フレイヤは自らの胸を掻き毟る。
「てめえ、まさか毒を!」
「おっ、が、があっ! そっ、な、訳ない……わだしはぁ……」
瞬間、フレイヤの右腕が爆発的に膨れ上がった。マルスは目を見開く。彼女は膨れた腕を見遣り、厭世的に笑んだ。
次いで、フレイヤの右足が肥大化していく。マルスは諦めたかのように、その場に座り込み、アスファルトを殴りつけた。放射線状に砕ける地面を見つめると、彼は破片を拾い上げ、それをぐっと握り締める。
尚も、フレイヤの肉体は変化していく。筋肉が増大し、膨張する。彼女は勝ち誇ったかのように笑った。同時に、マルスはアスファルトの破片を投擲する。フレイヤの額に命中し、彼女の頭部が弾け飛んだ。
「……クソが。つまらねえ真似しやがって。興醒めだぞチクショウ」
力なく倒れていく女神だったモノからは目を逸らし、マルスは怒号を放った。
女神は死に、三体の巨人が家々を破壊しながら闊歩する。もはや、進軍ルートを二つに分けた意味などなくなり始めていた。
「クソがっ、また逃げやがった!」
刃物で足を切りつけても、銃で胸を撃っても、巨人は止まらない。
戦場に出た四十九人の勤務外の内、戦場に留まっている者は半分もいなかった。踏みとどまって戦うも、巨人の重圧に恐れをなして、また一人逃走を始める。司令部からの指示もなく、各々が戦意を振り絞って、どうにかその場に立っているというのがやっとの有様だった。
一体目を撃破したナナも、二体目、三体目の巨人には苦戦している。……狂戦士と野獣の肉体を利用して創られたソレは、先の巨人よりも手強くなっていたのだ。
そして、死者の兵、その軍勢も数こそ減っていたが消えた訳ではない。巨人の進撃に伴い、死者の兵も歩みを進めている。勤務外は巨人と、死者の攻撃に注意しながらの反撃を強いられていた。
「皆さん、伏せてくださいっ」
巨人が拳を振るう。腕で勤務外たちを払おうとする。勤務外は必死になって身を低くし、頭上を通り過ぎる恐怖から、更に身を縮ませた。
「どおおおおおすりゃいいってんだよおおお!?」
溜飲が下がるとでも言うべきか。自分たちを苦しめてきた勤務外が、得体の知れない、ただの肉塊に苦しめられている。『館』の魔女であるランダは使い魔との接続を切り、視界を元に戻した。
「どうでした、師匠」
「どうもこうもないよ。突っ込んでった勤務外どもも死んじまったし、こっからでも見えるだろ? 巨人はまだ暴れ回ってる」
「お家が壊されて、戻ってきた人は可哀想ですね」
「ありゃあ、遮二無二暴れてるだけじゃあなさそうだね。あの包帯女、障害物を退かして、一気に攻め込んじまおうって腹だよ」
ランダが言うと、姫はにいっと口元を歪める。
「じゃあ、勤務外がいっぱい死にますね」
「ソレもたくさん死ぬだろうね。……あんたのお気に入りも死ぬかもしれないんだよ?」
「あの女はそう簡単にはいきませんよ。それに、いっぱい死ねば、その分邪魔者は減るって事じゃあないですか」
くすくすと笑う姫からは顔を背け、ランダは再び使い魔との視界を接続した。
ぼんやりとではあるが、店にいる一からでも巨人たちが見えた。ソレは家を薙ぎ倒し、塀をすり潰しながら前進してくる。恐らく、マルスたちは戦力を分断させる事を嫌ったのだ。邪魔な物を破壊し、残存戦力を真正面からぶつけてくるに違いない。そこまで想像して、彼は顔をしかめた。じわりと、じくりと、恐怖が心を侵し始める。すぐにでも逃げ出したい。だが、精一杯の勇気で誘惑を断ち切っていた。
「よしかさん! よしかさん、あの、駒台の店長が呼んでます」
血相を変えて戻ってきた石見が、店長を指差している。一は眉根を寄せた。いったい、店長は出雲店の勤務外に何をさせるつもりなのか、そも、彼らに何が出来るのか気になったのである。
「おや、そうかね。まあ、致し方ないか。切れる札も残り少ないらしい。我々も覚悟を決めようじゃないか」
「……あなたたちは他の勤務外とは違う。何者ですか? 何を、しようって言うんですか」
「ありきたりだがね、説明は後にしよう。今はただ、そこで見ていたまえ」
柿木が店長のもとへ、ゆっくりと歩き始める。彼女の背を、桜江と石見が追いかけた。
この状況下で何が出来るものか。ひっくり返せるようなものが、どこにあるのか。一は暗い気持ちを抱えて、彼らを見つめていた。
出雲店の三人が店長の前に立ち、彼女の言葉を待つ。店長は短くなった煙草を捨て、ゆっくりと顔を上げた。
「すまんな」
「……案外、殊勝だね」
「一世紀にも渡り、溜め込んだものを吐き出させてしまうんだ。殊勝にもなる。正直、お前たちを使う事はないと思っていたが」
柿木は用意しておいた錫杖で、地面を一度だけ叩く。
「力というのは、腐らせても仕方のないものだと思っている。百年近くも溜め込んでいたのは、こういう時の為なのだよ。そうは思わないかね?」
「この借りは返す。必ずだ」
「畏まる必要はない。どうやら、私が思っていたよりも、あなたは自分の事を分かっているらしい。ならば、あなたはそこで偉ぶっているといい。それがあなたの役目なのだから。……桜江、石見。二人とも、手筈どおりに」
桜江は頷き、柿木から錫杖を受け取った。石見は双眼鏡を首から提げ、こくりと頷く。
「これを使うのは私も初めてでね。文献で一通りは学んだのだが。前線に立つ勤務外には悪いけれど、繋げるまでは時間を稼いで欲しい。頼めるかね」
「了解した。条件は整いつつある。よろしく、頼む」
シャク、シャク、と。音が鳴る。一定のリズムで錫杖を打ち鳴らしているのは桜江だ。彼女は目を瞑り、眉根を寄せながら錫杖を鳴らす。
柿木は桜江の傍に立ち、涼しげで、厳かな音色に聞き入っていた。店前にいる誰もが、声を発する事を躊躇っている。この場にいる者には、前方からは叫び声、巨人が暴れる音が聞こえてはいるが、どこか、遠い世界の出来事なのだと感じてもいた。
シャク、シャク、と。
「……まだ、見えねえっす。よしかさん、少し右へ」
双眼鏡で何かを覗いているのだろう。石見の指示したとおりに柿木は動く。
何が起ころうとしているのか。それを確かめるべく、一は店長の傍に腰を下ろした。
「喋っても、いいんですよね」
「ん、ああ。問題ない。まあ、話をしづらい雰囲気ではあるがな」
「あの人たちは、何をするつもりなんですか」
店長は煙草を摘み上げたまま黙っている。結局、彼女はそれに火をつける事をせず、口に銜えるに留まった。
「前に言ったな。九州にはオンリーワンの支店がないのだと」
「確か、立花さんちがあるからですよね。昔からの退治屋ってのが、向こうじゃあ強いと聞きました」
「そうだ。……柿木たちはオンリーワン出雲店の勤務外だ。出雲店はな、本州最西端の支店で、最後の砦でもある」
一は黙って、話の続きを待った。
「……日本神話を齧った事があるなら、そうでなくとも、ヤマタノオロチ、因幡の白兎、大国主など、出雲神話は有名だろう。柿木たちが住む場所は歴史、文化遺産にも恵まれ、神話のふるさととされている。ある意味重要な土地なんだ」
――――ヤマタノオロチか。
以前、出雲について山田から聞かされた事があったので、一は口を挟まなかった。
「神無月は知っているな? 旧暦の十月だ」
「確か、その時期には出雲大社に神様が集まるんですよね。出雲以外から神様がいなくなる。だから神無月って」
「出雲大社に神が集まって何をするのかと思えば、縁結びの相談をしているそうだ。だが、よその地域から神がいないのでは困る。そこで、留守神と呼ばれるモノも現れたというわけだ。十月に、恵比寿神を祀る恵比寿講があるだろう? あれは、恵比寿が留守を守っているからだ」
内心でくだらないと笑い飛ばし、それでも一は真剣な顔を保つ。
「しかし、出雲では十月に神が集まる為、神無月だけではなく、神在月とも呼ぶんだ。稲左浜では旧暦の十月十日、神様を迎える神迎祭が行われる。ついでに言えば、神様を送り出す神等去出祭とやらもあるそうだ」
「諏訪大社の近くも、神在月なんですよね」
「ほう、よく知っているな。……『神社』にでも聞いたか?」
「ええ、まあ。諏訪大社の神様が大き過ぎて、出雲に集まった神々が気を遣ったんですよね」
「そうだ。わざわざ来なくてもいいから、とな」
一が煙草に火をつけたのにつられたのか、店長も紫煙を吐き出し始めた。
「出雲店はな、オンリーワンも重要視しているんだ。何せ、日本の神々が集まる土地だ。昔話だと笑い飛ばすには、我々の仕事はそういうモノと関わり過ぎているからな」
「なら、あの人たちにもそういうモノが?」
「いや、神は味方しない。直接的にはな。だが、出雲には神が集まる。……力というものが集まるそうだ。彼らはオンリーワンが生まれるよりも前から、我々が生まれるよりも前からずっと、神の残したものをかき集め、溜めてきたというわけだ。私は疑り深いから、全面的に信用している訳ではないが」
神の力。
八百万の神々が残したモノ。
柿木たちは、その力を使おうとしているのだとは分かった。だが、一には想像出来ない。幾年も積み重ねてきたものの価値を。その実態を。
「凄そうってのは分かりましたけど、それだけの力をどこに溜め込んでるんですかね」
「柿木だよ。彼女の家系はな、代々、神様に近いらしいんだ。自らに力を溜め込める。柿木の先祖も、ひっそりと力を使ったんだろう。百年ほど前に、か。……だからこそ、彼女も勤務外となったのだろう。……どう考えても、現代じゃまともじゃあないからな」
「まあ、確かに。でも、俺たちはまともじゃない人たちに命を預けてる訳です」
「違いない。我々もまた、まともではないのだからな」
ぼうっと、柿木の意識は薄まりつつあった。
錫杖の打ち鳴らす音だけが、現世と柿木を繋いでいる。
「…………ふう」
眠ってしまいそうだったが、彼女は堪えた。
……そも、錫杖の音は必要ではないのである。雰囲気を作る為に音を鳴らしているに過ぎない。必要なのは、柿木の睡眠する、その一歩手前の状況なのだ。神々の力、その残滓を利用するには、あの世とこの世、意識と無意識、曖昧で不確かな境界線上に立つ事が不可欠である。眠りにつく寸前が、最も力を扱える状態なのだと、柿木は認識していた。
ここに来て、柿木の体にはべったりとした不安がまとわりついていた。神の残した力、その一部を使う事はこれまでにもあったが、大掛かりな技となると、今回が初めてである。文献を紐解き、先人から話を聞いた。だが、失敗すれば今までに溜め込んだ残滓を失うだけでなく、マルスたちとの戦闘がこれまで以上に不利になるのだ。
――――期待されるというのは、随分と疲れるものだ。
「よしかさん、もうちょいだけ右っす」
石見の指示は的確ではない。だが、今は彼に従うしかないのだ。
力を使うには条件がある。それを満たすまで、ここまで敵が来ないことを祈った。
司令部から妙な指示が届いたのは数分前の事であった。『後退しながら時間を稼げ』と、店長は言ったのである。ジェーンは彼女の意図を図り兼ねていた。が、どうせこのままではジリ貧なのである。従うしかないだろう。
「ヘイ、ゴールドマン。アナタも聞いたわね?」
「……ゴールドマンって、俺かあ?」
屋根から降りていた黄金は苦笑いで返した。
「そうよ? で、ボスからの指示は聞いたわね。たぶん、あっちの連中も聞いたはず」
「下がりながら時間を稼げ、か。だけどな、好き放題されてんだ。家ぶっ壊されて……奴らあ、邪魔なもの片付けて、巨人を盾に一気に来るつもりだ。お偉さんもそいつぁ分かってるだろうによう」
「どっちにしろ、引くしかない。アタシのブレットも、タチバナのブレードも通らないんだもん」
こじんまりとした攻撃ではダメなのだ。もっと威力のあるものでなければ、巨人には通用しない。その事が分かっているから、ジェーンは店長の指示に従うのだ。
「建物全部壊されたら、終わりだ」
「あァ!? 引けってのかよ!」
「冷静にお願いします。これ以上の犠牲者はおいしくないです。それに、店長の指示ですから」
三森は舌打ちし、死者の兵に炎の球を投げつけた。
「行けっつったり引けっつったりよォ! 私らはおもちゃじゃねぇンだぞ」
「にゃは、荒れてる荒れてる。気持ちは分かるけど、このままがやばいってのも分かるよね?」
「分かってンよ。こっちも、かなり減っちまったからな」
三森以外で戦闘を続行しているのは、ナナ、高井戸を含めて六人だけである。それ以外の者は、皆逃げ出したのだ。
「仕方ありません。巨人は、やはり脅威です。アレを一体打倒するのに、こちらの犠牲が何人出るか……」
彼らも理解はしている。だが、手をこまねき、ただ下がるだけではマルスたちにアドバンテージを渡す事にもなるのだ。……マルスたちにとって全ての障害物が取り除かれた時、自分たちは更なる猛攻に晒される。
「くそっ、冗談じゃねェぞ。何が守るだ。守ってやるだ……情けねぇ」
意気消沈しているマルスは、他の者からは無視されていた。彼の仲間たちは、楽しげに戦場を見ていたのである。
「おーおー、あのでけーのやるじゃんか。もうさあ、こっちの楽勝ムードだよな」
「油断はいけませんわ。ですが、これではあちらが可哀想にもなりますね」
ハルモニアがくすくすと微笑む。
「俺たちさ、いなくてもよかったよな?」
フーガの疑問に、ベローナはうんうんと頷いた。彼女はつまらなさそうに息を吐く。
「期待してたんだけどねえ、やっぱ。人間ってのは脆い。歯応えがない」
「それよりさ、親父どうする?」
「えー、ほっとけよ。めっちゃへこんでるし。……女とヤレないくらいで、ああまでなるかね、しかし」
「親父の脳みそは下半身についてっから」
「おっ、んなことより見ろよ。よーく目ぇ凝らせばさ、向こうが見えるぜ」
マルスの仲間たちは同じ方向を見据える。建物が全て壊れて、北駒台店まで、一直線のルートが拓けたのだ。
「ゲームオーバーってか? んじゃ、俺らも混ざるか」
「一気にトドメをさしてやるとしよう」
「嘘つけ。どうせまた嬲って殺すんだろ?」
「ひっひー! それだけを楽しみにしてんだから当然じゃん!」
最後の砦が崩れ去る。北と南が繋がって、怪物が姿を覗かせる。巨大な肉塊が獲物を見定める。
一はごくりと唾を飲み、縋るように店長を見た。彼女は何食わぬ顔で煙草を吹かし続ける。
覚悟を決めるとは、随分と安っぽく聞こえるものだと、一はそんな事を考えた。出雲店の三人は何かをするつもりだろうが、果たして間に合うかどうか、実際に何が出来るかは分からないのである。神の力、その残滓をぶつけると言っていたが、やはり、自身の目で確かめるまでは安心出来なかった。
「……見えました」
しんとした空気を、石見がぽつりとした声でもって引き裂いた。彼以外の者は即座に反応出来ずに、ただ、声のしたほうを見つめる。
石見は注目されている事にも気づかず、ぼうっとした様子で口を開いた。『見えました』と、柿木に告げた。
――――しゃん、しゃん。
音が鳴る。
一定のリズムを刻んでいた錫杖が激しく動いた。桜江は疲弊しきっていたが、決してその動きを緩めようとはしない。そうして、彼女は口を開いた。『見えますか』と、柿木に尋ねた。
見えますか。
見えました。
分かっていると、内心で告げた。声には出せない。今は、吐息一つすら自身の為には使えないのだ。柿木は目を強く閉じ、力を振るう瞬間を想像する。一指すら神に捧げるのだ。自らに与えられたものを、全てを力の行使に費やす。
工程を理解し、結果を意識する。
神の残した、奇跡と呼ぶには大仰なものが体の内から溢れ始める。それを、ぶつけるのだ。八百万の神が集まり、色恋沙汰をまとめるように――――結ぶ。己と敵を。勤務外とソレを。北と南を。縁と、縁を。
柿木にも見えていた。連なる建造物を破壊し尽くす巨人が、だ。そして、その先にある南駒台店と、打ち滅ぼさねばならないモノが、である。
「見えました」と石見が言う。
「見えますか」と桜江が問う。
錫杖の奏でる音色が、柿木の意識からすうっと消えていった。もはや、これ以上押しとどめることは困難である。彼女は条件を満たした事を認めて、ふっと力を抜いた。
「見えるとも」と、柿木が告げた。
後は神に任せるだけだった。自分が何もしないでも、猿田彦の先導によって八百万の神がソレを討ち、根の国にまで還すだろう。
「縁は結んだ。一世一代の大恋愛だ。成就するのを祈ろうじゃあないか」
目に飛び込んできたのは大量の光である。眩い、よりも痛いと感じて、出雲店以外の者たちは目を瞑った。……見てはいけないと、体が反応したのかもしれない。
光の次に感じたのは風である。強烈な風圧に怖気づき、しゃがみ込む者さえいた。
爆発的に発生した光と風の行き先を視認していたのは、柿木だけである。彼女だけが、この現象の正体を認識出来ていた。
「これが……」
まさか、これを引き起こしたのが自分だとは未だに信じられず、柿木は思わず笑みをこぼしていた。
――――擬似神在月、縁。
柿木が使用した、神の力の残滓を利用した行為の名である。技ではない。術ではない。あくまで、これはお願いなのだ。神に願い、縁を結んでもらったに過ぎない。ただし、神は大らかなのだ。人とは違い、きめ細やかな気配りなど不可能である。それも、神の力、その残滓となれば言わずもがなだろう。……少しばかり、正直過ぎるのだ。恋とは盲目であり、一直線である。猪突猛進とも思える思念が、柿木から直線的に放たれたのだ。百歳溜め込まれた思いが爆発し、光と風の奔流に巻き込まれたモノは、耐えられずに息絶える。
力の行使に成功した。そのはずだが、柿木が喝采を浴びることはなかった。
「無事かああああああああっ!? 生きてるかあ!? 皆生きてるよなあ!?」
目が利かない。耳が利かない。視覚と聴覚を封じられた状態で、マルスは叫ぶ。自らの発したがなり声も届いているのかどうかですら定かでない。それでも、彼は叫び続けた。
マルスたちを襲ったのは大量の光輝であった。一閃が視界を焦がした後、疾風が彼らの間を通り抜けたのである。光と風が過ぎ去った。ただそれだけで、マルスは駒台に来て初めて、絶望というものを感じていた。圧倒的で暴力的な、思念の通過。……否、力のいく先は、自らの元だったのである。八百万の神によって強制的に結ばされた縁は、マルスがいかに軍神であろうとも、恐れを感じずにはいられなかったのだ。
「あっ、ああ、あああああああああああああああああああああああああああ」
ヘルヘイムの使者が視界の端に映る。彼女は両腕で頭を抱え込み、嗚咽を漏らしていた。
晴れる視界。真っ白に歪んでいた景色が少しずつ色を取り戻す。
「………………夢でも見てんのか。オレ様は」
そこには、何もなかった。誰もいなかった。
我が物顔で闊歩していた巨人たちは、地上を蹂躙せんと行進していた死者の兵らは、どこにも存在していなかった。
破壊された建物はそのままに、ソレの姿だけが消えている。時間が巻き戻った訳ではない。巨人も、死者も、倒されたのだ。殺されたのだ。
「ぐっ、ぐ……! ぐうウウウウウウウウううううううううあああああああっ!」
マルスが吠える。
我が物に、と、欲していた極上の女を手に掛け、手駒たる軍勢を失い、また、倒れ伏す同胞を認め、マルスは――――グラディウスは、咆哮した。
ソレの軍勢は、八百万の神、その力の残滓をぶつけられた事により現世から消失した。
店前まで戻っていた勤務外たちは喜びの声を上げるが、店長は苦渋の表情を浮かべている。確かに、巨人も、死者の兵も消え失せた。しかし、情報部からは一向に連絡が来ない。マルスたちを葬ったという報告がない。
「使わせたんだぞ……!」
札は切った。手持ちはもう残されていない状況である。店長は死刑宣告を待つかのような気持ちで無線を見つめていた。
「こちら情報部、マルスたちは健在です。一人として、欠けてはいません。……どうぞ」
店長からの応答はなかった。ノイズと、彼女の吐息が混じった音が聞こえてきただけであった。
情報部の者たちは皆、この戦いがどうなるのかを想像し、身の振り方の算段を始めている。だから、しばらくの間は誰も気づけなかったのだ。
五つの矢が飛び出した。事前に示し合わせたのでもなく、各々が自らの判断に従い、ほぼ同時に動いたのである。
店長は情報部の報告を受けた際、吐き気を催すほどにショックを受けたが、次の手を打とうとはしていた。班の再編である。残った勤務外を振り分けて、マルスたちよりも先んじて仕掛けようとしていた。だが、それよりも早く五人の勤務外が駆け出してしまったのである。北駒台の、一を除いた五人がだ。
彼女らを戦力として当てにしていた店長の思考が鈍り、止まる。三森、ジェーン、ナナは班長を放棄したのだ。これでは迅速な班の再構成は望めない。それどころか、他の勤務外を引っ張ることすら難しくなる。
「お前らっ、勝手な真似を……!」
既に五人の背中は遠くなっていた。全速力で駆け出したのである。今更追いつけるはずもなく、また、彼女らが待つとは思えない。
ふと、店長は取り残された形の、一に目を遣った。彼もまた、皆の後を追おうとしていたので、堀と藤原に止めさせる。抵抗する一だが、彼まで失ってはマルス打倒は困難を極めるだろう。……何せ、もはや手はないのだ。出雲店の勤務外は疲弊して、頼みの力を使い切っている。逃げ帰った者たちを戦場に戻す事は、死者を生き返らせる程度に難しいだろう。
「…………まさか」
「離せってんだろ! っ、店長! 店長聞いてんでしょう!? あの人数だけじゃ無理だって! 俺もっ、俺もいかせてくださいよ!?」
一が怒鳴っている。
「行くんなら今しかないって、あなただって分かってるはずだ! 俺だけ引きこもってても意味なんかないんだ!」
店長の頭は、回らない。ぐるぐると、同じ事を考えるばかりだった。