神のみぞ知らない
夢を見た。
骸骨の剣士に囲まれて、体を貫かれる夢だ。
男は夢を見た。
首を刎ねられ、アスファルトに転がる仲間の夢だ。
彼は夢を見た。
死ぬ夢だ。
布団を跳ね除けて、自らの胸に手を当てる。異常は見当たらない。息だけが乱れており、一は目を瞑って呼吸を整えようとした。
「……何よ。うるさいわね」
暗がりの部屋で懐かしい声を聞く。一は夢を見ているような気持ちに陥った。
「糸原さん」
「何よ」
「糸原さんですよね」
「だから何よ」
「糸原さんなんですよね」
目が覚め、テレビを見つめていた糸原は立ち上がり、一の頭を叩いた。
「あんた寝ぼけてんの? ほら、しっかりとっくりじっくりと見なさいよ。どっからどう見たって美人のお姉さんでしょうが」
「暗いから良く見えない……」
「じゃあ」
糸原が目を細める。彼女は一の顔に自らの顔を寄せて、彼の両頬を掴んだ。
「これで良く見えるんじゃない?」
「……近過ぎて見えないです」
「わがままね、あんた。つーか、何? さっきからさ、構って欲しいの? あー、分かった。寂しかったんでしょ? しようがないなあ、もう」
一は無言で糸原から離れて、自分の布団を被りなおす。
「ひゅーっ、ツンデレじゃーん。素直じゃないなあ、一は。っていうかツンデレとかもう古いっつーか乱造され過ぎっつーか、本物のツンデレなんてほんの一握りの……なんかさ、変わった?」
「別に、俺は何も変わっちゃいませんよ」
「そ? ま、私がいない間も色々あったとは思うけど。やっぱ、逞しくなったっつーか、ね。顔の一つも出さなかったあんたが遠くに行ったような気がしてる訳よ。私としては。有り体に言えば、構って欲しいのは私のほうだったりします」
へっへっへ、と、作った声で笑うと、糸原は一の上に圧し掛かった。
「寂しかった? 私は寂しかった」
一は息を吐く。全てが全て、元通りになった訳ではない。いなくなった者がいる。なくなった物もある。死なされ殺され、死なし、殺した。だが、丸く収まるものもある。日常に埋没出来る事が、どれだけ幸福な事なのか、彼は得がたいものを、今現在噛み締めていた。
「静かでしたよ。うるさい人がいないと」
「一緒に寝たげよっか?」
「それは遠慮します」
味方の不甲斐なさを罵るべきなのか、襲撃した者の手筈が鮮やかだったのだと褒めるべきなのか。堀は眼鏡を取り、瞼の上を軽く揉んだ。
「信じられないという気持ちは分かるがな、事実だ」
店長は煙草を吹かす。堀は、彼女の言葉を疑っている訳ではない。店長に呼び出され、店で話を聞くよりも前に事実を把握している。既に情報部が南駒台店へと向かっている事も知っている。彼はただ、少しばかり疲れていたのだ。百鬼夜行を、赤い少女を退けたのは勤務外たちではあるが、堀もまたそこにいた。戦場の空気というのは力を奪い取るものなのだ。
「首謀者と会話をしたそうですね。向こうから、うちの電話にかけてきた、そうですね」
「ああ、そうだ。マルスと名乗った男の所業、二度も口にするのは忌々しいが。どうする?」
「いえ、大丈夫です。……南駒台店は事実上の壊滅、そう認識しても良いということですね」
いったい、どれ程の手練がどの程度の人数で南駒台店を落としたというのか。失われた戦力と、無実の命を思い、堀は彼らの死を悼む。
「次は私たちの番ということでもあるな」
「ご冗談を。まだ抗う術が残っているどころか、戦う事すらしていません」
「数字の上で見れば、南がどうしようも出来なかった相手だぞ。うちなら何秒持つかな」
余裕たっぷりに言う店長を見遣ると、堀は安心したかのような笑みを浮かべた。
「戦いの備えは?」
「手は回せるだけ回しておいた。支部からはどうだ?」
「応援の要請はしています。さて、今回の事態を重く見ている方がどれだけいらっしゃるか。戦場は?」
「奴らは南駒台店をもらうと言っていた。そこを拠点に、ここまで。南駒台店から北駒台店に至るまでが戦場と見ていいだろう」
堀は壁に貼られた地図に目を向ける。この店から南駒台店までは距離にして数キロ。立ち連ねる住宅街を思い浮かべ、彼は苦い顔を作る。
「住民の避難は支部に任せましょう。この戦いにおける制限は?」
「皆無だ。戦争がしたいだのと抜かす輩が相手だ。出来る事を好きなだけやらせてもらう」
「情報部も既に動いています。必要なものは大概揃うでしょうね」
「さて、そう上手くいくかな」
笑む。店長は口の端をつり上げるが、堀は彼女の笑みを図りかねた。
「確かに、相手が本当に、あのマルスなら難しいとは思いますが」
「そうじゃあない。……敵とは、果たして外にいるものだけだろうか。そんな事を思ってな。何故、ここではなく南を襲ったのか。私にはそれが分かっていない」
「結果はどうであれ、勤務外の巣窟に突っ込む者が相手ですよ。北だろうと南だろうと大して関係も、考えもなかったと思いますが。たまたま、襲撃者が南を選んだというだけでしょう」
「ほう。では、マルスという男は随分と下調べが好きな性質と見えるな」
堀は得心しかねた。店長からの話を聞く限り、マルスと名乗った襲撃者からは深謀だとか、遠慮と言うものの類を一切感じられなかったからだ。ただ、目に見えるものだけを蹂躙するような、苛烈さが目立つ男だと認識している。
「気付かないか? 南駒台店はまだ、正式にオープンしていない。『いついつに店を開きますよ』と宣伝こそすれ、実際に開くまでは店としての機能はなっちゃいない筈だ。商品はない。人もいない。その筈だな?」
「ええ、おっしゃる通りですね。子供でも分かる話です」
「はっは、そう気を悪くするな。そうだな、人はいない。ならば、マルスが南駒台店を襲った理由は何だ?」
「ですから、たまたまでしょう。それこそ、自分たちの立っていた場所が北よりも南の方に近かったという理由で事を起こしそうな連中ではないですか」
その通りだな、と、店長は愉しげに言った。
「我々北駒台店が難を逃れたのは、今日、たまたま、南駒台店でミーティングがあったお陰だな。いや、彼らがオープン前の店に集まっていなければ、殺されていたのは我々だった訳か。肝が冷えるなあ、堀」
思わず、堀は眉根を寄せる。店長を睨むような鋭い目付きになるが、それはすぐに掻き消えた。
彼女は構わず話を続ける。
「襲撃の日時が南のミーティングとぴったり合わさった訳だ。これをマルスが知っていたとするならば、面白い話だとは思わんか?」
「……たまたま、だと言う事も考えられますが?」
「そうだな。そうとも考えられる。何せ証拠がない。確かめようもない。内通者の存在など」
「二ノ美屋ッ――――店長。そこまで考えてしまうのは早計ではありませんか。真実がどのようなものであれ、戦闘は起こります。明日、必ず。いるかどうかも分からない者を探すよりも、先にやる事があるでしょう。こちらが瓦解してしまえば戦いどころではなくなります」
「うん、そうだな。言ってみただけだ。あまり気にするな。それに、お前はそっち側の人間だ。私が余計な口を利けば要らぬ世話を掛けさせる事になる。それは私としては非常に心苦しい展開だ」
堀は悟っていた。店長は既に起こっている事、起こりうる事に気付いているのだ、と。
「あなたは、恐ろしい人だ。恐ろしく嫌な人だ。この私ですら、自身の手駒と化そうと企んでいる。私がその誘惑に抗えるかどうか、既に分かっている上で、だ」
「違うな。お前は私に抗うんじゃない。お前自身に抗うんだよ」
「……以前、話を聞きました。あなたを飼い殺しにしているモノは何なのか。誰なのか」
「言ってみろ。興味がある」
紫煙が鼻腔に届く。堀は瞬き一つせずに、店長を見据えた。
「とんでもない。あなたを狗足らしめるモノなど、あなたの首に紐を結わえられる者など、元からいやしかなかったんだ。あなたがいつから『そう』なったのか、私には知る由もありません。が、その目は、とてもじゃないが飼い犬のそれには見えない」
「そうか」
頷き、店長は短くなった煙草を灰皿の上で揉み消した。
「面白い話だが、私には何の事だか皆目見当も……と言ったところだな。お互い腹の探り合いをしたところで、前向きな話をしようじゃないか」
「では、彼らを呼びましょう」
携帯電話を取り出そうとする堀を手で制すと、店長は幾分か穏やかな顔つきで口を開いた。
「もう少しだけ、休ませてやろうじゃないか。ん? どうした堀、珍しいものを見るような目付きだぞ」
事実、店長の言葉の通りである。常の彼女からならば、決して口にはしないであろう言葉に堀は面食らっていた。
「どうせ数時間後にはなくなっているかもしれん命だしな」
「ああ、そういう意味でしたか。いやあ、はっは」
「何を笑ってるんだ」
素直じゃないのか。はたまた、どこまで性根が歪んでいるのか。
一の言っていた山へは程なくして辿り着いた。誰にも会わず、虫の声すら聞かず、鬱蒼とした木々を抜けると、開けた空間があった。そこには洋館が建てられており、少女はようやくといった風に息を吐く。雲間から垣間見える月が怪しく光っていた。静かな風が彼女の髪を揺らす。
少女は洋館の壁に背を預け、鼻を鳴らした。なるほどと、彼女は一の言っていた事に得心する。ここは血の臭いが漂ったままなのだ。何かがあったのだと、容易に見当がつく。まるで、自分のような日陰者を匿う為に作られたような、そんな館に今一度目を向ける。
「……?」
屋根の上に悪魔がいた。グロテスクなシルエットを浮かべているのは悪魔を模した像である。が、少女は目を凝らした。その像が、僅かに動いたように見えたのである。そうして、感じた違和が正しいものだと知った。ぐるりと、悪魔の像は首を巡らせて少女に顔を向ける。
「おや、珍しいと見ますね」
低い声だった。その声にたじろぐ事なく、少女は口を開く。
「あなたこそ」
「かもしれませんね」
悪魔の声は穏やかなものだった。少女は手持ち無沙汰だった事もあって、軽く跳躍する。屋根の上に足を着けると、悪魔の像は確かに笑った。
「素晴らしい跳躍力ですね。バッタか何かだと見ます」
「…………バッタ。確かに改造はされてるけど。けど、私は人間だから」
「それは素晴らしい。やはり、素晴らしい。人間とはそういうものなのです。……申し遅れました。わたしはガーゴイルと言います。この街に、お世話になっているものです」
「この街に?」
「ええ、この街に」
そう言って、ガーゴイルは眼下の灯に目を向ける。その眼差しには親愛の情が含まれていた。少なくとも、少女にはそう思えた。
「あなた、ソレなのね」
「はい。そう呼ばれています」
「勤務外って知ってる?」
「勿論。わたしの友人にも勤務外がいますから」
少女は目を丸くさせる。ソレと勤務外が友達? 突拍子もない話だ。しかし彼女は大いに興味をそそられた。
「殺されないの?」
「フリーランスの方々に殺されかけはしましたが、勤務外の友人はわたしを見逃してくれました。それだけでなく、友誼を結んでくれたのです。……そも、勤務外という方々はソレを殺すのが仕事ではないのだと、わたしは見ます」
ガーゴイルに倣って、少女もまた眼下の街を見下ろした。数々の灯が、彼女には酷く眩しく映る。
「ソレと向かい合う事が彼らの仕事なのだと見ています。数々の選択肢の中、戦闘という手段に訴えるだけなのだろうとも見ています」
「でも、勤務外はソレと戦って、殺すよ。話の通じるソレが殆どいないってのも分かるけど」
「しかし、わたしは殺されませんでした。勿論、勤務外がソレと出会えば、殆どが殺し合いになるのだろうとも知っています。わたしはここで、色々なことを見てきましたから」
「そう」少女は呟く。
「そうなんだ」
少女は呟いて、座り込む。
「ねえ、ガーゴイルさん。私は一体、何に見える?」
「おや、これは異なことを。あなたは人間なのでしょう? わたしには、実際にそう見えますが」
「かもしれない。だけど、私は勤務外に殺されかけた。あ、はは。実際、先に仕掛けたのは私なんだけど。なんだけど、私は人間なんだよ。でも、殺されかけたんだよ」
口にしてから少女は気付く。これは、愚痴だ。自分にとって都合の悪い出来事を嘆くだけだ。どうしようもなく、どうしようとも思わない。ただ、彼女は止まれなかった。
「ソレって何なのかな。人を襲うからソレって呼ばれるのかな。訳の分からないモノを、ただ、何となく怖いなって思っちゃう人すらを、ソレって呼ぶんじゃないのかな。だったら、私は……」
「……わたしが見るに、あなたはそういった名前や、括りというものに酷くこだわっているようです。きっと、あなたはもう知っている筈です。結局のところ、自分がどうしたいか、それだけの話なのでは?」
「そうかもしれないね。……あッ」
少女はガーゴイルにぎこちない笑顔を見せた。そうしてから、ソレに慰められている自分に気付く。そうしてまた、そんな括りとやらが気になっている自分を戒めるのだった。
「この街に来てね、あなたで二人目かもしれない。ああ、何だか自分がきちんと人間として話せたなあって、そう思える相手」
「光栄だと見ます。ちなみに、一人目というのは」
「勤務外。私に、パンをくれた人。その人がね、ここを教えてくれたんだ」
ガーゴイルが僅かに目を細める。
「ああ、そうでしたか。あなたから、その人はどんな人に見えましたか?」
「お人好し」
やはりと、ガーゴイルは声に出して笑った。少女は首を傾げたが、自分からは何も聞こうとしなかった。
少女は、お人好しな勤務外の顔を思い出す。何故か、頭の隅がちくりと痛んだ。思い出そうとしない方が良いのだと、脳味噌のどこかが訴えているようであり、彼女はその警告に従った。思い出してしまえば、彼にとって嫌な事が起きるのだとも、少女は気が付いていたのである。
嬌声が止み、死臭が立ち込める室内においても、マルスは眉の一つすら動かさなかった。彼は床の上に座り込み、退屈そうにあくびを放つ。
――――退屈だった。
血を見、悲鳴を聞き、殺し尽くしても尚、マルスは退屈を持て余していた。彼は北駒台店への宣戦布告が済み、待つだけの身となった事を後悔する。
「親父」
「パパと呼べってんだろうが」
「あー、はいはいパパ。……で、本当にこれで良いのかよ」
マルスに声を掛けたのは素肌の上に黒いロングコートを着た、長髪の男である。彼はマルスを見下ろし、決して視線を逸らさない。
「これでって、何がだよ?」
「らしくねえって言ってんだよ。あんたが誰かの言う事に黙って従ってるってのはな」
なるほど、と、マルスは笑みを噛み殺した。
「ティモールよう、オレ様は何も王様の奴隷じゃねえんだ。そりゃあ王様はこええけどな、逆らえないほどって訳でもねえよ」
「じゃあ、今回の戦は」
「今まで好き勝手暴れてきたしなあ、たまにはメーレーとやらに従ってやってもバチはあたらねえってとこか。それによ、オレ様が求めてんだよ。心の底からな。ティモール。仲間が何人やられたか聞いてるよな?」
ティモールは頷き、マルスの横に腰を下ろした。
「悪い奴らじゃなかったよな」
「あー、そうだ。オツムの足りねえ双子も、グルメ気取りも、青髭のジジイもくたばっちまった。良い奴だったとは言えねえけど。けどやるせねえし許せねえ。みんな、ここで死にやがった。何もねえ! こんな小さな島国の! よりにもよってこんなクソみてえなド田舎でよ!」
「じゃあ親父……パパは敵討ちをしようってところなのか?」
「それもあるけどよ。あいつらをぶっ殺した奴らがどんなもんなのか興味が出てこねえか? どんだけのもん持ってるのか、ちっとばかし楽しみだろ?」
好戦的な笑みを浮かべると、マルスはティモールに顔を向ける。ティモールは、思わず息を呑んだ。憤りと、喜びの入り混じったマルスの表情は直視するに耐えないものだった。
「何かあるんだぜ。何かがいやがるんだ。ここにゃあオレ様の求めるもんがある。そんでもって、バレバレだ。ここにゃあきっと、あのクソアマがいやがる。忘れもしねえ、ニオイがまだ残ってら。そうに決まってやがるんだ。今から楽しみだぜ。あのズベ公引き摺り下ろして、ぐちゃぐちゃにしてやんのを想像すっとな」
マルスは立ち上がり、壁に拳を叩きつける。興奮していた。何もせずとも、体の内から力が涌き上がってくるような気分に陥っていた。
静かな朝だ。乗用車の排気音も、犬の遠吠えも聞こえない。既に駒台住民の避難は完了しつつある。この街から、人がいなくなりつつあるのだ。電信柱の上に立つ男、オンリーワン近畿支部情報部の氷室は、そんな事を思った。
氷室は北駒台店店長の要請を受け、南駒台店に屯する者たちの動向を様子見に来ている。彼は今の今まで南駒台店の壊滅については半信半疑だった。が、店から出てくるモノを見ては信じざるを得なかった。
「ひでえ」
呟く。まるで、ゴミのように運び出され、投げ出される肉塊を見て、氷室の表情が歪んだ。店の外に並べられた血塗れの部位は、十数人分にも上ろうかという数のそれである。
ふと、店に戻ろうとする若い女と目が合った。そんな気がして、氷室の肌が粟立つ。女はしゃがみ込み、何かを拾い上げた。そうして、それを投擲する。氷室は咄嗟に、この場から逃れようとして背を向けた。その寸前に女の口が動いたのを認める。『ばいばい』と、気安そうな声が聞こえたような気がしたのと同時、何かが顔のすぐ横を凄まじい速度で通り過ぎていった。それは血に塗れた、人間の首から上の部分だった。
午前、七時。電話が鳴ると同時、彼は悟った。『ああ、始まったのか』と諦めにも似た気持ちが胸を満たすのを感じた。
北駒台店のバックルームに続々と勤務外が集まり始めた。やがて、最後の一人であった三森が到着すると同時、店長は煙草を銜えながらホワイトボードの傍に立つ。他の全員は彼女の指示を受けるまでもなく、パイプ椅子を並べてそこに座った。
勤務外全員が集められた。その事実、その異常さに誰もが気付いている。気付いていても、疑問を発するのは躊躇われた。
「集められた理由は分かっているらしいな。……午前一時頃、ソレの出現が確認された。お前らにはソレの対処に当たってもらう」
何故、ソレが出現した段階で自分たちを呼ばなかったのか。何故、全員が集められているのか。一は口を開きかけて、やはり止めた。この状況下で余計な口を挟もうとは思えなかったのである。
「現時点で確認されているソレはマルスと呼ばれるモノだけだ。だが、残念な話ではあるが、それ以外にも多数のソレがいると考えてもらって間違いはない」
「……マルス、ですか」
「そうだ」と、店長は声を発したナナに対して首肯を示した。
「何かの間違いだと言う事は考えられないのでしょうか」
「本人がそう名乗った。その言をそのまま信用する事は出来ないが、マルスに近しい者と考えても良いだろう。どちらにせよ、強力な相手だ」
ナナは眼鏡の位置を直して、改めて店長を見つめる。彼女の疑問に対して、立花が小首を傾げた。
「ね、そのマルスってのはそんなに強いの? ボクたちが束にならなきゃ敵わない相手なの?」
「束になったとして、敵うかどうかも分からない相手です」
げえっ、と、一は頭を抱える。
「ちょーっと待ってよ。あのさ、昨夜のアレよりやばい訳? だったら私、この話は降りたいんだけど」
「あー? てめェこらやる前から尻尾巻くつもりかよ?」
「るっさいわねジャージのくせに」
「降りたいなら降りても構わん。今回に限っては強要出来ん。それほどのモノが相手だからな」
「あ、あれ? ちょっと、本当に良いの?」
突き放されるような物言いに糸原はたじろぐ。
「ナナ、マルスってのはどんな奴なんだ」
「はい、マスター。マルスとはローマ神話の神です。農耕と戦を司り。戦士の理想とされ、軍神グラディウスとも呼ばれていますね。主神と同じように崇拝された神でもあります」
「……神様、なの?」
口から気が抜けていく。一は期待の篭った目でナナを見つめるが、彼女は冗談や嘘を滅多に口にしないのだ。
「ええ、そうですが? マルスは火星とも同一視されていますし」
ナナはホワイトボードに近づき、ペンで『♂』のマークを描いた。
「これは男性を意味する性別記号ですが、本来はマルスを意味する記号でもあるのです。武勇、男性、火星のシンボルとして、男の中の男として、マルスは人気のある神なのです」
「男の中の男なのに、かせい。仮性。男性」
糸原が何か呟いているのを黙殺し、一はナナに問い掛ける。
「軍神って、そんなのが相手なのかよ……」
「だからこそお前ら全員を呼んだんだ。安心しろ。相手が神だとしてもどうにかなる。生きてるものはいつか必ず死ぬんだからな」
「はっ、そりゃそうだよ。違いねェ。で、店長。被害ってのはどうなンだ? 夜中の内に出たもんを今の今までシカトしてたんだ。大した事はねェと思うけどよ」
「住民に被害はない。避難も粗方完了している」
「俺たちも住民なんですけど」
「被害といえば、南駒台店の全滅くらいのものだろうな」
一が立ち上がる。バックルームから飛び出していこうとする彼を、ナナが押し留めた。
「退いてくれ」
「なりません。ここでマスターが出ていってもどうにもならないのですから」
「一、席に着け。話はまだ終わっちゃいない」
ぎりりと歯を食い縛り、一は声を荒らげる。
「南がやられたって、そんな話を聞かせておいて! 無理に決まってるじゃないですかっ!」
三森は店長をねめつけていた。彼女は南駒台店には何の感情も抱いていない。それどころか、ここにいる者の大半はそうなのだ。何せ、南はまだオープンもしておらず、見知った者どころか、そこに、誰がいたのかすら知る由はない。
ただ一人を除いては。
一だけは知っている。彼の友人とも呼べる者が南駒台店の勤務外なのだ。三森はそれを知っているからこそ、不用意な発言をした店長に対して、明確な敵意を向けている。
「て、店長さん、はじめくんを行かせてあげてよ」
「無駄だ。一を行かせたって、死人が蘇る訳でもなければ、ソレをどうにか出来る訳でもない。何もかも遅いんだからな」
一の頭に血が上る。ヒルデとシルトの顔がちらついて、彼は抑えが利かなくなり始めていた。
が、擦れたような金属音が一の注意をひきつける。彼がそちらを見遣ると、銀色の凶器が店長に向けられていた。
「お兄ちゃんに頭を下げなさい、ボス」
「どういうつもりだ、ゴーウェスト。無言でいたかと思えば、銃を取り出す。あまつさえ銃口の先には私がいるんだがな」
「アタシが誰の味方なのか、本当に分かってナイの?」
「私の味方でないのは確かなようだ」
ジェーンがにっこりと微笑む。一は咄嗟に叫び、彼女の気を逸らせた。
「……頭冷やせ、馬鹿」
「あら、それはアタシのセリフだと思うケド?」
一はぎこちない笑みで返す。皆は、ジェーンの行為が一を慮ったものだと思っていたが、一だけは気付いていた。彼女が朝に弱く、寝ぼけ眼を擦っていた事に。彼女は本当に怒った時、笑顔を浮かべるのだという事に。
「何にしたって、今の言い方は誰だってキレるぜ。あんたはこいつをおもちゃにし過ぎンだよ」
「そんなつもりはないが、すまなかったな。次は三森、お前にまで牙を剥かれそうだ」
「……ま、突っ立ってねェで座れよ。お前の気を悪くするつもりはねえけどさ、今は話を聞くしかねェんだし」
深く息を吸い、一は決して店長を見ないように努めて、席に戻った。
「ふう、話は終わったようね」
寒さに震えながらで、糸原がウォークインから現れる。彼女は手を擦り合わせながら、何食わぬ顔で自分の椅子に座った。
「南の奴らがやられたってのは間違いないのね」
白い目を向けられても怖じる事なく、糸原が口を開く。
「全滅と言えば正しくないがな。その日、南駒台店ではミーティングが行われていたそうだ。それに参加していた者は残らず殺されたに違いない、というのは確かだ」
「……参加していた人が誰なのか、確認出来ますか」
「いや、まだ確認は取れていない。が、一人だけ分かっている者がいる。情報部が様子を見に行った際、投げつけられたそうだ」
「投げられた?」
「野獣の中でも腕利きの男の生首を、だ」
静まり返る勤務外たちを見回した後、店長がマジックペンでホワイトボードを叩いた。
「全く、お前らと話をすると横道に逸れて敵わん。要するに今回の相手は、多数ながら、ではあるが、南駒台店の主要なメンバーを皆殺しに出来るソレだ。……一夜の内に、十を超える勤務外が殺害された。その意味を良く考えろよ、勤務外」