終わるアラクノフォビア
避ける。
避ける。
避ける。
生存競争を勝ち抜いた数匹の蜘蛛。
振り上げる足は肉を裂くべく。
振り下ろす手は骨を割くべく。
「下がってください!」
叫んで、一が広げた傘を正面に構える。瞬間、重い衝撃が傘のパーツを通して一に伝わった。耐え切れず、呻き声が一の口から漏れる。
足を弾かれ、蜘蛛が飛びのく。
その隙を目掛けて、別の蜘蛛が一に襲い掛かった。
右から、左から。
一は傘をスライドさせて、右からの打撃を防いだ。再び衝撃。左からの攻撃。一は先刻の衝撃を利用して、反動をつけて今度は左方向へ傘をスライド。蜘蛛の足は、一たちに突き刺さる事無く、傘に弾かれ、距離をとる。ギリギリのところで、これも防いだ。
「いってぇ……!」
何とも情けない声。
蜘蛛の攻撃、その衝撃がもう何度も一の骨まで伝わっている。既に一の両手は真赤に染まっていた。手傷は負っていないが、満身創痍。蜘蛛の攻撃も、傘に阻まれ一度も獲物に有効な打撃を与えられない。生きるか死ぬか、瀬戸際の膠着状態。
今の所は防御が成功しているが、大蜘蛛の庇護の元、増え続ける土蜘蛛の事を考えると、もう自分たちが持たないであろう事は、ソレとの戦闘の素人、一でも充分に分かっていた。
「まさか、共食いしてでかくなるとはね……」
渇いた笑いと一緒に、糸原が呟く。
共食い。
大蜘蛛が産んだ大量の卵。一つ一つの数は小さかったが、卵が孵り、蜘蛛が生まれるにつれて信じられない事が起こった。
蜘蛛達が互いを食い合い始めたのだ。
殺し、殺され、死なし、死なされ、食って食われて。体の大きいものが小さいものを食べ、より大きいものがより小さいものを食べる。
弱肉強食を狭い世界で体現させたのだ。
そうしてヒエラルキーの頂点に立った蜘蛛が二匹。みるみる内に大きくなった蜘蛛は、大蜘蛛を守る騎士のように、当たり前に現れた。
そして、今もそれは続いている。
第三、第四の騎士の誕生。
「何とかならないですか?」
「ならないっぽいわねー」
絶望的な状況。
絶対的な窮地。
「ねえ」
そんな中、糸原が一に声を掛けた。
「逃げろってのはナシですよ」
一が先んじてそんな事をぼやく。
「違うわよ。もう良いわ、あんたって意外と頑固なのよね。そうじゃなくって、このまま死んだら後悔すると思わない?」
「しない方がおかしいです」
「そうよね。じゃあさ、もう駄目だ、いよいよって時になったら私とキスしない?」
「……糸原さん、遂に頭が……」
「おかしくなってないわよっ、失礼ねボケナス!」
突っ込みを入れながら、糸原が激昂する。
緊張感のない会話だな、と思いつつ一は周囲の警戒を怠らない。今ではもう自分しか、蜘蛛と渡り合えない。
糸原は戦えない。
体力の問題や、武器を手放した事も理由になるが、一番の理由は糸原が切れてしまった事だ。戦闘への緊張感、生への執着。そういうものが、致命的な何かが切れてしまったのだ。
だから、糸原は場違いな事も言える。
「私ね、実はまだなのよ、そういう事。だから最後に、死ぬまでに一回ぐらいはしたいのよ。たとえ相手があんたでもね」
最後のところだけ、やけにトーンが低かった。
「ちょっ、俺だってまだですけど、嫌ですよそんな成り行きでなんて。と言うか、すげぇ意外っすね。俺はてっきり糸原さんなら……」
「てっきり私なら何だってんのよ!」
あわわ、とか言いながら一がうろたえる。
視界に蜘蛛が映った。
「うわっ!」
前方に傘を向ける。引けた腰では、蜘蛛の攻撃は防御しきれない。何とか初撃は防げたが、衝撃を受けきれずに、一が傘から手を放してしまう。
ふわり、と傘が宙を舞った。
「何やってんのよ!」
「あなたのせいでしょう!」
言いながら、一が手を伸ばす。
が、広げたままの傘は夜風に晒され、軌道をゆらゆらと変え、蜘蛛の後方に流れていった。
一たちに残された最後の武器。身を守る盾。それが失われた。
「終わりだ……」
この世にヒーローなどいない。
弱者を、絶体絶命のピンチから助けてくれる人間なんていない。
この世に勇者などいない。
悪しき者を切り裂く剣なんて存在しない。
この世には神も仏もいるけれど、英雄だけがいない。
存在しない。したくない。して欲しくない。
そう、世の中は悪意と理不尽と少しばかりの偽善で作り上げられているのだ。
盾を失った一たち。
その隙を逃すはずもなく、土蜘蛛の一体が襲い掛かる。赤い目玉を爛々と輝かせて襲い掛かる。それは真っ暗な世界にはとてもとても良く似合っていた。
動かなければ死ぬ。
それなのに、一は動けなかった。諦めか、恐怖か、何なのか。足が地面とくっ付いたみたいに、吸い付いて、取り付いて動かない。
薙ぐように、蜘蛛が足を振るう。
目の前の世界全てが、一にはスローに感じられた。自身の心臓の鼓動、流れる冷や汗、か細い吐息。全てがゆっくりだった。その中で、自分が死ぬと言う事も、ゆっくりと理解した。
一の頭だけがやけに良く回る。
「あほうっ!」
突然の罵声とともに、糸原が一の体を抱え込んだ。
蜘蛛の攻撃は横の軌道だったため、姿勢を低くする事で何とかやり過ごせたらしい。
だが、蜘蛛は第二の攻撃を繰り出す。
休む間もなく、今度は上から突き刺すような縦の軌道。標的は一。
気付いた糸原が、必死で自分の元へと一を手繰り寄せる。
が、少し遅かった。一の肩を蜘蛛の足が掠める。掠めただけで、一の体には激痛が走った。
「……っ!」
脳内から、全ての肉体の箇所に向けて信号が走る。
――危険だ。逃げろ。死ぬぞ。危ない。
「痛い……っ!」
「ちょっと! 泣いてんじゃないわよ!」
一が情けない姿を晒している間にも、蜘蛛は雨を降らす。
攻撃、攻撃、攻撃。
それは死の雨だ。
頼りにならない一を抱えながら、糸原が無理な体勢で致命傷を避け続ける。も、致命傷を避けてはいるが、傷は負う。一つ一つが死に至るほどではないが、一、糸原両名の血液と体力を奪い続けていた。
――痛い。痛い。熱い。熱い。血が止まらない。血が止まらない。
「も……限界……っ」
動きが鈍った糸原に、蜘蛛が止めを刺すべく動く。
まずは一本目の足を糸原の顔のすぐ横に。二本目を足に、三本目を糸原の右手に。四本目を糸原の左手に、刺そうとした瞬間、抱えていた一を逃がすように糸原が左手を離す。離した刹那、一は間一髪攻撃を避け、すぐ隣へ転がされる。
だが、糸原の左の手のひらに、血と、それの吹き出る音を撒き散らせながら脚が刺さった。
「良い趣味してるわよホント」
糸原が毒づく。
一は倒れたまま動かない。そんな一を無視するように、捕らえた糸原を値踏みするように蜘蛛が目玉をせわしなく移動させる。
――怖い。死にたくない。もう何もしたくない。されたくない。
「……にのまえ」
糸原の声。
「ごめんね……」
謝罪。
糸原が諦めた表情で、目を瞑りながら、隣で倒れている一に詫びる。
「守れなかった」
それだけ言うと、満足したように、深く、更に深く糸原が目を瞑った。
――何を言ってるんだこの人は。
勝手な事を。
一が笑う。
「馬鹿にしないで下さいよ」
ゆっくりと、体を動かす。
――そうだ。怖いって事は、死にたくないって事は。
足に、膝に爪先に力を込める。
手のひらに、腰に肩に力を込める。
力を込める。
諦めない力を、立ち向かう力を、生きようとする力を込める。
そして、立ち上がる。
体中の所々から血を滲ませながら立ち上がる。
――まだ俺は、生きてるって事じゃないか!
一は眼前の蜘蛛を真っ直ぐに睨んだ。
もう怖くない。
いや、分からない。怖いかどうかなんて分からない、もう知らない。
一の感覚は麻痺していたのかも知れない。
そんなの関係ない。
一はこの絶望的な状況、無策だった。勝とうとも生き抜こうとも思っていなかった。
だが、まだ自身は生きている。
それならば。
ならば。
――どうせ死ぬなら。
潔くなんて死んでやるか、最後の最期まで足掻いて、そうして人間らしく死のうと。
そう思っただけだった。
「――――!」
一の叫びは形を成さず周囲に轟いた。
徒手空拳、武器は自分の人間らしさだけ。
拳を突き上げ謳った。
もう頼るべき神々の助けも、英雄の情けも信じていない。
信じるのは、真実は人間だけ。
最後のちっぽけな誇りと一緒に、一が蜘蛛へと突き進んだ。
そうだ。
ヒーローなんて、勇者なんていない。
神様仏様、妖怪や化け物はいるけれど。
この世には、人間しかいないのだ。
本当は人間の世界には、人間しか居てはいけないのだ。
だがここは、様々な世界が混ざり、様々な線が混じった世界。
期待しても良いのではないのだろうか。
希望を抱くのは悪いことなのだろうか。
……都合の良い英雄が現れるのは都合の悪いことなのだろうか。
燃える。
「良く吠えたな。カッコいいぜ、お前」
燃える。
悪しきもの。
ソレ。
ソレが現れるならば、ソレに相反するものが現れても良いのではないだろうか。
善きもの。
何を悪として、何を善とするのかに様々な議論が交わされるとは思う。
正義の反対は悪。
悪の反対は正義。
正義の反対は正義。
悪の反対は悪。
正義の反対は悪?
悪の反対は正義?
正義の反対は正義?
悪の反対は悪?
燃える。燃える。
「後は私に任せろ。心配すンな、虫ってのは良く燃えるように出来てンだよ」
蜘蛛が燃える。
そうだ。
ヒーローなんていない。
正義の味方なんていない。
でも、ここに確かにいる。
都合の良い人間の味方が、オンリーワン最強の勤務外が、少し口の悪い一の同僚が。
一を睨み返していた眼球も。糸原を捕らえていた手足も。
「私のためにな」
全て燃える。
オンリーワン北駒台店、勤務外店員。
三森冬。
ヒロイン出陣。