すごい速さ
三森は不思議そうにしながらも、携帯電話を枕元に置いた。先ほど、店長から電話が掛かってきていたのである。ただ一言『元気か』と。元気だと返せば、『そうか』とだけ告げられ、切られた。
「なんだってンだ?」
ベッドの上で両腕を伸ばし、鈍った箇所を確かめる。もう随分と長い間、ここにいた。こんなにも何もしない日が続いたのは、生まれて初めてかもしれない。悪くないものだと思えたが、やはり、自分には似合っていないような気もしていた。
三森は隣のベッドを見遣る。今はそこに、糸原はいない。カーテンは開け放たれ、主の不在を証明していた。
「あら、いたのね」
「……起きてたンか」
「起きてちゃ悪い?」
病室に戻ってきた糸原はベッドの上に腰掛け、真っ白い壁と、天井に目を遣る。今日に限って、彼女はスーツ姿だった。
「今日は口を利くンだな」
「はあ? まあ、電話があったから。それで、ちょっと出てきてたのよ」
「へえ、誰から? もしかして店長か?」
「違うわよ。第一、あんたには関係ないじゃーん」
ごろりと寝転がると、糸原はけらけらと笑い出す。
「気持ち悪ぃ。あンだよ、良い事でもあったのか」
「だーかーらー、あんたには関係ないって」
三森は糸原を観察するようにして見つめた。昨日、三森は彼女と一言も会話をしていない。糸原は布団に潜り込み、食事さえしなかったのである。彼女の変わりように、三森は違和感を覚えた。
「なあ……」
その内、糸原は鼻をすんすんと鳴らし始める。そうして、また声を出して笑うのだ。
「ふっ、ふふ、あは、あはははははははっ。やっぱさ、私、ここが嫌い。消毒液っつーの? 薬っつーの? この臭いがね、駄目。ここにいるだけで気分が滅入って、まるで病気になりにここへ来ているみたいな感じがする。ロビーとかうろつくとさ、年寄りが殆どなの。ああ、そうか。私もこいつらと同じなんだって、そう思わされて。凄く、気持ちが悪くなる」
「お前、何言ってンの? 実際、怪我してんだろうが」
「してない」
三森は目を丸くさせる。彼女の戸惑いを無視するかのように、糸原は体を起き上がらせ、三森をまっすぐに見据えた。
「お前さ、やっぱ頭かどっかおかしいンじゃねェの? いきなり笑ったり、意味分かンねェ事言ったりさ」
「私寝るから。起こしたらぶっ殺すわよ」
「あァ!? 私の話を……」
ベッドから下り、糸原に詰め寄ろうとするも、彼女が耳栓を着けているのに気付き、三森は苛立ち紛れに床を蹴った。
オンリーワン北駒台店のバックルームには、まだ一たちが残っていた。一は店長から受け取った書類を眺めながら煙草を吹かしている。椅子に深く腰掛け、溜め息と一緒に紫煙を吐き出した。
「……意味分かんねえ。山彦って妖怪だったのかよ」
その呟きに、ナナがぴくりと反応する。彼女はミーティングが終わってからずっと、一の傍に控えていたのだ。
「山彦とは山の斜面に向かって声を放った時、その音が反響し、遅れて返ってくる現象を指しますが、その現象は山彦と言う妖怪が答えた声なのだとも言われています。幽谷響、という風にも表記されますね。鳥取県では、呼子という鳥が山彦の声を発するとも考えられていました」
「ふうん、でもこの資料には鳥じゃなくて、なんか猿みたいな奴が載ってるな。まあ、実際こういう姿をしているかどうかは分からないって訳だ」
時刻は午後の二時を回っている。既に、資料に目を通してから一時間以上は経過していた。一は十二時間以内にこの資料を暗記しなければならない。彼の気は滅入ってくる一方である。
「あっ、かまいたちまで載ってんじゃねえか。しかもこの幽霊ってなんだよ。ざっくりし過ぎじゃねえの? はあー……あ? 日の出ってなんだよ! なんで日の出が百鬼夜行の候補に入ってんだよ!」
「はじめ君、すごくイライラしてるね」
立花は遊び半分で資料に目を通していた。
「あはは、ぶるぶるって妖怪もいるんだって。ねえねえはじめ君、見てよこれ」
「……悪いんだけど、邪魔しないでくれるかな?」
「ご、ごめんなさい」睨まれて、立花は引き下がる。
一は瞼を押さえ、辛そうに息を吐き出した。
「マスター、お腹は空いてませんか? 私が何か買ってきましょうか」
「あ、じゃあ、悪いけどお願い」
「かしこまりました」
バックルームから出て行くナナを見届けて、一は店長に声を掛けた。
「ナナって、一応給料をもらっているんですよね」
「ん? ああ、当然だろう。働いているんだからな」
「何に使っているんでしょう……?」
「ナナに聞けば良いだろう」
妖怪の名前も特徴も、紙を見ているだけでは何一つ頭に入ってこない。こんな事で大丈夫だろうかと、一は不安になってくる。
「大体、何ですかこの火の玉どもは。青鷺火だの提灯火だの、見た目なんて全然変わらないってのに」
「私に言うな。がたがた言わずに覚えれば良い。その分だけ楽をするのが誰なのか、良く考えろ」
「分かってますよ、うるせえな」
「……お前生意気過ぎるぞ」
「……すみません」
一は紙で顔を隠した。そうして、気づく。この店には今、フロアに立っているジェーンも含めると、『全員』が揃っている事に。だから嫌でも思い出してしまう。あの、赤い少女を。暴力を具現したような存在に、成す術もなく這い蹲る事になった、あの日を。あの、夜を。
状況は悪化している。今日、仮にアレと出遭ってしまえば、前よりも少ない人数で少女を相手にせねばならないのだ。勝てるのか。倒せるのか。そも、もう一度生き残られるのか。
「じゃあはじめ君、問題ね」
「何がじゃあ、なのか分からないけど受けて立とう」
「天井から逆さまでぶら下がる妖怪の名前はー?」
「蝙翔鬼?」
「天井下がりでしたー」
「あー、そっちかー」
一たちを見て、店長は何かを言う気すら失くしてしまった。
糸原四乃に物心がついた時、既に彼女の周りには家族と呼べるような人間はいなかった。友人と呼べるような存在もなかった。気付けば、生き抜く為に必要な事を叩き込まれていた。
『四乃、人を信じるな』
長雨という男だけが、糸原の傍にいた。彼女は不思議には思わなかった。それ以外の何も知らず、持ち得なかったから。だから、彼との生活が糸原の現実であり、世界そのものだった。
『四乃、騙されるより先に騙せ。裏切られる前に裏切れ』
長雨の言葉が全てだった。彼だけが全てだった。まだ幼かった糸原は、従うしかなかった。
何故?
どうして?
人を騙して、人を裏切って、人を唆す。言葉で意図を操り、マリオネットのように他者を動かす。時にはその糸を切り捨てる事もあった。
何故?
どうして?
いつしか、当たり前になっていた。長雨と過ごす時間も、それ以外の全てを騙し、裏切る事も。自分たちが生きていく為なのだと、疑問すら抱かなかった。
だが、長雨の代わりにタルタロスへ落とされた時、糸原は気付いてしまう。自身にこの世界での生き方を教えた人間が、何故、自分のようなモノを拾い、育てたのかを。
他者を裏切り、他者を騙し、自由自在に操り、勝手気ままに切り捨てる。人を人とも思わない所業を繰り返す男が、何故、何一つ価値のないモノを傍に置いたのか。糸原には、分からなかった。ただ、恐ろしくなった。今までの世界が崩れていくような気がして、彼女は一条の光すら差し込まない暗闇の中で怯えて続けていた。
目を覚ませば、うそ臭い色が飛び込んできた。
「ああ」と、息が漏れる。
ここにいてはならない。
ここを出なくてはいけない。
切っ掛けならあった。ただ、ここにはなかった。そして、彼が二度と訪れる事はなかった筈だ。だから、もう意味がない。
……赤い少女がいた。圧倒的な力で以って、地面に叩き付けられた。今でも目を瞑ればその光景は思い出せる。思い出してしまう。自由にならない体と、消える事のない記憶。気を抜けば、手が震える。何と言う有様だろう。何と無様なのだろう。
糸原四乃は声を殺して笑う。
今までに生きてきて、こんな惨めな経験はなかった。もう嫌だと、何も知らなかった頃に戻りたいと、何度も思った。
だが、糸原は既に知ってしまっている。人を操る気持ちの良さも、雨に打たれる冷たさも、向けられる好意のくすぐったさも、背中に圧し掛かる重たさも――――。
「ああ」と、涙が零れる。
嘘で塗り固められた世界を、嘘を吐いて生き延びた。糸原にはもう耐えられない。彼女はもう、温かな場所で生きるのに味を占めてしまった。
戻りたいと強く思う。
会いたいと強く願う。
あの部屋で、彼と、また――――。
店の外に集まった者たちを見回し、店長は腕を組んだ。透き通るような冷たさが素肌を刺すも、彼女は表情を崩さない。
「現在時刻は午前二時、十分前。全員、やる事は頭に入っているな」
「はーいっ、大丈夫です!」
「……ふあ、ン。オッケー、オッケーよ、ボス」
店の前には堀の乗ってきたワゴンが停まっている。彼は運転席から降りないで、地図に目を遣っていた。
「何かあれば連絡を入れろ。住民の避難もほぼ終わっている。気にしないで、派手にぶちかませ。ソレさえ殺せれば問題はない」
「いやあ、お心強いお言葉です。では、そろそろ出発しましょう。お二人とも、行きますよ」
ジェーンと立花が車に乗り込む。ナナは手を振るが、一は険しい表情だった。
「何だ一、妹が心配か」
「話しかけないでください。あっ、今飛んだ……」
「お兄ちゃん! 見ててネ、アタシがソレをホッパーホッパーとやっつけちゃうんだから!」
「それを言うならバッタバッタだろ! あっ、また飛んだ絶対飛んだど忘れしちまった」
一はしゃがみ込み、白い息を吐き出す。
「ご心配なさらず、マスター。あの資料はインプットしておりますので、サポートさせていただきます」
「そ、そうか。……うん、じゃあ、皆、気をつけて」
「うん、いってきます! また後でね!」
立花が窓から身を乗り出し、ぶんぶんと腕を振る。苦笑する堀が頷き、車が出発した。一たちはそれを見送り、寒さに身を震わせる。
「大丈夫かなあ、皆」
「なるようにしかならないだろう。私たちも戻るぞ。外は寒い」
「……店長」
「何だ。話なら中で」
「三森さんと糸原さんは、戻ってくるんですか」
一はしゃがみ込んだままで、店長は彼の背中を見つめていた。
「いつかは戻ってくる」
「いつかって、いつですかね」
「いつかはいつかだ」
「……店長は一度、バックルームで全員って言ったんですよ」
煙草を取り出すも、店長は火を点けないままでそれを銜える。
「言ったか? まあ、言ったとしてそれがどうした」
「あの二人がいないのに、全員だって口にしたんです。それって、もう店長は二人が戻らないと思ってるんじゃないかって、そう思ったら、俺」
一は振り向き、店長を見上げた。
「ますます店長が嫌いになりました」
「そうか」
「そうかって、それだけですか? なんとも思ってないんですか?」
「うるさい奴だな。おまけに女々しい。だったら聞くが、そうやって泣き言言ってるだけであいつらが戻ってくるのか? 炉辺から聞いたが、お前は見舞いの一つもしていないそうだな。祈るだけなら誰にでも出来る。やる事やってから私に楯突いてみろ」
そこを突かれると苦しかったが、一はまだ店長をねめつける。
「忙しかったは理由にならんぞ」
「分かってますよ。でも、何か冷たくないですか」
「何なんだ、もう。八つ当たりはよせ。お前が私に何を言っても、戻らないものは戻らないぞ。大体だな、今から切った張ったでやり合うんだ。ぐだぐだ抜かすな。余計な事に気を取られていると、お前が死ぬんだ」
一は黙り込んでしまった。店長は煙草に火を点けて、勝ち誇ったかのように煙を吐き出す。
「……バーカ」
「あのな、一」
店長が一を睨みつけた。瞬間、彼を庇うようにナナが割り込む。
「そうか。お前が強気なのはナナがいたからか。人としてどうなんだ、一」
「店長に人の道を説かれる筋合いはないですよ」
「雇うんじゃなかったな、やはり」
「やはりってなんですか、やはりって」
「やはりとは……ああ、堀からだ。黙っていろよ」
店長が携帯電話を取り出すのを、一は不思議そうに見ていた。堀たちが出発してから五分ほどしか経っていない。北駒台店の予想したルートが間違っていたとしても、百鬼夜行と出くわすには早過ぎるのだ。
「ソレが出現したのでしょうか」
「たぶんな。ちょっと違ったコースを進んでるとか、そういった事じゃないかな」
「しかし、それにしては早い気も……」
「俺もそう思うんだけど、何なんだろうな」
「だから! 早過ぎるんです!」
銃声がうるさくて、堀はその音に負けないように声を張り上げた。電話口の店長は聞き返すも、彼はそれを聞き流す。ハンドルを切り、
「ホリっ、もっとニアって!」
「ジェーンちゃん、右から来てる!」
「そっちがどーにかしテよ!」
堀たちは百鬼夜行と遭遇した。予想していたルートに、今のところ大きな間違いは見られない。全て上手くいっている。……ある一点を除けば。
百鬼夜行は、妖怪や化け物が群れを成し行進する様を指す。それは一個の怪物と言うよりも、現象と呼ぶ方が正しいのかもしれなかった。その現象の歩みは――――否、百鬼夜行は疾走している。夜の道を我が物顔で駆け続けているのだ。
「こんなの聞いてナイっ」
ジェーンが喚く。数十、数百の魑魅魍魎で構成された百鬼夜行は、がしゃがしゃと耳障りな音を立て、唸り声を上げながら駒台の街を往く。彼女たちは、ソレの後方に当たる部分しか捉えられていない。
車の速度を上げて、ようやく追いつく。堀たちが追いかける百鬼夜行の先頭には巨大な骸骨がいる。その後ろに巨大な鳥が、鼠が、二足歩行の猫が、火の輪が…………堀は一度目を瞑った。ソレを相手にするのが馬鹿らしくなってしまい、その気持ちを押し殺すので必死だった。
『堀、どうなっている?』
「……一度切ります」
『何? おい、堀――――』
堀たちの乗るワゴン車は、百鬼夜行と『並走』している。
このままでは百鬼夜行を削る事すら出来ない。しかし、仕掛ける事すら難しい。走り続けるものに狙いをつけるのは至難の業である。戦おうとしてもソレが見向きもしない、それでは困るのだ。
ジェーンは歯噛みし、窓の外をねめつける。自分たちが何もしないのでは一たちの負担が大きくなる。彼女は、完全な状態の百鬼夜行を見過ごせば、店に残る一とナナでは押さえ切れないだろうと予想していた。
「……ジェーンちゃん?」
後部座席に座る立花は、隣にいるジェーンが窓を開けたのを不思議そうに見つめる。ジェーンはホルスターからリボルバーを抜き取り、弾丸を装填し、窓の外へと身を乗り出した。逆風を受け、彼女の髪が中空で乱れ舞う。鬱陶しそうに目を細め、ジェーンは引き金に指を置いた。
「あっ、危ないってば!」
「だって! こうでもしなキャ、お兄ちゃんたちが!」
彼女らの様子を窺っていた堀は、ジェーンを止めようとしたがすんでのところで思い止まる。確かに、彼女の言うとおりだと思えたのだ。ここで何もしなければ、ここまで出てきた意味がなくなる。ジェーンの銃撃だけでは焼け石に水かもしれないが、やらないよりはましだと言えた。
「少し寄せます。なるべく厄介そうなのを狙ってください」
「おっまかせ!」
人の顔をした巨大な鳥に狙いを定めると、ジェーンはトリッガーを引く。高く、乾いたような発砲音が続き、立花は顔をしかめ、耳を塞いだ。百鬼夜行の一団から、遂に脱落者が出る。以津真天と呼称される怪物が翼に穴を開けられ、胸に弾丸を受け、銃創から血飛沫を撒き散らして落下する。その際、他のソレを巻き込みながら転倒し、列を外れていく。ソレの最期を見届ける事もなく、ジェーンは次の獲物を求め、視線を忙しなく動かしていた。が、選ぶ必要はない。何せ、目の前の全てが標的となりうるのだ。どれを狙っても、どこを撃っても外す方が難しい。
「よりどりgreeeeen! 目をツムっても当たるワ!」
「た、楽しそうだね」
立花の呟きは銃声によって掻き消される。堀が短く呻いた。手持ち無沙汰の彼女はそちらを見遣る。フロントガラスにソレが張り付いていた。短い手足、大きく裂けた口、小人のような外見をした怪物の額には角が生えている。
「ジェーンちゃん、前にも!」
弾かれるようにしてジェーンが運転席に顔を向けるも、彼女の位置からではソレに対して発砲出来ない。後部座席から前に移ればそれも叶うだろうが、無理な体勢になるのは火を見るより明らかだった。車を止めなければ、あるいはガラスごと撃ち抜くより他にない。が、一向にブレーキをかけない堀は百鬼夜行を追走するつもりである。
百鬼夜行から脱落するソレの数は徐々に減っている。しかし、ジェーンに撃たれたモノだけではない。遂に、彼女らを敵として認めたモノが出始めたのだ。小鬼や火の玉が、列を抜け出して次々とワゴンに向かってくる。ジェーンは息を呑み、それらに対して銃撃を続けるも、銀の弾を掻い潜ったソレがフロントガラスや、屋根に足をつけ、中にいる者たちを睨みつけている。その内、ジェーンの開けていた窓に骸骨の腕が伸びた。
「こっ……のォ!」
立花は雷切ではなく、予備の日本刀を鞘から抜き、ジェーンを押し退けて骸骨の眼下に切っ先を突き立てる。動きの止まったソレから得物を引き抜くと、彼女は呼吸を整えた。からんからんと、髑髏が地面を転がっていく。頭上からはソレの足音が聞こえてくる。繰り返し屋根を踏みつけるような、激しい物音も聞こえ始めた。その度に車内にいる三人の心拍数が上がっていく。
「このままでは……一旦、停めますよ。その上で車体に取り付いているソレを」
「ノウ! ヒャッキヤコーに逃げられちゃうワ。このまま突っ切る! タチバナ、アナタもso思うわよね?」
このままでは一方的に攻撃を受ける。車が破壊されれば追撃は困難となるだろう。しかし、停止すれば百鬼夜行の速度にはついていけない。堀、ジェーン、どちらの意見も正しく思える。迷った立花は深く、長く息を吸い、吐き出した。
「ボクは外に出る」
「ハア!? ちょ、ホワイ!?」
立花は予備の日本刀を二振り引っ掴むと、躊躇なく窓を開ける。風を切る音と、異形のモノたちの唸り声や足音が彼女の鼓膜に押し入ってくる。
「えっ、ちょっと! 立花さんは何をしようとしてるんですか!?」
「ストーップ! 死ぬ気なノ!?」
死ぬつもりはない。だが、このまま何もしないくらいなら死ぬ方がましだった。立花は覚悟を決めて、窓枠を掴む。片足を桟に掛け、刀を抜いた。
「堀さん、ちょっとだけごめんね! 車、壊さないようにするから! ちょっとだけ!」
立花の意図にようやく気がついた堀は、眩暈を堪えるのに必死だった。
「どうなっても知りませんよ! 少しだけ、スピードを落として車を振ります!」
「ありがとう!」
黒いワゴンが速度を落とす。すかさず、車体は左右に揺れ、その動きに耐えられない小型のソレは振り落とされていく。無謀な制動、再び、鋼鉄の巨躯が百鬼夜行と並走する。
その瞬間、車内から妖光が閃いた。夜半の月明かりを受けた日本刀が疾風を切り裂く。
「ジェーンちゃん、動かないでね」
夜闇に烏が羽ばたいた。漆黒色のセーラー服が、風を孕んで翻る。窓枠を掴んだしなやかな筋肉が軋んだ。逆上がりの要領で、艶やかな濡れ烏が車外に身を晒す。
「くっ、おっ、おおっ……!」
片腕に刀を持ち、片腕だけで自らの全体重を支えながら、立花真が走行し続ける車の屋根に足を下ろした。が、彼女は未だ前後不覚の状態である。不確かな感覚を認識したまま、立花は得物をワゴンの屋根にずぶりと突き刺す。車内からジェーンの悲鳴が上がった。刀身の半ばが内部に到達したのを確認し、立花は柄をしっかと握り締める。それは彼女にとっての命綱であり、決して離す事は叶わない。十全な足場を作ったとは言い難いが、小さなソレ相手ならば戦える。反撃の口火になる。
立花はもう一振りの日本刀を解き放った。僅かに逡巡するも、邪魔になると判断して鞘を捨てる。
奇声が上がる。屋根によじ登ってきた立花を認め、車体に取り付いていた小鬼が一匹、彼女に飛び掛かった。苦もなく、立花はソレを切り伏せる。首を切り裂かれた小鬼は悲鳴すら上げられぬまま地面に落下し、アスファルトとの衝突によって全身の骨が砕かれる。生を終えた後も、遺骸は磨り減り、傷つきながら後方へと流れていく。
「……これが、百鬼夜行」
立花はこの時、初めて百鬼夜行の全貌を目の当たりにしていた。
車はまだ、百鬼夜行の中ほどに当たる部分と並走している。立花は百鬼夜行の先頭と、最後尾を見据えた。……百鬼夜行は百メートル程度の列を成している。ソレの数を数えられるとは思えなかった。ただ、ただ夥しい。これら全てを相手にしなければならないのかと、立花は息を呑む。それでも、やるしかなかった。自分たちに課せられたのは百鬼夜行を構成するソレを削り、百鬼夜行そのものを弱体化させる事なのである。ならば、ここで怖じている暇などない。
まずは車に取り付いているソレを無力させるのを最優先とし、立花は刀の届く範囲にいるソレを切りつけ始める。抵抗してくるモノもいたが、車から振り落とされないようにしているモノが大半だったので苦労はない。それよりも、彼女もまた、この体勢を維持するのに精一杯だった。車体を離れたソレの末期は、数秒先の自分の姿なのかもしれない。立花は両足に力を込め、深く息を吐き出す。吹きつける風が、火照った体を予想以上に冷やしていく。柄を握る手が震えていた。
「堀さん、もっと近くへ!」
震える心を誤魔化そうとして、立花は必要以上に声を張り上げる。彼女の声に応え、ワゴン車が少しずつ百鬼夜行に近づき始めた。接近を助ける為だろう、先ほどから引っ切り無しに銃声が響いている。ジェーンの放った弾丸は漏れなくソレの肉体に食い込んでいた。
雷切はまだ車の中にある。立花はそれを取り落とすのが恐ろしくて置いてきたのだが、今になって心細くなる。が、既に刃の届く先にソレがいた。迷っている時間も、戸惑っている暇もない。百鬼夜行を改めて見据えると、彼女は己が得物を前に突き出す。貫いた。殺した。馴染み深い確かな感触が、立花の思考から一切の躊躇いを打ち消した。