終世ギャラクシーデイズ
山田栞が初めてアイネ=クライネ=ナハトムジークを見たのは、一年前の事だった。
蛇のソレの出現。その噂を聞きつけ、とある国に到着した彼女が出会ったフリーランスが『貴族主義』だった。
尤も、山田とアイネは親しげに言葉を交わした訳ではない。ただ、ソレとの戦闘の際にかち合っただけだ。現れたソレはヤマタノオロチではなかったが、仕留めたのは彼女ではなく、アイネである。
アイネが誰よりも早く駆け、ソレとの戦端を開き、そのまま仕留めたのは正義感からではない。死に急ぐような戦いぶりに、山田は身震いしたのを覚えている。自分も、ヤマタノオロチと見えた時、ああなれるのか、と。……だが、決して『ああなりたい』とは思えなかった事も覚えている。
今がその時だ。
そう、天使が言った。
アイネが一人でザッハークの足止めをしている。その隙を見計らい、一は山田と北に話を持ちかけた。
「あいつは不死身じゃないんです」
「ああ? おい一、いきなり何言って……」
「ああ、やっぱりそうだったかよ」
山田だけが納得いかない様子で一を見遣る。彼は一つ息を吐き、彼女を見返した。
「アイネも気づいてます。いや、もしかしたらあいつは最初から知ってたのかもしれません。……ザッハークに攻撃は通らない。あいつの皮膚は馬鹿みたいに固くて、それは、栞さんだって知ってる通りでしょう」
「けどよ、入る時は入るぜ。お前だって見たろ。オレが一発、良いのをぶち込んだのをよ」
「あれはたまたまだったと思います。……あ、あの、そんな顔しないでくださいよ」
「う、悪い。でも、確かにそうだな。流石に殴った時の感触が違い過ぎてたぜ。そう、だな。オレの拳が通った時、あの手ごたえ、ありゃあ、化け物とかじゃねえ。人と変わんない感じ、で…………どういう事だ?」
自分の手を握ったり開いたりしながらで、山田は不思議そうに尋ねる。
「俺にはザッハークの謂れとか、そういうのは詳しく分かりませんけど、あいつには何かが備わってる。その力ってのはザッハーク本人じゃなく、あの、肩の蛇が原因なんです」
「嬢ちゃんよ、野郎は俺や、お『貴族』ちゃんの攻撃は避けてるんだ。その時の状況を思い出してみな。どうだ? 何か思いつかねえか?」
「……そう、か。はっ、かはっ、おもしれえ! そういう意味か! そうだ。あの蛇野郎がビビってやがんのは、肩の蛇が『死んでる』時かよ!」
一は頷く。もはや、そうとしか考えられなかった。
「多分、蛇がザッハークに力をやってる。具体的には分かりませんが、例えば、体を強くする、とか。ある程度は本人も鍛えているし、もしかしたら蛇が出ていない間もそこそこの力はもらっているのかもしれません。だから、分かりづらかったんです。蛇が死んでいる間は能力がない。百パーセント、完璧には発動しないんです」
「納得したぜ。だから蛇にゃアイギスが効かなかったんだな。力をやってると考えてみれば、最初から別の生き物だったって訳だ」
「ええ。でも、それが正しければ、蛇が両方とも生きている間、ザッハークは不死に近い能力を得ているって事にもなります」
北と山田は顔を見合わせ、
「だったら話は早いぜ、一」
「蛇を二匹殺せば、ガードはがら空きって訳だ。ゲームより簡単じゃねえか」
ザッハークに向き直る。
「ザッハーク本人には誰が当たるんですか?」
言ってから、一は気づいた。そこにはもう、適任者がいる事に。
舌打ちする。どうやら、能力の正体に気付かれてしまったらしい。ここいらで潮時かもしれないと、ザッハークは思った。食事をするのならまだしも、餌に食われるような事があってはおしまいなのだ。死よりもまず、それを誇りが許さない。
ここで皆殺しにする。逸材は生け捕り、踊り食いがベストな作法だと心得ていたが、そうもいかないだろうと判断していた。退く事は許されない。楽しむ余裕を感じられなくなった今、ここで殺すしかなかった。
「顔色が優れませんね」
ザッハークにとっては何をするにしろ、眼前の女が邪魔だった。
眼中になかった。興味すら持たなかった。価値のなかった筈のモノが、今、こうして邪竜の化身を殺し尽くし、進行の障害となっている。
アイネは微笑みながら得物を突き出し、血を浴びていた。
――――化け物でなければ、何だと言うのだ。
ふと、頭を過ぎった考えにザッハークを違和を感じる。化け物である筈の自分が、何故、このような事を考えたのか分からなくなり始めた。早く始末しなければならない。しかし、気だけが焦っても仕方がなかった。何故なら、両肩の蛇は誰の命令も聞かないからだ。
ザッハークの体内に巣食う蛇は、宿主の危機、あるいは血の臭いを嗅ぎ取った時にだけ肉を食い破り、その姿を見せる。決して、ザッハークの意志に従う事はない。
「魔法を、使わないのですか?」
「餌め……!」
挑発的な言葉を受けても尚、ザッハークは何もしない。何故なら、どれだけ念じようが、どれだけ祈ろうが、彼は魔法と言うモノを行使する事は不可能であり、そも、魔法と言う概念を理解する事も不可能であったからだ。
理解さえすれば……化けの皮さえ剥いでしまえば、こんなにも楽な気分になれるものか。一は息を吐き出して、アイギスを構える。
「アイネっ」
呼びかけられたアイネは、一度だけ振り向き、何も言わずに戦いへと戻った。出会った当初は、彼女と視線を交わしただけで全てを理解し合える仲になるとは思っていなかった。
「頼む、メドゥーサ」
一は目を瞑る。ここに至っては、自分にはザッハーク本体を止める事しか出来ない。戦いの真っ只中で援護する事は叶わない。だから、せめて自分が倒れてしまっても――――倒れるまでは、自身と引き換えにソレを止めよう。そう、彼は決意した。
右肩の蛇が再生する。左肩の蛇が再生する。
北が飛び出し、次いで、山田が逆方向から地を蹴った。二人の意図を汲み取ったアイネは一旦下がり、彼らに任せる。
「我輩からっ、退くか!」
もはや、ザッハークはアイネしか見ていなかった。ソレは彼女を追いかけようとするが、一がメドゥーサを発動させる。眩い光が彼らを照らしたのも一瞬の事、その光輝が消える頃には、北が蛇の首を掻き切っていた。だが、僅かに早い。アイネは攻撃に加われず、ぎりりと歯軋りをする。
一たちの考えは、蛇を『殺した』瞬間に、アイネがザッハークを殺すというものだ。しかし、両肩の蛇をほぼ同時に殺さなければ、ザッハークに能力が付加されてしまう。蛇の再生には一秒程度掛かる。玉響にも似た刻限にソレを殺し切る必要があった。
蛇の動きに規則性はない。曲線の、時にはまっすぐに移動する蛇の進路を見切り、尚且つ一撃で仕留めなければならない。山田と北はタイミングを合わせようとするが、簡単にはいかなかった。
また、アイネは二人が蛇を殺せると判断してから動く必要がある。二人が蛇を殺してからでは少し遅く、殺す前では少し早い。最終的には、彼女の双肩に全てが掛かっている。
「お二人とも、お早く。ウーノが持ちませんわ」
「うるせえ黙ってろ! んな事オレだって分かってんだよ!」
一にはまだ余裕があった。だが、彼はザッハークの動きを止める為、精神に負荷をかけるメドゥーサを連続で使用している。長引けば、ミノタウロス戦のように力を使えなくなる可能性もあった。
「仕方ありません」
アイネは蛇の攻撃をかわしつつ、動きの止まっているザッハークに向けてレイピアを突き出す。が、ソレはメドゥーサに動きを制限されながらも、彼女から逃れるように動き続けていた。
「ああああああっ畜生苛々すんぜ! おっさんっ、オレに合わせろよ! 早いんだバカ!」
「嬢ちゃんよお、男に向かって早いとは何だ。そっちが遅いんだろうがよ」
「こんな時に仲違いを……」
アイネが割り込むが、北と山田は彼女をねめつける。
「アイネ! 元はと言えば、てめえが話をややこしくしたんじゃねえか! もっと早く出てきてりゃあ、やりようもあったってのによう!」
「私の気持ちも知らないで、よくもそのような事を」
「何も言わないからだろ! 一に甘えてんじゃねえ!」
「あ……ふふ、羨ましいのですか?」
「本当に甘えてたのか!?」
「かあーっ、女が三人揃えば姦しいって言うけどよ、二人でも充分だぜ。なあ、坊主?」
一には答えられない。彼はメドゥーサの力を制御するのに精一杯であり、集中を乱す訳にはいかなかった。何よりも、呆れ返っていたのである。
「野郎の次は『貴族主義』のキノコ女をぶん殴ってやらあ!」
「本当に、いつもいつもお元気そうで。反りの合わないお方っ」
「蛇に女だ! 蛇女よかマシだけどよ、どっちもやっぱりどうしようもねえなあ! なあ坊主!」
いい加減にしてくれ。一は叫びそうになるが、空気が変わるのを感じた。
場が一瞬で静まり返ると、山田が左肩の蛇を、北が右肩の蛇を押さえている。アイネは迷わず、ザッハークに向かって歩を進めていた。彼女が動いたのを確認し、
「餌、餌の分際で……っ!」
一はメドゥーサを発動する。
左肩の蛇が頭をねじ切られ、絶命する。
右肩の蛇が首を引き裂かれ、絶息する。
二匹の蛇が『死んだ』のはほぼ同時、そして、アイネは自らの得物を標的の心臓に突き刺していた。彼女は肉を刺し、貫く感触を覚えながら、一息に、より深く――――。
「餌の――――が、ぶぐっ……」
メドゥーサの効力が切れたザッハークは自身の胸元を見遣った。レイピアの先端が見えない。刀身は既に、半分以上も中に食い込んでいる。
「馬鹿、な」
蛇が再生する。二匹の黒蛇は山田と北が押さえ、復活する端から殺し続けた。……蛇は再生する。しかし、ザッハークの流血は止まらず、ソレの呼吸は荒くなる一方だった。遅かったのだ。蛇が再生してザッハークに能力を与えるよりも、ソレの心臓に致命的な損傷を与える方が少しばかり早かった。そして、僅かなタイムラグがザッハークに苦痛を与え続ける。
蛇の与える能力は不死ではなく、再生でもなく、強化であった。三つ首の邪竜に相応しい肉体を与えられていたのが、ザッハークという男の正体である。
蛇はザッハークが生きている限り、再生を続ける。しかし、損傷した彼の肉体を蘇らすまでに便利な存在ではなかった。だが、蛇が再生する以上、ザッハークの損傷した肉体も強化され続ける。僅かな時間差が、ザッハークの死と言う猶予を、僅かに引き伸ばしているに過ぎない。
「が、あ、あああっ」
ザッハークは膝をつく。彼は今、激しい責め苦を常時味わっているようなものだった。死は確定している。その時が来るまで、ソレは絶望に身を浸し続けなければならない。
「なぜだっ、ああああああああ! なぜっ、だ……!」
アイネはザッハークを見下ろし、レイピアを戻した。
ザッハークは苦痛から逃れる為か、あるいは現実から逃れる為か、声を上げ続けた。やがてそれは嗄れ、ひきつれたものに変わっていく。
「我輩はァァ、アジ、ダ……の、けっ、けしんなのだ!」
右肩の蛇が再生を終える。完全に、死に至る。宿主の死を感じ、宿主の生命力に巣食うそれが痙攣を繰り返していた。
「いいえ」
アイネは首を振る。
「あなたは、王。あなたは、ソレ。ですが、痛みにのた打ち回り、死からすら逃れようとする浅ましい末期の姿は、どこまでいっても人でしかないのです」
ザッハークは死を間近にしながらも、顔だけを上げてアイネを睨んだ。必死の形相だったが、彼女は涼しげにしている。
「同時に、あなたは私でもあります。世界を終わらせようとして、結局はそれから逃れた、私と。浅ましく、醜い。どこまでも、駄目な……」
「お、おおおぉぉおお……!」
「卑怯だとは分かっております。でも、もう、恨み言をぶつける相手もいないんですもの。最期まで、我慢してくださる?」
咲いた花のような笑顔は、責め苦の果てに死する者に向けるには似つかわしくない。一種、凄絶なものだった。
「ソレに言葉は通じない。ソレに感情は伝わらない。……肩の荷が下りた気分ですわ。ようやく、今になって。ああ、気持ちは伝わらずとも、言葉が通じて良かった」
レイピアを畳み、アイネはそれを愛しげに撫でる。
「やはり、あなたに会えて良かった」
ザッハークは否定出来なかった。
千の魔法を使えず、体内に宿すのは己を呪う蛇だけで、火の神と戦った事もない。
かの、悪神の眷属である邪竜は英雄によって最期をもたらされた。だが、剣を刺してもその傷口からは大量の害ある生き物が這い出てくる為、やはり、天使の声に従った英雄によって山の地下深くに封印されたのである。やがて解き放たれた暗黒の竜は、世界の生物の三分の一を貪り、別の英雄に殺される。
「ああ、あなたが人で良かった」
ザッハークは否定出来なかった。
自身が三つ首の邪竜ではないと気づいたからではない。……既に、左肩に宿る蛇の再生も終わっていた。死人は口を利かない。彼は心の臓を貫かれて、その生を終えたのだ。ただ、それだけの事だった。
店長との通話を終えた一は、階下にいるアイネたちに向けて手を振った。
「応援が来るから、死体はそのままで良いそうです」
「はっ、何が応援だ。一、もうそんな店辞めちまえ。オレと一緒に居酒屋でも開こうぜ」
「考えときます」答えて、一は階段を下りる。ザッハークは、不死ではなかった。その証明を改めて認めると、彼は溜め息を吐き出す。
体はだるく、とてつもなく疲れていた。だからこそ生きているのだと、一は実感出来た。
「良いじゃねえか。俺ぁもう疲れた。寝る。マジで寝るからな。三日は起こすんじゃねえぞ」
北は背中を丸めて、自分の部屋に戻っていく。
「お疲れさまでーす」
「ノックもすんじゃねえぞ。差し入れなら歓迎だ」
「お疲れさまでーす」
「差し入れろよ!」
扉が閉まり、残った一たちは顔を見合わせた。
「……あれ? 歌代はどうしたんですか?」
「あー、寝ちまったよ。張ってた気が緩んだんだろうな。あいつもよ、頑張ってたよな。……なっさけねえどっかの誰かのお守させられてよ」
山田が意地悪そうにアイネを見る。
「……あと、どれだけ頭を下げれば許してくれるのですか?」
「当分はこのネタで引っ張る」
「くっ……あの、一、さん」
「ん? 何?」
アイネは深く頭を下げた。
「えーと、本当に、何だ?」
顔を上げたアイネは、
「どうか、打ってください」
「変態……」
宣言した。
「へっ、変態ではありません。あ、あの、私、あなたの頬を……」
一は頬っぺたに手を当て、ああ、と、呻いた。アレは自分のせいでもあると、彼は気にしていなかったのである。むしろ、アイネに許してもらえるかどうかが気に掛かっていた。
「良いよ、もう。俺の方こそ、ごめんな」
「いいえ、いいえっ! 私など、そんな…………気が、済まないのです。叩いていただかないと、あなたに対して、ずっと申し訳ないって……」
「うじうじうじうじ鬱陶しいったらねえな。良いじゃねえか一、殴られたいって言ってんだからやっちまえよ。思い切りぶっ叩け」
誰も殴れとは言っていないが、一は山田に対して訂正を求めなかった。
「私たちはお友達なのですから」
「うーん、じゃあ、一発だけな」
正直、一の腰は引けていた。叩く理由など、彼にとってはないに等しいものなのだ。だが、そうしないとアイネが収まらない。そして、山田がもっと過激な事を言い出すのではないかと、一は内心怯えていたのである。
「いくぞ」
「ど、どう――――ぞっ……!?」
「あ」
ぱあん、と。一が思っていたよりも良い音が響いた。響いてしまった。彼は自分の掌と、アイネの頬を見比べる。彼女は張られた頬を押さえ、俯いてしまった。
「や、やり過ぎたか? ご、ごめんな」
「いや、全然だろ。もっといけ。やれ、一」
「な、な……」
アイネは震えている。一は心配そうに顔を近づけようとした。
「何故ですの!?」
「ええっ、何だよもう」
「本当に打つ人がありますかっ。あ、あそこは、もっと私の頬を優しく撫でて……」
一に詰め寄ろうとしたアイネの肩を山田が掴む。
「やっぱり甘えてんじゃねえか。根性ひん曲がってやがる」
「やっ、優しさに甘えてはいけないのですか!? だって、だって私、もっと良い目を見たってよろしいのではありませんか!?」
「一人で夢でも見てれば良いんだ。なあ一、もう良いからオレたちも休もうぜ」
山田はアイネを軽く突き飛ばして、一と肩を組もうとする。
「ウーノっ、私たちはお友達です!」
アイネが山田を勢い良く突き飛ばして、一と腕を組もうとする。
「え、あ、そ、そうだな」
「でも、そろそろお友達からステップアップしても、そ、その、よ、よろしいのでは……ないか、と」
上目遣いのアイネを、一はただ、あざといと思った。と言うか彼女の性格からしてチアキあたりに仕込まれたのだろうと見当をつけている。
「そっか。でも、今日のところはもう、休んどこうな」
「よろしくない、です。ウーノのやり口はチアキから聞いています。そうやって煙に巻いて、私の気持ちを弄んでいるのでしょう」
「とんだ風評被害だ!」
「いや、結構そういうところあるよな。かははっ、お前はフリーランス殺しだもんな」
「うわー、すげー良い笑顔ー」
一は山田の手を払って、アイネからも距離を取った。
「もう今日は勘弁してくださいよ、マジで」
「きっぱりと言ってください!」
真剣なアイネの横で、山田はけらけらと笑うのみである。
「友達と言う枠に当てはめられるのは飽きたのです!」
「飽きるほど友達長くねえだろ……」ばれないように呟いた。
一は考える。早く休みたくて仕方がなかった。ここでアイネを『お前なんか友達でも何でもねえよ』とすげなく突き放すのは簡単だが、彼女がショックを受けてしまうのが容易に想像出来る。尤も、彼は根まで腐っていないので、そんな事は最初から選べなかった。かと言って、今以上にグッと来られるのも迷惑な話である。ネガティブなのにアクティブなアイネに、一は参っていた。
「……なあアイネ、君が良い奴なのは分かっているんだよ」
「あ、ありがとう存じます」
一は考える。もう眠くてしようがなかった。出来る事なら暖かい布団に包まれて、出来れば眠る前に暖かいココアを飲んで眠りに就きたかった。彼にとってアイネは友人だ。そして今のところ、それ以下でも以上でもない。第一、女神からアイギスを受け取った一には甘やかな生活を送るのを選べなかった。何よりも彼からは思考能力が奪われつつある。
「分かった」
「そろそろめんどくせえな」今の山田はどこまでも身勝手だった。
「アイネ。俺とお前は、友達以上の関係だ」
「ほ、本当に。本当に、よろしいのですか。い、一線を越えても」
「言い方は悪いけど、それで良いよな? 文句ないよな?」
「文句など! 誰にも言わせるものですか! ええ、言わせませんわ!」
アイネは祈るようにして両手を組み合わせ、その場でくるくると回り始める。
「うん、俺たちは友達じゃなくて親友だよな」
「ええ! そうですとも! ……あ、いえ」
「じゃあお休み。栞さんもお休みなさい」
「おう、晩飯は一緒に食おうぜ。良い酒が実家から送られてきてんだ。湯豆腐とかどうだ」
「あ、あの、ちがっ、違います」
「ああー、いいですねえ。素晴らしいですね、それは」
「でも、それでも良いかと思うのです。私は」
「あ、はあ。寝起きにいきなし言われても。くああ、今、何時?」
「もうすぐ夕食時ですね。今日は湯豆腐のようです」
チアキは自室のベッドの上で目を覚ました。が、何故か部屋にはアイネがいる。彼女は辞書らしき分厚い本をぱらぱらとめくっていた。
「何、それ」
「本です。ところでチアキ、ウーノとはどういう関係ですか?」
「はあ? 何かもう、いきなしやなあ。ええー、ししょーとの? アレちゃうかな、やっぱ師弟関係? ……ちゃうかなあ」
「あるいは、友人関係ですか」
頷き、チアキはベッドから下りる。
「んー、まあ、そんな感じとちゃうかな。あ、水飲む?」
「お構いなく。……ふ、ふふ、そうですか」
アイネが薄気味悪く笑うので、チアキは彼女を訝しげに見遣った。
「どないしたん? あ、でも、気持ち分かるで。せやんなあ、あんなヤツをどうにかしてんもんなあ、そら、笑ってまうかあ」
「チアキ」
「んー?」
「親友とは、素晴らしいものなのですね」
「まあ、そうなんちゃう?」
良く分からないが、つい数時間前までは塞ぎこんでいたアイネである。彼女がこんなにも楽しそうに、嬉しそうにしているのならそれで良い。そう思いながら、チアキはペットボトルのミネラルウォーターを一口含む。
「ああ……世界とはこんなにも温かなものなのですね」
「大袈裟やなあ」
「世界、大好き!」
「アホの子になってもうた…………湯豆腐かあ。鍋って、ええな。こたつ入って、仲の良い皆で囲んで、それだけで幸せって感じするもん」
「世界が終わってしまうその時には、湯豆腐を頂きたいものですね」
終末に囲む鍋とは、どんなものなのだろうか。チアキは想像力を働かせるが、何も思い浮かばなかった。生きる為に何かを食べる事は考えられても、死ぬ間際に何かを食べる事は考えられない。
「おいしかったら何でもええけどな」
腹の虫を宥めつつ、チアキは目前の夕食について思いを馳せるのだった。