美味礼賛ジャンキーズ
数十メートル先、人ごみに紛れるようにして歩いているのは、痩せぎすの中東系の男である。決して人目を引くような派手な服装ではないが見逃さない。オンリーワン近畿支部情報部の氷室は、前方にいる男を見逃さない。
馬脚を現す事はないが、痩身の男はソレなのだと、円卓の構成員であると聞かされている。
「……仕掛けないのか」
ドレッドヘアーを弄くる氷室の隣を歩いているのは、縁の厚い眼鏡を掛けた若い女だ。長い髪が邪魔になるのか、ヘアバンドをしている。彼女の背は低く、顔立ちもどこか幼いが、身に纏う空気は童女のようなそれではない。彼女はオンリーワン近畿支部、戦闘部に属する十川幸子だ。彼女は二年前に戦闘部へ配属され、新人という扱いこそ受けているが、戦果は充分に上げている。
「ええ」
「ソレが目の前にいるってのに?」
「ええ」
短く、素っ気なく返されてしまい、氷室は小さく舌打ちした。
十川はソレとの戦闘の際、主に針を使う。柔らかな部分を狙って突き、時には得物の先端に毒を塗って刺す。一撃では致命傷に至らないが、彼女は持ち前の敏捷さを活かして、ソレの体に毒が回りきるまで、血が流れ、疲れ果て、死に至るまで攻撃を避け続けるのだ。……氷室は知っている。何故、十川がそのような戦法を好むのかを。何故、致死性の毒を使わないのかを。
「怖気づいたのか? 何せ、相手は円卓だからな」
口の端を歪めると、十川はひきつれたような声を噛み殺した。
「ひ、ひひ……あ、失礼。いえまさか。今ね、覚えているんですよ。ぶち殺す相手ですから、しっかりと焼き付けておかないと失礼でしょう? 体のどこに針を刺せば痛がるのか、どこを突けば苦しむのか、想像しているんですよ。あそこを刺されるとどんな声を出すのかなあって、どういう風に死んでいくのかなあって」
「良い趣味だな」
「趣味ではなく生き甲斐ですから。でも、今度のソレがああいうカタチで良かったです。ああいうカタチのを殺すのは慣れてますから。ちゃあんと把握してますよ、ひ、ひひひ……あ、失礼」
十川幸子は生粋のサディストである。だから、回りくどい手段でソレを死に至らしめる。長く、より長く苦痛を与える為に。より長く、自らを悦ばせる為に。
「大物が回ってきて、良かった」
童女を思わせる十川の顔が、歪む。氷室は咄嗟に目を逸らした。
「名前も知らない。素性も分からない。でも、理由も意味もあるんです。アレはきっと、私を楽しませる為に生まれてきたんだと思いますから」
頼もしいが、同時に恐ろしくも思える。氷室は早く今回の仕事が終わって欲しいと、ただ祈るしか出来なかった。
「なあ、アイネ」
どれだけチアキが話し掛けても、アイネは口を閉ざすばかりだった。アイネは部屋の隅で蹲り、顔を上げようともしない。暗い部屋で、彼女はこのまま息絶えてしまうのではないかと、チアキは愚かな想像を頭から追い出した。
「教えてくれへんかな、さっきの、その、ソレの事」
チアキはアイネを慰める為だけにここへ来たのではない。……歌代チアキはソレとは戦えない。ここ、中内荘で一たちに助けられるだけでしかないのだ。自分は足手まといなのだと、彼女は自覚している。だからこそ、一つでも良い。一つだけでもソレについての情報が欲しかった。それを持っているのは他でもない、アイネなのである。そう、チアキは確信していた。
「お願いやから」
暗い部屋の中、チアキは一歩ずつ歩を進める。彼女はアイネの傍にしゃがみ込み、目を凝らした。
「弱点なんて都合のええもんは期待してへんけど、何か、ほら、あるやろ?」
アイネは答えない。
「だって、さっきん時、師匠かってしんどそうやったし、栞さんのパンチだって利いてなかったやんか。何か、何かないと、このままやと、うちら……」
アイネは答えない。
「……アイネは、ええよ。戦えるやんか。フリーランスやもんな。師匠の助けになれる。でもな、うちは違うねん。戦いが始まったらうちは、見てるだけしか出来へん。だからな、せめて」
「……チアキ、さん」
「ん、何?」
「一人にしてくださいませんか」
瞬間、チアキの頭に血が上る。彼女はアイネに向かって手を伸ばしかけたが、辛うじてその手を押し留めた。
「私に手を上げませんの? 打ってもよくってよ」
アイネは一と口論になり、彼を叩いた事で自棄になっているが、チアキはその事実を知らない。仮に知っていたとしても、彼女は感情に任せて口を開いていただろう。
「師匠が死んだら、うちはアイネを許さへん」
流れる涙を拭わずに、チアキはアイネをねめつけていた。
このままソレに殺される事になれば、アイネとは仲直り出来ないままだ。一はどこか、場違いな事を思った。
「は、見てみろよ一」
中内荘にソレが迫る。既に目視できる距離にまでソレが、あの痩身の男が近づいていた。
「……堂々と、真正面から来やがった」
山田が唾を吐き捨てて、拳に巻いた晒しの先端を口に銜える。ぎゅっと、強く結びつけると、彼女は満足したように笑みを漏らした。
「一よぉ、悪いけどカバー頼むわ。こっから、本気で行くからよ」
「本気、ですか」
「おうよ。気にせずぶち込んでやる。端っから、オレに出来る事はこれしかねえんだ」
「無理はしないでくださいよ」
かははと、山田は笑い飛ばす。
「無理しなきゃ、アレは無理だぜ。死なねえ程度に頑張るけどよ」
一は何も言えなかった。実際、山田の言う通りなのである。円卓のメンバー相手に力を出し惜しんでは一方的にやられるだけなのだ。
足が竦む。体が震える。一が勤務外になってからの日は浅い。しかし、ソレとどれだけ戦ったとして、恐怖を感じずに済むとは思えない。彼はいつだって臆病なままで、いつまでも弱音を吐き続けるだろう。それでも、一の手にはアイギスがある。彼の傍にはメドゥーサが立っている。その背中には、守りたい者がいる。盾になるなら今しかない。誰かの盾であろうとするなら、もう、背中を向ける事は許されない。
「……変わりないようで安心した。傷がつけば鮮度も落ちる。我輩の胃の腑に収まるまで、無茶をしてくれるなよ餌ども」
痩身の男が立ち止まる。彼の目は一と山田を捉えていた。
一は僅かに目を細める。男の着る服、その両肩に当たる部分が破れていたのだ。余計な事をしてくれた。そう判断して、彼は舌打ちする。……恐らく、戦闘部の誰かがが仕掛けたのだ。そして、戦いは衣服を破る程度にしかならなかったのだろう。
「化け物め」
男はアパートに目を向けて、鼻を鳴らす。
「結構。セイレーンもここに留まっているようだ。前菜などとは言わぬ。光栄に思うと良い。貴様らは全てメインとなりうる食材だぞ」
「誰がてめえの餌だよ」
一は目を見開いた。先まで隣にあった山田の姿が消えている。次に、男の呻く声が聞こえた。彼の腹部に深々と突き刺さるのは、他ならぬ彼女のそれである。
「ごっ……!? まさか、これほど……!」
「あん? てめえ、痛えのか?」
拳を引き、同じ箇所を殴り抜く。山田は楽しそうに笑って、男から距離を取った。彼女は腕を振り、手応えを確かめる。
「痛いのかって聞いてんだ」
男は崩れ落ちるまではいかないが、苦しそうに腹を押さえていた。一は確信する。攻撃は通る。苦痛を与えられるのだと。
「そりゃあ、いてえさ!」
「北さんっ!?」
影が落ちる。三日月型の刀、ハルペーを構え、空を翔るタラリアを履いた北が、屋根の上から男に向かって飛び掛かる。振り下ろした得物は陽光を受けて鈍く輝く。ソレの首元を狙って放たれた斬撃だが、ソレは身を捩ってそれをかわした。男は苦し紛れに腕で払おうとしたが、北は一度のバックステップで一たちの傍まで後退する。
「いてえよなあ。何せ生きてるんだからな。生きてるもんは痛がって苦しんで死ぬもんだ。そうだろ?」
「……おっさん、あんた何者だ? 何だ、今の動きはよう」
「話なら酒の肴に聞かせてやるぜ」
ハルペーを握り直すと、北はソレを見遣った。
「よう坊主、出番がなさそうで羨ましいな。年長を働かせるもんじゃねえぜ、全くよ」
一は口元に笑みを浮かべる。……いけるじゃないか。そう思い、何よりも英雄の存在を頼もしく思う。ペルセウスは、不死であるゴルゴンの打倒は叶わなかった。だが、それ以外のモノに対してなら、これ以上ない戦力なのである。ソレの名前を知らなくても、相手が不死でないのならどうにかなる。
「でも、いきなりどうして?」
「だから言ったろ。今度は本気でいくってな。オレと一は、さっきビビり過ぎてたんだよ。体がガチガチに固まってたら、殺せるもんも殺せやしねえ」
「……え。じゃあ、本当に栞さん、さっきは本気じゃなかったんですか?」
「おう」と頷き、山田は腕をぐるぐると回した。
「手応えは変わってねえ。野郎の体は固いけどな、オレだって負けてらんねえってこった。オレもいてえ。あっちもいてえ。我慢比べなら負けはしねえ」
「こりゃアレだな、見掛け倒しだな。嬢ちゃん、畳み掛けてやろうぜ」
固めた両の拳を合わせて、山田は北に対して小さく首肯した。
二人が同時に足を踏み出す。次に踏み出す先で左右に分かれて己が得物を振り上げる。獲物を見定め狙いを定める二対の視線がソレの全身に、粘るように絡みついた。
この時、一はまだ気付けなかった。男の服が破かれていた、その真実に。
「なめるな、餌が」
男の両肩から、何かが蠢いていた。少し離れたところにいた一だけでなく、仕掛けた二人も異常を察知している。が、止まれない。危険は承知の上だ。それでも尚、眼前にある機会を捨て切れなかった。
「キィィシャアァァア――――!」
威嚇するような奇声が放たれる。声は、男の口から迸ったそれではない。
「畜生がっ!」
「あ、く……下がれ栞さん!」
山田の目の前に、巨大な蛇の口が迫っていた。
ぬらぬらとてかる鱗に、太い体躯。赤い舌がちろちろと覗き、牙を剥き出しにして獲物に襲い掛かる。何もなかった筈の空間から漆黒色の蛇が出現したのだ。
彼女には今、何が起きたのかが正確には分かっていない。足を止め、余った勢いを殺そうとして歯を食い縛る。何故、ここに蛇がいる。疑問に思うより先、頭で考えるよりも早く彼女の腕は動いていた。蛇の下顎をアッパー気味に殴り飛ばしてその場を凌ぐ。怒りからとも、恐怖からともとれる叫び声を上げながら、山田はソレをねめつけた。
「止まるな嬢ちゃんっ、もう一匹来てやがる!」
北の声に弾かれるようにして、山田は咄嗟に飛び退いた。黒い何かが彼女の顔面を掠めていく。
「何だっ!? なんなんだこれはよう!?」
「そら、貴様も見ているだけでは済まんぞ」
黒い蛇が二匹。二つの顎が宙に舞い、北と山田に牙を剥いた。高く、耳障りな音を発しながら、地を這う筈のそれが、戦場と化した空間を縦横無尽に犯して回る。
痩身の男は腕を組み、つまらなさそうに、自らの肩に生える蛇を見遣った。
男の服は戦闘部の十川に破かれていたのではない。服は、自らで破いたのだ。尤も、男がそうしたのではない。彼に巣食った蛇が自らの意思でそうしたのである。
唯一、戦闘から逃れていた一だけが状況の把握に努めようとしていた。彼からは確かに見えていた。男の肩から、二匹の蛇が生えたところを。円卓を名乗るからには何かがある。何かを持っているとは想像していたが、これは、一の想像力の埒外だった。彼のそれが欠如していた訳ではない。男の能力が異常なのだ。
一たちを困惑させた男は酷く憂鬱そうにしている。腕を組み、立ち続けるだけで何もしない。弄ばれ、振り回される山田たちを見ても眉一つ動かさなかった。
男の肩の肉を食い破り、そこから生え出た蛇は体の伸縮すら自在のようである。獲物を追いかけ、追い詰め、口を開いて奇声を発し続けていた。
「……くそがっ」山田が毒づく。
攻撃は通る。男は苦しんでいたのだ。しかし、ダメージを与えるには二匹の蛇を掻い潜らなければならない。山田と北は反撃に転じられず、逃げ、防ぐばかりだった。彼らはまだ、思考が現状に追いついていないのである。
一は山田と北を見比べ、アイギスを握り締めた。助けに入るのなら、空手の山田の方だと判断したのである。一は息を吸い込み、蛇の動きを見計らってアイギスを広げた。彼がカバーに入ると同時、鈍い衝撃が一の腕を伝う。彼は呻き、山田が吠えた。
「そっち押さえてろよおっさん!」
アイギスにぶつかった蛇は仰け反るも、すぐに攻撃の対象を切り替える。蛇の宿主である、痩身の男に向かう山田に狙いを定めて大口を開いた。が、そこに一が割り込む。蛇の進路を強引に遮った彼は衝撃を受け、再び呻いた。
「いい加減しつけえんだよ!」
山田に気を取られた隙を突き、北のハルペーが蛇の頭を真上から突き刺す。黒い蛇は動きを止めて、彼は得物をそこから抜き取った。北は蛇の首を切り落とし、頭部のなくなったその体を蹴っ飛ばす。
「取ったぜ……!」
「ほう、抜けてくるか」
男は目を瞑ったままである。山田は姿勢を低くし、彼の腹目掛けて拳を放った。
「無意味よ」
「がっ!? なん……で」
「嘘だろ栞さん!」
拳が腹に届く前、山田の腹に蛇の頭部があった。予想だにしない角度、場面からの攻撃に、彼女の膝は呆気なく崩れ落ちる。咳き込む山田のこめかみに、一から逃れていた蛇が迫った。彼女は動けず、横合いからの突進をまともに受けて吹き飛ぶ。尚も勢いは止まらず、山田は地面を擦るようにして転がり、ブロック塀に体を叩き付けられた。
一は山田に駆け寄ろうとしたが、蛇がこちらに向かうのが見えてアイギスを構える。分厚く、太い体躯が盾と激突した。一人と一匹が衝突の際の反動で僅かによろける。その瞬間、一は確かに見た。男の肩に、蛇が二匹生えている。確かに、一匹は北が仕留めた筈なのだ。だが、まるで時間が巻き戻ったかのように蛇はそこにおり、平然としている。真っ赤な舌を覗かせて、宿主の身を守るが如く、男の体に絡み付いているのだ。
「……再生しやがったのか?」
男から目を逸らさず、北は一歩ずつ後退していく。
一の思考は正常に働いていなかったが、それでも彼は山田の傍まで辿り着いていた。一が彼女に触れようとすると、胸が上下しているのが確認出来た。息がある。……まだ、彼女は生きている。だがここから先どうなるかは分からない。
「俺ぁ、確実にぶっ殺した筈だぜ。てめえ、何だその蛇どもはよ」
「さてどれから頂くか。顔を見せろ、今、この瞬間に美味そうなものから食ってやろう」
「話聞かねえつもりかよ! これだから蛇の化け物は嫌なんだ!」
北が喚き、ゆっくりと近づいてきていた蛇の首を叩き切る。
か細い息を聞きながら、一は強く目を瞑った。せめて、男の、ソレの名前さえ分かれば打つ手もあるのにと、彼は歯を食い縛った。
アイネから一つの言葉を聞き出した。彼女は震える声で、それを口にした。歌代チアキが欲しくて欲しくてしようがなかった情報である。が、アイネが喋ったのは敵の弱点でもなければ、欠点でもない。一たちに伝えたとして、何が変わるとも思えない。
「……おーきに」
だが、チアキは弾かれたように立ち上がる。一つでも良い。矢面に立つ彼らの役に立ちたかったのだ。部屋の外からは激しい音が聞こえてくる。一が叫び、北が喚き、山田が吠えている。チアキはすっと息を吸い込み、覚悟を決めた。
暗がりから抜け出すべく、チアキは扉を開ける。光の奔流が炸裂して、彼女の目を焼いた。
アパートの外、巨大な蛇が見えた。伏している山田の傍には一がおり、北とソレが対峙している。何があったのか尋ねる暇はなかった。何が起こるかそれだけは分かった。アイネは涙を堪える。自分たちが部屋に篭っている間、一たちは戦っていた。たった一つの言葉は、きっと役には立たないだろう。
「あ、あっ……」
恐怖で足が竦む。ソレの視線が、自身を舐めるように、じっとりと絡みつく。チアキはソレには負けまいと、腹の底から、声と、一握りの勇気を振り絞った。
「しっ、師匠っ! ザッハークや! そいつの、名前ぇ!」
このままでは殺される。覚悟を決めたのに、いつだって怖い。山田の傍に立っているだけで足が竦む。体が震える。
――――このままでは。
「ほう」と、チアキに指差された男は目を細めた。
「我輩の名を知る者がいたとは」
「……ザッハーク」
噛み締めるように、一が呟く。彼はアイギスを握り直して、男を見遣った。
アイネも、チアキも、アイギスについては殆ど何も知らない。メドゥーサの存在を知覚している訳でもない。一が能力を発動する条件すら知らない。だが、アイネは選んだ。彼女の囁いた言葉が、チアキの振り絞った声が、一筋の光明を見出した。
「ザッハーク」
もう一度、呟く。一が口の端をつり上げる。彼と同じように、彼よりも先に女神に選ばれた北がいち早く理解する。
アイギスが男に向けられる。
ハルペーが男に向けられる。
一の目が、北の目が男に向く。
交差した視線、英雄と、それを選ばなかった男が同時に口を開いた。
「『止まれっ、ザッハーク』!」
「止めろっ、坊主!」
ザッハーク。その名を持つ男の動きが完全に静止する。彼は一切の抵抗を見せず、無言であった。北はハルペーを振りかざし、ザッハークの首を狙う。アイギスの効果がたった今切れたとしても、北は既に充分な距離を稼いでいた。
ソレの動きが止まっている事から、男の名がザッハークであるのは確かだ。メドゥーサはその肢体をソレに絡みつかせて、今も動きを制限している。
「――――なん、で?」
だから、北の体が宙に舞うのを見て、一は驚愕した。
北はハルペーを取り落とし、地面に叩きつけられる。短く呻いた彼は立ち上がろうとするも、不意を打たれた為か予想以上のダメージを受けているようだった。
「なんでっ、なんでだよっ!?」
一は動けず、ソレを見るしか出来ない。そこでようやく、ザッハークが動いた。彼は目を開き、周囲を見回してから息を吐き出す。
「それがアイギスか。いや、話には聞いていたが、中々に面白いものだ。喰らった暁には、我輩が使うとしようか」
「てっ、めえ、どうして! どうして動けるんだよ!?」
「我輩は動いておらん」
ザッハークは腕を組み、鼻息を吐き出した。彼は一に何もかもを教えるつもりはなかったが、一は何が起こったのか、直感する。
そう、ザッハークは動いていない。彼は確かにアイギスの光を浴び、メドゥーサの力に囚われていた。一は見ている。認めている。北の体を打ち据え、叩いたのはザッハークではなかったのだ。彼を襲ったのは、蛇である。ソレの両肩から生えた二匹の蛇だ。
「……どういう、仕組みだよ」
ザッハークにメドゥーサは通じる。だが、彼の肩に巣食う蛇には通じなかった。
蛇がザッハークと別のモノなのは確かだ。だが、別の名前を持っているかどうかは分からない。……名前が分からなければ、止められない。
山田が倒れ、北が倒れ、一は膝をつきたくなるのを堪えた。荒くなる息を抑えようと俯き、辛くなって顔を上げる。
「折角、分かったってのによう……!」
一はその場で蹲り、喚き散して部屋に帰って不貞寝したかった。だが、ザッハークに射竦められるような視線を向けられては身動き一つ取れないのである。
上手く頭が働かない。いっそ、メドゥーサが通用しなければ良かった。通じて尚、この有様なのである。であれば、これ以上打つ手がないのだ。時間を稼げば、ジェーンたちが助けに来るかもしれない。しかし、彼女らがザッハークを打ち倒す場面は想像出来なかった。
「セイレーンから食うとするか」
「……あ?」
ザッハークが足を踏み出す。チアキが短い悲鳴を上げた。彼女はアイネの部屋の前で、ただ立ち尽くしている。顔面を蒼白にし、向かってくるソレから目を離せないでいる。
「逃げろ歌代っ!」
一が叫ぶも、チアキの足は動かなかった。彼はアイギスを畳み、ザッハークに襲い掛かる。が、ソレの右肩から生える蛇が大きくうねり、一の体を吹き飛ばした。
ソレの肩から生えた蛇が一を吹き飛ばした。彼は地面を転がっていく。立ち上がろうとするのだが、体が思うように動かないらしい。何度も膝をつき、その度に体勢が崩れる。逃げろ、と。一は叫んだ。
逃げろ。そうしたいのは山々だが、チアキの体は全く、自由に動かせなかった。彼女は歯の根をかちかちと合わせ、ザッハークの歩みを見つめる。ソレの一挙手一投足から目が離せないでいる。二匹の蛇がちろちろと舌を覗かせた。
「では、いただこうか」
「あ」
「させっかよ化け物が!」
蛇の体がぬらりと伸びる。チアキを頭から被りつこうとしたが、横合いから殴り飛ばされる。殴ったのは山田だった。彼女はチアキの前に立ち、ザッハークを睨みつける。
「ほう、動けるようになったか。良い。やはり、素材と言うのは……」
「御託をがたがたとよぉ!」
山田が強がっているのは、チアキですら分かった。彼女は腰を低くし、ソレを真正面に捉えるようにして構えている。が、視線が定まっていない。ふらつくのを隠すので精一杯なのだ。
ザッハークが腕を組む。瞬間、二匹の蛇が大口を開けて飛び掛かった。山田は右の蛇の頭部を殴り、勢いのまま前に出る。突っ込んできた左の蛇を脇で挟み、締め上げる。立ち直った右の蛇が彼女に迫るも、北が戦線に復帰した。彼はハルペーで蛇を切り刻み、ザッハークの顔面を切り裂こうとする。が、それよりも先に蛇の肉体が再生を終えた。
「手は出せねえかっ」
「出せよおっさん!」
おっさん呼ばわりされた北は眉間に皺を寄せる。
「嬢ちゃん、部屋ん中入ってな」
「……あ、う、うん」北に促され、チアキの体がようやくになって動いた。
部屋の扉を開け、室内に体を滑り込ませる。チアキは扉に背を預けたまま、ずるずると座り込んだ。呼吸が整わない。胸が苦しくて、彼女は目を瞑って堪えようとする。……戦っていた。一も、山田も、北も、戦っている。しかし、自分はどうだ? チアキは自らに問い掛ける。何も出来なかった。ソレに見られるだけで、足が竦む有様だった。彼らの助けになれたと思ったのもつかの間、形勢は瞬時に逆転される。
――――どうすれば、良い?
「…………あ」
チアキとアイネの視線がぶつかった。『貴族主義』の瞳は澱み切っていたが、チアキをまっすぐに見つめている。
「アイ、ネ……?」
「皆様は」
アイネの声は掠れていた。
「まだ、戦っているのですね」
こくん、と、チアキは小さく頷く。
――――どうすれば?
アイネがいれば。彼女が戦いに加われば。そう、チアキは思った。ソレを相手に一人増えたところで何が変わるとも知れない。でも、何か変わるかもしれない。
部屋の外から一の怒号が聞こえてくる。次いで、激しい衝撃音が鳴った。
チアキは言い出せなかった。今にも死んでしまいそうなアイネに『戦ってくれ』などと、言える筈もない。まして、出て行ったところで勝てるかどうか分からない。生きて帰れるかどうかも危ういのだ。『死んでくれ』とは言えなかった。
「戦って欲しいのですか」
アイネから目を逸らしそうになり、チアキはぐっと我慢する。
「まだ、死にたくはありませんものね」
ぼう、と。アイネは立ち上がった。だが、足元は覚束ない。彼女は数歩歩いて、すぐに膝をつく。そうして、くつくつと喉の奥で笑うのだった。楽しそうに。可笑しそうに。
「ねえ、私は、明かりを灯せているのでしょうか」
「……明かり?」
「私はこの街で、生きていると申し上げられるのでしょうか」
チアキには、アイネが何を言っているのか分からなかった。