深潜ブンブンヘッド
「おーす、じゃ、料理教えてよ」
「…………生きてたのか」
「何だとう!?」
北と話していた時の空気を吹き飛ばしたのは、今まで姿を見せなかったシルトである。彼女はいやに上機嫌で、一の神経を逆撫でにした。
「こっちはな、危うく死ぬところだったんだぞ」
「へー、何かあったの?」
「ソレが来やがったんだよ。それも、めちゃくちゃヤベえのに目を付けられてる」
「あー、こっちも出たって聞いた。つーか、もしかして同じヤツかもしんない」
シルトは携帯電話を見せびらかすように取り出して、一の前でぷらぷらと揺らす。
「ソレが出たってヒルデさんから電話があってさー。『シルト、大丈夫? 気をつけてね』なんて言われちゃった! 言われちゃった! そりゃー気ぃ付けるよね! だよね!? 心配されてる、私、ヒルデさんに愛されてる……!」
「出たって、どんなヤツか聞いてるか?」
「忘れたー。ヒルデさんの声しか思い出せない」
「使えねえなあ、お前!」
一は泣きそうだった。
「この私を物扱いすんな、バーカ。で、何、マジでやばいの? 手伝って欲しい?」
「あ?」
「だーかーらー、助けてくださいシルト様って頭下げれば、私がソレをどうにかしてあげるって言ってんの。なんで分かんないかな、あんたって」
助けてもらえるのは有り難い。が、少しばかり……どころか、相手が悪過ぎる。シルトには申し訳ないが、槍を扱うだけの彼女では、あの男には傷を付ける事すら難しいだろう、と、一は予想している。
「いや、全然。お前がいなくても余裕っつーか、むしろ邪魔?」
「…………あ、そう? へえ、そうなんだ?」
「うん。あ、料理ならオニギリというものを……」
「いらねえよバカ! バーカっ、あんたなんかソレに殺されちゃえ!」
言われなくてもそうなるかもしれない。一は俯き、歪んだ口の端を隠した。
「迷惑は掛けねえよ。それに、まだ謹慎中じゃねえのか?」
「だから?」
「お前はヒルデさんの傍にいてくれよ。あの人だって、まだ……」
シルトは難しそうな顔になり、笑顔を作って、また、複雑な表情を浮かべる。が、一はころころと変わる彼女の顔には気付かない。
「殺されちゃえは言い過ぎたっぽい。ごめん。明日、教えてよ」
「ああ。分かった」
「約束だかんね?」
明日が来るならば、何だって教えてやろう。一はそう、心に誓った。
何だかんだ言っても命は惜しい。一は自室に戻り、北駒台店に事情を説明する事に決めた。が、まず、電話に出てくれるかどうかが問題である。店に残っているのが店長なら、電話を無視するのも充分に考えられる。
「どんな店やねん」呟き、静かな部屋にいつまでも残った。
十数回のコール音に飽きてきた頃、
『何か?』
倣岸、且つ、不遜な態度が見え見えの声が聞こえた。
「……一です。あの、非常に言い辛い事なんですが」
『ああ、だったら話さなくても良い。気にするな、お前が話したくなったら……』
「気を遣ってる振りして電話を切ろうとしないでください。……ソレに襲われました」
『お前がか?』
その通りですと返して、一は店長の反応を待つ。
『円卓か?』
恐らく、シルトの言っていたソレと、店長の知っていたソレは同一なのだ。一はそれを理解し、慎重に言葉を選んだ。
「自分で言ってました。間違いないです」
『特徴は? 分かるだけ言え。些細な事でも構わん』
円卓だと名乗った男の特徴は、中東系である事、痩身で、それでいてどんな攻撃にも怯まず、アイギスについて何かを知っていた、と言う事を告げて、一は溜め息を吐いた。
『中東系か、なるほど、こちらで掴んでいるソレと一致する。それで、今はどうなっている?』
「今は、大丈夫です。ただ、俺たちは狙われているみたいで、蛇みたいな奴でした。簡単に逃がしてくれるとも思えません。また来ます。必ず」
店長が鼻で笑う。一は顔をしかめたが、気を取り直した。
『また蛇か。いや、蛇の怪物は多いがな、それにしたってお前は気に入られ過ぎている。そうは思わんか、なあ?』
同意を求められても、どうしようもない。一は沈黙を守った。
『……俺たち、そう言ったな。お前は今、どこにいる。どこから掛けている』
「家からです。狙われたのは、俺と同じアパートの住人です」
『確か、そこにはセイレーンのハーフや、フリーランスもいるんだったな』
「それから、英雄も一人」
『ん、何だ。私が何もしないでも勝手に終わりそうな面子が揃っているじゃあないか』
そうであるならどれだけ良いか。
「事情があって、色々ときついんです。第一、アイギスは通用しない、かもしれないんです。円卓はアイギスについて、何かを知っています」
『まあ、勤務外として派手に動いているし、狭い街だからな。我々の情報がどこかに流れていても不思議ではない。腹立たしくはあるが』
「援軍をよこせ、とは言いません。何かありませんか? 例えば、ソレの名前とか」
名前さえ握っていれば、生き延びる手段が増える。打てる手は格段に増える。が、店長はバカかと、一を一蹴した。
『知っていれば教えるさ。生憎だが、こちらも何も掴めていないに等しい。そして、助けは遣れん』
「どういう意味ですか」
『ゴーウェストとナナは別件で、ここにはいない。店にいるのは立花だが、彼女をお前の方へは向かわせられん。私が仕事をしなきゃならなくなる。そして、立花では意味がない。勝ち目がない』
本当にどういう意味だろう。立花で勝てないなら、オンリーワン北駒台店のメンバーにも勝ち目がない。一にはそう、聞こえる。
『現れたソレだがな、手が出ないんだよ。今は戦闘部と情報部が一人ずつそいつに付いているが、単純に、ソレは強い。強過ぎる、そうだ。手を出しても返り討ちに遭うのが関の山だろう』
「戦ってもいないのに、ですか?」
『戦ってはいないが、知ってはいる。名前も、詳しい能力も判明していないが、ソレが強いと断ずるに足る理由はある。……そこに、アイネ=クライネ=ナハトムジークはいるか?』
「いません、けど。アイネと何か関わりが?」
嫌な予感がする。否、最初からしていたと言うべきか。呆けたようなアイネの表情と、地面に落ちたままのレイピアを思い出し、一は苦い唾を飲み込む。
『本人から聞いてみろ。私としても、話していて気分の良い類のそれじゃない』
「……はあ、分かりました。それじゃあ、店長の方から、俺に助けってのは、ないんですね?」
『助けて欲しいか?』
「ふざけている時間はないんですよ。次、あいつがいつ来るかが分からないんです」
今、自分たちの命は危ういところにある。一秒先すら保障されていない状態なのだ。自然、一の語気は荒くなる。
『出払っている二人が戻り次第、そちらのアパートに向かわせる。向かわせるが、期待はするな。いつ戻ってくるか分からんし、その間にお前が殺されているかもしれん。一応、私からもあの二人に連絡は入れておくつもりだ。……が、望んでいないように見えるな』
「見える? 俺の顔が? 電話越しにですか?」
『手に取るようには言い過ぎだがな。お前はこっちの人間を巻き込みたくないらしい。円卓の男に勝てないと踏んでいるからか? それとも、情からか?』
何者なのだ、この女は。一は思考を見透かされたのを苦々しく思い、それでも、悪い気はしなかった。少しばかり楽しくもなる。
「ジェーンたちに連絡を入れるのは、もっと後で構いません」
『自分の骨を拾わせるつもりか』
「まさか、それこそ骨だって残っていないと思いますよ。……ソレの名前でも何でも良いんです。今、情報部が付いているんですよね? 多分、支部の方でも調べていますよね? 分かり次第、連絡をください。名前さえありゃ、俺たちでどうにかします」
『了解した。が、あまり調子には乗るな。円卓が動いているなら、お前の意見など重要視されん。こっちはこっちで誰かが動く。精々引きこもれ。助けなら考えておいてやる』
「お願いしますよ、マジで」
『マジで、は辞めろ』
電話を切った一は、アイネの部屋に向かった。店長から言われていなくとも、彼女と話をするのは意味がある。そう、判断していたのだ。
が、部屋の前には険しい顔をしたチアキが仁王立ちしている。彼女は階段を下りてきた一をじろりとねめつけ、口を開いた。
「会わさへんで。面会謝絶や」
「そんな酷いのか?」
「ちゃうけど、今、アイネは誰とも会いたくないんやって」
困る。が、取り乱されるのももっと困る。一は頭をかき、煙草の箱を取り出した。
「あっ、うちの前で吸うなって言うてるやんか。ほら、喉。のーどーに、わーるーいー」
「……はいはい。で、実際、アイネの様子はどうなんだ」
「怪我一つないで。けど、なんや、かなりビビってるゆうか、ずーっとぼうっとしとる」
やはり、円卓の男とアイネには何かがある。関わりがある。彼女の様子から、ソレと通じている訳ではなさそうだが、見逃しておくほど一も甘くはない。
「何か言ってなかったのか? つーか、聞き出しとけよ」
「は、なんでうちがそんなんせんとアカンねん。しんどい言うてんねんから、何も聞かんと休ませてあげるのが筋やろ。……師匠、何を焦ってんの?」
「いや、焦りもするだろうが。お前だって見てたろ。何なんだ、あいつはって、殺されるんじゃないかって思うだろ?」
「うちは、あんまし分からんかった。さっきのがやばいんやろうなあって、なんとなーく雰囲気で分かったけど、どこがどうやばいんかは分からんし。それで言うなら、公園の、あいつのが怖かった」
「あ」
嫌な事を思い出させてしまったか。一の眉間に皺が寄るが、チアキは彼を見て薄く微笑むだけだった。
「気にせんといて。うちは、師匠に助けてもらったから。ほんま、な、感謝してんねんで?」
「割にゃ、最近は楯突いてくるよな」
「くふふ、思ってたより師匠イジるんがおもろいからな。ツッコミ気質は疲れそうやなあ。なあ、ししょー?」
「語尾を伸ばすな。……分かったよ、アイネには後で話聞くから。で、だ」
チアキは何かを言い掛けた一から煙草を奪い取り、腕を組む。
「うちは逃げへんから」
「……あー、あのな」
「うちだけ逃げても何も変わらへん。そんくらいは分かっとる」
北からは、ばらばらにならず固まっていた方が良いと言われている。しかし、一人くらいなら逃げられるのではないか。一はそう思っていたのだが、チアキの意志は固そうだった。
「死ぬかもしんないぞ、ここで」
「じゃあ、なんで師匠は残ってるん? 師匠だって死ぬの嫌やろ。でも、ここにおる」
「俺は」どうしてだろう。死ぬのは怖い。一はジーンズのポケットに手を遣るが、ついさっき煙草を取られていたのに気付き、息を吐く。
死ぬのは怖い。勤務外になる前も、今も、それは変わらない。いつだって、一は何かに怯え続けてきた。
何故行くのか。何故戦うのか。首を突っ込み過ぎたからと答えたのはいつだったか。きっと、自分の死よりも『誰か』の死が怖いのだ。それを防げるなら、防ぐ手段があるのなら、自分がやらないでどうする。一は自らを納得させ、チアキを見つめた。
「知り合いが殺されそうなら助けようと思う。でも、見ず知らずの奴が危ないんなら、きっと迷う。背中向けて逃げるかもしんない。だってさ、関係ねえもんな。そんで自分がやばい目に遭うなんて、馬鹿みたいな話じゃないか」
「うちらがおるから、師匠もここにおるん?」
「そうだな。そういう事だよ」
「ふうん」
チアキは煙草の箱を一に返し、彼の顔を見上げる。
「でもな、師匠は助けるんやと思う」
「誰を?」
「見ず知らずの人を」
「それは、どうだかな……歌代、お前は」
怖くないのか? 殺されるぞ? 死ぬぞ? どうして、笑顔を作られるんだ? 言葉は出ない。喉のどこかに引っ掛かって、そこから上がってこない。
「平気なのか」
「師匠が守ってくれるんやろ? ……あ、や、今の言い方可愛くなかったかな」
「期待すんなよ。俺に出来る限りな」
「くふふ、絶対守ってやる! って言えばええのに。うち、な。うちが残るのは、師匠がおるからってのもあるねん。師匠が助けてくれへんかったら、うちはここにおらんかった」
チアキがまっすぐに見つめてくる。一は顔を逸らしてしまった。
「ありがとうな、師匠」
「……次も守れるとは限らないんだぞ。だから、やばくなったらなりふり構わず逃げろ」
「ええで、別に。一緒に死ぬんなら」
「は、お前と? 死んでもヤダね」
「素直やないなあ、もう」
部屋に戻ろうとした一だが、自室の前に山田が座り込んでいた。彼女は徳利を持ち上げ、彼に向かって手を振る。
「酔えそうですか?」
「いんや、全然。一も飲むか? 煙草なんかより、こっちのが健康に良いぜ」
遠慮しますと返して、一は煙草に火を点けようとする。が、立ち上がった山田が彼の手から煙草を取り上げた。
「俺、酒に弱いんで。……弱いのは、酒だけじゃないですけどね」
「笑えねえぞ。オレだってそうだ。何も出来なかったじゃねえかって、まあ、ここで傷の舐め合いするつもりはねえよ。舐めるんなら、ここにもっと良いもんがあるしな」
「舐めるように飲んでる、ようには見えないですけど?」
かははと笑い、山田は一に向き直る。
「そうだな、酒はちびちび飲んでもつまらねえ。一気に呷ってやるのが良いんだよ。こういう風にな」
徳利の中身を飲み干すと、山田はそれを床に置き、その場に座り込んだ。
「……北のおっさんは何者なんだ? あの、蛇みてえな男を前にしてたってのに、全然ビビってなかったじゃねえか」
「あの人は、まあ、その内分かります。ただものじゃないって事は、栞さんも分かってると思いますけど」
「はっ、それに比べてオレはどうだよ。固まっちまって、みっともなくって情けねえ。守りに入っちまってた」
仕方のない話だろうと一は思う。円卓の男を前にして、正常でいられる者など殆どいないだろう。フリーランスとは言え、それは関係がない。
「がたがたうるせえ爺さん婆さん黙らせる為にヤマタノオロチを倒してよ、一と一緒のアパートに住んで、気の良い連中と集まってさ、オレ、楽しかったんだ。こういう生活がずっと続けば良いって思ってる。だから、弱くなっちまったのかもしれねえ」
弱くなったのは心だ。山田は苦笑し、俯く。
「どうにも、性に合わねえんだよな。端から決まってんだ。オレの手じゃあ誰かを守るのは難しい。やっぱ壊すっきゃねえんだ」
「まだやる気なんですか?」
「一だってそうだろ。舐められっ放しで終われるか。相手が何だろうとな、『神社』は退かねえぞ。一人だってやってやらあ」
「……栞さんは怖くないんですか。戦うのも、死ぬのも」
「やる前からビビってたってしようがねえ。でも、今はちっとだけ怖くなった。こっちに来た時は死んでも良いなんて思ってたのにな」
今の山田には明確な目標がない。彼女は愛した鬼の子を殺され、ヤマタノオロチを殺して、生きる意味を失ったのだ。そしてまた、新たな理由を得た。
「お前のせいだぜ、一。オレをかっこ悪くさせたのは」
「かっこいいですよ、栞さんは。それに、生きようとしてる人がかっこ悪いなんて、そんな話はないです。諦めるよりもよっぽど良い。どうせ、ソレからは逃げられないんだ。だったら、俺たちは戦いましょう」
「だったらオレが野郎を壊す」
「俺が盾になります。気にせず、栞さんはやっちゃってください」
「おうよ」
頷き、山田は拳を握り締める。一は彼女の横顔を見遣り、やはり綺麗な手だと、改めて思った。
敵はソレ。蛇のような男。オンリーワンの戦闘部を黙らせ、中内荘に恐怖をもたらしたモノ。
だが、こちらにはアイギスがある。フリーランスがいる。英雄がいる。案外、悪くないかもしれない。一はそう思い、チアキがいない隙を見計らって、再び、アイネの部屋の前に立つ。
生き延びる確率を高めるにはメドゥーサの力と、アイネが必要だ。今は一つでも多くの材料と、一人でも多くの味方を得たい。彼女は確実に何かを知っている。アイネは、あの男が何者なのかを知っている。一はそう考えていた。
「……歌代は戻ったか?」
一は扉をノックし、返事を待たずに開く。明かりは漏れてこない。部屋の中には暗いものが立ち込めている。目を凝らせば、この部屋には余計なものがないのだと気付いた。生きていく事さえ出来れば良い。ここの主の思考が見えた気がして、一は頭を振る。
「生きてるか」
部屋の隅で三角座りをしているアイネに声を掛ける。返事はない。一は玄関で靴を履いたまま立ち尽くし、彼女をまっすぐに見つめた。
初めて会った時の彼女を思い出す。自分以外の全てを恨んで、自分の未来を儚んで、世界を終わらせようとした彼女を。変わったのだと、そう、思っていた。アイネはもう平気だ。大丈夫だと、勝手に決め付けていた。一は溜め息を吐きたくなるのを堪える。
「怪我はないんだってな。安心したよ」
背中を壁に預けて、一は扉を閉めた。それだけで、光が掻き消える。外界から遮断された空間は酷く息苦しいものだと感じ、彼は目を瞑った。
「……一人にしてくださいませんか」
やっと口を開いたかと思えば、こうだ。一は思わず笑ってしまう。
「嫌だ。どっちにしろ、数時間後には皆仲良く手に手を取って笑ってるか、もしくはあいつの腹ん中だろ。話くらいしようぜ」
「お願い、ですから」
「そのお願いは聞けないね。俺は生きたいんだ。だから、あいつの名前を教えてくれ」
アイネが顔を上げた。暗がりの中で一と視線がぶつかり、彼女は再び俯いてしまう。
「そうやってると話を聞いてくれってポーズに見えるぜ。誰が見たって、お前とあの男には何かがあるんだって、そう思うよ」
「あなたは生きたいのですね」
少なくとも、まだ死にたくない。そのつもりもない。一は頷き、ゆっくりと腰を下ろす。話を聞くまでは、ソレの名前を聞き出すまでは居座るつもりだった。
「お逃げになったら? 誰も咎めはしませんわ。苦手な事は避けて、嫌なものからは目を背ければよろしいのです」
「アイネ、お前はここに残るんだろ? だったら、俺一人で逃げ出す訳にはいかない」
「どうして、あなたは戦うのですか」
「置いていかれるのが嫌だからだよ。首突っ込んだところをそのままってのは面白くねえし。何より、友達を殺されるのはごめんだ」
昨日知った顔が、明日にはいない。自分が生き残る度、自分の無力さを痛感させられる。誰かの犠牲の上で成り立つ今日は、一には耐え難いものに変わっていた。
「俺が口出しして、横入りして、誰かが生き残れるなら、俺はそうするよ。しなきゃあ、駄目なんだ」
「ふ、ふふ、友達。お友達、ですか」
「おかしいかよ」
「ええ、信じられませんわ。誰かの盾に? あなた自身が、誰かの為に命を捨てる? ……あなたは、狂っています」
アイネは小さく笑い、一を見据える。その瞳には、どろどろとしたものが宿っていた。明らかに、彼を嘲笑している。
「所詮、他人です。誰だって自分の命が惜しいものだと存じております」
「友達だ。俺にとっては他人じゃない。そいつの為なら俺は盾になるよ」
「ご冗談をっ。ならばあなたは私の代わりに命を捨てるとおっしゃるのですか?」
「いや、捨てない」
「そっ……!」
「……そっちから吹っ掛けといてショック受けるなよ。あのな、何か勘違いしてるけど、俺は盾になるけど、死ぬとは言ってないからな。確かに自分の命は惜しいよ。だけど、友達の命も惜しい。両方助かるかもしれないなら、俺は戦うって言ってんだ」
誰かを救う為に死ねるのは英雄だ。だが、一は人であるのを選んだ。英雄、それ以外の方法で自分のやり方を通すと決めている。
「あなたの手は、随分と大きくていらっしゃる。全てを掴めると、そうお思いなのですね」
「それも違う。選んで選んで、選び抜いた結果がそうなんだ。俺は、友達しか助けない。好きな人だけの盾になる」
「贅沢はお嫌いで?」
「貧乏が染み付いてるからな。だから、拾ったものは絶対に落としたくないんだ」
「私は、あなたの物ではありません」
「そら悪かったな」
馬鹿にしたように笑って、一はアイネを見ようとする。
「で、何があったんだよ」
「……あなたはもうご存知の筈です。私が、フリーランスに身をやつした理由を」
「理由って」
ソレに家族を殺され、ソレに国を焼かれ、ソレに友人を食われ、アイネ自身は人に汚された。そして、彼女を救ったのはソレだ。アイネは巣食った望みに気付かないまま、何を憎み、誰を恨めば良いか分からないまま、一と出会うまで生きてきたのである。
「あなたがお望みなら、もう一度、申し上げましょうか」
「そういう事言うのはやめろ、怒るぞ。覚えてるよ。忘れるもんか。……その理由が、あいつと関係があるの……」
言い掛けて、一ははたと気付いた。
「もしかして、お前の家族を殺したのは、あいつなのか」
「もしそうなら、私は今頃、喜色満面で彼に切り掛かっていたでしょう。あの男は、私を、救ったのです」
「あ? な、え……?」
誰が、誰に救われた?
想像していなかった答えに、一はしばし言葉を失う。
「信じられませんか? 私は、あの男に救われたのです」
「それは、違うだろ」
「さようでございますね。ですが、私がソレに助けられたと言う事実は、消えません」
違う。違う。違う。一は立ち上がり、アイネを強く見据えつけた。ソレに助けられたと彼女は言う。反論、と言うよりも、ただ、彼は言い返したかった。事実を認めたくなかったのである。
「なんでだ……あいつは、お前を襲った奴らを食い殺しただけだろうが。たまたま、お前だけ生き残れたって、そういう、話だったじゃねえかよ。助けられた訳じゃないっ、違うかよ!?」
「ですが、私はこうして生きています」
「お前……! まさかあいつに恩なんて感じてんじゃねえだろうな!」
アイネは口を閉ざし、一から顔を逸らす。畳の目に視線を落とし、小さく息を漏らした。
「違う、そうじゃないだろ!」
「頭ごなしに……」
「頭ごなしもくそもあるかっ。ここまで来て迷うなよ! なんで…………くそ、くそっ、分かってくれたんじゃないのか? 前を向いて、駒台で楽しくやろうって、そう言ったじゃないか。なのに」
頭が回らない。真っ白になって、まっさらになって、それでも勝手に口だけ回る。こみ上げてくる熱いものが抑えられない。思いで喉が焼けていく。
「そんなのってないだろ、なあ、頼むから」
「過去は変えられないのです。私はソレに生かされているのですから。です、から、もう……!」
「アレは何も生かさない! そういうものじゃないんだって、お前だって分かってるんだろ! あいつは殺して、食うだけだ! 天災や事故と同じなんだよ!」
「お願いですからっ、もうやめてっ」
「だったらお前は台風にも! 地震にも感謝するのかよ! ふざけんな、あんなヤツなんかにさあ、殺してくれてありがとうって、殺さないでくれて助かりましたって頭下げんのか!? そんな馬鹿な話があるか――――あ」
乾いた音が鳴り、一の頬が熱を持ち始める。一方で、彼の内にこもっていた熱は急速に冷え切っていく。
「……悪い、言い過ぎた」
「出て行ってください」
アイネは手を引き、蒼くなった顔を隠す為か、一に背を向けた。
「ごめん、俺は……」
「もう、良いですから」
震える声を背に、一はアイネの部屋を飛び出す。
一は自分が許せなかった。何より、彼女を許せなかった。