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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ザッハーク
230/328

酩酊カサノバスネイク



 食べる事は生きる事だ。生きる為に、人は何かを口にする。

 食事を取るタイミング、回数、種類、調理法、あるいは作法。食事には文化や宗教が反映される。また、ただ栄養を摂るだけではなく、料理の味を楽しむ為など、様々な目的や意味が込められている。

 中には、食べる為に生きる者もいる。

「端から端まで」

「……はい?」

「聞こえなかったか。ここのメニューに書かれたもの全てと言ったのだ」

 この男こそ、正にそうなのだろう。

 ピークタイムの過ぎたファミリーレストラン。そこのアルバイト店員は、ふと、そんな事を思った。

「い、良いんですか」

「良い」

 店員の男は、目の前に座る男性客を観察する。日本語は堪能そうだが、純粋な日本人には見えない。中東系だろうと、店員はあたりをつけた。

 メニューを端から端まで全て持ってこい、そんな冗談じみた事を口にしたのは痩せっぽちの、壮年の男である。彼は白髪の混じった短い髪の毛を弄りながら、メニューに目を通していた。背は百七十センチを少し越えた辺りにしか見えない。顎は尖り、頬のこけた神経質そうな顔立ち。男の服装に特徴は見られない。茶色の長袖のシャツと、長ズボンを着用していた。

「どうした」

「あ、いえ」

 何よりも尊大さが目立った。男はまるで、王様のように振舞うのだ。そして、似合っている。と言うよりも自然だった。そうあるのが当たり前のようでもある。

「早くしろ。我輩は腹が空いている」

 聞き慣れない一人称だったが、馬鹿にしようとは思えなかった。蛇のように、じっとりと絡み付く視線を背に感じながら、店員はキッチンにいる人たちにどう説明したらいいものかと、思案するのだった。




 ファミリーレストランに着いた一とナコトだったが、店内は慌しかった。料理を持った店員が、ひっきりなしに行ったり来たりを続けている。

「妙な時間に忙しそうですね」

「ここは止めとくか」

 入店したと言うのに、誰も応対へ来そうになかった。一は壁に背を預けて、店内を眺める。

「あれ? 客、そんな入ってないよな」

「ええ。ですが」

 空席が目立つ店内だが、忙しそうにしている理由は分かった。ナコトの指差す先には、一つのテーブルがあり、一人の男がおり、数多の料理が並べられていたのである。一人で食べるには多過ぎる……否、不可能と思える数だった。

「あの人の注文に追われているようですね」

 ナコトはつまらなさそうに言って、溜め息を吐き出す。

「嫌がらせか?」

 だが、見える皿は全て空になっていた。綺麗さっぱり平らげられている。

 一人の、痩せぎすの男の食事に、一の目は釘付けになっていた。彼はがむしゃらに食らいついている訳ではなく、むしろゆったりとしたペースで食事を進めている。気品のようなものを感じられて、一は不思議そうに首を傾げた。

「アレか、フードファイターって奴か」

「誰と戦っているんですか?」

「自分と?」

「宇宙のような胃袋を持っているのは結構ですが、他のお客の事も考えてもらいたいですね。まあ、食べ方が綺麗なのが唯一の救いですか」

 シーフードドリアを食べ切った中東系の男は、コーラを一気飲みして、次の料理に取り掛かる。見ている方が満腹になりそうな食べっぷりに、一は頭を振った。

「……なあ、ハンバーガーで良いか?」

「いえ、やっぱり今日は止めておきましょう。先輩の淹れてくれるお茶が飲みたい気分です」

 ナコトが店を出て、一もその後に続こうとする。が、不意に何者かの視線を感じた。咄嗟に振り向くが、こちらを見ている者は誰もいない。釈然としなかったが、彼も外に出た。



 そこそこに美味い。

 男は多種多様な料理を腹に収めながら、そう思った。この世には、まだ知らないモノが多い。未知が自分を呼んでいる。呼ばれなくても出向いて食ってやろうと決意する。やはり、正解だった。この街に来たのは正しかったのだ。

 ――――何と、美味そうな。

 まだ知らない。まだ足りない。まだ飽き足らず食い足りない。求めるモノは他にある。求めたモノはここにある。嗅いだ事のある美酒美肴。鼻を頼りに足を運んだ甲斐があった。次の獲物はそこにある。

「あ、あの」

 話し掛けられて、痩身の男は顔を上げる。心配そうな、呆れたような、そんな表情を浮かべた店員が伝票を差し出そうとしていた。

「すごいっスね。その、ええと」

「……ああ」

 男は思い出し、気付く。店員とやらは、自分の体を気遣っているのではなく、金の事を気にしているのだと。

「金か。問題ない」

「あ、ああ、そうですか、そ、それじゃあ、ごゆっくり」

 自分を誰だと思っているのか。食事中でなければ、頭から被りついているところだった。男は気を取り直して、冷めかけのスパゲティに狙いを定めた。

 こんなものは、前菜に過ぎない。メインディッシュを追いかけたい。早く捕まえて、一口で。



 ナコトと別れた一はスーパーマーケットに向かっていた。ファミリーレストランにいた男の食べっぷりを見ている内、自宅の冷蔵庫が空に近い状況だったのを思い出したのである。

 ぼうっとしながら鮮魚コーナーの近くを歩いていると、前の方から若い女が来るのが見えた。スキニーデニムにブーツ。毛皮のコートを羽織った女である。一は思わず顔をしかめた。

 食い入るようにして鮭の切り身を見つめている女から距離を取ろうとした時、あっ、と、一は呼び止められた。

「えー、何、あんたも買い物?」

 大きなサングラスをした女は、南駒台店の勤務外、戦乙女のシルトである。彼女は親しげに一に話しかけるが、彼は心を閉ざしている風にも見えた。

「あのさー、魚って全部同じに見えるんだよね。これとか。サバってサンマと何が違うの? どっちも、こう、何かさ、青いじゃん」

「馬鹿過ぎて答える気にならねえ」

「いや、バカじゃないから。つーかさ、普通挨拶くらいしない?」

「しない。俺はでかいサングラスを掛けた女には心を閉ざす事で対応している」

 シルトの顔が一瞬、歪む。が、彼女はサングラスを取り、これでどうだと言わんばかりに一へと顔を向けた。

「あんまし調子乗んな、北駒台」

「お前さ、料理とか出来るの?」

「最近覚えた」

「へえ。米を洗剤で研いだりするのか」

「はああ? つーか、米とか食べないし。って言うか、そんな奴いないっつーの」

 いや、いる。一は口を開きかけたが、何か嫌な予感がして言葉を飲み下した。

「ヒルデさんに美味しいもの食べさせてあげたいんだよねー」

「あー、今、一緒に住んでるんだっけか」羨ましい。一はシルトを睨みつける。

「何見てんの? 目ぇ怖いんだけど」

 別に。一は呟き、パックの鱈を手に取った。

「ヒルデさんってば、何を食べても美味しいって言ってくれるから作り甲斐があるし」

「何が作れるんだ?」

「めんどい時はカップ麺とか」

「殺すぞ」

「えっ」

 シルトは弾かれたようにして一を見るが、彼に別段、変わった様子は見られなかった。

「今さ、何か言った?」

「ヒルデさんがさ、バカ女の作ったクソまずいインスタントのラーメンを前にして、笑顔を作っている様子が想像出来た。って言うかお前、やっぱ料理出来ねえんじゃん」

「殺すとか言わなかった? 言ったよね? 絶対言ったよね?」

 一は目だけで全てを訴える。理解させる。シルトは短い悲鳴を上げ、彼から一歩距離を取る。

「なんでキレてんの? 意味分かんないんだけど」

「俺がお前なら不甲斐なさで自殺してるところだぞ。もう良い。俺がヒルデさんにご飯を作る」

「は? はあ? いや無理。絶対ウチに入れないから」

「じゃあ呼ぶ。ヒルデさんに来てもらう」

「フザケンナ!」

 大きな声を出したので、シルトは他の買い物客からの視線を浴びる。彼女は一をねめつけ、口を開いた。

「私の邪魔したら、いくらあんたでも容赦しないから」

「だったら料理覚えろよ。死ぬ気で。あ、死んでも良いぞ」

「ヒルデさん取る気でしょ、あんた。させないっつーの。私が目を白黒させてる内は、ヒルデさんには指一本触れさせないからっ」

「一人で勝手に苦しんでろ」

 ここに来たのは間違いだったのかもしれない。シルトシュパルテリン。盾を割り裂く者。神代に揮った盾を持ち、己の役割を理解する一にとって、彼女は天敵とも言えた。……そう言えば聞こえは良いが、要は相性が悪いだけ、でもある。

「あーもうなんだよナンダヨー。こっちは、少しは友好的に接してやろうとしてるってのにさー」

 拗ねたようにシルトが言う。

「別に、俺はお前と友達になれなくても良い」

「段階すっ飛ばして彼女にしたいって事?」

「階段からすっ飛ばしてえ。お前さ、マジで頭の中どうなってんだ? プリンとか詰まってんの?」

「何それ、だったら超便利じゃん!」

 プリンだった。

「俺が悪かったから、しっかり勉強してくれよ。ヒルデさんの具合が悪くなったらどうにかしてお前をボコるからな」

「あのさ、私、女なんだけど?」

「だから何だよ。俺は婦女子相手でも本気でぶん殴れる男だぞ」

 クズ発言だった。

「……どうしてこんなんに助けられたんだろ」

「あ?」

「こっち見んな短小」

「俺のを見た事あんのかよ!? てめえ見もしないくせに適当抜かしやがって! ここで脱ぐぞ」

「ぎゃーっセクハラだ、やめてよマジでこっち来ないでよ!」

 一はシルトのうろたえぶりを鼻で笑い、ジーンズのベルトを意味もなく見せつけた。

「そこまで言うんならさ、教えてよ」

「え」一は自身の下半身に目を遣る。

「そっちじゃないから。料理だから、料理。ホント気持ち悪い。あんたみたいな奴をヒルデさんに近付けたくない」

「ああ、そっちね」

 とは言え、一も大したものは作れないのだ。一人暮らし(この時、一は糸原の事は除外していた)の男の料理など、高が知れている。彼はそう思っていた。

「焼き飯くらいなら」

「もっと違うのにしてよ。何その男臭い響き」

「だったら何が良いんだよ。……いや待てよ。そうか、ヒルデさんに似合っているものを教えれば良いのか」

「は?」

 必死で思考を巡らせるが、一のレパートリーの中にヒルデと合致するものは見つからない。こんな事なら、糸原がもっと可憐であれば練習台になって良かったのにと、彼は心中で赤い色の涙を流した。

「グラタンで許してくださいヒルデさん!」

「私! 私だから! 謝る相手が違わなくない!?」

「俺が三ツ星レストランのシェフだったら、ヒルデさんにこんな惨めな思いをさせないのに……」

「今、私をバカにしてるんだよね?」

「うん、してる。まあアレだよ、ムニエルみたいな響きの料理を練習したまえ」

 ムニエルの意味は分からなかったので、一は曖昧な表情を浮かべた。

「焼くのが一番楽なんだけどなー」

「どうして俺の周りにはがさつな女しかいないんだ」

 がさつ筆頭の同居人を思い出し、一の気分は滅入ってくる。

「とりあえず、今度家に呼べよ。ヒルデさんのプライベートなところ見たいから」

「あんたさ、ヒルデさんに幻想抱き過ぎじゃない? あの人だってさ、寝ぼけて壁に頭ぶつけたり、トイレにも行くんだよ?」

「いかねえよ! 頭涌いてんじゃねえのお前」

「気持ち悪い」

「で、呼ぶのか、呼ばないのか?」

「いや、だから呼ぶワケないじゃん。まあ、私があんたんところに行くのは良いけどね」

 一は心底から嫌そうな顔になる。

「だっ、だから、私が料理覚えれば良いんでしょ? あんたが教えれば良いんじゃない。でも、私の家には入れたくない。だから、私が、あんたの家に行く。あっ、すごい完璧じゃん」

「そうだな。完璧だな。ただ、俺がお前を家に入れたくないという事を考えなければの話だけど」

「今から行って良い?」

「話聞いてんのかお前。あっこら、俺のかごに入れんじゃねえよ」



 結局、昼過ぎまで眠っていたらしい。鈍い痛みのする頭を振り、アイネはベッドから体を起こす。小さな冷蔵庫を開けて、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出す。キャップを開けようとして、手が震えているのに気付いた。

 疲れている訳ではない。むしろ、体は鈍っているくらいだった。中内荘に来てからは、フリーランス『貴族主義』としての活動は皆無に近い。軽いトレーニングこそすれど、ソレとの戦闘は経験していない。鈍っているのは体ではなく、心なのかもしれない。尖り続けていたそれは、今はもう見る影もない。

 ここでの暮らしに文句はない。ある筈がない。ようやくにして掴んだ、温かなものがここにはある。それでも、と。考えてしまうのだ。この街の灯、その一つになりたい。だけど、復讐したいという気持ちが完全になくなった訳ではない。目の前に仇が現れれば、その感情は再燃し、暗い喜びに身は焦がれる筈だ。……その可能性は限りなくゼロに近かったが。

 もう死んでしまった。

 既に殺されてしまった。

 とうの昔にこの世から、消えている。

 憎悪をぶつける相手は現世には存在していないのだ。だから、アイネはほっとしたように胸を撫で下ろす。暗い部屋にこもっていては、暗い気持ちに囚われるのも当然だった。彼女は身支度を済ませて、買い物にでも行こうかと思い立つ。美味しいものを食べて、こんな気持ちは忘れよう。一を誘えば良い。チアキを誘うのも良い。誰かと囲む食卓は、あんなにも温かな、幸せなものだったのだから。

 部屋を出ようとして、ドアノブに手を掛ける。瞬間、腕に痺れが走った。静電気ではない。これは、嫌なものだ。殺気だとか、そういったものに近い。外には何かがある。何かがいる。いてはならない何者かが。そして、恐らく、それは。

 得物を掴み、アイネは一息にドアを開け、外に躍り出る。

「うん?」

 アイネは、アパートの敷地内に入ろうとしていた一人の男と目が合った。中東系の、痩せぎすの男である。彼はアイネを見遣り、顎に手を遣った。

「肉付きは良くないが、スパイスが効いている。我輩の舌を満足させるには程遠いが」

「……あ、アッ……」

 レイピアを取り落とす。瞳が動かない。視線が釘付けになる。足が動かない。地面に釘付けになる。

「そ、そッ、そんな……」

 声が震える。体が震える。察した。きっと、この身だけは気付いていたのだろう。この男の存在を。

 蘇るのは、血と、火だ。

 網膜を焼き、胸を焦がし、今も燻り続けるモノがある。その中で、一際強く燃え上がるものがあった。

「どうして……」

 アイネは胸を押さえる。

 自身を襲った男たち。彼らは全て息絶えた。食い殺されたのだ。一つの力に。一人の、男に。ソレと呼ばれるモノに、アイネは命を救われた。その男が目の前に立っている現実を信じられなくて、彼女はただ、己に問うた。答えが出ないのを分かっていて、そこにある答えから目を背けて。

 男はアイネを見る。だが、その目には感慨というものが宿っていない。どう食えば美味いか。どこから食えば美味いか。それしか考えていなかった。情などない。そして、彼は何よりも――――。

「アイネー、なんや音聞こえたけど」

 アイネと男の視線が、開いた扉に向かう。そこにいたのは、頭をかきながら現れた歌代チアキであった。彼女は見知らぬ外国人に訝しげな視線を送る。が、彼は値踏みするようなそれをチアキに返しただけである。

「ん、誰?」



 チアキは状況を理解しようとした。男の正体は分からない。だが、アイネはショックを受けているようにも見える。レイピアを取り落として、体を震わせている。胸を潰さんばかりに押さえて、苦しそうに呼吸を繰り返していた。……良くないモノだ。

「……なんや、自分。アイネに何したんや」

「ほう、珍しい。話には聞いていたが」

「無視すんなや! 何やねん、お前!」

 視線に絡め取られる。まるで蛇に睨まれた蛙の気分だ。ここにいては駄目だと、この男と話しては駄目だと、心では分かっているのに体が思うように動いてくれない。それに、アイネを放っておける筈がなかった。

「女、セイレーンの血を引いているな」

 チアキには答える事が出来なかった。男は彼女の沈黙を肯定と受け取ったのだろう。満足そうに喉を鳴らして笑った。

「道理で芳しい。まだ若いが、我輩を満足させるかもしれぬな。……しかし、その声は? しわがれた声では今ひとつ食欲が……」

「あんたには関係ないやろ」

「優れた食材には優れた管理が必要だ。そう思わぬか」

 男が何を言っているのか、チアキには理解出来ない。先ほどから、彼女は殆ど状況を飲み込めていないのだ。

「ふうむ、他の住人は? ここにはまだある筈だぞ」

 いる、ではなく、あると表す。男は人を人と見ていない。そんな気がして、チアキの肌があわ立った。そして、思い至る。彼が襲い掛かってきた場合、どうしようもないのだと。確かに、自分はセイレーンの血を引いている。しかし戦闘能力は殆どない。戦えないのだ。いつもなら頼れる『貴族主義』も様子がおかしい。力を振るわれてしまえば、抗う術はない。

「まあ良い。我輩の為、存分に歌うが良い、娘」

「あッ、し、ししょ……」


「てめえ何してやがんだ」


「む?」

 振り向いた男の顔面に、拳が叩き込まれた。



 ただの男に『貴族主義』が怯える筈がない。何よりも、ただの男に『神社』が恐怖を抱く筈はない。だから判断する。そして頭で決めるよりも先に、体が動いている。中内荘に戻った山田栞は、気付いた時にはもう、拳を振るっていた。手ごたえはある。感触はある。だが、やけに重く、固かった。

「……名乗らずに仕掛けるたあ悪かったな」

「……何、面白い。しかし、我輩に手を上げるとは」

 相手は、人ではない。山田は腹に力を込め、呑まれまいと強く、相手を見据える。

「『神社』の山田栞ってもんだ。どうだ、痛かったかよ?」

「いや、あいにくと」

「だろうな」

 山田は苦笑し、右の拳に目を落とした。一発打った。それだけで既に痛んでいる。男の頑強さが、自身のそれより勝っているのだ。

「で、てめえはどこのどなた様だ? オレの知り合いに手ぇ上げようとしたんだ。そんじょそこらのお大尽さまじゃねえんだろ」

「大臣? 面白い。我輩は王だぞ?」

「ああ?」

 男は自らを王だと呼称する。彼が至極真面目に、当然のように言うので、山田は笑い飛ばす事が出来なかった。

「それよりも美味そうだな。……この香りは何だ? ああ、そうか。酒か」

「なっ……!?」

「噂には聞いている。確か、八塩折の酒だったか。なるほど、島国には珍しいものが多い。我輩の舌を楽しませるくらいには豊かなそれなのだろうな」

 どうして、その名を知っている。

 どうして、自分がそうなのだと知っている。鼻が利く。それだけでは済まない。

 山田は瞠目し、男を見据える。だが、彼女の目には先ほどまでの力がなかった。自分が八塩折の関係者だと気付かれてしまったからではない。男の歯牙が、もうそこまで迫っている事に気付いたからだ。

 どうして? 大した理由はないのだろう。男にとっては、山田が美味そうか否か、それだけの話なのだ。それだけの理由で、彼は彼女を殺せる。

「だが、我輩を酔わせられるかな。くくっ、かと言って、首を刎ねたところで死なない身ではあるが」

 舌の上で転がされているような、そんな、おぞましい感覚。男の中では、自分たちは既に胃の腑に収められているのだろうか。想像を頭の隅に押し遣り、山田はアイネに視線を向ける。

 アイネ=クライネ=ナハトムジークからは、動こうとする意志が一切感じられなかった。咎めようとは思わない。少しでも気を抜けば、自分だってああなっていたかもしれないのだから。山田は『貴族主義』には期待出来ないと判断し、この場を切り抜ける方法を模索する。ここにはチアキもいる。一人で脱するには容易いが、その場合、動かないアイネと動けないチアキ、二人を犠牲にするのが前提となる。それは、嫌だった。

「ハナっから考えるこたあねえよな」

 この男が何者なのか知らない。ただ、自分よりも格上、どころか、高次の存在にさえ思える。対峙しただけでこの有様だ。次の瞬間、命を失っていてもおかしくない。しかし、一対一だ。要するに、これは喧嘩なのだ。逃げるのが難しいなら戦えば良い。戦って、勝てば済む話だ。山田は口の端をつり上げ、拳を固める。決意を固める。

「てめえが誰だか興味はねえよ。やるか、やられるかだ。合ってるよな?」

「くだらぬな」

「お前ら下がってろ!」

 男が動こうとする。山田は彼の正面に立ち、腰を少しだけ落とした。

「あまり動いてくれるな。零れるのは惜しい」

「そっちこそ動くんじゃねえぞ。オレはちっとばかし乱暴だからな、狙いが逸れると良くねえ」

「ッ! ほう!?」

「からなああああ!」

 地を蹴った山田が男に迫る。彼女は右の拳を振り下ろす。男は受け止めようとしたが、得体の知れぬ悪寒に従い、攻撃を避けた。山田は構わず、戻した拳を振り上げる。無理な体勢の掌底だが、空気が割れる。一瞬間、風が起き、男の髪を揺らす。

「どうしたあっ、手ぇ出さねえのかよっ」

 巫女が舞う。男は僅かに目を見開き、山田から距離を取った。

「だっ、あ、ちょ! やま――――栞さん、やばいって!」

「何がだよ!」

 チアキは山田を心配するが、『神社』である彼女の意気は上がっている。動く前に物を考えたからいけなかったのだ。山田は、動けば動くほど調子が良くなるのを感じている。

「そう暴れるな美酒よ。思わず手が出そうになったぞ」

「ああっ!? 出せよ! ふざけた事抜かしてんじゃねえぞ!」

 男は困ったように髪の毛をかき、眉根を寄せた。

「分かっておらん。我輩は踊り食いにしたいのだ。であるから、動くな」

「オレを誰だと思ってやがんだ! 動くに決まってんだろっ、てめえが動くな!」

「そうか」

 恐怖を塗り潰す。上塗りするのは汲めども尽きぬ戦意だ。山田は男を追撃するべく、身を低くして前へ踏み出す。

「では、そうするか」

「うっ、おおおおおおお!?」

 山田は足を止めようとしたが、勢い込んだ体は急に止まれない。尻餅をつく形で無理矢理に倒れて、すぐさま元の位置に後退する。彼女の様子を見て、男は不思議そうな顔をした。

「動いて欲しくなかったのだろう? では、来ると良い。我輩はそろそろ腹が空いてきていてな。空きっ腹ゆえ、酔いが回るが早いが、何、そこまでの美酒よ。どちらにせよ酩酊するに変わりない」

 これは相手が悪過ぎるのではないか。今更ながら、山田は男の力量をはかろうとする。見誤れば命はない。

 ――――いや、違うか。

 そも、山田は男に相手にされていない。力量差は考えるだけ無駄に近い。何せ、人として、敵として見られていないのだ。男は彼女を、餌として捉えている。彼の傲慢だとして、その驕りを通せるだけのモノが備わっているのだ。それはもはや、純然たる事実である。

 だが、山田は一つのイメージに辿り着いた。他の者では思いつく事すら難しい、彼女だからこその想像である。

「……てめえ、蛇だな?」

「ほう?」

「臭いがしやがるぜ。気味悪い視線といい、間違いねえな」

「分かったところで、どうするのだ?」

 山田は笑う。どうしようもないのだ。戦うしかない。しかし、出来る事なら近づきたくない。勝算がない状況で、男に寄るのは自殺行為に等しかった。

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