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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ザッハーク
229/328

焼却キャンディハウス



 血と、火だ。

 焼かれた物は今でも思い出せる。

 死んだ者はいつまでも忘れられない。

 怨嗟の如く押し寄せる声に急かされて、背を押されて、やがて耐え切れずに父が死んだ。彼だけではない。母も、親戚も、皆死んだ。皆食われたのだ。ソレに殺されて、食われた。食われて、殺された。

 ただ一人、生き延びた。

 何もかも許せず、また、何もかもが諦められなかった。復讐してやる。その思いだけを支えに今まで生きてきた。憎悪の対象は、国を潰したソレではない。街を焼いたソレではない。家族を飲み込んだソレではない。自身の尊厳を踏み躙った人間たち。……だった。

 それが義務だと、彼は確かに言ったのだ。生きろと、そう言われていた。だから、この街で頑張ろうと思う。

 だが、もしも、現れたら?

 もしも、あの時のソレが現れたら?

 もしも、あの時の生き残りがいたら?

 その時、自分はどうするのだろうか。復讐と言う甘美な熱に身を任せるのか。それとも、この街で灯した明かりを手にただただ逃げ惑うのか。

 まだ、分からない。アイネ=クライネ=ナハトムジークは目を瞑り、昔日の光景を今一度、網膜に焼き付けるのだった。



 中内荘には、変な人たちしかいない。

 自分の住むアパートを指して、歌代チアキはそう思った。常々、そう思っている。

 類は友を呼ぶとも言うが、果たして友を呼んだ類は誰なのか。その答えだけは何となく分かっていた。言わずもがな、一一である。彼がいたからこそ、ここには変人の類が集うのだ。

 一一は、歌代チアキを助けた。彼女も、その点については一に感謝している。だが、彼こそが類なのだ。変人たちの核とも言える。チアキからすれば、一は普通なのに勤務外を選んだ変態でしかない。普通で、一般人でいられた筈なのだ。なのに、首を突っ込んで変人たちと関わりを持つ。勿論、自分を含めて、だ。恐らく、それは彼の性分なのだろう。自分の限界を越えたところまで顔を出そうとする野次馬根性だ。非常に、性質が悪い。

 北英雄。彼は、一が来るよりもずっと前から中内荘に住んでいたらしい。何年前からここにいるのかは知らないが、北が古株なのはチアキにも分かっている。しかし、彼の正体は分からないのだ。酒を飲み、煙草を呑み、賭博に明け暮れる男なのは知っている。賭け事に弱く、糸原にカモにされているのも知っている。夜中出歩き、朝に眠る。だから、定職に就いていないのも察しがつく。……しかし、一に尊敬されている理由が分からない。彼が北を語る時、『ろくでなし』と言うのはいつもの事だ。だが、本心からはそう思っていない事を感じる。北英雄とは、一体、何者なのだろうか。

 糸原四乃。一の同居人である。いや、押しかけの居候と呼ぶべきか。チアキは迷って、どちらでも良いかと思い直す。糸原は現在、駒台の病院に入院しているのだから。彼女がどのような傷を負ったかは分からない。あの、悪魔のような……悪魔をも弄ぶような女が弱っているというのは、チアキには想像出来なかったが。

 アイネ=クライネ=ナハトムジーク。彼女とは良い関係を築いているのではなかろうか、と、チアキは思った。フリーランスは危ない人なのだと一から聞いていたが、アイネは、彼の言うフリーランスとは違うような気がする。どうでも良いところでのネガティブな思考が目立つが、基本的には毅然としているのだ。どうにも、一が絡むとアイネは駄目になる。

 山田栞。すごい酒飲み。中内荘で最も豪快で一よりも男らしいが、少しばかりまっすぐ過ぎる。

 と。チアキは自分を棚上げして、隣人たちの事をぼうっとしながら考えた。



「……あいつは、素直に物が言えないのか」

 堀は苦笑する。店長は苛立たしげに煙草に火を点けた。バックルームには紫煙がこもり、それでも、彼は薄い笑みを浮かべ続ける。

「いやあ、それはお互い様かと。尤も、お疲れ様です、くらいで目くじらを立てる事はないと思いますが」

「駄目だ。私は店長だぞ。ヤツからすれば天上の民にも等しい存在だ。挨拶をしない。挙句私を無視して帰ろうとする。許されるような行為ではない」

「一君に尊敬されるような大人にならないといけないですね」

 じろりと睨まれて、堀は店長から目を逸らす。

「第一、少々の傲慢くらいは良いでしょう。彼がいなければ店は回らない。そして、なかったかもしれない。一君は北駒台店に貢献していると思いますよ」

 それでも、堀は一が驕る事はないのだと思えた。彼が店長に対して生意気なのは、単純に、彼女が気に食わない存在だからなのだ。

「三森たちが戻ってくれば、大きな顔はさせん」

「ああ、あの二人は、一君にとっての天敵ですからね」

「鳥なき里の蝙蝠だな。全く、のびのびとしている。ゴーウェストも立花も、あのナナも、いつの間にやらあいつを持ち上げる太鼓持ちじゃあないか。人たらしめ」

 たらし。なるほどと、堀は内心で頷いた。一は、勤務外だけでなく、フリーランスやソレにまで気に入られている。その理由は、彼が普通だからだ。優れた者はより優れた者を求める。足りない部分を補う為に何かを求める。普通でないモノは、そうであるモノを欲しがるものだ。

「三森さんたちの復帰はいつ頃になりそうですか」

「すぐにでも。と、言いたいところだが、いつになるかな。三森には休みが必要だろう。今まで一人でやってきてたんだ。たまには他の奴に任せても良いか、そう思わせるにはちょうど良い」

「……糸原さんは、どうなんでしょうね」

「怪我は治ったと聞いているが」

 店長はその続きを口に出さなかった。堀には分かっている。彼は、炉辺から糸原の状態について聞いていたのだ。……手が震える。そう、聞いていた。恐らく、あの少女のせいだろう。糸原は、暴君とも呼ぶべき、巨大な力に飲み込まれたのだ。打たれ強そうに見えた彼女の精神は、誰よりも繊細だったのである。

 切っ掛けさえあれば。

 そう、炉辺は言っていた。精神的なものなら、ふとした切っ掛けで治るかもしれない、と。

「間に合いますかね」

「どうだろうな。恐怖に打ち克てるのは、自分だけだ。他人の言葉では心を癒せない」

 だが。店長は付け足してから、短くなった煙草を灰皿の上で揉み消した。

「あちらさんは待ってくれない。いつだって、こちらの都合などお構いなしだ」

「ソレですか?」

「ソレもある」

 ならば、円卓か。堀は眼鏡の位置を押し上げて、店長を見遣る。彼女の表情からは何も読み取れなかった。

「都合良くこの街には来ない。一にはそう言ったが、正直、不安だ」

「ゴルゴン、青髭にテュール、でしたか」

「それだけではないだろう? おっと、そう睨むな。……今後、新たな円卓の出現にも気を配らなければ、な。現状で太刀打ち出来ないなら、三森たちを呼ぶしかない」

 それでも駄目なら、この店は、この街は終わりだ。圧倒的な力に飲み込まれて、誰も彼もが無残に殺される。理由など、ないに等しい。円卓がどういう目的で動くモノか分からない以上、そう判断せざるを得ない。

「今のところ、ソレが出現したという話は聞いていませんが」

「一秒後、どうなるかは分からん。私たちの命は、いつだって与り知らぬところで、際どいところで存在しているに過ぎん。向こうがその気になれば、いつ訪れるか分からない機が来れば、笑えるくらいに終わるだろう」

「笑えて終われるなら良いと思いますがね」

 その終わりの先に、自分の命があろうと、なかろうと。堀は口元が歪みかけるのを堪えて、目の前にいる女を見据えた。



「どうして素直に物が言えないんだろうな、あの人は」

「誰の事だい?」

「お前の事じゃないよ」

 一は温くなったコーヒーを流し込み、溜め息を吐く。

 サックスのうるさいBGMがかかった喫茶店は、程よい室温に保たれていた。

「それで、呼び出したからには何かあったんだろ?」

「まあね」曖昧に返すと、一の対面に座る楯列は、窓を見つめる。外には、忙しそうにそこを通り過ぎる男女の姿があった。

「先日、と言ってもまだ二日しか経っていないんだけど」

 先日。そう言われて、一は思い出す。大学の構内で『教会』に襲われ、四凶と呼ばれるソレと出遭った日を。

「その後について、話そうと思ってね」

 空になったカップを見遣り、一はメニューを手に取った。

「『教会』の二人は楯列の使用人となった。表向きはね。彼女らは、こっちで監視すると同時、制約を与えないでいる。自由にやってくれ、と言うわけだよ」

「……自由に?」

「そう。それが槐君の頼み、と言うか、望みでもあるからね。槐君は、自分のせいで誰かが不幸になるのを嫌っている。たとえ自分を襲おうとした者であっても、その思いは変わらない」

 難儀な話だと、一は空になったカップを、何気なく持ち上げた。

「それは良いんだけどさ、良いのか? あいつら、また槐をどうにかしようって思ってるんじゃないか?」

「思っているだろうね。でも、実行には移さない。あの二人も根っから悪人じゃあないんだと思うよ。とりあえずは大人しく過ごしてくれている。……尤も、家は騒がしくなったけど」

 困ったように笑う楯列を見て、一は苦笑する。

「灯君は家事の手伝いなんかを申し出てね、でも、存外に下手くそらしい。聖君の方は、だらだらとしているよ。カウチポテトって言葉があれ程似合う人も珍しい。思うに、あれも一つの幸せなのかもしれない。彼女が望んだ、一つの理想なんだ」

「ソファでだらけるのが、か」

「そうしたくても出来ない人がいる。そして、聖君は出来なかった人なんだ。何故か? そう問うのは、また別の話だけどね」

 まだ安心は出来ない。人の心は移り変わるものだと一は知っている。今は表面上、大人しくしているだけかもしれない。

「槐の様子はどうなんだ?」

「何も変わりないよ。強いて言えば、新しい遊び相手が出来て喜んでいる、くらいかな」

 遊び相手にしては、少しばかり特殊な相手ではないだろうか。一は槐の度量を呆れると同時に、羨むばかりである。

「年の功だな」

「そうじゃなくて、槐君は僕たちの事が大好きなのさ」

 槐が座敷童子だからではなく、自分たちが人間だから。だから、彼女は。

「槐君が、一君にお礼を言いたいそうだよ。また今度、会ってくれると嬉しいな」

「お礼なんていらないけどさ、また会いに行くよ。うん、必ず」

「それは良かった。……名残惜しいけど、少し用事があってね、僕はそろそろ」

 楯列は伝票を持って立ち上がろうとするが、一がそれを制した。

「あのさ、マジで大丈夫なのか。フリーランスと一つ屋根の下にいるんだぜ?」

「あの二人は『教会』を抜け出したも同然、らしいね。彼女らはそう言っていた。だから、こちらには打つ手があるんだよ。僕たちにそのつもりはないけど、あちらからすれば、追い出されれば終わりなんだ」

「……『教会』を潰すってのは?」

「それも槐君が望めば、だよ。あの二人は『教会』に狙われる可能性が高い。フリーランスを敵に回すのは苦しいけれど、それでもどうにかしなくちゃあね」

 甲斐甲斐しいな。一はそう言おうとして口を噤む。楯列が槐の為に動くのは、罪滅ぼしのつもりなのかもしれなかった。彼は何もしていない。ただ、受け入れただけだ。彼の親が、彼の一族が座敷童子を連れて、囲った。駕籠の中に押し入れた。楯列はその行為を強く恥じている。

「言えよ」

「ん、何がだい?」

「何かあったらだよ。俺に出来る事なら、まあ、手伝ってやるよ」

 一も席を立ち、楯列の手から伝票を奪った。

「自分のは払う。槐が言ってたのは、つまるところ、そういう意味だろうからな」



 慣れると大した事はなかった。それに、幼い頃からここには良く来ていた。怪我をする度、ここで叱られて、慰められた。時間を潰す方法は知っている。問題は、それを良しと受け止めるかどうかだった。

「なァ」

 隣のベッドの住人は滅多に口を利かなくなった。糸原四乃は布団から出てこない。ベッドから降りない。食事ですらあまり手をつけない。だから三森は頭を掻き、彼女のご機嫌を伺うのだ。何も糸原の身を心底から心配している訳ではない。ただ、つまらないだけだ。憎まれ口を叩く女がだんまりと言うのは、どこか調子が狂わされる。そんな気がしていた。

「今日はメシ食えよ。あの人、心配してンぞ。つーか、治るもんも治らねェ」

 カーテン越しの糸原は口を開かない。眠ってはいないのだろうが、最近はこの調子である。そして、彼女の怪我は既に治っているのだ。問題は心にある。

 真っ赤な少女。

 彼女の力が糸原に恐れを抱かせていた。三森にもそれくらい分かっている。だが、どうしようもない。ここで立ち上がらなければ、二度とは動くまい。再びアレが牙を剥けば、もはや座して死を待つしかないのだ。頑なな彼女の心を癒すのは何か。あるいは、誰か。

「食えよ。また半泣きで帰っちまうからよ」

 三森の言うあの人とは、炉辺の事である。彼女はオンリーワン近畿支部医療部、部長だ。その立場を知ってか知らずか、この病院では自由奔放にしている。特に、彼女は三森たちのような勤務外やフリーランスにちょっかいをかける事が多い。

「……見舞いにでも来りゃあ良いのによ」

 諦めて、三森は枕元の本を手に取った。ごろりと横になり、ページをめくる。彼女が考えるのは、一についてである。彼は結局、今までに一度も顔を見せなかった。一と自分は取り立てて仲が良いとは思っていないが、それでも長い付き合いといえば長い付き合いである。何にせよ、彼の第一の同僚は自分なのだ。間違いなく、れっきとした、純然たる事実である。あんな事があったのだ。『大丈夫でしたか』『お元気ですか』なんて声を掛けてくれても罰は当たらないだろう。

 それに。と、三森は目を瞑る。……守ると言ったのだ。軽口ではあったが、愛していると言った。春風夏樹の代わりではない。一一を守ると、そう誓った。そして、彼もまた自分を守ると言ったのである。そういう関係なのだ。だからこそ、こういう時だからこそ、見舞いの一つや二つ、あって当然ではないか。と言うか来るべきである。

「あーあ、つまんねェの」

 退院したい。が、糸原を放置したままでは気持ちが悪い。放っておけないのだ。それは、三森がお人よしだから、ではない。神野剣。彼の死が心のそこここに引っ掛かって、抜けないのだ。勤務外を選んだ者が死ぬ。それ自体に対しては何も思わない。自己責任、自業自得なのである。だが、神野の死は北駒台に何かを遺した筈だ。良い事悪い事、全てひっくるめて、である。

 良い奴だった。神野とは、バイトでしか関わらなかった。特別仲が良いわけでもない。でも、決して死んでも良いような人間ではなかった。自分よりも若く、前途ある者だった。……彼だけではない。三森はオンリーワンの戦闘部として、勤務外として、他の者よりも長く非日常に身を置き続けている。いつソレに殺されるか分からない。自身ではなく、他者が死ぬ。理由などないまま、意味など知らされないままにこの世からいなくなる。だから、必要以上に誰かと関わるのを避けていた。彼女は怖かったのだ。別れが。何よりも出会うのが。

 今後、どうするのか。何をしたいのか。ここを出て、ソレを殺し続けるのか。こんな生活がいつから始まったのか、それは分かる。嫌でも分かる。しかしゴールが見えないのだ。いつになれば? どうすれば終わるのか。でも、少しだけ光が差し込んでいる。そんな気がしていた。今、自分は一人ではないと、三森は認識している。仲間と呼ぶにはあまりにも薄い関係だが、それでも、同じ場所で、目的を同じとする者がいる。……耐えられるだろうか。越えられるだろうか。まだ狂わず、人間のままでいられるだろうか。



 楯列と別れた後、一はあてどなく街を歩いていた。久しぶりの休みである。店にはナナに加えて、立花とジェーンが戻ってきた。彼女らが戻るまでの間、一は一人で北駒台店を支えてきたのである(望もうが望むまいが、結果的に)。休みは、彼にとっては喜ばしい事だった。が、何をすれば良いのか分からない。突然、日常の中に放り出されたのだ。今まで自分が何をしていたのか、彼は分からなくなりつつある。

 とりあえず、一は目に入った古書店を冷やかそうと思った。足を向けた瞬間、背後から声を掛けられる。

「そこのお店はやめた方が良いですよ。ああ、入るのも、ですが、営業を止めた方が良いとも思います。接客態度がなっていないんですよ。店員が商品の位置を把握していないんです。ナコトシュランでは星一つ分の価値もない店です」

 ハンチング帽の位置を直し、薄く微笑む少女を確認して、一は背を向けた。

「あらあらあら、良いんですか? 星、欲しくないんですか?」

「いらねえ」

「無視するんですか? 呟いちゃいますよ、『不審者なう』って。あたしのフォロワーが物凄い勢いで拡散しちゃいますから。数は戦力です。そうしたら、と言うか今すぐにでもあなたみたいな排泄物製造機は……」

 黄衣ナコトは、今日も一を苛めるのが楽しくて仕方がないようだった。

「ふう、それにしても寒いです。立ち話をするには厳しい冷え込みですからね、そこの喫茶店にでも入りましょうか」

「俺はお前と話をする気はないぞ。つーか、さっきまでそこの店にいたしな」

「知りません。あたしには関係ありませんよ」

 強気に出て来られていても、一にはナコトを手酷く扱う事は出来なかった。彼女には借りがある。黄衣ナコトは一一の命の恩人なのである。

「まあ、なんだ。俺と話がしたいってんなら」

「どうして上から目線なんですか。それよりも、あなたの方があたしに、何かあるんじゃあないんですか? と言うか、あるでしょう。あるに決まっています」

「何があるんだよ」

「お礼です」

 ああ、と、一は得心する。

「助かったよ、ありがとな。そんじゃ、俺は行くから」

「ちょっと待ってください。何ですかその『あ、こないだは電車賃貸してくれてサンキュー』みたいな軽さは。本来なら、あなたはあたしに対しては常に頭を下げなければならない身ですよ。ありえないっ」

「分かった、分かったって。じゃあそこの自販機で好きなものを買ってやるから」

 一は自動販売機を指し示し、面倒くさそうに財布を取り出した。

「あ、小銭ねえわ。なあ、ちょっと貸してくんない?」

「訳が分かりません。あの、本当に感謝しているんですか? あたし、かなり危ない目に遭ったんですよ?」

「じゃあ、何が欲しいんだよ」

「な、何がって」

 何故かナコトはうろたえる。一は財布を戻し、その場にしゃがみ込んだ。

「ゆっくり考えておきます。……あのイヌは元気にやっていますか?」

「イヌ?」

「立花真です」

 一は眉根を寄せる。

「イヌって言うな。まあ、元気だよ。アレから『館』の連中も見えないし」

「でも、いつか必ず、また来ますよ。神野姫……いえ、今はレヤックでしたか。彼女の憎悪には目を見張るものがありました。絶対に諦めないでしょうね。立花を殺すまで、彼女は止まらない。そう、あたしは確信しています」

「……どうして、だろうな」

 どうしてこんな事になってしまうのだろう。姫の気持ちも少しは分かる。しかし、一は立花を殺させるつもりはなかった。

「レヤックは自身に式を刻んでいました。彼女は今、人を外れつつあります。バックには二人の魔女もいますし、時間が経てば経つほど手の付けられない存在になると思いますよ。力を手に入れた復讐者は、非常にしつこいですから」

 ナコトは自嘲気味に笑む。

「式を刻むって?」

「あなたも魔法陣を見た事がありましたよね? アレを体に刻むんです。刺青みたいなもの、でしょうか。式を刻めば、地面に書いたりして、わざわざ陣を構築しなくても魔法が発動出来ます」

「便利じゃん」

「では、あなたもそうしますか? 幸い、素養は備わっているんですし」

 が、そう言うナコトの口元は歪んでいた。

「ただし、想像を絶する激痛を十数回は耐える必要があるでしょうね。強靭な精神力がなければ式を施す途中でショック死するでしょう。そこまでのリスクを負って、ようやく手に入れられるモノなんです」

 そこまでして。そこまでして、神野姫は力を得たかったのか。そこまでして、立花を殺したかったのか。

「でも、あたしには分かりますよ」

「……何がだ」

「神野姫の気持ちが。復讐とはネガティブな動機だと思われますか? でも、それがなければ生きられない。生きてはいけないモノを殺す為にしか生きていけないんです。怒りは明日への活力に、憎しみはその先へ進む為の原動力になり得ます。そういう人間もいるんです。安穏とした日々を送るあなたには分からないと思いますけど」

「分かるよ」

 一は財布を取り出して、自動販売機に小銭を入れ始める。ナコトは驚いたように彼を見つめた。

「俺にも分かる。でも、認めたくはないんだよな。復讐するってのは、別に良い。でもさ、終わったらどうなるんだ? 生きていく理由がそれなら、その理由がなくなったら?」

 きっと、死ぬ。復讐者がそうでなくなった時、その時に何も残っていなかったら、生きるに値する理由が失せれば、どうなるか。一にはその事が良く分かっていた。

「そこまでなんだよ」

「では、復讐なんて馬鹿な真似はよせ、と。あなたはそう言いたいんですか」

「まさか。勝手にやりゃあ良いよ。俺に関係のないところでな」

 缶コーヒーを二つ持ち、一は片方をナコトに渡した。

「あたしは紅茶の方が好きなんです」

「先に言え。じゃあ、新しいの買ってやるから」

「結構です。別に、これも飲めないって訳じゃないですから」

「そうか?」

「コーヒーはまだ好きじゃありませんけど、頑張って覚えます」

 あっそ。一はコーヒーに口を付けて、煙草を取り出す。

「そんなものを良く吸えますね」

「健康に悪いとか言うんだろ」

「あなたの健康なんて幾らでも害されてしまえば良いんですが、副流煙を知っていますか? あなたのくだらない嗜好の為に周囲の人たちの健康を害するのはどうかと思います。土下座しながら吸ってくださいよ。涙を流しながら吸ってくださいよ」

「泣きながら煙草吸ってたら、煙たがってるだけだと思われそうだなあ」

「減らず口を」

 お前がそれを言うか。一は火を点けて、煙を吸い込む。吐き出す。

「良いんだよ。俺の僅かな楽しみのせいで、俺以外の誰かの寿命が短くなっても」

「あのう、あたしが見えていませんか?」

「ようく見えてるよ。今、俺の目にはお前しか映ってない」

 ナコトは舌打ちして、缶コーヒーのプルタブを押し開けた。

「それっぽい台詞の筈なのに、全然嬉しくないですね」

「あのさ」

「何ですか」

「俺も素直じゃないんだよ」

「……『も』って。それじゃあ、あたしも素直じゃないように聞こえますけど」

 違うのか。一が聞けば、ナコトは違いますと返した。

「ありがとうな、助けてくれて」

「最初からそう言っていれば良いんですよ。ねえ、これで少しは借りを返せましたか?」

「お釣りが来るよ。だからさ、黄衣。お前も、別に俺に対して気ぃとか遣わなくて良いんだぞ」

「そうですか?」

 一は頷いて返す。

「これでも、あたしはあなたに対しては素直なんですけどね」

「それでかよ」

「これでですよ。ああ、お腹が空きましたね」

 じいっと、ナコトは一を見つめた。彼は笑って、携帯灰皿に吸殻を入れる。

「ファミレスで良いか?」

「ええ、構いません」

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