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現実に於いて



 幸せとはなんだろう。

 お腹いっぱいになって、暖かいベッドで眠りに就く事だろうか。恋人と甘い時間を過ごす事だろうか。それとも、何者にも脅かされない世界を手に入れる事だろうか。お金さえあれば、誰もいないところに逃げ込めるのだろうか。

 そんな事を、少女は十の頃に考えた。

 幸せとはなんでしょう。

 そう、尋ねた事があった。答えは明確だった。『主に仕える事が至上の喜びなのです』と、神父は言った。十を過ぎた少女は納得して、安心して、祈りの言葉を唱えた。

 ――――主よ、感謝します。

 幸せの象徴が何も言わず、語らず、黙したままだと気付くには、暫くの年月を要した。

 


 ポケットの携帯電話が震える。こんな時に出られる筈もない。前方の標的を見据えながら少女は走る。ガンベルトからリボルバーを抜き、銃口を向けた。

「ジェーンさん、向かってきます!」

「オッケイ」頷いて返すと、ジェーンは引き金を二回引く。ソレは頭を振って銃弾を避ける。彼女は続けざまに発砲した。

 弾丸がソレの体に食い込み、貫こうとする。虎に似た体の怪物は体勢を崩し、足を滑らせて転倒した。

 メイド服を着た女が跳躍する。高く、高く跳び上がり、彼女は倒れているソレに向けて、両膝を突き出すようにして落下し始めた。

「ゴーっ、ナナ!」

「これが私のダイビング・ニー・アタックっ、です」

 肉が砕けて骨がひしゃげる。ナナの一撃を背中に喰らったソレは断末魔の叫びを上げると、活動を停止した。ナナはスカートの埃を払い、眼鏡の位置を押し上げる。

「やったじゃナイ、クールだったわよ」

「恐れ入ります。ジェーンさん、お怪我はありませんか?」

 ジェーンは心配ないと小さく笑った。

「では、店に戻りましょう」

「ん」頷いてから、ジェーンは携帯電話を確認する。店から掛かってきていたので、彼女は眉をひそめた。

「ボスからだ。もう、コンセントレーションがなくなったらどうするつもりなのかしら。……モンク言ってやる」



「先輩先輩」

「んん?」

 一はホワイトボードから視線を外した。シャープペンシルを机に置き、少しだけ面倒くさそうに、隣に座る早田を見遣る。

 早田はルーズリーフをペンで叩いた。

「学生と生徒の違いとは何だろう」

「藪から棒に」講師が話を止めたので、一は口を閉ざす。自分たちが教室の前の方に座っているのは、お喋りをする為ではないのだと言い聞かせる。

「……なんだよ。学生と生徒?」

 小さく頷き、早田は前を向いた。

「気になって夜も慰められないのだ」

「じゃ、疑問は解消しなくても良いな」

「私は疑問も性欲も解消したい」

 一も前を向く。彼は隣に誰も座っていないと思い込み、ホワイトボードの文字をルーズリーフに書き写し始めた。

「あー、ムラムラする。ここでシてしまおうかと思うんだが、どう思う先輩。個人的な意見としては、衆目の視線に晒されている方が羞恥心も増し、気持ち良くなれる筈だ」

 早田はちらちらと一を見る。相手にされなくて暇そうだった。

「先輩先輩、授業と講義の違いとは何だろう」

「……少なくとも、お前は学生じゃなく生徒で、講義じゃなく授業がお似合いだよ」

「あははっ、良く分からないけど褒められた」

「うん、お前はそのままでいてくれれば良いと思う」

 講師がちらちらとこちらを見ている。一は咄嗟に視線を逸らした。

「先輩は昼休み、ゼミ室に行くのか?」

「そうするつもり。メシは買ってあるし」

「ならば私もお供しよう」

 一は露骨に嫌そうな顔をする。早田は歯を見せて笑った。

「楽しみだなあ、先輩とご飯。先輩のご飯。先輩をご飯。先輩をオカズに」

「なあ、お前病院で診てもらえよ」

「私は健康優良児だぞ。ところで人間ドッグってエロく聞こえないだろうか」

「ドッグじゃなくてドックな」そろそろ講義も終わる。今日は何事もなく終わってくれるだろうか。一はぼんやりと考えた。



 教室を出た一と早田は並んで歩く。彼はゼミ室までの距離を妙に遠く感じていた。

「先輩、コンビニに寄りたいのだが」

「行ってこいよ」

「一緒に行こう」

 一は無言で首を振る。

「一人で行けよ」

「私は、先輩と一緒にイキたいのだ!」

「お、楯列じゃん。よう、お前もゼミんトコで食うのか?」

 声を掛けると、前を歩いていた男が立ち止まった。人波が少しだけ割れて、そこに取り残された彼は振り返り、整った顔立ちを一に向ける。

「やあ、一君。今日も素敵だね。うん、君がそうするなら、僕もそうしようかな」

「じゃあ、俺は違うところで食べるわ」

「何故だ先輩っ!?」

「いや、どっちか片方だけならまだ我慢出来るけど、両方ってなると……」

 早田は楯列を睨みつけて中指を立てた。

「消えろ、ぶっとばされんうちにな」

「それ負けフラグだからな」

「ふっ、早田君は首から上も鍛えているようで何よりだよ。じゃ、行こうか一君。彼女は家に帰るそうだから」

 楯列が一の肩に手を置こうとする。瞬間、早田が楯列に飛び蹴りを放った。こめかみに衝撃を喰らった彼は宙に浮いて吹き飛び、冷たく、固い床に頭を打ちつける。その光景を見ていた他の学生はそそくさとその場を立ち去るが、中には携帯電話で写真を撮っている者もいた。

「顔は写すなよ……ピースしてんじゃねえ早田! ただでさえ馬鹿なのに余計に馬鹿に思われるぞ」

「恥辱の極みだ」

「嬉しそうに言うな。おい楯列起きろよ、服に皺が寄るぞ」

「それは困るね」楯列は何事もなかったかのように立ち上がり、ゼミ室に向かって歩き始めた。

「……頑丈な奴だ」

「一言で済ませるにはどうかと思うがな。今の蹴り、私は奴を殺す気で放ったのだ」

「その台詞もどうかと思うけどな」



 九十九のゼミ室は昼休みでも、講義中であっても開放されている。学生たちはそこへ自由に出入り出来るのだ。尤も、九十九ゼミの学生は一、楯列、早田の三人しかいない。彼らには教室の鍵が貸与されている。

「……開いてる」

 だが、今日は様子が違った。一はドアノブをゆっくりと回す。早田に視線を遣ると、彼女も不思議そうに首を傾げた。

「先生ではないのか?」

 閉まっている筈の鍵が開いている。自分たちではないとすると、中にいるのは九十九本人しかないだろう。早田は部屋の中を覗き込もうとした。が、一は彼女を押し留める。

「いや、先生は来ない。図書館……あ、いや、ちゃんと確認してきたからな」

「小言を聞かされるのが嫌なら毎日学校に来れば良いんだよ。その方が僕も嬉しい」

「うるせえな。……つー訳で、ここには今、九十九ゼミの人間じゃあない奴がいる」

「実際に確かめてみれば良いではないか」

『あ、もしもしー?』

 三人は顔を見合わせた。部屋の中から、妙に高く、甘い女の声がする。

『うん、うん、えー? マジで? はああ、何それありえねー』

「一人ではないのか?」

「電話で誰かと話しているんだと思うよ。けど、九十九先生ではないね」

 そりゃそうだろと一は楯列を見遣った。

「若い女だな。もしかして、新しいゼミ生ではないか」

「聞いてねえぞ、そんなの」

『そんなメンドイならブッチしちゃえば良いんじゃん? つーか、バイトなんかテキトーで。そそそ、テキトーテキトー、社員と違ってやる気なんかあるワケないじゃんねー。働いて欲しいならもっと時給上げろっつーの』

 一は溜め息を吐く。

「一生掛かっても友達になれなさそうな子だな」

「自慢ではないが、私はただでさえ友達を作るのが下手なのだ。正直、気まずいぞ」

「お前でも、気まずいとか思う事があるんだな」一は素直に感心した。

「僕も同じだよ。……だけど、聞き覚えのある声のような、そんな気がする」

 楯列は腰に手を当てる。ううんと、難しそうに唸った。

「……違うところで食うか」

「しかし、今から学食と言うのは。もう殆ど席は埋まっているだろう。無論、先輩がやれと言うなら、席の一つや二つ奪い取ってみせるが」

「どちらにせよ、いずれは対面しなきゃならないんだ。一君、覚悟を決めようじゃないか」

 言いつつ、楯列はドアノブに手を掛け、一息に回した。

「ん?」

 室内にいた者が、一たちの存在に気付く。

「なっ……! てめえ……」

「あー、何か、ちょっとウザい事なりそうだから切るねー。うん、ごめんごめん、またねー……っと」

 携帯電話をちゃぶ台に置くと、彼女は大儀そうに顔を上げた。

「どうしてここにいやがる!?」

 一は靴を脱ぎ、畳の上をずかずかと進む。彼に指差された少女はやれやれと言った風に息を吐いた。

 少女は黒い着物に身を包んでいる。襟や袖口にフリルの付いた、少し変わったものであった。

「おお、槐ちゃんではないか」

 少女の名は槐。彼女は人間ではない。座敷童子と呼ばれる、ソレである。

「久しいな、早紀」

「俺の質問に答えろやオカッパ」

 槐は一を見上げると、わざとらしく顔を背けた。早田と楯列は畳の上に座り込む。一だけが突っ立ったままだった。

「埃が立つ。座らんか、一」

「……どうやってここに入った?」

 鞄を置き、一はその場にどっかりと座り込む。

「目くじらを立てんでも良いではないか。ほれ、これで扉を開けたのじゃ」

 槐は着物の袖口から鍵を取り出した。それは、九十九ゼミに在籍する学生に貸し出されるものであった。

「そうかー、槐ちゃんも大学生になったんだなー」

 一は無言で楯列を睨みつける。

「やだなあ、僕は何もしていないよ」

「構内はともかく、ここは部外者立ち入り禁止だぞ」

「何もしていないって。ただ、鍵をどこかで落としたかもしれないなあ」

「ほら見ろ。……おい、さっさと帰れよ」

「…………何故じゃ?」

 そうだぞと、早田が槐を抱き抱えた。

「以前にも、槐ちゃんを連れてきた事があったではないか。その時は先輩、何も言わなかった筈だ」

「前はな。でも、ここは違うだろ。後で怒られたらどうすんだよ」

 楯列はなるほどと笑う。

「そっちが本音だね。そう言えば、最近は前の方で講義を受けるよね、一君」

「ふん、小さい男じゃ。点数を稼ごうとしているのが見え見えで、見てるこっちが痛い」

「あーあー、うっせえうっせえ」

 鞄からビニール袋を取り出して、一は菓子パンの包みを開いた。

「知らないぞ、先生が来ても」

「来ないと言ったのは先輩だろう」

 三方から攻撃を受けてふて腐れた一は、無言でパンを齧る。

「ところで槐ちゃん、今日はどうしたのだ?」

「うむ、暇だから遊びに来た」早田の膝の上で、槐はどこか誇らしげに言った。

「だってさ」

「どうして俺に言うんだよ。つーか、暇ならお前が潰してやれよ」

 一がそう言うと、楯列は驚いたように目を見開く。

「そうだね。うん、そうだ」

「そうだっつーの」

「ところで一よ、お主、それだけで足りるのか?」

 槐に尋ねられて、一は鬱陶しそうに目を瞑った。

「ここには食堂もあると聞いておる。そちらの方が、こう、がっつりと食べられるのではないのか?」

「その通りだよ。けどな」一は早田と楯列を見遣ってから、深く息を吐く。

「変人に見られるのに、俺は慣れちゃいないんだ」

「はっはっは、どうしてそこで僕たちを見るんだろうね」

「うむ、先輩は時々良く分からない事をする」

 二人は顔を見合わせて笑った。こういう時だけはやけに息が合っている。

「一人で行けば良いではないか」

「無理矢理ついてくんだから仕方がねえだろ。……母親面かよ、ったくよう」

「そう思うのはお主が子供だからじゃ。心に疚しい事がなければ……」

「早田、お茶淹れてくれよ」

「了解した」

 早田は立ち上がるが、槐は彼女の袖を引いた。

「茶ぐらい自分で淹れぬか。早紀を小間使いのように扱うな」

「私としては、むしろ豚のように扱ってくれて構わない」一は無視する。

「じゃあお前がやってくれよ」

「どうしてわしが……お主の嫁でもないのにそのような事を」

「じゃあもう嫁に来いよ」

 一はごろりと寝転がった。

「あほう」言いつつも、槐は立ち上がってお茶を淹れる準備を始めた。

「果報者だなあ、一君は」

「どこが」

「ああ、そうじゃ。忘れるところだった。実はケーキを買ってきておる。食べたい者はおるか?」

 全員が手を上げる。一は槐に背を向けたまま、ではあったが。

「では男衆、ケーキに合うような飲み物を買って来い」

「ああ? 茶ぁ淹れてんだからそれで良いじゃねえかよ。つーか、先に言ってくれよ」

「ええい、つべこべと。行かんとやらんぞ。早紀と二人で分ける」

 一は至極面倒くさそうに腰を上げる。楯列は楽しそうにしていた。

「紅茶で良いよな?」

「先輩が買ってくるものなら唾だろうと何だろうと!」

「どこで売ってんだよ、んなもん。槐は? それで良いよな?」

「うむ。ああ、一、お主は茶も飲めよ? わしが淹れてやるんじゃからな。心して飲むと良い」

「ありがたく頂戴しますよ」

 手を振り、靴を履いて一はゼミ室を出て行く。楯列は彼の背中を追いかけるようにして部屋を出た。



「シキョー?」

 初めて聞いた言葉に、ジェーンは小首を傾げた。

『ああ、そうだ。四凶』電話口から漏れるのは店長の声である。

『虎に似た体、人の頭、猪のように長い牙、長い尻尾。ほぼ間違いなく、檮杌(とうこつ)だな』

 ジェーンは改めてソレの死体を見遣った。確かに特徴は合致している。店長が自信満々に断言し、ナナも間違いないと太鼓判を押していた。つまり、自分たちが倒したのは四凶のトウコツと呼ばれる怪物なのだろう。

「で、シキョーのトーコツって?」

『……説明を求めるならナナに頼む。一度、情報部と連絡を取ってみるから、また後で掛けてくれ』

 通話が切れ、携帯電話をポケットに戻す。会話の内容が聞こえていたのだろうか、ナナはにこやかに微笑んでいた。

「ご説明、致しましょうか?」

「ノーセンキューって言ってもするんでしょ。ご勝手に」

「それでは、お店までの道すがら」

 ナナはこほんと、咳払いをして喉の調子を確かめる、ような仕草をする。

「四凶とは、古代中国の舜帝によって四方に流された、四柱の悪神なのです」

「へえ、チャイナの」

「トウコツとは、四凶、その内の一体を指します。特徴としては、先ほど店長がおっしゃっていた事が挙げられます。加えて、難訓という別名もありますね」

「ボールはフレンド?」

「それは南葛です」

「グワァラゴワガキーン?」

「それは明訓です」

「ちっちゃくなっちゃった!」

「それは南くんです」

 どれも違いますと、ナナは眼鏡の位置を直した。

「教え難い、と言う意味です。トウコツは尊大で頑固な性格をしています。好き勝手に暴れ回り、戦う時は退却するのを知らずに、死ぬまで戦う、と。そのような性質を持っていますから」

「さっきはガン逃げだったけど?」

「ええと…………ああ、ジェーンさん。私、大変な事に気が付いてしまいました。四凶というからには、残り三匹の怪物がこの街にいるかもしれません」

 ジェーンは、急に話を逸らしたナナを一瞥する。

「どうカシラ?」

 肩を竦めて、ジェーンは小さく笑った。

「ジェーンさん、携帯、震えていますよ」

「……耳、イイのね」ジェーンは携帯電話を取り出し、不審そうに眉をひそめた。

「ボスからだわ。ちょっと、ごめん。……ハーイ、ナニかしら?」

 一瞬、間を置いて。

『お前ら、店には戻らなくて良いぞ』

「Fire!?」

『Noだ。ソレが出た。いや、出ていたと言うべきか。四凶はきっちり出現していたらしい。つまり、あと三匹。仕事はまだ終わっていない』

 ジェーンはがっくりと肩を落とした。

「お兄ちゃんと遊びたかったのに……」

『ああ、遊べるかもしれんぞ』

「どーいうコト?」

『三匹の内、二匹は駒台大学で目撃されたらしい』



 ゼミ室を出て、一と楯列は同時に溜め息を吐き出した。

「……珍しい。何か憂鬱な事でもあったのか?」

「……僕にだって、失敗したなあと思う事だってあるさ」

 楯列は先に歩き始める。一は彼の後ろを追いかけた。

「迷惑だったかい?」

「槐の事か?」

 一は、楯列の顔を見ない。

「寂しがっていたからね」

 楯列も、一の顔を見ていない。

「件の旅館からこっちに来たのは良いけれど、最近の槐君は殆ど部屋に引きこもっていてね。これじゃあ、昔と変わらない」

「昔? 東北の旅館にいた頃か?」

「いや、それよりも前、楯列の家にいた頃さ。今じゃ、槐君を囲おうとする者はいなくなったけど」

 一は何故か、楯列の発した言葉に寒気を覚えた。

「それでも、僕は……もっと、彼女には自由になってもらいたいんだよ。そう、幸せになって欲しい。そう言い換えても良いと思う。縛られず、囚われず、自由なのは、幸せって事だと思うからね」

「でもさ、あいつ、ちょこちょこ街で見掛けた気がするんだけど」

「僕が無理矢理に追い出すのさ。家にいたって、僕の家が栄えるだけだからね」

「良いじゃねえか。……なあ、槐、一晩くらい俺んちに泊まっていかないかな?」

 邪な笑みを浮かべる一をちらりと見遣って、楯列は苦笑する。

「君が言えば、二つ返事で了承するさ。でも、君はそうはしない。違う?」

「どうだかな。で、お前は鍵を置いていったって訳か」

「落としたのさ」

「あっそ。ま、切っ掛けくらいにゃなったんじゃねえの?」

「かもしれないね」二人は階段を下りて、角を曲がる。一ははたと足を止めた。

「何か今日さ、静かじゃねえか?」

 一に倣い、楯列も足を止める。彼は周りを見渡し、腕を組んだ。

「いつもよりは静かだね。ほら、君と僕の声しか聞こえない。素晴らしい幸福空間だ。いつまでもここでこうしていたいよ」

「何が幸福だ。そんな空間、ゲヘナと良い勝負だな。……ま、もうすぐ冬休みだし、サボりも多くなるわな」

「君はサボらないのかい?」

「サボれないの。もう出席の貯金は使い切っちまった」

 楯列は大仰な仕草で肩を竦める。

「君が毎日学校に来てくれるのなら、僕としては喜ばしいけれど。ふうん、でも、一時限目も人は少なかったかな。なるほど、僕たちは真面目だね」

 一は答えずに歩き出す。昼休みのコンビニは常ならば混雑している。買い物をするには好都合だった。



「遅い」槐に指を差されて、一はしかめっ面を作った。

「労えよババア」

 ちゃぶ台にビニール袋を置くと、一は槐の横に腰を下ろす。誰よりも先んじて、早田が袋に手を伸ばした。

「先輩は何が飲みたいんだ!? 私が死守しよう!」

「早田さん、全部同じのだから大人しくしててくださいね」

「うわあ先輩が冷たい!」

「何で笑顔なの?」

 早田はペットボトルの蓋を開けて、一の口元にそれを持っていく。

「先輩先輩、断れば口移しで飲ませるぞ」

「だあああ鬱陶しいなあ。槐、ケーキケーキ。こいつは何か口に入れたら黙るから」

「分かっておる。衛」

 楯列は小さく頷き、槐の持ってきたであろうケーキの箱をちゃぶ台の上に置く。彼は蓋を開けると、甘い香りに目を細めた。

「あ、皿どうするよ?」

「九十九先生のを借りようか。洗って返せば何も言わないよ、きっと」

 言って、楯列は戸棚から皿を取り出す。

「どーれーにーしーよーうーかーなー、あ、先輩の乳首を突いてしまったぞー」

「殺すぞ。ん、槐から選べよ」

「ふふ、気を遣わずとも、好きなものを選ぶと良い」

 一は立ち上がり、箱の中身に視線を落とす。邪魔だったので、早田の頭を退かした。

 苺が乗ったショートケーキ。モンブラン。チーズケーキ。ミルフィーユ。エクレア……。一は思わず顔を反らした。

「見てるだけで甘い。こんな買ってきても余っちまうだろ」

「お主が食べられなくても早紀とわしがおる」

「はいはい、甘いものは何とやらだな。うーん、どうしよっかなあ。なあ、ザッハトルテとかねえの?」

 見兼ねた槐がチーズケーキに手を伸ばす。

「あ、こら手で取んなよ」

「男がうじうじとするでない。ほれ、これなら甘くない筈じゃ」

 槐は皿の上にケーキを置いて指を口に含んだ。

「下品ですよお婆様」

「わしはババアではない」

「その一人称でババアじゃないってのはねえよ」

 早田は一の言葉に頷き、モンブランを丸ごと口の中に入れる。

「なら槐君、一君に気に入られる為にも一人称を変えてみてはどうだろう」

「私とかボクとかあたしとかアタシとかウチとかオレとかはナシな」

「何故、わしがキャラを変えんといかんのじゃ」

「つーかお前そのキャラ作ってんだろ。さっき電話ですげえ感じで喋ってたじゃん」

「ああ」と、槐は声を漏らす。彼女はショートケーキをフォークで突いた。

「つられてしまうんじゃ。地方に行けば、その土地の喋り方が移ったりするではないか。あれと同じじゃ」

 一はいまいち納得出来ていなかった。

「槐ちゃん槐ちゃん、わっちはどうだ?」

「うわもう食ったのかよお前。もう少し味わえよな」

「わっち! わっち! ありんす! ありんす!」

「むう、悪くないが、それは既に駄目な気がするぞ」

 早田は残念そうな顔をしてエクレアを頬張る。

「自分の名前はどうだい? 槐君なら『槐はー』みたいに」

「あ、それは駄目だ」一が遮った。

「何故じゃ?」

「ムカつくから」槐は憤った。

「どうしろと言うのじゃ、お主は」

 ケーキを平らげた一はちゃぶ台を指で叩く。

「まあ、自分を大事にするのが一番じゃないのか?」

「先輩はニコチンが足りなくなると受け答えが適当になる」

「ここで吸ったら九十九先生に殺されるかもしれないね」

「うん。そろそろ出るわ。次、講義あるし」

 一は立ち上がり、鞄を掴んだ。

「私も行こう。槐ちゃん、ケーキごちそうさま。とても美味しかった、次は私が何か持ってくるとしよう」

「じゃ、僕も」楯列が立ち上がろうとするのを、一は手で制した。

「後片付けは誰がするんだ?」

 三人は顔を見合わせる。三時限目が始まるまで、五分を切っていた。

「じゃんけんで決めよう。早田、俺はグーを出すからお前はチョキを出せ」

「断る。民主主義国家らしくエッチな事で決めようじゃないか」

「僕は乗ったよ」

「乗んなよ! 槐、お前が決めてくれ。俺たちがどれで! どのように! 決着をつけるのかを!」

 槐は携帯電話で時刻を確認し、一たちを追い払うように手を振った。

「わしがやっておく。お主らはごちゃごちゃとうるさくて敵わん。衛、鍵は後で返しておけば良いんじゃろ?」

「ううん、良いのかい? 講義が終わった後なら僕が……」

「学生の本分は勉強じゃ。ほれ、さっさと行かんか」

 急かされ、一たちはゼミ室を追い出される形で出て行く。扉を閉められ、彼らは槐に対して申し訳ないという気持ちを抱いた。

「まあ、先輩だけは内心ラッキーと思っているがな」

「色々と無視すんじゃねえよ。お前さ、最近やり口が汚くなってきたぞ」

「心配要らない。先輩の為に下の口は綺麗にしてある」

「おい楯列、明日からあいつの事無視しようぜ!」

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