DAMNATION
地を蹴り疾駆する。ジェーンは鉄塔へ、青髭へ、脇目も振らずに駆け出した。彼女が動いて、全員が行動を開始する。
「……どうやら、一先ずは狼の血に打ち勝ったようじゃな」
青髭は踊り場から、更に上へと進む。ヴラドは何も言わず、霧になってジェーンの方に向かった。
ジェーンよりも後方にいるモロクは、彼女を狙って火球を撃ち出す。だが、一が前に飛び出してそれを阻んだ。彼はソレの両腕を受け止める。歯を食い縛って、メドゥーサに命じた。
「行けえ!」
アイギスが輝き、モロクの動きが止まる。一は得物を畳み、ソレの鼻先を思い切り叩きつけた。それと同時に、メドゥーサの効果が切れる。彼は再びアイギスを広げると、ジェーンの進路を確認する。霧になったヴラドが見えて歯噛みした。
『またか……貴様、何をした?』
悪魔の右腕は地を叩き、左腕は炎を生み出す。一は距離を取ってアイギスを構えた。モロクは火球を放ち、自らもその後に続いた。
「『止まれぇぇ――――!』」
火球がアイギスに衝突し、形をなくす。モロクが静止している隙に、一はソレの後ろに回り込んだ。そのまま、傘の石突き部分をモロクの背中に突き立てる。
『ぐっ、おっ、お――――!』
モロクは自分が足止めする。限界を越えたって構わない。メドゥーサを酷使してでも、この場を死守する。そう決意した一は大きく口を開けた。
「何やってんだよ!? ジェーンに謝るんだろうが! 何とかしろよコヨーテ!」
今、ジェーンをヴラドから守れるのは彼しかいない。彼女の道を切り開いてやれるのは、コヨーテだけなのだ。
呼び掛けに応えるべく、コヨーテは吠える。一よりも後ろで休んでいた彼は、最後に残った力を振り絞った。スピードは落ちていたが、それでも射られた矢のようにまっすぐに走る。
「獣がっ」吐き捨てるようにヴラドは言った。彼は霧の変化を解き、踊り場から標的を定めようとする。ジェーンに向けて影の杭を飛ばしたが、遠間では当たる気がしなかった。彼女に続き、コヨーテまで近づいてきている。
ジェーンはリボルバーを抜いている。狭い踊り場で立ち止まれば狙い撃ちにされるだろう。そう考えたヴラドは、地面から杭を生やしながら霧に姿を変える。地上に降り立ち、今度は十を超える串を放った。だが、そのどれもが空を切る。
「差し違えるか勤務外!」
ヴラドは前方に杭を伸ばす。銃撃を防ぐ為の盾としてだ。彼の視界は自らの影によって塞がれる。しかし、ジェーンがどこから来て、どこに向かうのかは分かっていた。何故なら、階段に通じる空間は自分が支配しているからだ。ここを抜かない限り、彼女は青髭には辿り着けないのである。
「そこか」
影の杭に守られたヴラドは乾いた音を聞く。アスファルトを蹴り、自分目がけて飛んでくるモノを認識したのだ。そこに向かって杭を投擲する。だが、彼は一驚を喫した。そこにいたのはジェーンではなく、コヨーテだったのだ。
「何故貴様が!?」
我が身を守ろうなどと考えたのを叱責するよりも先、視界を確保しようとして影を解く。コヨーテに向けて追加の杭を放ったと同時、ヴラドはジェーンの姿を認めた。彼女は階段には向かわず、鉄塔の方へと駆けて、落ちていたものを拾い上げる。
ジェーンが拾ったのは、ジャネットが持っていた旗の一部だった。モロクの業火によって焼かれた彼女が遺した、唯一のものである。ジャネットが死の間際に取り落としたせいだろうか、直撃は免れたものの旗は焼け焦げてしまい、棒の部分は融けてしまい、半分程度にまで短くなっていた。
「正気かよ!?」
跳躍していたコヨーテは、放たれた杭に前足をかけ、その上を駆けていく。追撃として飛来していた影の杭を、更に高く飛び上がる事で回避に成功していた。彼はよそ見していたヴラドに爪を振り下ろす。ソレの頬に赤い線が走る。ヴラドは霧になって逃れようとしたが、コヨーテは哮る。
「体が……」コヨーテの声によって、ヴラドの変化は中途半端なものになっていた。体の一部分だけが霧になり、下肢部分は人間のままだったのである。
そこを、噛みつかれた。
コヨーテはヴラドの足へ必死に食らいつく。噛み千切ろうとして、頭を、首を何度も振っていた。
「ごっ、ぐううううううううう!?」
変化が上手くいかず、ヴラドは苦痛の声を上げる。ジェーンは青髭を睨みつけていた。彼女を遮るものは、今、何もない。誰もいない。覚悟を決めろと、ヴラドは霧状の右腕を影の杭に変化させる。それを、自分の下から突き出させた。
「ぐが、あああああああああああああ――――!」
察したのか、コヨーテはヴラドの足を諦めて飛び退いていた。ソレの腰に杭が突き刺さっているのが見えて、彼は嫌そうに呟いた。
「道連れにしようってのかよ……」ヴラドは答えられる状態ではない。彼は杭を戻して、途切れ途切れになる精神力を掻き集めた。霧になり、階段に向かおうとしていたジェーンへと迫る。
「待てっ」
追ってきたコヨーテを見られず、ヴラドはろくに狙いも定めないままで杭を飛ばした。が、コヨーテの体力が尽き掛けていたのもあって充分な牽制となったのだろう、彼の足は止まっていた。
ジェーンは銃を抜き、拾った旗をベルトに挟み込む。彼女は再び駆け出した。
その姿を、青髭は見ている。彼は階段を上りながらでレイピアを抜いた。彼女がここに辿り着くまでは時間が掛かる。ヴラドもジェーンを追い掛けており、一度だけの盾にはなる。それまでに魔導書の力を行使すれば、勤務外を全滅させられる筈だ。
だが、そうはならない事を青髭は察知する。
「狂ったか!?」
ジェーンは階段に向かわず、直接、塔へと向かっていた。そして青髭は分かっている。彼女が狂ったのではない事を。
「お前が、お前がっ……!」
速度は落ちない。ジェーンは止まらない。
ジェーンが靴を脱いだのは、早く走る為ではない。一に買ってもらった、お気に入りの靴を潰さない為だった。
彼女は跳躍し、鉄塔の鋼管に足を掛ける。そのまま、次の鋼管へと跳んだ。
青髭は瞠目する。ジェーンの足は人狼のそれに変化していたのだ。爪は長く伸びて、華奢だった彼女の足は逞しいものに変わっている。だが、そこ以外の部分に変わった様子は見られない。つまり、ジェーンは両足だけを人狼化させているのだ。
「血を支配しただと……」既にジェーンは瞳だけを変化させる事に成功している。だが、その時は彼女の精神状態が安定しており、変化させる箇所も小さかったからだ。月に狂えば狼の血が騒ぐ。一方で、極度の興奮状態にならなければ、人狼にはなれない。全身を変化させるには強い衝動が不可欠だ。だが、強過ぎれば肉体と精神が追いつかない。その為に、ジャネットの最期を見たジェーンは暴走し、人狼への変化に耐え切れず失神している。
では、今は何が起こっているのだ。
青髭は自らに問い掛ける。自分が処置を施した筈だった。ジェーン=ゴーウェストを人狼に成り果てさせた筈だった。彼女の能力は全て把握している、筈、だった。覆された状況に、彼の思考は追いつかないで、ぐるぐると廻り続けている。
跳ぶ。跳ぶ。跳ぶ。跳ぶ。青髭までの最短距離を駆け抜ける。ジェーンは銃口を向けて、片目を瞑った。
「けだものではなかったのかあ!?」
銃声が六つ。青髭へと銀の弾丸が迫っている。しかし、霧状の影が追いついていた。彼の盾になろうとして、ヴラドが変化を解く。両腕を広げて、全ての銃弾を受け止める。既に、その身はぼろぼろだった。彼は、先に受けたジェーンの銃撃、コヨーテの攻撃、自らの杭によって、今にも息絶えてしまいそうな有様だった。そこに六発の銃撃を浴びて、
「……ほ、しかった」
落下していく。
「ほっ、ほう! ほっほ、ドラクリヤ、ヴラド・ドラクリヤよ! 良くやった、貴様はやりよったぞ!」
ジェーンは別の場所に飛び移った。ヴラドは塔の鋼管に全身をぶつけながら、地面に向かって落ちていく。もはや、霧や影に変化出来る状態ではなかった。
何かが潰れるような音がしたが、ジェーンはそちらに目を向けなかった。そして、リボルバーをホルスターに戻す。
「血に打ち勝ったのは褒めてやろう! じゃがな……」
青髭は続きを言えなかった。ジェーンは今までよりも高く跳び上がり、彼の眼前にいたのである。
「馬鹿な」ジェーンの腕は人狼化しており、その腕は太く、その爪は酷く、長かった。
今、戦いはどうなっているのか、一にはまるで掴めていなかった。彼はモロクを抑えるのに精一杯だったのである。
『人間よ』
「ああっ!?」
だから、モロクが攻撃を止め、腕を引いたのかが分からなかった。
モロクは一から少しだけ離れて、鉄塔を見上げる。彼もそれに倣ったが、誰が何をして、何が起こっているのかまでは見えなかった。と言うより、踊り場には誰もいないように見える。
『ここまでのようだ。我の召喚者は世界を焼けぬ定めにあったらしい』
「何言ってんだ……?」
一はこれ以上距離を取らず、アイギスを下ろした。
『最期まで奴に付き合う義理はない。過ぎた望みを持った報いだ』
「……な、お前……!」
炎が揺らめく。モロクの立つ地面がどす黒く染まっていく。一は数歩、後退りした。理解する。そこが、それが地獄の入り口なのか、と。
「……そう、か。帰ってくれんのか」
『人の世も中々に面白かった。また、来よう』
「ふざけんなよ、今度こそ世界を焼こうってのか?」
『否』
黒くなり、闇と炎で境界が判然としない地面に、モロクは沈んでいく。ソレの胸が消え、頭まで達した。
『次は物見に』
それだけ告げると、モロクは地面に頭まで浸かった。とぷんと、跳ねたような音がする。色は戻り、炎が消えて熱が失せる。一は恐る恐る、ソレのいた場所を足で踏んづけた。いつもと変わらない、アスファルトの感触しかなかった。
「……悪魔って」一は頭を掻く。
「マジなのかよ」
息を吐き、一はもう一度鉄塔を見上げた。モロクの言が確かなら、青髭は終わりらしい。恐らくはジェーンがやったのだろう。ここからでは何も見えない。彼はゆっくりと歩き始める。火照った体に、冷たい風が心地良かった。アイギスを畳み、鉄塔前に近づいていく。「え」一の足が止まった。思考が固まり、その場から逃れられなくなる。
「何、やってんだ……」
一が見たのは、鉄塔から落ちそうになっている青髭と、ジェーンだった。
奪われたから奪う。
殺されたから殺す。
因果応報の螺旋の中、月夜に狼が吠えた。ジェーンは青髭の腹部に腕を伸ばす。長く、鋭い爪が彼の肉を抉った。
ジェーンは階段の手摺りに着地し、その場で小さく跳ぶ。後ろ回し蹴りが青髭のこめかみを捉えた。よろけた彼は足を踏み外しそうになる。
「小娘ぇ……!」
追撃を免れようとして、青髭はレイピアを突き出した。必死で手摺りを掴み、落ちそうになる体を支えた。ジェーンは鋼管に飛び移り、新たなチャンスを待つ。
「お、おお、よくも、よくもやりおったな」青髭は階段を上り始めた。激昂し、興奮した様子の彼はまともにものを考えられないでいる。
ヴラドは青髭を庇って死に、モロクは青髭を見限って帰った。既に趨勢は決している。青髭もまた、奪われ、殺されたのだ。
「何も、聞かないから」
「黙れぃ!」
「ジャネットと同じトコには行かせないっ」
「ぬうう、来るなっ、来るなあ!」
ジェーンは踊り場に飛び込み、青髭を追った。彼は後ろを振り返りながら、ほうほうの体で階段を上る。しかし、最後の踊り場に追い詰められてしまった。
青髭がレイピアをジェーンに向けて、突く。彼女は狭い場所にも関わらず、臆せず地を蹴った。鈍い音がして足場が揺れる。ジェーンは一瞬で彼の懐に入り込み、心臓を狙って腕を振り上げた。肉を叩き、貫く感触。彼女は眉根を寄せる。
「……お、おお」
青髭の体がよろめき、彼の背中が手摺りにぶつかった。ジェーンは腕を戻す。彼女の爪には何かが刺さっていた。
「……グリモワール」
舌打ちする。青髭が魔導書、『ルルイエ異本』を懐に忍ばせていたので、ジェーンの攻撃は心臓まで届かず、致命傷には至らなかったのだ。
「お前はあ、わしから奪うのかあ……」
背を向けた青髭は、手摺りを飛び越えて、鉄塔部分の不安定な鉄筋に乗る。ジェーンから逃れようとしているのか、ふらふらと歩いていく。その先に、逃げ場などないというのに。
「あああっ!」
一も二もない。ジェーンは青髭の後を追い掛ける。待ち望んだ結末を、もう少しで手繰り寄せられるのだ。彼女は銃を抜こうとして、一瞬躊躇う。一種の恐慌に陥りながらも、青髭はジェーンの逡巡を見抜いた。
「く、かかっ、ば、馬鹿め。所詮、獣。弾の残りも数えられなかったか」
ジェーンはまた一歩、足を踏みだす。青髭は後ろに下がろうとするが、背に冷たく、固いものがぶつかった。
「No way outね」
「わしを殺すか? やってみると良い」
レイピアを向けられて、ジェーンは薄く笑う。彼女は狭い足場をものともせずに駆けた。左腕を振り上げる。青髭は得物を突き出した。ジェーンは右腕でレイピアの軌道を反らして、弾く。胸を狙った一撃だが、彼に読まれていたのだろう。青髭は腕で防御していた。肉が割れ、傷口からは止め処なく血が溢れている。青髭は笑った。
「このわしが捨て身とは」青髭はジェーンの左腕を掴む。そのまま、彼は体勢を崩した。上半身が支えを失い、空を目指す。
ジェーンは逃れようとするが、青髭の力は存外強かった。彼は自ら落ちようとする。がくんと、彼女の体が揺れた。腹這いになり、低く呻く。
「ほ、ほほう! わしとて『円卓』の端くれよ! 魔導書を失ったが、獣一匹道連れに出来んでどうする!?」
追い詰められたと判断した青髭は、最初からこうなるのを狙っていた。ジェーンが銃を使わないのではなく、使えないと知った。自分を殺す為に、彼女は近づく必要があった。捕まえればこちらのものだとほくそえむ。が、もはやこれまで。彼は既に生を諦めている。
「はなせっ」
「一人では逝かんぞ!」
ジェーンの抵抗を鬱陶しく感じた青髭は、第三の腕を出す事に決めた。彼はぶら下がった状態から、ジェーンに向けて腹を見せようとする。彼女はその行動を奇異に感じたが、左腕が掴まれて、右腕も彼には届きそうになかった。
「落ちろ、落ちろっ」
「ふほっ、嫌がらずとも! わしと共に往こうではないかあ」
「落ちろ!」
ジェーンの右腕が、あるものに触れた。旗、である。先は尖っており、刺さると痛そうだった。彼女はそれを握ろうとする。しかし、
「――――アッ」力が弛んでしまった。ジェーンは浮遊感を覚える。下を見ると、醜悪な笑みが目に入った。
死ぬかもしれない。
そう思った瞬間、ジェーンは決意する。ここで青髭と落ち、共に死んでしまうのなら、それよりも先に殺してやろうと考えたのだ。
青髭が腹から腕を伸ばそうとする。ジェーンは自ら、中空に体を踊らせた。
「潔いぞ!」
生憎だが、このまま落ちてやるつもりはない。ジェーンは旗を抜き取り、青髭の腹に、
「……おお?」
突き刺し、入れた。
「がっ、は……!」
青髭は血を吐く。ひしゃげた鉄の棒が肉を貫き、内臓を傷めていく。彼女にとっては幸運な事に、突き刺した箇所は第三の腕が生える筈の部分だった。
「これまでか、あ……」
力が抜けていく。青髭はジェーンの腕を離そうとはしなかったが、体は命令を聞かなかった。ゆっくりと、二人の距離が遠くなる。
ジェーンは目を瞑った。浮遊感はとっくに消失している。後はもう、落ちるだけだ。重力には逆らえない。運命には抗えない。彼女は手を伸ばす。月が遠くなり、気が遠くなる。ジェーンの手を掴んでくれる者は、どこにもいなかった。
何が出来る。何をすれば良い。
自問しながら一は駆ける。鉄塔前に近づくと、コヨーテが向こうから歩いてくるのが見えた。彼は一の顔を確認するなり、助けてくれと叫ぶ。あの子を救ってくれと必死に吠える。
「お前は無事だな!?」
「ミーは! 嬢ちゃんを、頼む! 頼むからっ」
立ち止まらずに走り抜けた。一は惨状を目にする。死体の損傷度合から見て、ヴラドは塔の上から落ちて死んだらしい。
――――ジェーンも、ああなるのか?
最悪の想像、最低の結果を振り払おうとする。一はようやく立ち止まり、顔を上げた。
「あ、あ……」
膝をつく。もう、間に合わないと悟った。知らずに涙が零れる。
何が出来る。何をすれば良い。
何も出来ない。どうする事も出来ない。
無意味だ。あまりにも無駄過ぎる。何の為に、自分は生きている。何の為に、ここに来たのだ。ジェーンの全てを奪った青髭。彼を殺そうと、一度は覚悟を決めた筈だった。そう、一度は。一はジャネットと出会い、揺らいでしまったのである。そして、全てを押しつけた。『妹』に何もかもを押しつけて、自分は何もしなかった。悔やんでも悔やんでも、悔やみ切れない。出来うるなら、自分を殺してやりたかった。彼に出来るのは、名前を叫ぶ事だけである。その声は一種無常に、周囲に響き渡った。
真っ白だった世界に色が戻る。
薄れかかった意識が急速に覚醒していく。
手を伸ばす。
落ちながら空を掴み、逆さまになりながらも何かを求める。
まだ、死ぬ訳にはいかなかった。諦める事も選べなかった。何と無様で、見苦しいのだろう。分かっていた。それでも彼女は手を伸ばす。
「あっ、アア……!」
彼が叫んでいた。
彼が吠えていた。
彼が今にも泣きだしそうな声を上げていた。
彼が、自分の名前を呼んでいた。
「アアアァァアア――――!」
血よ騒げ。月夜に狂え。呪われた力だろうと関係ない。もう一度、会いたかった。顔を見たい。声を聞きたい。わがままを言って困らせた事を謝りたい。その為なら、悪魔に魂を売ったって構わない。
右腕が熱く、燃え上がるようだった。咆哮が天を穿つ。ジェーン=ゴーウェストが腕を伸ばす。銀の弾丸は、まだ勢いを失い切っていない。届け届けと声を荒げる。体を揺らし、彼女は鋼管に爪を立てた。落下速度が僅かに緩み、次の鋼管に爪を、腕を伸ばす。
掴んだ。認識した瞬間、彼女の体躯が大きく軋む。右腕が砕けそうだと錯覚した。離すものかと歯を食い縛る。近くなった地面を見下ろすと、意識が朦朧とし始めた。左腕を突き出し、両手で命を繋ぐ。ジェーンは踊り場に向かって、雲梯の要領でゆっくりと移動を始めた。
「あ、ああ……ジェーン……」強い力に引き寄せられる。無事、足のつく場所に辿り着けたのかどうかは分からない。ただ、暖かいものに包み込まれているのは分かった。
「お兄ちゃん……?」
「良かった……良かった……!」
啜り泣いているのは誰だろう。自分か、それとも一か。
ジェーンには分からない。一に抱き締められているのに気付いて、彼女は初めて生きているのを実感する。
「ごめん、ごめんなあ、俺、何も……!」
一の涙で服が濡れていた。ジェーンの頬は緩んでしまう。
「何も出来なかったっ、お前を、助けられなかった!」
「アタシ、生きてるんだね」
「あの子を見殺しにしたんだ! お前の友達、だったのに!」
「……生きてる」そっと、手を伸ばす。ジェーンは一の頭を撫でてやった。自分も泣いているのに気付いて、彼女は息を漏らす。
「生きてる、よ?」
ジャネットは死んだ。だけど、自分は生きている。一は泣き止まなかった。
「ごめ、ごめんっ、俺は……!」
「も、いいから。お兄ちゃんは悪くない」
「…………俺は、お前を諦めたんだ。分かってたのに、動けなかった」
泣くのを堪えようとしているのか、一はジェーンを強く抱き締める。彼女は抵抗せずに、受け入れようと思った。
「でも、呼んでくれた」
力を抜いていく。待ち焦がれていたものが、こんなにも近くにあって、ジェーンは夢を見ているのかと、気が狂いそうになった。
「お兄ちゃんの声が聞こえたカラ、がんばれた」
「そんな、そんなので」
「……アタシ、ガキで、ごめんなさい。でも、好きなの。いっぱい甘えたかったの」
「う、あっ……馬鹿。馬鹿だなあ。駄目な兄ちゃんで、ごめんな。本当は、本当はもっと俺が、しっかりしなきゃいけないのに……!」
最初からこうしていれば良かった。素直に言いたい事を言って、気持ちを伝えていれば良かった。喧嘩も下手で、仲直りにも時間が掛かる。自分たちは駄目なヤツだと、ジェーンは小さく笑った。
「お兄ちゃんの妹で、いいんだよね? お兄ちゃんって呼んでもいいんだよね?」
一は言葉に詰まり、必死で頷く。
ジェーンは自分の腕を見つめた。狼の血が混じった、人外のそれを。
「アタシね、これでよかったと思う。イヤなコトいっぱいある。けど、お兄ちゃんがいてくれるんなら、こうなってもよかったって……」
もう、血に屈する事はない。力に負けるような真似もしない。この身に流れるモノと向き合い続ける。そうしていつか、胸を張れるようになろう。彼女にがっかりされないように生きていこう。彼に相応しい自分になろう。そう、ジェーンは誓う。神にではない。天使にではない。誰よりも誇らしい、自分に。
「ちょっと、ねむい」
「……ああ、後は任せて」
「……お兄ちゃん、おんぶ」
「ああ、分かった。ジェーン、お休み」
一はジェーンを背負い、ゆっくりと階段を下りていく。彼はアイギスを強く、強く握り締めていた。
階段を下り切ると、一は足を止める。まだ、全ては終わっていないのだ。
「よう、生きてんだろ」
一は青髭を見据えている。返事はない。だが、彼は僅かに身動ぎした。
「……ぐっ、ぎ……」
「『円卓』について話す気はあるか? 今回の事、謝る気はあるか? 俺の妹に何か言う事はあるか?」
青髭は手を伸ばそうとしている。その先には何もない。救いも、助けも。ただ、鮮血が広がっているだけだ。
「……ないよな」一は足を踏みだす。
「わ、しを……」一は足を止める。
「たすけ、ろ。……ひ、わしが、死ねば、むすめは、死ぬまでそのままだ……」
一は青髭の腹に突き刺さっているものを認めた。
「も……どせるのは、わっ、わし……わしだけじゃあ……」
「端っからさ、お前が死んでも、お前が奪ったもんは戻ってこなかったんだよな」
「わし、わしが……」
「だからせめて、そこで、そのままでいてくれ」
一はアイギスを地面に投げる。ジェーンを片手で支えて、彼女のホルスターから抜いておいた銃を構えた。