MEMENTO
落ちていく。
堕ちていく。
聖女と呼ばれた存在が、まっさかさまに地面へと。体中は穴だらけ。服は血塗れ。汚されて、彼女は生を終えた。
青髭は声を荒らげた。ジャネットの存在が許せなかった。戦闘の最中も、死んでからも、自分を苛める彼女を。だから、彼はモロクに命じる。
「おっ、おお! モロクっ、焼けいっ、跡形もなくあやつを!」
モロクは一たちに放とうとしていた火球を見遣ってから、無造作にそれを投げた。
落ちていく。
堕ちていく。
ジャネットが踊り場から突き落とされて、地面へと。彼女が落とされる寸前、一には見えていた。ジャネットは抵抗しなかったのである。分かっているような、諦めているかのような、そんな風に、彼女は殺された。
殺された。
一にとっては、それだけだった。無論、辛い。勿論、悲しい。圧し掛かる死、しかしまだ、耐え切れる。だが、彼女は違うだろう。ジェーンにとって、ジャネットの死はもっと重い。
『――――行けば辛い目に遭うのに』
気付いてしまう。一は思わず口に手を当てた。声にならない声が、彼のそこから漏れていく。ジャネットはきっと知っていたのだ。自分の最期を。全て分かっていて、ジェーンを行かせまいとしたのだ。
「あ、く、見るなっ、見るなああああっ!」
一はあらん限りに声を振り絞った。だが、無駄である。ジェーンは固まったかのように動かない。一点を見つめて、声すら出せなかった。彼女は銃を落として、膝から崩れていく。
業火が飛ぶ。ジャネットの死体を目掛けて。雲間から月輪が現れる。銀色の光が下界を照らす。
「……間に合わねえか」コヨーテは諦めて頭を振った。
轟音の後、赤光が破裂する。ジェーンは目を瞑りたくなかった。せめて、ジャネットが消えてしまうまでは我慢しようと思ったのである。視界に明滅する地獄の炎が、この世全てを焼いていくような気がした。焼いてくれと、強く望んだ。
白く染まる視界。頭の中が真っ白になり、ジェーンは本能のままに叫んだ。否、吠えた。我が身を焦がさんばかりの怒りが体内を駆け巡る。ここから出せと、青髭への憎悪が奥底で暴れ始めていた。月と業火に照らされた彼女の横顔は、獣のそれと変わらない。溢れ出す思いを隠さずに、低く唸る。逆流する感情が臓腑を突き抜けて喉から飛び出る。音が消える。世界が消える。視力と聴力が強くなり過ぎて、一瞬、何も聞こえなくなる。ジェーンは自身の声すら聞こえなかった。
だが、変化は既に始まっている。
ジェーンの瞳は血走り、ぎらつく。肉体に異常を感じて、脳が警告を訴える。それを無視して、彼女は高らかに叫んだ。
そして、ジェーンの意識はぶつりと途切れた。
モロクの炎が消失した後も、一は暫くの間ものを考えることが出来なかった。コヨーテの指示に従い、ソレの攻撃を防いでいただけである。
「おいっ、おい! ヘイっ、ボーイ! 聞いてるのか!?」
吠えるコヨーテをうるさく思った時、一の意識はおぼろげながらも帰ってきた。
「……ああ、聞いてる」
「だったら前を見てろっ」
アイギスに衝撃が伝わる。一は自らの得物を握り締めた。モロクは鼻を鳴らして腕を戻す。火球が見えたが、それはコヨーテが掻き消した。
一は辺りを見回す。鉄塔前の人数が減っているのに気付き、彼はコヨーテに尋ねた。
「ヴラドはどこ行った?」
「聞いてないじゃないか。奴なら、青髭の守りについてる。ミーたちの敵はモロクだけさ」
今のところはねと付け足し、コヨーテは身を低くする。
「『広場』の嬢ちゃんが死んだのは分かってるな?」
一は頷き掛けたが、苦しそうに目を瞑った。
ジャネットは死んだ。それは決して覆せない事実である。彼女は青髭に殺され、その死体をモロクに焼かれたのだ。一も、その時の光景をしっかりと見ていた。思い出して、今度こそ頷く。
「だったら、嬢ちゃんが気ぃ失ったのも分かってるな」
ジェーンは、一たちとは遠く離れた場所に倒れていた。一にとっては、ヴラドが青髭の近くに移動したのが唯一の救いだった。
「……どうして、倒れちまったんだよ」
敵からは目を逸らさないまま、一は口を開く。
「多分、ショックがでか過ぎたんだ。あの光と音の中、ミーだけは嬢ちゃんの声を聞いてた」
俯き、コヨーテは躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「とてもじゃないが言い表せない。そんぐらいの感情が、嬢ちゃんから放たれてたよ」
「また、暴走したってのか」
「前回の比じゃないかもしれないぜ。……あの子、友達だったんだろ」
出会ってからの時間は関係ないのだろう。確かに、ジャネットはジェーンの友人だった。一は小さく首を振る。だが、彼女の死を悼む暇もない。もはや、戦えるのは自分たちだけなのだ。コヨーテと共にどこまでやれるか。
「どこまで、生きられるかって話だよな」乾いた笑いが一から漏れる。
モロクが前進する。ソレは拳を作り、凄まじい速度で振り抜いた。受け切れないと判断した一は頭を低くして地面に倒れ込む。音が止んだのを合図に、振り向かないで走った。だが、背中に強い熱を感じる。
「シールド出しなっ」
コヨーテが一の背後に回り込む。一はアイギスを突き出すようにした。炎がぶつかり、火の粉を散らしながら掻き消えていく。
「走れ走れ!」
「どうすんだよっ、畜生!」
体力は底を突き掛けていた。メドゥーサの発動も無限ではない。使えば使うほど限界が早くなる。一の頼みの綱はコヨーテだけだった。
「頼むぜリトルボーイ」
「あ?」
「ミーはもう限界だ。いや、まさか潰されるとは思ってなかったぜ。アレで余計な力を使っちまった。だからさ、頼む」
「……あ?」
信じられなくて、一はコヨーテを二度見する。目が合って、互いが同じような表情を浮かべた。
「なっ、ふざ、ふざけんじゃねえぞ!?」
「ミーたちしかいないんだぞっ」
走り回っていた一たちだが、炎に足止めを喰らって、遂にモロクに捕まってしまう。
一はアイギスでモロクの両腕を受け止めたが、コヨーテは舌をだらりと伸ばしている。疲弊した体では攻め切れないと考えたのだろう。だが、彼が行かなければ誰も行かない。一は無為に力を消費している事になる。何も考えられないで逃げ回る。素晴らしいアイデアなど、何一つ浮かばなかった。
「くそっ、くそ! 畜生が!」
叫んでも状況は変わらない。
「どうしろってんだよ!?」
泣いても形勢は替わらない。
そうする事で、また無駄な体力を使ってしまうだけだった。
握力が弱まるのが分かる。一は必死で歯を食い縛った。モロクは力を込めていく。ソレは笑みを浮かべた。彼は今更になって恐怖を覚える。手を離したくて、離せば死んでしまうのが目に見えていて、吐き気を催した。
コヨーテが吠える。彼は無理をしてモロクに襲い掛かった。腕に食らいついたが、ソレは決して力を緩めない。
『絶念しろ、人間!』
モロクは咆哮し、払い除けるようにしてアイギスを弾き飛ばした。その際、コヨーテも飛ばされてしまう。彼はアスファルトに体を擦られて高く鳴いた。盾を失った一は、泣き笑いのような表情を張りつける。ソレが一を見下ろす。恐怖が聳え立っていた。足が震えて、彼は小さく口を開ける。何を言おうとしたのか、それは誰にも分からなかった。
モロクに吹き飛ばされたコヨーテは四肢に力を送ろうとした。だが、どうしても動かない。体は言う事を聞いてくれない。どこかが駄目になっているのかもしれない。それでも、自分が立ち上がらなければ、一は殺されてしまうだろう。彼が死ねば、次は自分が死ぬ。自分が死ねば、最後に死ぬのは?
「……う、がっ……」
それだけは止める。たとえ自分が死のうとも、あるいは一が殺されようとも、彼女がそうなる事だけは避けたかった。
「……こんな、時に」羽音が聞こえる。どこからか、ハトが飛んで来ているらしかった。
この場には似つかわしくない音を聞き、コヨーテは薄っすらとした笑みを浮かべる。少し、力が戻ったような気がしていた。慌ただしい音が近づき、彼は顔だけを上げる。予想していた通り、ハトが飛んでいるのが見えた。だが、鳥たちはやけに低い位置を飛んでいる。それも一羽だけではない。縦一列に並んだ八羽の白いハトが、コヨーテの頭上を擦り抜けていった。
白いハトは縦列を保ったまま速度を上げる。地面すれすれの位置から舞い上がり、宙で旋回して、
「何の、冗談だってんだ」
モロクへと向かった。
信じられないモノを見て、コヨーテは息を呑む。ハトたちがどこから現れたのか。何故、ソレに向かっているのか。何一つ分からないまま、彼は鳥たちの行動を見つめている。
『ぐっ、おお!?』
モロクは自らの肉体に炎を纏わせている。しかし、ハトは一羽たりとも動じた様子を見せず、羽根の一枚だって燃えていなかった。八羽の白ハトはソレの視界を遮るように羽ばたき、残っている目玉に嘴を突き立てようとしている。
「……んだ、こりゃ」
一は尻餅をついていた。そのまま、彼はゆっくりと後退りする。まさか、鳥に助けられるとは思ってもいなかったのだ。
「死んだのか、俺は」アイギスを拾って、よろよろとしながらも立ち上がる。ハトはまだ、モロクの周りを飛び続けていた。
「いいや、どうやらここはゲヘナじゃあないらしい」
「無事だったかよ役立たず」
「そっちこそ平気かよ、腰抜け」
「……今の内に体勢整える」
八羽いたハト、その内の一羽が場を抜ける。高く上昇し、ハトは、倒れているジェーンの傍に降り立った。
モロクは両腕を振り回してハトを退けようとする。だが、鳥たちは纏わりついて離れない。諦めたソレは、逃げようとしていた一たちに目を向ける。
「あ、くそっ。整える暇もないってか」
「来るぞリトルボーイっ」
――――パパ、ママ。今日、友達が死にました。ついさっき、友達が殺されました。
ぼんやりとした意識。浮かび上がるのは彼女の、ジャネットの最期だった。彼女は死体になった後も、炎に焼かれて灰にされた。あまりにも、あまりにも酷い終わりではないか。
ジェーンは目を開けようとする。だが、幾ら目を凝らしても見えるのは一面の闇だった。一筋の光すら差し込まない、完全な暗黒である。彼女は諦めて、瞼を閉じた。
強い怒りと憎しみが今も体を支配していた。青髭も、ヴラドも、モロクも。思いつくモノ全てを八つ裂きにしてやりたかった。
――――パパ、ママ。生んでくれてありがとう。ごめんなさい。
友達だった。
ジャネットとは出会ったばかりで、互いの事を良く知らなかった。思い出だって皆無に等しい。会話の内容は今だって覚えている。それだけ、触れ合っていた時間が少なかったのだ。第三者に問われれば、答えに窮してしまうかもしれない。本当に友達だった? 二人の関係を崩すには、その一言で充分なのかもしれない。
「ジャネット……」
呼び掛けても答えはない。
探しても、もう見えない。
それでも、ジェーンは呼び続けた。怯えながらも目を開けて、彼女の姿を探し続けた。
伝えたかった。
たった一言、伝えたい。
他の誰が何を言ったとしても関係ない。
自分たちは、
「ジャネット、アタシたちは」
「友達」
友達で、
「楽しかった」
「うん」
話すのが楽しくて、嬉しくて、
「会えて、良かった」
「ん、えへへ」
出会えて良かったと、伝えたかった。
聞こえない筈の声が聞こえて、見えない筈の姿が見えて、ジェーンは大袈裟に笑ってしまう。きっと自分はおかしくなっていて、ここは夢幻か地獄なのだと思い込んだ。
「言葉にするのって恥ずかしい」
幻だと分かっていても、ジャネットの息遣いを感じてしまう。
「でも、それよりも怖い。友達だよねって聞くのは怖いの」
「そう、カシラ」
「だって、初めてだから」
ジャネットは照れ臭そうに笑った。ジェーンの目から涙が零れる。落ちた滴は、どこかに消えていった。
「私、初めて許されたの。今まで頑張ってたから、神様がご褒美をくれたのかも」
「……ねえ、話したいコト、いっぱいあるの」
「私も」
「一緒に行きたい場所とか、やりたいコトとか……いっぱい、いっぱい……」
「私も」
ジェーンは縋るようにジャネットを見つめる。
「だって、会ったばかりじゃナイ」
「……ごめんね。私じゃ、もう駄目なの」
「そんなっ、そんなコト! アタシはっ、アタシはっ」
困ったように笑むと、ジャネットはマフラーで口を覆い隠した。
「大事にしてくれる人も、対等に見てくれる人も、すぐ傍にいるから」
ここはどこだろう。本物か偽物か分からないままだった。なのに涙が止まらない。
「ジェーンは可愛いから、キュートな笑顔で挨拶するの。そしたら」
「聞きたくない! どうして、どうしてそんな、まるで、バイバイって言うみたいに……」
「……だって、私はもう」
「やめて――――!」
ジェーンは耳を押さえて、何もかもを拒むように首を振った。
「どうして!? どうしてアタシがっ、アタシたちが!」
「目、開けよう」
「なんでいつもこんな目にあうの!? アタシが何をしたの!? 何もしてないのにっ、なんでよ、なんでよ!」
「大丈夫だから」
「会えたのに! これからだったのに! 何も、まだ何もっ」
ジャネットはしゃがみ込み、ジェーンの肩に、そっと手を置いた。
「……ごめんね。私と出会わなければ、私が、声を掛けちゃったから」
「ちがうっ、ちがうちがうちがう! 悪いのはジャネットじゃないもん、悪いのは全部っ、全部!」
「ん、ジェーンは強いから、大丈夫。さ、目を開けて」
しゃくり上げながらも、ジェーンは恐る恐る目を開けた。そこは相変わらず真っ暗で、ジャネット以外には何も見えない。
「……何も、ナイよ」
「ちゃんと目を開けて? そしたら、変わるから」
「何、が」問い掛けに対して、ジャネットは首を振るだけだった。
「ほら、行かなきゃ」
ジャネットは指を差す。その先には道しるべすらない。彼女は闇を示している。
「お兄さん、好きなんでしょ? 私たちも、そろそろ行かなきゃ駄目だから」
「ね、ねえ、何を言ってるの……?」
「ここから先がどうなるのかは私にも分からない。自分で探して、見つけなきゃ」
ジャネットはゆっくりとした足取りで歩きだす。ジェーンは彼女を追い掛けた。しかし、その差は一向に縮まらない。むしろ離れていく一方だった。
「ね、ジェーン」立ち止まらず、振り返らず、ジャネットは問う。
「私たち、友達だったのかな?」
「……っ、う、うう……!」
ジェーンは涙を堪えようとした。歯を食い縛って、必死で足を動かした。
「だった、じゃ、ない……」ジャネットの背中が遠くなる。
「アタシたちはっ、ずっと、ずっと! これから先も、死ぬまで――――」
ありがとう、と。そう聞こえた気がした。見えなくても分かる。彼女はきっと、笑っているのだ。
フロアでの仕事を片付けたナナは、鼻歌交じりでバックルームに戻った。店長は嫌そうに顔をしかめる。
「手が空いたので、お話でもしましょう」
「…………嫌だ」
ナナは不満そうに頬を膨らませた。どういうメカニズムなのだろうかと、店長は彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。
「もう仕事は終わってしまいましたので」
「ナナ、仕事とは与えられるものじゃない。自分で探すものだ」
「ですから探してもないのです。よいしょ」言って、ナナはパイプ椅子に腰掛けた。
「ジャンヌ・ダルクの最期についてお話しましょうか」
「私の話を聞け!」
ナナは楽しそうに目を細める。
「何をお話してくれるのですか?」
店長は紫煙を吐き出した。それだけの存在になろうと決めた。
「……話をするのも嫌。話を聞くのも嫌、ですか。では、私もマスターのところへ行ってもよろしいでしょうか」
「なっ、お前まさか、私を脅しているつもりなのか……」
「まさか」眼鏡の位置を指で押し上げると、ナナは柔和な笑みを浮かべる。
暫くの間、沈黙が場を支配していた。長い長い静寂の後、店長はうな垂れる。
「好きにしろ」
「ジャンヌ・ダルクはですね」
ナナが椅子から立ち上がった。
「ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑にされました。火刑というのはですね、中世ヨーロッパのキリスト教的世界では最も厳しい処罰だったのです」
「ふーん、熱いからか?」
気のない返事をものともせず、ナナは水を得た魚のように活き活きとし始める。
「火刑自体も残酷ですが、それよりも重要なのは死体が灰になってしまう事でしょうね。当時の埋葬方法は土葬が基本で、キリスト教のカトリックならば、誰もが死後には土葬を望んだそうです」
「最後の審判か」
ナナは小さく頷く。
「おっしゃる通りです。遺体が燃やされて灰になってしまえば、最後の審判の際に復活すべき体がなくなってしまいますからね」
「宗教的だな。……一が嫌いそうだ」
「何か?」
「何も」
店長は短くなった煙草を灰皿に押しつけて、新しい煙草を取り出すかどうか迷った。
「話を続けますね。火刑は肉体的だけではなく、精神的な絶望感すら与える一石二鳥な処刑方法だった訳です」
「ジャンヌ・ダルクはそうして死んでいった訳だな」店長は話をまとめようとする。
「燃やされたジャンヌ、亡骸の灰は、セーヌ川に流されたそうです。灰すらも残さず、決して土に返さないという処遇においても、彼女が受けた刑罰は、当時としては最も苛烈なものだったのですね」
やれやれとでも言いたげに、ナナは椅子に座り直した。店長はほっと息を吐く。
「そう言えば、店長は映画を見たそうですね」
「ん、ああ、見たぞ」
「内容は、史実に沿ったものでしたか?」
店長は腕を組み、くるくると椅子を回転させた。やがて、ぴたりと、その動きが止まる。
「どうだかな。私はジャンヌ・ダルクについて明るい訳でもない。まあ、お前に聞いた話と似たようなものだったよ」
「白いハトになりましたか?」
「……ハト?」
「火刑の際、群衆の中の一人が見たそうです。火炎の中から飛び立つ、白いハトを」
映画の内容を思い出そうとするが、店長はううんと唸るしか出来なかった。
「そのハトが、ジャンヌ・ダルクだと言いたいのか?」
「彼女の魂だと、そういう話もどこかであったそうです。……史実に、そのような記述はありませんでしたけれど」
「史実が真実を語るとは限らん。何を信じるのか、自分で考えるんだな」
「私はマスターを信じています」
「今は関係ないだろう」
言いつつ、店長は苦笑する。
「ただ、私が見た映画はな、ジャンヌ・ダルクをただの少女として描いていたよ」
店長は迷った末、新しい煙草に火を点けた。
「何の恨みがあったのか、ジャンヌの行動を間違ったものとしていた。彼女は神の使いではないと、そういう風に」
「監督がジャンヌ・ダルクを信じていなかったのでは?」
「だから、お前も好きにしろ」
「信じるか、信じないか、ですか」
ジャンヌが神の声を聞けたのかどうか。彼女は本当に神の使いだったのか。ナナには分からない。だが、それで良いのだと思った。
「信じます」
「そうか」
「そっちの方が浪漫があると思いますから。って、マスターも言いそうです」
「さて」店長は煙を吐き出していく。
「どうだかな」
寒い。背中が冷たい。頬が冷たい。風が吹いている。寝返りを打つと、誰かが叫ぶのが聞こえた。やけに瞼が重くて、体はだるかった。ジェーンはそのままの状態で自分の体を確かめる。気を失う前は人狼になりかけていたが、今は何ともなかった。
「…………どう、なってるのかな」
意識が戻ると記憶も戻る。鉄塔前に目を向けると、ジャネットの最期が脳裏に浮かび上がってきた。彼女が焼かれた、その跡がありありと残っている。そっと、頬に指を這わせる。冷たいと感じていたのは、涙が乾いていたからだった。
戦いは終わっていない。この世界はまだ焼かれていない。ジャネットがいなくなった後も、地球は回り続ける。自分たちは生き続ける。
「……アタシの」
目覚める前に見たものは夢だったのだろうか。あの声も、息遣いも、笑顔も、全て幻だったのだろうか。……行かなくてはならないと、ジェーンは思った。手探りで銃を探す。中々見つからなくて、彼女は顔を上げた。月下、自分は薄汚れている。考える事は山ほどあった。
――――だけど。
すべき事は、たった一つだけだった。
「おおお――――!」
一はモロクの攻撃を受け止めていた。だが、彼が攻撃に転じる事はない。
冷たく、震える指が固いものに触れる。ジェーンはそれを掲げた。反撃の狼煙を上げたくて、これがラストチャンスだと決意する。
故郷を、家族を、友人を、多くを奪われてきた。これ以上大切なものを失いたくない。これ以上、やらせてたまるものか。引き金を引くと、銃声が高らかに響き渡る。天に向かって放たれた弾丸の行く先は見えなかった。
『……地獄に戻るか』モロクが呟く。
ジェーンはホルスターに銃を戻すと、ゆっくり立ち上がった。彼女は靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ捨てた。裸足になると、ジェーンは一を見遣る。それだけで、全てが通じ、伝わったのだと分かった。
白いハトはいつの間にかいなくなっていた。コヨーテは一の後ろに隠れながら、辺りを見回す。さっきまでの光景が嘘のようで、自分たちがどこで何をしているのかが怪しくなる。現状の認識があやふやになり、地に足がついているのか不安になった。
「……このままじゃまずいぜ」
一は答えない。彼もまた、先のハトについて何か考えているらしかった。だが、モロクは火球を放ち、時には拳を振り上げて、一たちの思考を粉砕する。
「おおお――――!」
メドゥーサは残り何回使えるのか。アイギスで後、何度防げるのか。少なくなった力、どこで使いきれば良いのか。せめて切っ掛けがあれば。危うい糸口で構わない。一は息を吐き出す。
――――俺は誰を。何を待ってるんだ。
その疑問に至った時、一発の銃声が轟き、この場を支配する。一は呼ばれたような気がして振り向いた。立ち上がり、裸足になったジェーンがいる。視線がぶつかり、彼は瞠目した。彼女は鉄塔に顔を向ける。もう、一からは興味を失ったようだった。
自分が何を守っていたのか、誰を待っていたのか、何をすべきなのか、一は即座に理解する。彼は、飛来する火球をアイギスで受け、払った。