MIGHTY BLOW
鉄塔に備え付けられた階段を上るジャネットを見て、一は思った。最初からそうしろ、と。
「ありゃ、何だ?」
「……ミーにはさっぱりだけど、あの嬢ちゃん、何か見えてたみたいだな」
「何かって、何だよ?」
コヨーテは首を横に振る。
「さてね。けど、まずは目的達成ってところか」
「あの子、青髭を殺してくれるのかな」
「ん? 何だって?」
「何でもない」と言い切り、一はヴラドと、モロクに目を向けた。ジャネットは青髭に辿り着いたが、自分たちは、まだだ。彼らを倒さない限り、前には進めないのだろう。
ジェーンは頭に手を遣り、困ったように笑う。
「何笑ってんだよ」いつの間にか傍にいた彼女に、一はぶっきら棒な口を利いた。
「笑ってナイ。それより、あのデビルはよろしく。アタシは……」
言い掛けるより先、ヴラドが影の杭を放った。一たちは左右に分かれて攻撃を避け、それぞれの標的に向かって走りだす。
一はアイギスを広げながらモロクに向かう。コヨーテは彼のすぐ後ろにつけていた。ソレは火球を飛ばすが、一が立ち止まって防ぐ。
「はっ、はぁ!」
コヨーテの前の地面が爆ぜた。彼はじぐざぐに走って的を散らす。モロクは近づいてきたコヨーテに対して拳を振るった。しかし、その攻撃は空振りに終わる。
「遅いぜノロマっ」
爪で切り裂こうとして、コヨーテは地を蹴った。モロクに飛び掛かるが、ソレは後ろに引いて躱す。着地したコヨーテはすぐさま反転、再び飛び掛かる。モロクは彼を払い除けようとして腕を振るったが、一が横合いから割り込んだ。凄まじい衝撃が彼の全身を突き抜ける。それでも一は踏み止まり、アイギスがソレの攻撃を受け止めている。
コヨーテがモロクの腕に噛み付いた。ソレは彼を振り解こうとして、むちゃくちゃに腕を回す。一はその隙に距離を取る。
コヨーテの牙がモロクから引き抜かれた。彼は宙で弧を描き、一の傍へ四つん這いになって降り立つ。
「慌てるなよ、まだ始まったばかりじゃないか」
「予定が押してる。野郎を招待した覚えはねえんだ」
「へえ? お茶会の席は埋まってるらしい。なら、ジャバウォックにはお帰り願おうじゃないか」
言うと、コヨーテは体を震わせる。
「失せな。半身だけでミーたちをやれると思わない方が良い」
『我を誰だと思っている。この体でも充分だ』
「名前を聞き出せ」一が囁き、コヨーテは我が意を得たとばかりに頷いた。彼は一よりも前に出て、口の端をつり上げる。
「はっは、低級の悪魔が吠えるなよ。こっちの世界は初めてかい? 緊張しなくても良いんだぜ」
軽口には答えず、モロクは掌に炎を集め始めた。コヨーテが吠えると、その炎は微かに震えて、散々になっていく。
「チープなライターだ。ユー、何のつもりだい」
『けだものめ。我を嘲るか』
「黙りなネームレス」鼻で笑うと、コヨーテはモロクを見据えた。
「いや、名前があったとしても聞きたくないね。安い名前なんだろ? 時間の無駄だぜ、そう思わないか、リトルボーイ」
一は何も言わない。だが、モロクを煽るように小さく笑っていた。
『哀れだな』
モロクは両腕を掲げる。その間から、新たな炎が生まれていく。熱気を感じて、一は後ろに下がった。
『格と差を弁えろ』
先刻よりも巨大な火球が現れる。それを消し去るのは無理だと悟ったのか、コヨーテは何もしなかった。
「頼むぜリトルボーイ」
「煽るだけ煽りやがって。あんなの、三森さんよりも……」
受け切れるか。いや、否はない。食らった時点で骨まで燃える。アイギスに託すしかなかった。
『我が名はモロク、その名、冥府の渡し守にでも聞かせてやると良い』
「そうかよ、ありがとう!」
放たれる。コヨーテが一の後ろに回り、一はアイギスを突き出した。
力がぶつかる。衝撃は大した事がなかった。問題なのは熱である。一は炎を受け、後方へと流すようにして動いた。長時間は耐えられない。
「おおっ……!」
地面に転がるようにしながら、一は火球を受け流す。顔だけを上げると、圧縮された炎が遥か後ろに消えていった。爆発音が聞こえたが、気にしない事にする。
そして、その隙にコヨーテが飛び掛かっていた。が、タイミングが早い。一はまだ、メドゥーサを発動していなかった。
『――――――――!』
異形の咆哮が耳をつんざく。何かが潰れる音がして、一は目を見開いた。モロクの腕がアスファルトを砕いている。コヨーテの姿はどこにもなかった。
「……なっ」否、あった。コヨーテは、モロクの腕とアスファルトの間にいる。押し潰されていたのだ。
「おっ、おあ、マジかよ! 何やってんだ!?」
呼び掛けても返答はない。ただ、攻撃から逃れる事の出来た、コヨーテの尻尾だけが風に揺らされている。一には、彼がどうなったのか、見なくても分かった。
目を瞑れば、いつでも思い出せる。それはいつだって鮮明だ。
まさか、この自分が夜襲を仕掛けられるとは思わなかった。油断していた、慢心していた。それでも、殺し続けてきた。地に這い蹲る姿は滑稽だろう。ヴラドは笑みを漏らした。
「……銀の弾丸か……」
そうでなくても、元は人間であっても、吸血鬼と呼ばれ、知られ、いつしかそれに近しい存在となった身に、銀製の武器は効果覿面だったらしい。ヴラドは土の上に転がる弾丸を見て、諦めたように目を瞑る。まだ、体には弾が残っていた。もう長くはない。血を吸う鬼、串刺し公と恐れられた竜の息子もここまでか。
ヴラドは口の端をつり上げる。ここまで? 違う。自分は既に生を終えていた。何の因果か、運命か。再び現世に呼び出されたに過ぎないのである。だから、二度目の終わりには恐怖を感じなかった。今の今まで好きにやってこれたのだから、ここで終わっても構わない。何も成し遂げてはおらず、気の向くままに血を求めただけだが、それでも良かった。
「ほう、あの娘を見掛けたと思えば。お主、難儀しておるようじゃなあ」
しわがれた声が耳に届いた。
「失礼するぞ。…………おうおう、随分と好き放題にされておるのう」
体をまさぐられ、不快感を覚える。しかし、ヴラドには抵抗する力が残っていなかった。
「……触れるな」
「瀕死の身で何を。しかし、面白い。影を操るとは」
一方的な戦闘を見られていたらしい。ヴラドは目を開ける。そこには、汚らしい顎髭を弄ぶ老人が立っていた。
「このままでは保たんな。しかし、わしに任せてみんか?」
「何、を」辛うじて口を利く。ヴラドは苦痛に耐えかねて目を瞑った。
「主の全てを」
どうせこのまま死に絶える。好きにしろと、ヴラドは呟いた。
「人狼よ、いつまで避け切れる!?」
放たれた杭を、ジェーンは身を屈めてやり過ごす。銃口を向けるが、ヴラドは霧状になっていた。一方的に攻撃されている。しかし、遮二無二撃っても当たらないものは当たらない。チャンスを待つのだと自分に言い聞かせ、彼女は的を散らす為に動き続けた。
雲が月を覆う。影は闇に紛れ、ジェーンは舌打ちした。魔は夜に動くものと分かってはいたのだが、これでは勝ち目などないに等しい。
「ふん、血を吸う趣味などないが、貴様のそれは酷く魅力的に思える」
「アンタなんかにやるもんかっ、アタシは……」言い掛けて、ジェーンは口をつぐむ。姿の見えないヴラドは小さく笑った。
「ならば奪うまで。そら、行くぞ」
霧が消える。瞬間、地面から杭が、中空からは串がジェーンを襲った。彼女は飛び退き、右に駆ける。串を回避しながらも、杭を狙って発砲した。しかし、走りながらでは照準が定まらない。
闇に身を潜めたヴラドは笑う。彼は絶対的に有利であると、自身の立場を理解していた。
「クールじゃ、ナイっ」
放った銃弾が杭を掠める。ヴラドは呻き、霧に姿を換えた。弾丸は地面に落ち、乾いた音を立てる。ジェーンはまだ諦めていない。諦められなかった。青髭はもう、目の前にいる。強い怒りと暗い憎しみが彼女を突き動かしていた。
「オマエは、ジャマ……!」
引き金、力を込めなくても良い。ただ、少しだけ。それだけで――――。
「おお……っ!」
「――――これは」
闇が、焼かれる。ジェーンたちからは離れた場所にいるモロクの両腕から、小さな太陽が生まれていた。
炎から発せられる強い輝きがヴラドの姿を暴いていた。が、ジェーンは気付いていなかった。彼女の瞳は一に対して向けられていたのである。彼は、モロクの放った巨大な火球を受け止めていた。
「おにい――――」
致命的な隙である。ヴラドは霧の変化を解き、地上に降り立つ。地面に手を当て、ジェーンを見据えた。
「屍を晒せ」
ヴラドの手が影を生み、生まれたそれは膨らんでいく。破裂寸前の風船を思わせるような影に、無数の穴が開き始めた。ジェーンは今更になって気付いたが、もう遅い。大量の杭が彼女に向かって飛来していたのである。声を上げる暇はなかった。
「あちらも、片がつくか」
ヴラドの目は、モロクに押し潰されたコヨーテを捉えていた。彼は次に、杭で作られた檻を見る。十を超える影の凶器がジェーンの姿を隠していた。逃げ場などない。
「……少し、疲れたか」雲の切れ間から月が顔を覗かせている。彼女がどうなったのかは、未だ月しか知らないのだろう。
それでも、ヴラドは雪辱を晴らしたであろうと、そう確信していた。
踊り場に陣取る青髭と、そこに上ろうとするジャネットとの戦闘は一時の膠着状態に陥っていた。
一対一の戦いでは地形も勝敗に関わる。一般的には、高い場所にいる者が有利だ。青髭もそれを分かっていてジャネットを阻んでいた。彼の武器はレイピアであり、振り下ろすように、間断なく突きを繰り返していた。青髭は老体とは思えない体力と膂力を持っている。戦いが始まってから数分、彼はまだ息を切らしていないのである。だが、青髭は一度も攻撃を当てられていない。
ジャネットは踊り場よりも、幾らか下の段に踏み止まっていた。狭い空間では払いや、切るようには得物を使えない。彼女は突きを軸に攻撃を組み立てていた。青髭の刺突を避け、時には受けながら自分の攻めを押しつけようとしている。しかし、攻勢に転じた瞬間に青髭は引くのだ。そこを狙って踏み込もうとすれば、再び突きが襲ってくる。彼は実に老練だった。虚実を織り交ぜて、ジャネットを巧みに翻弄していく。
「……どこかで」青髭が呟く。彼はレイピアを引き、ジャネットを見つめた。彼女は不思議そうに彼を見上げる。
「わしは、会ったか?」
「私と?」
「むう……」顎髭を擦りながら、青髭は難しそうに唸った。彼は、隙を作ろうとした訳ではない。リズムを変えようと思ったのでもない。ただ、気になった。ジャネットを、青髭はどこかで見たような気がしている。
「まあ、良い。それよりも当たらん。老いたとはいったものの」
ジャネットは今の内に打ち込もうか迷ったが、ゆっくりと腕を下ろした。
「私も当たらない」
「これでは受けれんからな」
細いレイピアで受けようとしても棒に折られるか、砕かれるのが関の山だろう。互いが互いを認め始めていた。が、いつかは当たる。いつかは終わる。どちらかは必ずここで死ぬ。
「『広場』。わしを狙うのは誰の差し金じゃ。オンリーワンか? あるいは……」
「神様。神様が、あなたを殺せと言った」
「建前はいらぬ。わしが知りたいのは真実よ」
「皆、言ってなかった?」
皆とは、ジャネット以外の『広場』を指している。青髭は彼らの発言を、彼らの末期を覚えていた。
「声が聞こえた、だからわしを殺すのだと抜かしおった。死ぬまで叫んでおったわ、おりもせん神の名を」
「いるよ」
「いやせんよ。もし、もしもおったなら、あんな事には」
「あんな事?」
青髭は目を見開く。自分が何を口走ったのかが分からなかったのだ。あんな事とは、何か。自分ですら分からない事を、何故、口にしたのか。
「……いじり過ぎたか……?」
腹を押さえ、青髭は頭を振った。
青髭の常人離れした力は、自らの肉体を弄んだ事による副産物である。彼は悪魔の召喚だけでなく、様々な事に興味を持ち続けた。少女を人狼に変える事であり、人間はどこまで肉体を刻まれても生きていられるのかであり、吸血鬼を強靱な存在に変える事であり、非人道的であり、愚劣極まる所業であった。人体をいじくり回す。その対象が自らに及んだだけの話だと、青髭は思っている。
「は、話は終わりじゃ。神がおるなら証明してみせい」
「……? 勿論」
「ほっほ、吠えよる。じゃが、あやつらは終わったようじゃなあ」
青髭が一歩退き、空間を作る。踊り場からも、ジャネットの立つ場所からも、それは見えていた。モロクがコヨーテを潰し、ヴラドがジェーンを貫いたのも、何もかもが見えていた。
「今からなら、お友達に追いつくかもしれんなあ?」
「それはおかしい」ジャネットは旗を持ち直す。
「ジェーンたちの死を、神様は教えてくれてないから。だから、まだ大丈夫」
「……わしが言うのもどうかとは思うがな、狂っておるぞ」
「そう言われるのは慣れてる」
予備動作もなく、ジャネットは旗の先端を突き出した。青髭は左腕でそれを防ぐ。
「神に狂うか小娘っ」
「神様が狂えと言うなら」
旗が弾かれた瞬間、ジャネットは跳躍し、踊り場に着地した。
思考しろ。この状況を脱する為に考えろ。言い聞かせるが、どうしても無理だった。そこから目が離せない。モロクの腕に押し潰されたものから、離れてくれない。
「ど……して」
『吠えるのは獣の特権か。人間よ、次は誰の番だ。答えてみろ』
モロクの目が一に向く。濁り切ったそれからは、感情を読み取れない。ただ、殺すモノなのだと分かって、一の体は震えた。
「てめえ、よくも……」
『着飾れ。虚勢を張るのは貴様らの特権だろう』
ゆっくりと、モロクは両腕を動かす。ソレは頭上に腕を掲げた。露になったのは、平べったくなったコヨーテである。一は視線を逸らした。
逸らしてから、一は違和感を覚えた。コヨーテの死に様が、何か引っ掛かる。
『精々、逃げ惑え』
炎が生まれていく。圧縮されて、球の形を成していく。だが、一はそっちを見ていなかった。コヨーテは押し潰されている。それは間違いなかった。彼は確かに、モロクの攻撃を受けてしまったのである。しかし、あまりにも妙だった。平べったくなったコヨーテは、分かりやす過ぎる。コミックのような、滑稽な姿だった。肉が潰された訳でもない、骨が砕けてひしゃげた訳でもない。血液、その一滴すら見当たらなかった。一はもっと、グロテスクな光景を想像していたのである。
「おい。おいおい、まさか」
絨毯のような姿になったコヨーテの尻尾が動く。風が吹き、ぺらぺらになった彼は宙に舞い上がった。そこでようやくモロクも気付いたのだろう。コヨーテの口から、舌が伸びていた事に。だらりと突き出されたそれは、見る者を馬鹿にしているようだった。
「おあつらえ向きじゃないか」
『……何?』
コヨーテの口が動いている。一は驚いたが、それよりも先に呆れてしまっていた。
「ビーフと炎だぜ、あんた。はっ、そりゃ食ってくれって事なのかい? 用意が良いな」
ひらひらと空を泳ぐ。コヨーテは大きく口を開けると、腹いっぱいに空気を飲み込んだ。彼が空気を飲み込み続けると、風船のように体が膨らんでいく。まずは手足。次に腹。最後に顔が元の形に戻り、地面に降り立った。体を大きく震わせると、コヨーテは毛並みを確認する。
「おっと済まないな、前よりも男前になっちまった」
何事もなかった風にコヨーテは笑い飛ばした。
「……どうなってんだお前。ギャグ漫画か?」
「ワイリーなミーなら造作もない事さ。何たって、ミーはトリックスターだからね。怪物の腹ん中にいた時だってあるし、さっきみたいになるのは茶飯事さ。ああ、何ならその辺の石を金にだって変えられるぜ?」
「漫画だ……」
「さてと、こっちの番だっけ。覚悟は良いかな、モロク君」
コヨーテが口の端をつり上げる。一は納得がいかない様子だったが、アイギスを構えた。
『燃やし尽くすしかないようだな』
「やってみろよ『モロク、止まって見えるぜ』」
メドゥーサが声を発する。一の内から漏れたそれは、彼の耳にしか届かなかった。アイギスは光輝を帯び、驚異を感じたモロクが腕を伸ばす。しかし、遅い。蛇姫の力は既に発動している。コヨーテは地を蹴り、爪を立てて飛び掛かった。宙を舞い、ソレの左目に己の得物を突き立てる。
「何秒保つんだっ!?」
「もう動いてる!」
モロクが伸ばした腕は空を切っていた。コヨーテは爪を引き抜き、ソレの眼球は地面に零れる。
『――――おっ、オオオっ!?』
コヨーテはモロクの頭に上り、ソレの右耳を食い千切った。これ以上は無理だと判断し、そこから飛び降りて一の後ろまで下がる。
『ガアア――――!? 貴様らっ、何を! 我に傷を!?』
「おーおー、怒ってやがる。コヨーテさんよ、謝った方が良いんじゃねえの?」
「こっちはディナーまで決めてるんだぜ。そう簡単には引き下がれないさ」
「食うのかよ、あいつ」
「しかしゲテモノだな」
コヨーテは噛み千切ったモロクの耳を吐き捨てる。
「グルメだねえ」
一はアイギスを構え直した。反撃は成った。既に立場は変わっている。今からは、自分たちが攻める番なのだ。
コヨーテが復活し、モロクがダメージを受けたのを、ヴラドはその目で確認していた。何か良くない事が起こっている。彼はジェーンの死を改めようとして、杭を数本、影に戻した。そして我が目を疑う。
「馬鹿な、何故……」
「あら、どうかしたの? 顔色が悪いわよ」
ジェーンは死んでいない。彼女は杭に背中を預けて、片足を影の柱に乗せていた。掠り傷一つ負っていない。それどころか、余裕の笑みすら浮かべている。
「ゴーストでも見たって顔してるわ。おっかしい」
「……アレを避けたと言うのか。馬鹿な、人間業では……」
「ええ、頼っちゃったから」
ジェーンはヴラドをじっと見つめる。それで彼は気付いた。瞳が違う。彼女の目は先程のものとは明らかに変わっていた。
「そうか、狼の……!」
弾かれたように、ヴラドは空を見上げた。雲の切れ間、月が、僅かに姿を見せている。
ジェーンは笑みを深めた。勝ち誇ったそれではなく、自らを嘲け笑っていたのである。彼女が危機を乗り越えられたのは、人狼の力を行使したからだ。与えられた、呪いにも等しいそれである。皮肉だと、ジェーンは顔から笑みを消した。
「前は無理だったケド、今なら使える。クールになればこんなものよ」
ジェーンは肉体の一部だけを狼のそれに変化させていたのである。満月の晩、身体能力は向上していたが、人間の範疇は越えられない。ヴラドの攻撃を一目見て、獣の勘と本能に頼った。急激に高まった視力と反射神経によって、飛来した杭を全て回避したのである。しかし、間一髪でもあった。月が出ていなければ、人狼には変身出来なかったからだ。
「God's dispensationってヤツかしら」
「ぐっ……」ヴラドが動こうとする。それよりも早く、ジェーンはリボルバーを抜いていた。発砲音が六発。銀の弾丸は吸血鬼の体に命中していた。右足、右肩、右腕の三ヶ所に二発ずつ、である。彼女は僅かに首を傾げた。
「外されちゃったカシラ」
そう言って、ジェーンは杭の檻から抜け出す。弾を込め直しながらも、ヴラドから視線を外さない。
「ぐっ、うおお……また、これを受けるとは……っ!」
ヴラドは霧になろうとするが、負傷した箇所は上手く変化させられないようだった。装填の終わったジェーンは彼に銃口を向ける。この距離で、この状態で外すほど愚かでも、腕がない訳でもない。まずは血を吸う鬼を滅ぼす。そう決めて、彼女は指を――――。
「ほらね」
ジャネットは勝ち誇ったように告げた。青髭は少しだけ悔しそうに、短く唸る。
「私より先に、皆が死ぬ事はない」
「言いよるわ。では娘、お前から逝くと良い」
突きを繰り出す。旗が翻り、レイピアは空を切る。空を切ったレイピアが鉄の棒に弾かれそうになる。突き、受ける。受けて、突く。避け、突く。突き、避ける。突く。突く。突く。
踊り場でステップを踏むようにして、ジャネットは身を反らした。立ち止まらず、狭い空間で動き続ける。青髭は動かず、彼女の攻撃を受け流し続けた。どちらも一撃が通らない。一発が遠い。精神を磨耗しながら、互いの魂を削るようにしていた。
「むうっ」青髭のレイピアが弾かれる。衝撃に揺らされて、彼の両腕は不自由になった。その隙を衝いて、ジャネットが得物を振り被る。頭部を狙ったその一撃、通れば『円卓』の肩書きも何も関係ない。砕けて、その中身を撒き散らすだけだ。
だが、
「――――そう」
青髭は、旗を掴んでいる。両腕は使えない筈にも関わらずだ。ジャネットは驚いた様子も見せずに、呟く。全てを悟り切ったような表情だった。
「これを使うとはなあ」
形容し難い、異形の何かが青髭の腹部から伸びている。それは腕のようにも見えた。第三の腕が、彼の腹から生えている。青髭はその腕でジャネットの武器を受け止めていたのだ。
ジャネットはあがこうとしない。そこから動こうともしなかった。踊り場から眼下の光景を見下ろしている。一とコヨーテがモロクを、ジェーンがヴラドにダメージを与えていた。ジャネットは目を瞑る。神に、天使に言われていた。知っていた。だから、この結末は恐ろしく――――。
「……ジェーン」
――――なかった、筈だった。
ジャネットは知ってしまった。切っ掛けとしては神に与えられ、天使に教えられたのかもしれない。しかし、実際に自分自身で見、触れ、知ってしまったのである。『広場』として戦いに身を置く事だけではなかった。ラ・ピュセルとしてのあり方を貫くだけではなかった。もっと、違った生き方も出来た。ジェーンが変えてしまった。全てを投げ捨てて、彼女と笑い合えるような、そんな生活を送れたのではないか。
「ごめんね」
苦痛が、ジャネットの身を焼く。青髭はレイピアを引き戻して、彼女の両肩を突き刺した。次いで、深く、腹に刺し込んでいく。臓腑を抉られ、内部を掻き回されて、ジャネットは血を吐き出した。
「ほっ、神に謝るにしては随分と馴れ馴れしい」
青髭は手を止めない。ジャネットの全身を隈なく突いていく。傷口からは血が溢れ、彼女はがっくりとうな垂れた。ジャネットは何も言わなかった。声を発さなかった。痛いとも、苦しいとも、何も。
「仲間のように神の名を叫べ。後はもう、祈るしか出来ないじゃろう」
「……ふ、ふふ」
ジャネットは自分の最期を知っていた。どこで、どのように死ぬのかも見えていた。ここで死ぬのだと神に命じられ、天使に告げられていたから、理解していたのである。そして、微笑む。青髭が得物を引き抜くと、彼女はよたよたとしながらも手すりに捕まった。辛うじて顔を上げると、ジェーンが何か叫んでいるのが見える。彼女の顔を見られて良かったと、最後の最後に、そう思った。神様でもない。天使でもない。ジェーン=ゴーウェストと出会えて良かったと、そう思った。
「だい、じょ……ジェーンに、なら……」
仰いだ空は、暗い。厚い雲が自分たちを包んでいるようにも見える。それでも、僅かに月が覗いている。あれが、ジェーンたちを導く光になるのだと、そう願って、ジャネットは、
「さよ、なら」
青髭に突き落とされた。