アラクノフォビア
「さみぃ」
誰に言うでもなく、
「だりぃ」
別に意味はなく、
「たりぃ」
独り言を呟きながら、真っ暗な駒台の街を三森が歩く。
黒が支配する世界で、三森のトレードマークとも言える赤いジャージと、短めの金髪がその色を浮かび上がらせている。
三森が、指の腹と腹を擦り合わせて、火柱を作る。
火を生み出す。
それが、勤務外店員の、三森の力だった。
その火の中へ、口に銜えている煙草を浸す。ジジ、と音を立て、点火。煙が上へ昇っていく。その煙を眺めながら、三森が息を吐き出した。
電信柱にもたれながら、三森は目を遣る。その目は、確実にそれを捉えていた。しかし、三森はそこから動く気が無いかのように、やる気なく突っ立っている。
その目が捕らえたのは、ソレ。
自分たちの住む駒台を、好きなだけ、あらん限り、やりたい放題蹂躙し、侵略し、進軍する蜘蛛の群れ。
今現在、一と糸原が戦っている場。
三森には、そんな事知る由も無かったし、知りたくも無かった。
もし、その事を知っていれば、彼女はどう動くのだろう。
避難勧告が出され、住民の消えた駒台で。
それもいまや、せん無き事である。
オンリーワン近畿支部。
ソレと戦う者たちの拠点、職場。
前線でソレと戦う勤務外への、指示、援護、その他諸々を担当する。
その支部で、土蜘蛛の群れが駒台に現れた事についての、緊急本部が設置された。
スーツを着込んだ、男たちが長テーブルを囲んで、顔を突き合わせている。
「では、北駒台への援護は出来ないと言う事で」
「異議なし」
「異議なし」
「ちょっと待って下さい。せめて、一人でも社員を派遣できませんか?」
「そうしたいのは山々だがね、誰に行かせるつもりなんだ?」
「そうだよ、堀君。ソレが出現したのは北駒台エリアだけではないんだ。正直言って、戦力をこれ以上注ぎ込むのも、分散させるのも危うい状態なんだぞ」
「では、私が行きます」
と、よく通る声で、誰かが発言する。
「君が、かね?」
「はい」
「ゲッシュは? 今の君の状態だと満足な戦闘も出来んのだぞ?」
「それでも、たかが土蜘蛛数十体です。問題ありません」
「……あそこは、君の管轄だったな」
「……はい」
「間に合うと思うのか? 全滅しているかもしれんよ?」
意地悪そうに、一人の男が口元を吊り上げた。
その笑みを、黙って誰かが見つめる。
静かに、時間が流れた。無駄と思えるほど、長い時間。
「……堀、任せたぞ」
その台詞を聞いた瞬間、堀と呼ばれた男が即座に椅子から立ち上がる。
他の人間たちが、驚いてその方向を見たとき、既に堀の姿は消えていた。
オンリーワン近畿支部所属、オンリーワン北駒台店SV、堀。
彼もまた、駒台へと、戦場へと向かう。
懐かしい戦場へ向かう。
動かない蜘蛛を見ながら、糸原が口を開ける。
「やっぱり」
そう言ってから、次は一へと視線を向けた。その視線に耐え切れないといった風に、一が顔を背ける。
そしてまた歩き出す。少しでも早くここから立ち去るために、少しでもここから遠くに逃げ去るために。
「……あの鳥に何をされたのよ?」
答えず、一は歩みを進める。
「その傘、邪魔じゃない? 捨てなさいよ。雨も降ってないじゃないのよ」
黙ったまま、一は進む。
「怒るわよ」
糸原は、掴んでいる一の肩に爪を立てた。そうしてから、自分の方を見るつもりが一に無いと分かると、更に力を込める。
一の肩に血が滲み始めた。だが一は、意に介さず、只管足を動かす。
「あんた、こっちに来たのね。駄目よ、許さない。まだ間に合うわ、その傘と私を捨てて走って逃げなさい。早くして。ほら、後ろ見なさいよ、他の奴らも追ってきてるわ、怖いでしょ? だからとっとと行けって言ってんのよっ」
「うるさいです」
カッと、糸原の頭に血が昇る。
「っざっけんじゃないわよっ」
一の肩から手を離し、髪の毛を引っつかんで、糸原は無理矢理自分の方へ向かせた。
「あんたね……」
と、捲くし立ててやるつもりだったが、一の無表情な顔が現れたので、糸原は柄にも無く言葉に詰まる。
――何よ、こいつ。
何も言わない糸原の、その後方、迫り来る土蜘蛛。
それが視界に入り、一が再び前を向いた。
「行きますよ」
「行けば?」
「糸原さんもです」
「嫌よ」
「……死にたいんですか?」
「死にたくないわ」
何て二人が会話している間に、土蜘蛛の一匹がすぐそこまで近づく。
分かっていない筈は無い。筈だが、一の方を向いている糸原には、迫る蜘蛛が見えない。
「糸原さんっ」
思わず、一が叫んだ。
が、糸原は右手をぐるりと回すだけ。
回すだけで、蜘蛛が解体される。蜘蛛の体に直接線を入れたみたいに、一瞬、五本の筋が通り、いとも簡単に五等分。
その光景を、驚いた様子で、一が目撃させられた。
引きつったままの一に、
「なぁに?」
と、糸原がニコニコしながら答える。
「……お願いですから、一緒に店まで逃げましょう」
「ふうん、じゃお願いだから傘を捨てて」
それは、と一が口ごもった。
「あんたがそんな目に遭う必要ない。ソレと戦う必要なんてない。こういうのは他の奴に任せておけば良いのよ。たとえば、あ、ほら、あの金髪とかさ」
「三森さんは来ません」
一が切り捨てる。
「じゃあ店長とか。堀って社員とか、ほら、適任じゃん。あんたよか全然」
「信用できないし、動いてくれませんよ」
日ごろ、ここまで一に抵抗された事の無かった糸原の、堪忍袋がおかしなことになり始めていた。飼い犬に手を噛まれた気がして(飼われているのはむしろ、糸原だが)、一を睨み、
「ワガママ言ってんじゃないわよ!」
一の胸倉を思い切り掴み上げ、糸原が叫ぶ。
正直、一は怖くて、糸原が怖くて、まともに視線を合わせることも出来なかった。何も言えなかった。
糸原が泣いていると、気付くまでは。
「……っ、俺はっあなたに死んで欲しくないんです!」
「勝手な事言ってんじゃないわよクソガキ! ちょっと優しくすりゃあ付け上がって! 私を自分の物だと勘違いしてんのっ? 彼女か何かだと思ってんの!? バッカみたい! バカ!」
「優しくされてない!」
「したわ!」
「詐欺師の癖に!」
「何よちび!」
そして後ろには土蜘蛛の群れ。
気付いた一は、掴まれている腕を、思い切り掴み返して、糸原を自分の後ろに下げる。何か糸原が喚いているが、無視して一は、ワンタッチ式のビニール傘を、蜘蛛に向かって広げた。
「止まれっ!」
そう言った瞬間、今までの勢いを完全に殺して、蜘蛛たちの動きが止まる。蜘蛛たちの時間だけが切り取られたように、足を上げているものはそのまま、糸を吐こうとするものはそのまま。そのままの姿で止まっている。
まるで映画のワンシーンみたいに、まるで嘘みたいに、まるで性質の悪い冗談みたいに。
一は肩で息をしながら、強く傘の手元を握り締めた。
やがて、近くの電信柱に手を付き、激しく咳き込む。
「これがあんたの力ってわけ?」
ゆっくりと息を整え、一がそうです、と答えた。
「便利よね、動きを止められるなんて。そんでもって無敵じゃない、何も出来ない相手をボッコボコにできるじゃん。ねえ、ただの善良で性悪な一般人から、最強に近い力を持ってるクソ生意気な勤務外になった気分はどう?」
まるで詰る様に、糸原が一に声を掛ける。
そんな皮肉も無視して、一が電信柱から手を離した。
「正直、もう持ちません。そんなに喋れるなら走れますよね? 行きますよ」
「嫌だっつってるでしょ、私は、一とは一緒に帰るわ。でも、クソみたいな力を持った勤務外と一緒に戻るつもりは無いの」
その言葉に、一がたじろぐ。
「調子に乗ってんじゃないわよ。そんな馬鹿みたいな傘持っちゃってさ、アクション映画のヒーローにでもなったつもり? 俺は特別な人間なんだぜやったー糸原さんを助けに来たぜー、さあ一緒に戻りましょうってか、あっはっは。笑わせんじゃないわよ。あんたは大人しく店でレジ打ってりゃ良いのよスカタン」
糸原が一を更に責める、攻める。
「俺が助けに来なきゃ、糸原さんなんてとっくに死んでた!」
「何ですって……?」
「俺がこの力を貰ってなきゃ! ここに向かって無かったなら、あなたは死んでたんですよ! そんな口もきけないでさ!」
鈍い音が響いた。
一が、糸原のパンチを食らった衝撃で、よろよろと情けなく後ずさる。
殴られた箇所、右頬を摩りながら一が糸原を睨んだ。涙目で。
「私を誰だと思ってんのよ!」
「……金に汚ぇ口汚ぇ詐欺師ですよ、あなたは」
血の混じった唾液とともに、吐き捨てるように。救いようがねぇ、とも一が付け足した。
へん、と糸原が鼻で笑う。
「あんたに救われるような愚図なんてこの世に存在しないわ」
「確かにそうですね。もう後一分もすれば、こいつらは動きます。そうなりゃおしまいですよ。俺も、あなたも。誰一人救われずにこの世から消えてなくなりますね」
「ふーん、あっそ。一分もあんのね」
「はっ?」
言うが早いが、糸原が両手を伸ばす。十指を伸ばす。そして、動かない、いや動けない蜘蛛たちに容赦なく、攻撃を加え始めた。銀の光が、蜘蛛の体躯に銀の線を引いていく。
舞うが如く。
糸原がレージングを動かす。指揮棒を振るうが如く。徐々に、徐々に、動きを早めていく。
――見蕩れていた。
やがて、一たちの周りに居たソレ全てに線が引かれた。バラバラに、規則的に、無茶苦茶に、整然と。
――ああ、見惚れていた。
ボケッと突っ立っている一を一瞥し、糸原が不敵に笑う。
「残念でした」
刹那、蜘蛛たちの体がバラバラと、バラバラにされて落ちていく。
何が起こったのか分からずに、伸ばそうとしていた足が無い蜘蛛、獲物を睨もうとしていた眼球が無い蜘蛛、胴が、腕が、脳が、牙が無い蜘蛛。関係なしに死んでいく。全て命を落としていく。蜘蛛が死んでいく。
そして、動ける蜘蛛はこの場から居なくなった。
「誰が死ぬって?」
シニカルに糸原が笑う。
「……誰だったんでしょうね」
「ま、救われない愚図に間違いないでしょうね」
「あれ、なぜか俺たちは生きてますよ?」
「救ったのよ、私が」
誇らしげに糸原が笑う。
つられて、一も笑顔になった。
「かっこよかったですよ。ついでに、すっげぇ綺麗でした」
素面なら、恥ずかしくて言えそうにも無い事。
今の一なら、そんな事も言えそうだった。
っていうか言った。
「当然よ」
一に背中を向けながら、自分の顔を見せないように、糸原がハッキリと答える。少し頬に赤みが差した、何ともいえないにやけ顔で。
あの、と一が小さな声を出す。
糸原は返事をしない。
「あの……さっきは言い過ぎました。その、すいませんでした」
「別に。気にしてないわよ」
「一つだけ言い訳させてくれるなら」
くるりと、糸原が振り向いた。
「ふむ。じゃ、してみ」
「俺はこんな力欲しくなかったんです。けど、欲しくなりました。それは今のところ、糸原さんのせいですよ」
「何でよ?」
「だって、本当に、マジでそうしないと糸原さんが死んじゃうって思ったからですよ。ああ、正確に言えば思わされたのかなあ、あの人たちに」
「要領を得ないわ。ちゃんと筋道立てて喋りなさい」
糸原がタン、タンと靴を踏み鳴らした。
「つまり俺はもう一回ホームランを打ちたかったんですよ」
「え? あんたホームラン打ったことあんの?」
「すっげぇ気持ち良かったんですよ。カァンなんて良い音がして思い切りぶっ飛んでいって。まあ、小さい頃の話ですけどね」
「今もちびじゃん」
「糸原さんがでかいんですよ、無駄に」
「ああ、違うわ。筋道立てろって言ったじゃないっ。関係ないこと喋るな」
糸原がタン、タン、タンと靴を踏み鳴らした。
「俺はハリウッドスターじゃなくて、プロ野球選手になりたかった男です」
「うん。夢のある男でよろしい」
「だからアテナさんに傘と力を貰いました。あ、終わりです」
「糸原さん、今の話に関係ないわよね?」
「ま、きっかけを作ってくれたと言う事で。ありがとうございます」
「気にしないで」
糸原が一を蹴飛ばした。
「とにかく、終わったんだから。その傘捨てなさいよ」
尻を押さえながら、一が傘を両手で握り締める。
「何度言われても、駄目です。嫌です」
「……じゃあ、あんたはさ、これから勤務外になって調子付いてヘラヘラして気持ち悪い顔晒して情けなーく生きていくつもりなの?」
「何だか、そういう人生も良いなあとか思えました」
「あっそ」
「と言うかですね、俺は勤務外になるつもりないですよ。この傘は、訳あって手放せませんが。正直ソレと戦うの怖いですし、今日だっていろんな意味で特別でしたから」
「……あっそ」
「それじゃあ今度こそ帰りましょうか」
「そうね、ありがと」
「? そうですね」
曖昧に一は返した。
「あっ」
と、糸原が声を上げる。
一が振り向くと、そこには巨大な蜘蛛がいた。
さっきまでの土蜘蛛とは訳が違う大きさ。
「糸原さん?」
糸原の姿はない。
糸原と蜘蛛が交換されたみたいに。当たり前のように、ソレはそこにいた。
振り下ろされる蜘蛛の足。
ああ、まるで、まるでこれこそがギロチンだろう。
声を上げる間もなく、一が吹き飛ぶ。
吹き飛ばされる。
道路に転がされる。
――死んだ。
うつぶせのまま、情けなく地面に倒れたまま。一がもぞもぞと体を動かしてみる。何とか腕は動くらしい。その腕で体のあちこちを触ってみた。血は出ていない。どこも折れてない。呼吸も出来る。内臓も無事らしい。
「生きてる……」
どうやら蜘蛛の直撃を受けたわけではないようだった。
「死んでる!?」
声が聞こえる。
「生きてます!」
その声に応えるべく、一は喉から声を絞り出した。一はすぐに起き上がって、ソレに備える。
「なら何とかしてよ!」
一が前を見ると、糸を挟んで、糸原と蜘蛛が力比べをしていた。蜘蛛の四つの腕が、糸原の体へ、肉へ食い込ませようと力を込める。全身の力でもって、糸原が必死に抵抗していた。
「何やってるんですか!」
と、喚いた時に、一は気付く。
――俺を吹っ飛ばしたのは。
自身を飛ばしたのは、蹴り飛ばしたのは、糸原である事に。だからそこで糸原がそんな事をやっているのだ、とも。
一は心の中で糸原に詫びを入れる。
そして、傘を広げ、蜘蛛に向けた。
すぅ、と冬の冷たい空気を吸い込み、
「止まれ」
と、震える声で告げた。
心なしか、糸原の体がどうしようもなく震えているように見える。蜘蛛の動きは止まった筈なのに、いつまでも何をしているんだろうと、一は不思議に思った。
「糸原さん、帰りますよ。こんなでかい奴相手にしてらんないですってば」
暢気に、のんびりと一が言う。
糸原は何も言わない。
――まさか。
「……ちょっと! 早くこいつを止めてよ! 死んじゃう! 死んじゃうわ私、やだやだ絶対やだってば!」
糸原が叫ぶ。
「あれ?」
一が持っている傘を二度見した。
「私が死んだらあんたも死になさいよ!」
糸原が必死に叫ぶ。
「何で?」
蜘蛛はすごく元気に、至極まともに動いていた。