FIRESTARTER
鉄塔前に来た時から嫌なものは感じていた。空気はぬめったように纏わりついて重く、死臭が漂っていたのである。
気になっていた牡牛を模した祭壇。その中に入れられていたモノを確認し、認識した瞬間、一の喉からは叫び声が迸っていた。力が抜けて蹲る。祭壇は七つの部屋に分かれており、その全てにきちんと乗せられていた。いなくなった子供がばらばらにされて、そこにいる。もはや何人分のパーツなのかも分からない。焼け焦げて、異臭を放つそれは人間の体とは思えなかった。
一は動けない。辛い目に遭うと釘を刺されていた。だが、彼は嘆く。あんまりだと。救いがなさ過ぎると絶叫する。悲鳴を上げる。悲しいだけではない。恐ろしいだけではない。ジェーンを人狼に仕立て上げた青髭の所業が、腹立たしく、憎いのだ。体が燃えているかのように熱い。耐えられなかった。熱を逃がす為に声を放ち、また熱がこもる。ここから逃がして欲しかった。誰かに助けて欲しかった。
「バカ! お兄ちゃん!」
ジェーンの声が聞こえる。『お兄ちゃん』と、久しく聞いていなかったその言葉が一を覚醒させた。立ち上がらなくてはいけない。銃声が数発聞こえた。彼女がリボルバーを撃ったのだ。撃った。何を。誰を。何の為に。
「何やってんの!?」
急いで立ち上がると、目の前に黒いモノが広がっていた。中空に散らばるのは霧状になった――――。
「……影?」
まずい。そう判断する前に体は動いていた。その場から逃れるように横へ跳び、背中で銃声を聞く。立ち上がりながらビニール傘を開いた。振り向き、呼吸を整える。何が起こったのか把握し切れていない。ただ、それはいた。
黒い外套が宙で翻り、男が地面に降り立つ。彼は口髭を弄びながら、一に視線を送った。
「お前がヴラド――――」
「――――その先はおすすめしない」
低い声に遮られ、一は思わず口を閉ざす。男を挟んで、向こうにはジェーンとジャネットがいた。
「私はヴラド・ドラクリヤ。お前たちは勤務外か」
ヴラドは視線をずらしていく。一からジャネットへ、彼女から、ジェーンへ。
「機運に恵まれているらしい。君、この祭壇に手を出さないと誓うなら、見逃しても良い」
ヴラドはジェーンから視線を外さない。彼女もまた、目を逸らす事はない。
「私の目的はジェーン=ゴーウェスト。アレを葬り去る為、ここにいる。だが恩義にも応えたい。彼女を置いて下がりたまえ」
一は無言で足を踏みだす。彼の爪先の一センチ先、地面から影が飛び出した。細く、鋭利な影の針である。
「聞こえなかったのか?」
ヴラド・ツェペシュ。彼を倒せば全てが始まる。終わる為に始まる。青髭まで辿り着くには邪魔な存在だ。それ以前に、ヴラドの申し出は受け入れられない。一は息を吐き出す。緊張と恐怖を忘れていく。アイギスを握る手だけに力を込める。
「聞こえてるよ」
ヴラドが空気に溶け込むようにして消えていく。一の足元で影が蠢いた。彼は危険を察知し、ジェーンたちの方へと走る。地面から、影が煙のように立ち上った。霧状になり、一の背後で揺らめく。
ジェーンが発砲を繰り返した。霧になった影は一に向かって針を伸ばしていたが、弾丸がそれを噛み砕いていく。
「お兄さん、右」
ジャネットの指示に従い、一が右に向かってアイギスを突き出した。一瞬間後、彼の腕へ衝撃が伝わる。杭と化した数本の影、その先端が盾にぶつかり折れ曲がっていた。舌打ちを耳にし、ジェーンは上方へ逃れようとする霧に銃弾を撃ち込む。散った影、そこからヴラドの顔が覗いていた。
「効いてねえのかよ!」
一はジェーンの前に立ち、声を荒げた。
ヴラドは獲物を見定めた。彼の狙いはジェーンだけだったが、戦闘になれば一とジャネットも邪魔になる。二人の力はまだ不明だが、ジェーンの武器、戦法は痛いほど身に染みていた。
傘を持った一。旗を持ったジャネット。どちらがうるさくなるのか、それは交戦中に見極めようと判断した。
ヴラドは影を操れる。付け加えるなら、彼は己の肉体を影に変化させられるのだ。その影は針にも、杭にも、霧にも、コウモリにも変えられる。青髭からもたらされた異能、ヴラドは既に自分のものとしていた。
尤も、その能力自体は初めから彼に備わっていた。青髭はそれを強化しただけに過ぎない。
動く。ヴラドは影に身を沈めていく。銃弾に撃たれるが、既に肉体は実体をなくしていた。ダメージは受けていない。
「下、注意して!」
ジェーンが叫んだ。一とジャネットは周囲を忙しなく見回している。ヴラドはほくそ笑んだ。溶かした体を影に変えて伸ばしていく。闇の中ではその動きも見えづらい筈だ。狙うのは一。彼を串刺しにして戦意を削ぐ。
「お兄さん、そっち」
「俺ぇ!?」
一がその場から飛び退いた。彼は注意深く地面を観察する。僅かに蠢くモノを確認して、顔色を変えた。
ヴラドは驚愕する。動きを捉えられた事に対してではない。ジャネットはこちらを見ていなかった。別の方に顔を向けたまま指示を出したのである。勘が優れている、読みが鋭い、だけでは説明がつかなかった。だが、やり方は他にもある。
「もぐら叩きじゃねえんだぞっ、さっさと出てこい!」
標的を変更する。一つから二つに増やすのだ。一とジャネットを同時に攻撃すれば、彼女も予測が難しくなる。右手を杭に。左手を杭に。それぞれ二人に向けて伸ばしていく。だが、
「お兄さん、ジェーンの方に」
「またかよ」
また、読まれてしまう。それでも、ヴラドは杭を突き立てた。ジャネットはその場から一歩だけ後退する。必要最小限の動作だった。二本の杭は空を裂く。ヴラドが、これは厄介な相手だと認識した途端、彼女は何を思ったか、旗を振りかぶった。彼は急いで影を戻す。ジャネットのフルスイングは空振りに終わったが、ヴラドは異様なものを感じ取っていた。
「……ラグがあったわね」
ジェーンはリロードを済ませると、消えていく影をじっと見つめていた。
「二本同時とかあんなん反則だろ。どうすりゃ良いんだ」
「私がいるよ?」
ジャネットは不思議そうに一を見遣る。彼は低く唸った。
「見えてんのか?」
「んー、それもあるし、聞こえてるの」
一は追求を避ける。事実、ジャネットの指示は正確で、二度も救われているのだ。
「ねえ」ジェーンが無防備に歩いてくる。
「馬鹿、危ないって」
「シャラップ。ジャネット、アナタ、知ってたの?」
「ん?」
「フラッグでアタックしてた」
ああ、と。一はジャネットの行動を思い返す。
「避けられちゃったけど」
「……シャドウはヴラドなの。だから、シャドウにはアタックが出来る」
「はあ? や、それってアレか、体を影に変えられるって事か?」
「アラ、ニノマエにしては物分かりがいいじゃない」
一は僅かに顔をしかめた。
「前、立花さんたちが『館』の魔女と戦ったんだけど、似たような力を使う奴がいたんだってさ。その子は、体を刃物や縄に変えられた」
「ヴラドもマジックを使うのカシラ」
「さあな。つーか、そんなん知ってたんなら先に言えよ。前に戦ったんだろうが」
責めるように一は言う。ジェーンは睨み返そうとしたが、その表情は曇っていた。
「合ってるかワカンナイし、あんまり覚えてないもん」
「ああ?」
「……月が、出てたから」
今度は一の表情が曇った。彼は謝罪の言葉すら口に出せなかった。
「それより、アタリっぽいヨ。見てなかった? さっきのクイ、ジャネットのフラッグからエスケープしたみたいだった」
「タイミングの問題じゃねえのか?」
「二本同時に消えたならそうかも。けど、お兄さんを狙った影はすぐには消えなかった」
一は考え込む。どちらにせよ、やれる事はないに等しかった。
「殴っても良さそうだったな。試してみよう」
「言われなくてもそうするワ」
「あー、そうかい」
ジャネットが指示を飛ばす。一とジェーンは彼女に従い、攻撃を回避していた。しかし、ヴラドは杭を出さない。突き出しても、すぐに消してしまう。一たちが気付いたように、彼も自らの弱点に気付いているのだ。
ヴラドの能力は肉体を影に変え、その影を別のものに変えるという、二つの行程を要している。霧やコウモリになれば攻撃は殆ど食らわない。だが、彼もその状態では攻撃出来ない。ヴラドの攻撃手段は、変化を影の段階で止めて、それを針や杭状に固めて相手を貫くというものだ。ただし、影は実体。相手に触れて攻撃する。即ち、相手もヴラドを攻撃出来るのだ。
「あっち」「こっち」に一たちは移動を繰り返す。彼らはまだ確証を得られていなかった。
ジェーンは少ない記憶を掻き集める。自分が、いかにしてヴラドを退けたのかを。満月の晩、間断なく放たれる影の杭。断片的には映像が甦る。しかし繋がらない。嬲り殺しにされるのはごめんだと、背後から突き出ていた影に銃口を向ける。影は霧と化し、掻き消えた。
「次はっ」
一が問うとジャネットは首を横に振る。ヴラドが間を空けてきたらしい事に気付き、彼は考えをめぐらせた。何故、ヴラドは一息に仕掛けてこないのか。杭や針は一度の攻撃で一本だけしか出せない、事はない。彼がその気になればもっと多くの杭を出せるのだろう。そうしないのは、自分たちの予想が当たっているからではないか。一は口の端を歪める。
「お兄さん後ろにっ」返答する暇はなかった。ジャネットの声に弾かれるようにして、一は地面を転がる。微かに、漆黒色の霧が視界に入った。立ち上がりながら振り向くと、霧が蠢き別の何かに姿を変えようとしている。彼はアイギスを広げた。中空から、十を超える数の針が飛び出す。それらは強固な盾にぶつかり、先端から砕けて折れた。ばらばらになった破片は地面に溶け、杭となる。次々と出現する黒い杭は、後退りする一を追い掛けた。
「きたっ」ジャネットが、旗を掬い上げるようにして振るった。一を狙っていた杭にひびが入る。もう一発、彼女は得物を逆さに持ち、ひびが入った箇所へ叩きつけた。固まった影は砕け散り、残りの影も逃れるように霧となる。しかし、ジェーンが銃弾を撃ち込んでいたため、何本かは霧になる前に壊れている。
「通ってる!」
一はヴラドのものであろう呻き声を聞いた。やはり、通る。攻撃は通るのだ。影は消えて、一たちは三人で固まり、祭壇と向かい合う。それぞれが違う方を見て警戒を怠らない。
「ほっほ、流石。わしが手を施す前とはいえ、一度はヴラドを敗っただけはある」
鉄塔から、男がゆっくりと歩いてくる。白い外套を羽織った老人は、
「お前が……っ!」
年端もいかぬ少年の首に刃物を触れさせていた。彼は場に凝る異様な空気と、突き付けられた冷たい感触に怯え切っている。
「そこのは初めましてじゃな。そして狼のお嬢さん、お久しぶりと言っておこうか。わしの名は……」
「青髭」ジャネットが割り込んだ。青髭は不機嫌そうに顔をしかめる。
「名乗るのすら待てんか、粗暴な輩め。頭の悪い女子は嫌いではないがなあ」
「お礼を言うワ。アタシの前に来てくれてありがとう」
ジェーンは青髭に銃口を向けるが、彼は少年を盾にする。
「ここで命をくれてやるのもやぶさかではないが、年寄りの話には付き合って損がないぞ」
「……話だと?」
青髭は何度も頷いた。彼の前に、霧が現れる。ヴラドが二重の盾となったのだ。ジェーンは銃こそ下ろさなかったが、どこか諦めたような目をしている。
「さよう。ここでやる事も一段落つくのでな。わしの、一先ずの結果、集大成を御覧に入れたい」
ジャネットが一歩前に出る。
「天使様はおっしゃった。あなたを生かしておくのは良くないと」
「む、そうか。先の者たちの連れ合いか。急かずともよいよい、後は追わせてやるからのう」
一は押し黙る。目の前の老人が青髭で、すぐにでも殺してやりたい相手だと言うのに、彼は動けなかった。少年が人質に取られているからではない。青髭から放たれる重圧に呑まれ、押されていたのだ。同様に、ジェーンも行動に移せていない。唇を噛み締め、青髭を睨みつけるだけだ。
「どこから話したものかなあ。『円卓』に籍を置いてから、ジェーン=ゴーウェストを狼にし、ヴラドをいじり、ここに来た。いや、中々にスムーズな、今となってはそんな気がするなあ」
取り留めもない話。尤も、と、青髭は前置きする。
「大して意味のない事柄ではあったが」
ジェーンが声を上げた。獣のようなそれは悲痛極まるものである。マズルフラッシュ。人質を無視した発砲は、ヴラドが作った杭によって防がれた。
「ほう、激情を伏せておっただけか。所詮、けだもの。つまらんわ」
今にも飛び出していきそうなジェーンを、ジャネットが押さえる。
「今宵は満月。しかし、目を見張るような成果は得られそうにないのう。娘、そこで死ぬのを許す」
「それは困りますね」
「かっか、そうじゃった。ヴラド、わしへの義理は果たしたぞ。好きに仕掛けい」
「いえ、ゲヘナから王が来たるまでは」
ゲヘナ。王。一は思惟する。何か、嫌な予感がしていた。いなくなった子供。殺された『広場』。まだ、何も始まっていないような気さえしてくる。
「わしら以外に観客がいないようでは締まらんし、つまらん。事が終わるまでは生かしてやる。だから、黙って見ていた方が賢い。そうは思わぬか、若いの」
「……あんた、何をするつもりなんだ……?」
「じき、分かる」
青髭は手に持った得物を見つめた。西洋の剣、レイピアである。それを片手に握り締めたまま、懐から書物を取り出した。一は呻くように漏らす。
「魔導書……!?」
黄衣が所持していたものとは違うが、一は、青髭の本からも同種の異質な気配を感じ取っていた。
「ほう、一目で。その目が曇らぬのを願うばかりじゃなあ。……ツテがあってな、古今東西の魔導書は読み終わり、その内容はここに入っておる」
青髭は自分の頭を指差す。場にそぐわない、おどけた仕草だった。
「これは『ルルイエ異本』。旧い知人からの贈り物でな、今回の召喚には使えんが、お守りのようなものとして持っておる」
召喚。王。ゲヘナ。一は困惑する。青髭のやろうとしている事を想像し始めているのだが、信じたくない気持ちも残っていた。
「ヴラド、近づかせるなよ」
「……全く。面倒な人ですね、あなたは」
霧が晴れ、影が蠢く。ヴラドが姿を見せて、静かに笑っていた。
「おい」言い知れぬ悪寒。一は足を踏み出す。
「止めなきゃ」
「……お兄さん、どうしたの?」
アイギスを広げて、一は駆け出した。自分の意志かどうかも分からない。
ヴラドが右腕だけを霧に変える。杭のように固まったそれは一を狙って投擲された。彼はアイギスで攻撃を防いだが、体勢を崩してしまう。立ち止まった彼は的にしかならない。ジェーンとジャネットはヴラドの意識を散らす為に疾走する。
ろくに狙いもつけられないまま、ジェーンが青髭へ銃撃。ヴラドは彼の盾となるべく、影の柱を後方に作った。その内の一本に流れ弾が当たる。
「Don't move! 何やってんのバカっ!」
「俺は良いからあいつを!」
青髭が何気ない動作で腕を振るった。少年の首が裂け、温かな血液が噴き出す。彼は虚空に手を伸ばし、助けを求めようとして口を開いた。漏れたのは声ではなく、血である。ごぼごぼと、気味悪い音を立てていた。
一たちにそれを止める時間はない。少年を救う手立てはない。彼の生命は今も尚、地面に流れ、滴り落ちている。
「ほれ、これが欲しいんじゃろう」
青髭が少年の髪の毛を掴み、祭壇に押しつけた。彼の神経は痛みと、熱によって焼き切られようとしている。口内から迸る絶叫と泡立つ血液。その血が、牡牛を模した祭壇に伝わり、流れ、染み込んでいく。
「足りぬか悪魔よ! いやさヘブライの王よ! どうした、はようゲヘナから来たれっ!」
「邪魔だ退けっ」
一が眼前にそびえ立つ影に向けてアイギスを振るった。影がひび割れて、ジャネットがそこに追撃を仕掛ける。黒い杭は完全に砕け散り、ヴラドは短く呻いた。空いた隙間にジェーンが飛び込むが、彼女の前方に新たな杭が現れる。一たちと祭壇まで、もう距離はない。後少しで手が届く。
「ジェーン右から行って!」
「おおっ人狼の娘よ、私を無視すると言うのか」
「青ヒゲ――――っ!」
影の杭、その間を擦り抜けたジェーンは祭壇が弾け飛ぶのをいち早く目撃した。
牡牛を模した祭壇が弾けていく。未だ熱を持った破片は周囲に散っていく。誰が上げたか悲鳴が聞こえる。そして聞こえる、青髭の嬌笑が。
炎が揺らめく。その下から、異様な気配を纏った何かが顕現する。瞬間、今まで絶えなかった火が掻き消えた。辺りは一面の闇に閉ざされる。しんと静まり返った空間が圧縮されていくような感覚を受け、一はその場に蹲っていた。
「おう、おおう……」
「これが……」
炎が、吹き上がる。煌々とした、暗い輝き。ジャネットが目を見開く。ジェーンは少しずつ後退りしていた。彼女は展開された状況を信じられないでいる。一は既に声すら上げられなかった。
それは、地獄の底から現れた。その姿、王冠を被った牡牛である。上半身の筋肉は発達しており、二足歩行の牛頭人身。だが、下半身は見えない。腰から下は炎が包んでいる。それでも、苦痛に感じる素振りを見せていない。上半身だけだが、牛頭人身の怪物は一よりも、ヴラドよりも大きかった。
「――――――――!」
この世のものとは思えぬ声が放たれる。周囲に響き渡るそれは産声か、あるいは怨嗟か。ぎょろりとした目を動かし、それは再び口を開く。
『我を呼び出したのは、貴様か』
腹の底まで響くような、それでいて不快な声だった。一は耳を塞いで、怪物と青髭に目を向ける。
青髭は怪物の問いに対して大きく、ゆっくりと頷いた。彼は涙を流している。ない混ぜになった感情が、青髭の顔を醜く歪めていた。
「王よ、涙の国の君主よ、わしの願いを、どうか、どうか……」
王と、そう呼ばれた怪物は腕を組む。
「……は、ぐっ……」
押し潰されそうな圧迫感、一は思い出したかのように息を吸う。その時、ジェーンと目が合った。彼女は自らの得物を握れてはいたが、その手は小刻みに震えている。
「やるなら、今しかない」
ジャネットは唾を飲み込み、歩きだそうとした。が、彼女の周囲には薄い霧が立ちこめている。
「動けば殺す。今はただ、あの方の夢が叶う瞬間を黙って見ていろ」
「ジェーン」ジャネットは旗を持っている側の手を少しずつ下ろし始めた。
「撃って」
ジェーンは答えなかった。
「今やらなきゃ、私たち……」
――――殺されるのか。
一は目を瞑る。動けば死ぬ。だが、今動かなければ、取り返しがつかない、そんな事態に陥るのだとも分かっていた。
「……何故、何故答えない」
一たちの存在は、青髭の視界、意識からは外れている。彼は怪物に縋るように、媚びるような視線を向けていた。
『……足りぬ。見ろ、我を。このような姿を完全とは言えまい』
「ぬう、やはり血が薄いか。ならば、食らわせてやろう。浴びさせてやろう。下賎と言えど千の肉を食らえば、万の血を浴びれば完全体となりうる筈じゃあ……」
『そこまでして何を望むか』
青髭は両手を広げ、天を見上げる。
「神は死んだ。このような世界見たくもない」
『世界を? 過ぎた夢を持てば潰されるが必定。……しかし、召喚者に従うも我の定め』
「では殺せ、幕は下りた。居残る客は無粋の極み」
狂った双眸が一たちを捉えた。怪物は頷く。
『契約は成った。この身が完全になった暁には、我の力で貴様の世界を焼くとする』
「ほっ、ほっほう! ヴラド、ヴラドっ、見たか成ったぞわしの悲願が!」
影を回収したヴラドは感慨深そうに、胸に手を当てた。
「では、私も私の為に動くとしましょう。……そういう事だ、勤務外。勤務外、ジェーン=ゴーウェスト。貴様の肢体、貫く時が来たらしい」
「なっ……!? てめえやらせるかよ!」
一の体に力が戻る。怒りを糧にしたそれは、彼の四肢を奮い立たせていた。
しかし、一が動く前に事態は進展していく。青髭が鉄塔へと引き返し、ヴラドと怪物が一たちの行く手を遮ろうとして立ちはだかっていた。
「ジェーン、やるんだろうが!」
ジャネットに寄り添っていたジェーンは、彼女から離れて一を見返す。
「やるから、下がってニノマエ」
「ああっ?」
「下がれって! 言ってんの!」
ジャネットは困ったように頭に手を遣る。
青髭はまだ何かするつもりで場を退いた。追わなければならないが、ジェーンを狙うヴラドと、青髭に呼び出された怪物がそれを防ごうとするだろう。ジャネットが目的を達するには彼らを避けるか、退けるか選ぶ必要がある。
「……青髭を殺さなきゃ」
その言葉には一が反応した。
「ちょい待てって、こいつらだってほっとけない」
「私は青髭を……」
「後ろからざっくりだぞ!?」
「お兄さんがどうにかして」
「無理だろそれ!」
「ひっこんでてよニノマエっ、社員命令!」
「ふざけんなよてめえら!」
王冠を被った牛の頭に、全身を炎で燃やした怪物は目を瞑り、そして、一たちを見下ろした。青髭の召喚に応じたそれは、モロクと呼ばれる悪魔である。ヘブライ語では王を意味するその名前、しかし、悪魔となったモロクに王たる器はない。悪魔の中でも最も残忍とされるモロクは涙の国の君主とも、母親の涙と子供たちの血に塗れた魔王とも呼ばれている。
モロクは、王たる者に魔力を以って農耕の収穫を保証し、力を与えた。だが、モロクの魔力の源は人間の命と、血液である。悪魔は利益を守るその代わりに生贄を要求するのだ。生贄として求められたのは有象無象の輩ではない。王権を継ぐ者の第一子である。
生贄の儀式ではシンバルやトランペット、太鼓などが盛大に打ち鳴らされ、親たちは子供を猛火の中に投げ入れる。子供たちの泣き叫ぶ声は、周囲の大音響によって掻き消された。
儀式が行われていたのはエルサレム郊外に位置するヒンノムの谷、ヘブライ語でゲーヒンノームと呼ばれた地である。この地で生贄を捧げる習慣がなくなった後、モロクを祭った祭壇は捨てられ、忘れられ、荒れ果てていった。やがてここでは罪人や浮浪者の死体がごみとともに燃やされるようになり、そこから立ち込める悪臭と煙が地獄のイメージを掻き立てたのである。
ゲヘナ。
その名が地獄と同義語に扱われるのに、さほど時間は掛からなかった。
悪魔は確かに、駒台の地に召喚された。未だ不完全ではあるが、一たちにとっては脅威となるだろう。
――――ここは、ゲヘナか。
モロクは己に問い掛ける。まだそうでなくても、ここを地獄と化す為に呼び出されたのだ。いずれはそうなるのだろう。彼は獲物を見定めて、軽く拳を振るった。