BIG TIME BALK
気が重い。アルバイトに向かう、その足が酷く重い。一は溜め息を吐きながら、ゆっくりと店へ歩いていた。その理由はジェーンである。彼女の機嫌が悪くなった理由も分からなければ、ご機嫌を取る理由だってないように思われた。兄の立場にある自分が気を揉む必要などないのだと、必死で言い聞かせる。己を騙して、それでも、彼女の事が気に掛かって。
「……畜生」
子供がいなくなった。『広場』が現れた。関係はあるのか、ないのか。考えても詮ない事ばかりで、それでも思考は止まらない。ジェーンの友人が『広場』だったなら自分はどうするのか。どうすれば良いのか。縁を切れと、どんな顔で言うつもりなのだろう。一は歯を食い縛る。店の扉を開けると、虫でも見るかのような目付きを向けられた。ジェーンはレジ前の空間でモップに体重を預けている。
「おはよう」挨拶をしない訳にもいかない。一はそう思ったのだが、ジェーンは彼を無視していた。一は彼女を睨み付けるようにして見てしまう。
「…………何か言いたいなら言えば?」
ジェーンの物言いに腹を立てた一は彼女を無視してバックルームへと向かった。舐められてたまるか。ちっぽけな自尊心に背中を押され、彼は舌打ちをする。頼まれて、泣いて頭を下げてくるまでは許さないと、そう決意した。
「まだやってるのか? 外野からすれば欝陶しい事この上ないぞ。さっさとどっちかが折れろ」
しかし、その決意は六十秒と経たないうちに揺らぐ。
「俺は折れませんから」
「業務に支障をきたさないと言い切れるなら好きにしろ。出来ないなら一、お前が折れろ」
「あいつが謝れば良いんですよ」
「バイトの分際で」
吐き捨てるように店長は言う。一はただでさえ気が立っているのだ。彼女の言葉は、彼にとっては火に油を注がれた形になる。
「バイト以下の仕事しか出来ねえくせに」
「出来ないんじゃない。やらないんだ」
「ガッ……キ! マジで子供みてえな! たまには大人らしい事を言ってみせたらどうなんですか」
店長は椅子の向きを変えて、吸い掛けの煙草を一に差し出した。
「……何すか?」
「吸えば落ち着くんじゃあないかと思ってな。それに、口に何か入れときゃその分は黙るだろう?」
「きゃっ、間接キス」
「光栄だろう」いらねえよ。一は呟き、自分の煙草を取り出す。
「そもそも、大人、大人とお前は言うがな、大人とは何を指す? 何をすればガキじゃなくなる?」
「俺はー、子供だから分かりません」
「思考を放棄するな馬鹿者が。……それが分からないのに、私に大人であるのを強要するな」
火を点けて、紫煙を胸いっぱいに吸い込む。仄かに甘い臭いが一の鼻を突き刺した。
「じゃあ、店長は大人って何だと思います?」
「くだらん。年を食えば自然と……いや、最近はそうでもないか」
独りごちて、店長は苦笑した。
「そうだな、疲れた顔で溜め息の一つでも吐いてみろ。大人になれるぞ。……ああ、そうそう、その顔だ」
「うわー、ずっと子供でいたーい。大人なんかになりたくなーい」
「良いから働け。ゴーウェストと顔を合わせたくないからって無駄口ばかり叩くな。時間を稼いでるつもりか」
言い当てられて、一はへらへらと笑う。笑うしかなかった。
「店長、あなたの事を愛してるから今日はもう帰って良いですか」
「私を愛しているなら骨になるまで働いてくれ」
一は無言で制服に着替える。
「……あ、そういや『広場』の件、どうなりました?」
「さあな。情報部も人間だからな、常に万全でもなければ、万能でもない。基本的に、ウチは後処理に回るのが普通だ。後手に後手に、それがオンリーワンのモットーだ」
「嘘吐け。……神様の声を聞けるんでしたっけ」
「『広場』か? 何を聞いたか知らん。信じるのはお前の勝手だがな」
空いていたコーヒーの缶に短くなった煙草を入れると、店長は椅子に座ったままで体を伸ばす。
「知り合いのフリーランスから話でも聞いたか?」
「エスパーかよ」
「少し考えれば分かる。人をエスパー呼ばわりするな。私はいたってノーマル、レベルゼロの無能力者だ」
「まあ、確かに色々と聞きましたよ。腐っても兄ですから、あいつが心配です」
店長はゆっくりと息を吐き出す。
「仮に、ゴーウェストの友人が『広場』に属する者だったとして、お前は何を言うつもりだ?」
痛いところを的確に突かれて、一は誤魔化すように紫煙を吐いた。
「家族ってのは厄介なもんだよ。一生ついて回る問題だからな。どこまで口出しして良いのか、されたくないのか。最近のガキは小難しい。子殺し親殺し、増えてもおかしくはないだろうよ」
「……殺されろって?」
「誰もそんな事言ってない。尤も、死にたくないなら必死で考えた方が良い。妹なんだろ?」
どう接するのか。それくらい自分で考えろ。侮蔑混じりに突き放されたような気がして、一は煙草を灰皿に押しつける。
「とにも、かくにも、働かなきゃいけませんね」
「ぐだぐだ抜かすよりかは生産的だな」
一は笑って、覚悟を決めた。
店内は静かだった。客はいない。有線からは小煩い曲が流れている。早口のボーカル、歌詞が聞き取れなくて、一はそこから意識を外した。代わりに、雑誌コーナーでフェイスアップをしているジェーンに視線を遣る。彼女とはフロアに出てからまだ一言も口を利いていない。既に一時間が経っているのにも関わらずだ。思っていたよりも辛いんだな、と、一はぼんやりと考える。仲違いした、明確な原因も分からない。ずるずると、嫌な雰囲気を引きずったままだ。頭を下げれば収まる話でもない。彼女が求めるのは謝罪ではないからだ。
「……せめて話くらいしてくれよな」ぼそりと呟く。ジェーンがぴくりと動いた。
今日は満月の晩、人狼であるジェーンの身体能力が上がっている為に聞こえたのだろう。ぴくぴくと動く彼女の耳は、何の音を、誰の声を探しているのだろうか。一が溜め息を吐くと、ジェーンは嫌そうに顔をしかめた。
――――満月か。
嫌でも思い出してしまう。公園での戦闘を、月夜に踊る彼女の姿を。血に急かされ、支配され、獣の本能に身を任せる。人間の規を超越した、美しい命の煌めき。吠え声は耳朶を打ち、心の奥底を揺さ振った。そんな血が自分にも流れているのを、一は確認する。確かめたかった。ジェーンと同じモノだと、もう一度。実感すると、昂ぶったような錯覚に陥る。彼女と比べれば薄いが、確かに流れ、繋がっているのだ。
そっと、以前、噛まれたところに指を這わせる。傷は治っていたが、熱を帯びているような気がした。一は何気なく窓の外に目を向ける。満月の夜、猛るのは何も狼だけではない。ソレも、人間も程度の差はあれ血に飢える。何かが起きるなら、きっとこんな夜だろう。彼が目を瞑ると、バックルームの扉が開いた。見ると、難しそうな顔をした店長が手招きしている。始まったのかと諦めて、一はジェーンを見る。彼女と視線がぶつかったが、自分からは目を逸らさなかった。
「ソレが出た」と、店長は言い慣れた台詞を口にする。聞き飽きた台詞を耳にして、一の体がじわりと痛んだ。
「昔使われていた電波塔の近くに出たそうだ。数は二、正体は不明、犠牲者は多数」
「多数……?」
「確認は出来ていないが、いなくなったガキだろうな。巨大な祭壇のようなモノがあって、そこに閉じ込められ、外から焼かれている」
吐き気がした。一の顔が険しくなる。彼から距離を取っているジェーンの表情も暗かった。
「……何の為に、そんな事を」
「分かりやすい怪物じゃあない。情報部がソレだと断じたのは人間の形をした奴らだ。手が込んでいるし、犠牲者はそれだけじゃない」
ジェーンが俯く。一は直感した。
「殺されたのはフリーランス『広場』。影に貫かれて息絶えたらしい」
「影? いや、問題は……」
問題はそこじゃない。一は唾を飲み込む。意味の有無はともかく、巨大な祭壇を仕掛け、フリーランス集団を殺し切る力を持つソレがこの街にいる。そして、心当たりは一つしかない。
「ラウンドオブナイツ……」呟いたジェーンの顔は青ざめていた。
「次から次へと……!」
「『円卓』相手では分が悪い。しかし、応援に回せる戦力もない。立花とナナを呼んでも良いが、『広場』を仕留めた能力というのも未知数だ。多人数を相手するのを想定した得物なら全滅は免れん」
「俺たちだけでやれってんですか!?」
店長はうるさそうに目を瞑った。
「死んでくれるか?」
「ふざけんな!」
「――――悪くナイわ」
いつの間にか、ジェーンはまっすぐに店長を見つめている。
「自暴自棄って訳でもないな。ゴーウェスト、何か好材料でも見つかったのか」
「シャドウに貫かれたって言ったヨね? アタシ、そいつを知ってるの」
「前にどっかで会ったのか?」
ジェーンは一を見ずに口を開く。
「ステイツにいた時に戦ったのよ。シャドウを使うソレと。……ヴラド・ツェペシュと」
「……串刺し公か。なるほど、相手としちゃ申し分ない。最悪だな」
一には二人が何を言っているのかが分からない。
「学が浅いなお前は。串刺し公と言えばドラキュラのモデルになった人物だろうが。お前だって吸血鬼くらいなら知ってるだろう?」
「えっ? ドラキュラって、あの?」
「……そういうムービーばっかり見てたくせに」
「んなもん知らなくても仕方ないだろ!」
「ゴーウェスト、以前戦った時と言ったな。その時は逃がしたのか? それともお前が逃げたのか?」
挑発的に笑むと、ジェーンはリボルバーをホルスターから抜いた。その動作は素早く、一には捉えられなかった。
「アタシが負けるワケない。杭じゃないけど、シルバーバレットならたっぷりゴチソウしたつもりよ」
「なら、何らかの原因で蘇った可能性はあるな。しかし、確かに悪くない。油断は禁物だが、ある程度の能力を把握しているというのは心強いな」
「……ドラキュラかあ」ソレだとは知っている。不謹慎だとも思う。が、一はどこか夢見がちに漏らした。
「そんなに好きなのか?」
「好きっつーか、俺が知ってるくらい有名な奴ですし。なあジェーン、アレか、ドラキュラってやっぱりベラ・ルゴシに似てるのか?」
ジェーンは暫くの間黙り込み、店長にぼそぼそと耳打ちする。
「ん? ああ、そうか。一、『全然似てないわ』だそうだ」
「直接言えよ!」
また、ジェーンは店長に耳打ちした。一は怒りのあまり死にそうになる。
「『プラン9・フロム・アウタースペースでも見てれば?』 との事だ」
「それはもう飽きるほど見たよ」
「ええい、もうドラキュラはどうでも良い。出会ったら殺せ! それだけだ」
「乱暴だなあ」
「映画の話はやめろと言ってるだろう」
「は?」
話が反れてきたので、ジェーンが一を睨んだ。無言で。
「……えーと。もう片方のソレの正体ってのは?」
「……ああ、外套を羽織った老人らしい。そいつが『円卓』なら、思い当たるのは一人だ」
一の頭に血が上り、一瞬にして引いていく。
「青ヒゲ」ジェーンが呟き、一は身震いする。彼はジェーンを見られなかった。押し殺し、研ぎ澄まされた殺気が彼女から放たれている。一は確信した。山田が出遭い、コヨーテが追われていたモノ。ジェーン=ゴーウェストを、人狼に変えたモノの正体を。
「ああ、話はそこまでで良いです」
「何だと?」
理由が出来たと一は喜ぶ。歓喜に打ち震える。
「お前も良いよな?」
ジェーンは答えず、ただ、頷いた。一は笑みを噛み殺す。必ず殺してやると、他ならぬ自分に誓った。
串刺しになった『広場』を見つめる男がいた。無慈悲で恐ろしげな表情は、見た者を凍りつかせる。高く筋の通った鼻、膨らんだ鼻腔、大きく見開かれた緑眼と黒々とした眉毛のある細長い顔面、赤みを帯びた肌。威圧的な風貌で、髪は縮れて肩まで垂れ下がっていた。黒い外套を纏った彼は口髭を弄び、それから視線を外す。
男の名はヴラド・ツェペシュ。彼は十五世紀ルーマニア、ワラキアの領主であった。通称はドラキュラ公、串刺し公。尤も、ヴラド自身はドラクリヤ――竜の息子――の名を好んで用いている。
「ほっほ、カズィクル・ベイ。その名に相応しい所業じゃなあ」
「……青髭、私がその名を好んでいない事はご存知でしょう」
「むう、すまんすまん」
ヴラドの隣に立つのは青髭と呼ばれる老人だ。彼は『円卓』のメンバーである。
「じゃがのう、こう、見せつけられてはついつい……」
「戦意を削ぐには丁度良い見せしめです。オスマンの弱卒はともかく、ここに来るであろう勤務外もそうなるとは限りませんが」
青髭は醜悪な笑みを浮かべた。
「怨敵か。その為に生き長らえたものなあ、のう、ヴラドよ」
「感謝の念に堪えません。この身を銀の弾丸で撃ち貫いたモノの存在を、私は許せない」
「しかし、今となっても眉唾じゃなあ。首を切り落とし、心臓に杭を打ち、それでも死なぬ吸血鬼をわしは知っておるが」
「吸血鬼にも格差はあります。私は、純粋なそれではありませんから。言わばプロパガンダ、吸血鬼に仕立て上げられたと言う方が正しいでしょう」
笑みを深めて、青髭はヴラドの肩に手を置く。
「いやいや、やはり、充分に吸血鬼をしておる。わしよりも数段上、数倍の血を吸っておるではないか」
「あなたは、これから多くの血を啜る。悪魔を呼び出し、この街を血で染める。どうぞ、私を扱き使ってください。及ばずながら力になりましょう」
「主がいれば万の兵より頼もしい。ここまでわしを運んでくれた礼を言う」
「……ご冗談を。返報が私の何よりも望むところではあります。儀式が終わるまでは使命を……」
首を横に振り、青髭は遠くに視線を遣った。
「ジェーン=ゴーウェストじゃったか、確か。真に主が返礼をしたいのは、あの娘じゃろう」
「弁えておりますよ」
「構わん。アレは、わしにとっても興味深い対象でな。主には話したが、人狼に変化する処置を施したのよ」
ヴラドは何も言わず、青髭と同じ方向に目を向ける。
「縁か、業か。主には申し訳ないとも思っておる。しかしな、いずれ巡り巡るその時まで、わしはわしを辞めんつもりじゃ」
青髭がジェーンを人狼に変え、ヴラドは彼女に敗北した。瀕死のヴラドを救ったのが青髭であり、彼はその事を言っている。
「最後の仕上げじゃ。観客がいないと悪魔も冷める。勤務外には特等席を用意してやろうではないか」
血を吸う鬼が、静かに笑った。
黙々と歩く。ただ歩く。一とジェーンは声を発しないどころか互いに目すら合わせなかった。仲違いしたままの二人。出現したソレが『円卓』の青髭だと聞かされた彼女が殺気立っているのも手伝って、一は口を開くのすら恐れていた。目的地まではまだ遠い。少なくとも、後、十分以上はこの状況が続く。
――――青髭。
ただ、身を焦がすような憎悪が一の足を動かしていた。ジェーンから何もかもを奪ったモノを許すつもりはない。彼女が何も望んでいなくとも構わない。出会えば殺す。それで良いのだと彼は思っていた。
一と同じように、ジェーンの思考も、感情も黒く塗り潰されていた。自身を貶め、ソレと呼ばれる存在に落とした青髭を許せる筈がない。彼女は一と喧嘩していた事を忘れつつある。彼に対する怒りよりも、もっと強い衝動が全身を駆け巡っていた。
ふと、どちらともなく二人は夜空を見上げる。分厚い雲に覆われた月。見え隠れするそれが心を狂わせていた。彼らは後先どころか何も考えていない。ただ出遭い、ただ殺す事だけを思っている。復讐心に身を委ねるのはとても、とても気持ちが良かったからだ。
ここで感情を昂ぶらせるのは良くない。ジェーンは視線を下げて前を見据える。見知った者が立っており、彼女の姿を認めた瞬間、研ぎ澄ませて、凝らせていた殺意が霧散した。
「顔が怖い」
一もその人物に目を遣る。暗がりだったので最初は分からなかったが、やがて、店に来ていたジェーンの友人だと気付いた。
「……ジャネット」ジェーンが呼び掛けると、ジャネットは静かに微笑む。
「夜のお散歩? ううん、違うよね」
一は警戒を強めた。ここで出会うのは、都合が良過ぎる。ジャネットという少女の正体が明らかでない以上、笑顔を見せる必要はないと思ったのだ。
「ジェーン、どこに? この先に行くの?」
「あなたこそ、こんな時間に何を。用があったんじゃナイの?」
「私はジェーンに会いに。あなたに伝えたい事があったから」
ジェーンは眉根を寄せる。彼女はジャネットの真意を推し量っていた。
「私が『広場』だって事はもう言ったよね」一は瞠目する。つまり、ジェーンは『広場』に関する、ある程度の真相を掴んでいたのだ。
「私たちは……ううん、私は、この先に行く」
「君は……」言い淀んだが、一はジャネットを見つめて、口を開く。
「知ってるのか。『広場』がどうなったのかを」
「知ってたの。……あなたが、ジェーンのお兄ちゃん?」
問われたが、一は、すぐには答えられなかった。
「話に聞いてた通り。かっこいい感じ」
「……あ、ありがとう」一は思わずジェーンを見てしまう。彼女は恨みがましい目付きでジャネットを睨んでいた。
「お兄さん、私以外の『広場』は殺された。青髭に、影を操る吸血鬼に」
一は何も言えず、俯く。
「ジャネット、あなたはどこまで知ってるの? 何をしようとしてるの?」
「ジェーン、帰って」
「……え?」
「辛い事が起こるから。帰った方が良いと思う」
ジェーンは目を瞑った。思考が乱れに乱れている。現れた仇。フリーランスの友人。満月。一。そのどれもが、今は煩わしかった。
「悪いけど、俺たちは行くよ」
「そう」と呟き、ジャネットは近くの電信柱に歩いていく。そこに立て掛けられていた長い棒を掴むと、それを大きく回転させた。
「……フラッグ?」
「私、友達に憧れてた」
空気が変わる。変わっていく。一はビニール傘を持つ手に力を込めた。
「対等な関係が心地よかった。……ジェーン、一つだけ聞かせて?」
ジャネットが持っているのは旗である。真っ白な布地には蛍光ペンで何か書かれていた。
「私たち、友達なんだよね?」
息を呑む。一はジェーンを見た。彼女は悲しそうな、辛そうな表情を浮かべている。
「言わない。そんなの、バカみたい」
「……全部知りたいなら私をその気にさせて。その上で先に進みたいなら、私を――――」
「――――手は出さないで」
上目遣いで睨まれる。一は頷き掛けたが、ジェーンを見返した。
「危ないと思ったら出す。お前が何を言おうが関係ないからな」
「好きにすれば。……タイムイズマネー、ジャネット、アタシにも理由があるから」
「うん」ジャネットが旗を揺らした。ジェーンの意識が動く布に向かったと同時、柄の部分による鋭い突きが風を貫いていく。
「Get out of my way!」
身を沈ませたジェーンが、ジャネットの突き出した旗よりも低い位置を駆けた。
一たちが勤務外の仕事を果たす為に店を出た。その穴埋め要員として、ナナが呼ばれていた。彼女はバックルームにいるのが店長だけだと分かり、物憂げに溜め息を吐く。
「お前は随分と人間臭くなってきたな。一がいない事は電話で伝えていたろうが」
「もしかしたら。万が一。この網膜で確認するまではマスターの存在を信じるのがメイドたる者のお役目です」
「……早速で悪いが、レジに客が並んでいてな」
ナナは深い息を吐き出した。
「情報は既に入手済みです。マスターたちの相手が青髭と串刺し公だと、そううかがって――――ああっ、心配で心配で胸部パーツが張り裂けてしまいそうです」
「ドラキュラの方は、ゴーウェストが何とかなりそうだと言っていたぞ」
「問題は青髭ですね」
「そうか? 情報部からの報告では、戦闘に参加していたのはドラキュラだけだと聞いている」
それだけではなく、店長は以前、山田から話を聞いていた。ヤマタノオロチが出現した際、彼女は青髭と遭遇している。自らを『円卓』のメンバーだと名乗った老人だが、実質、戦いと呼べるものにはならなかったらしい、とも。恐らく、青髭を守っていたのはヴラドなのだ。つまり、青髭自身に戦闘能力はない。少なくとも積極的に力を奮う意志はない。そう、店長は判断していた。
「それでも『円卓』ですから。……青髭と言えば、シャルル・ペローの童話ですね」
「眠れる森の美女を書いた奴か」
「他に有名な作品ですと、長靴をはいた猫もペローです。青髭、どのような話かご存知ですか?」
「いや、知らないな」店長はどうでも良いと言わんばかりである。ナナは彼女の様子に気付かなかったので、得意そうに胸に手を当てた。
「昔々とある国のとある場所、お金持ちの男がいました。その男は青い髭を生やしており、青髭と呼ばれて恐れられていました」
了承も得ずにナナは話を始める。止めるのも面倒なので、店長は適当に聞いていた。
「青髭はある女性と結婚します。彼は妻となった女性に鍵束を渡してこう言いました。『家の一切を任せるよ。だが、ある部屋にだけは絶対に入らないで欲しい』と。青髭は妻に言いつけた後、出掛けていきました」ナナは律儀にも、台詞の部分の声色を変えている。
「しかし、入るなと言われれば入りたくなるもの。禁止されると余計にしたくなりますよね? これをカリギュラ効果と言います。ローマ皇帝のカリグラを題材にしたアメリカの映画『カリギュラ』が語源となっているそうです。その内容は筆舌に尽くし難い、いわゆるハードコアなポルノでした。過激だったので一部の地域で公開が禁止になったのです。この事で『カリギュラ』は注目を浴び、カリギュラ効果というような言葉が生まれたのです。テレビ番組の自主規制音やモザイクもカリギュラ効果ですね!」
「話が逸れてるぞ」
「失礼しました。ええと、結局、妻は開けてはいけない部屋に入ってしまいます。そこで、青髭の先妻の死体を発見してしまうのです! 彼女にとっては最悪のタイミングで戻ってきた青髭! 妻は青髭に殺されそうになりますが、間一髪! 駆けつけてきた兄たちによって青髭は倒されます、ばばーんっ! 妻は青髭の遺産を手に入れて大金持ちになりました。めでたし、めでたし」
困ったような、呆れたような顔をした店長は、何か言いたげにナナを見つめていた。
「ちなみに、青髭には幾つかのバリエーションがあります。部屋に入ってしまったのを見つかった後、妻が救援を待つパターン、妻は殺されてしまい、新しい妻がやってくるパターン、青髭から妻が逃走するパターンの三つですね」
「……詳しいな」
「ご希望とあらば眠れる森の美女も……」
「いや、結構だ。それよりも、お前は『円卓』の青髭が童話の青髭だと言いたいのか?」
ナナは小首を傾げる。
「そこまでは。青髭と名乗る人物が、シャルル・ペローの童話を参考にしたのかもしれませんし。ただ、まだ話し足りない事があるのです」
「言ってみろ」
「青髭のモデルとなった人物について、です」
「そっちの方が幾分か楽しそうだな」
店長は椅子を回転させてナナに向き直った。