TONIGHT、TONIGHT、TONIGHT
連れ去られた子供。『広場』が関与しているかどうかは分からないが、伝えておくべき事は伝えておくべきだと判断した。が、どうにも気が進まなかった。一は頭を掻いて、視線を逸らす。
「ジェーン、さっきの子なんだけどさ」
「……アア、見てたんだ」
ジェーンはカウンターから出てこない。そこから、彼女は一に値踏みするような視線を送る。「昨日言ってた友達か?」
「だったら?」
険のある言い方だが、一は咎めない。
「なんつーか、ふわふわ? してる感じの子だったな」
ジェーンは何も言わないで一を見ている。
「……気ぃ悪くすんなよ? 一応、さっきの子に気を付けといて欲しいんだ。また、子供がいなくなるって事件が起きてて」
「アタシが何も知らないって、そう思ってるんだ。……知ってるカラ」
嫌な汗が背中を伝う。一の鼓動は早まっていた。
「キッドナップとジャネットがカンケーしてるかもって、そう言いたいんでしょ?」
ジェーンは小さく息を吐く。やりきれない感情を断ち切るような、そんな思いが見て取れた。
「答えは一つヨ。ほっといて。フレンドくらい自分でチョイス出来るわ」
「そうじゃなくって……」
「どうだって言うの? ジャネットをうたがってるくせにっ。きらい。だいっきらい。あなたなんか、顔も見たくない」
一は絶句する。我が身に降り掛かったのは災難なのか、当然の天罰なのか、思考が、心が千々に乱れた。彼はまさか、ジェーンからとびっきりの敵意を向けられるとは思いもしなかったのである。自惚れているつもりはなかったが、一は強いショックを受けた。
「あな、た……?」
甘い声で兄と呼ばれない。それだけで、血の絆が薄まるような思いがした。
「不満かしら、ニノマエ」
「……別に。不満なんかないですよ」
一の敬語に、ジェーンは眉根を寄せたように見えた。彼は背を向けて歩き始める。どうにでもなれと、扉を押す腕に力がこもった。
深夜勤務は苦手だった。朝早く起きるのは苦痛ではないが、夜通し店にいなければならないのは、肌に悪いし、何よりすぐに眠たくなってしまう。一との険悪な雰囲気もあってか、やけに体がだるかった。仕事からの解放感もあったが、やはり、倦怠感がそれに勝っている。ジェーンは目を擦りながら、店の扉を開けた。そこには、友人がいる。彼女の顔を認めた途端、両肩に圧し掛かっていた疲労がどこかへ飛んでいったように思えた。
「お待たせ」
「そんなに待ってない」
ジャネットとは昨日出会ったばかりだと言うのに、もう何年もの付き合いがあるように錯覚している。ジェーンの頬は自然と緩んだ。駒台に来てから、『友達』と呼べる初めての存在。経験。嬉しくて嬉しくて、仕方がなかった。
「昨日は言ってなかったと思うケド、お店の場所、分かったの?」
「うん」
「エンジェルから聞いたのかしら」
侮蔑の意は含まれていない。ジェーンは、ジャネットを少しだけ困らせてみたかったのだ。
「ううん。これ」ジャネットがポケットから出したのは、アイボリーホワイトの携帯電話である。
「……エンジェル?」
「そう見える?」
見えなかったので、ジェーンはふるふると首を横に振った。
「道が分かるから、便利」
「オゥ、I see」
「ここ、案内してくれるんでしょ?」
「イエース。何もないトコだけどね」
「嬉しい」
目を細めるジャネット。ジェーンは思わず見蕩れてしまう。
三森や立花、店長、堀、一と話している時とも違う。仕事も、利害も、何も関係ない。ジャネットは自分にとって対等だと思える相手だった。ただ、楽しい。一緒にいられるだけで良い。心底からそう思える。
「さっきの、あの人がジェーンのお兄ちゃん?」
「そう、だケド……」
「……血」ジャネットは躊躇いがちに口を開いた。
「繋がってないんだね」
アメリカ人の自分、日本人の一を見れば分かる話なので、ジェーンは首肯する。隠していても仕方がないと判断したのだ。
「あんな人、ブラザーでも何でもないけどネ」
「強がり」
「強がってなんか……」
「お兄さんと本気で喧嘩、した事ないでしょ」
一と喧嘩? ジェーンは考え込む。アメリカにいた時こそなかったが、ここにいる時には一度だけあった。満月の晩、狼が吠える夜、薄暗い森の中で戦った。
「あるもん」
「それなら気にしなくて良いね」
何を。そう聞きたかったが、ジャネットは先に歩き出してしまう。
「ルートっ、分かるの?」
「あ、分かんない」
アパートに戻った一は、畳の上でごろごろと転がりながら唸った後、部屋を出て、山田の部屋、その扉を叩いた。ジェーンの事が心配だった訳ではない。ただ、自分が話を聞きたいだけなのだと言い聞かせて。
「よう一、お帰り」
瞼を擦りながら山田が扉を開く。悪い事をしたかな、と、一は申し訳なさそうな顔を作った。
「寝てましたか?」
「いや、今から寝ようかなって。おいアイネ、さっさと帰れよ!」
「アイネ、いるんですか?」
山田は困ったような、照れたような笑みを浮かべる。
「寂しいとか言うからよ」
「なっ、決してそのような……! ウーノっ、『神社』の申し上げた事はでたらめです!」
どっちでも良いが、それを口に出すほど一は馬鹿ではなかった。
「好都合ですね。あの、二人に聞きたい事があるんです」
「ん? おう、何でも聞けよ。とりあえず部屋上がんな」
「あ、お邪魔します。……お邪魔して良いんですかね?」
「何言ってんだお前」
言いつつも、一は靴を脱いでいる。山田の部屋が広く感じられて、彼はきょろきょろと中を見回した。家具が少ないと気付き、なるほどと納得する。中央に置かれたちゃぶ台に、電気式のストーブ、小型の冷蔵庫、敷いたままの布団、その上で正座しているアイネ、無造作に置かれた酒瓶、くらいのものだった。
「荷物、まだ届いてないんですか?」
「いや? 大体届いてるぜ。あんまり重いもんは実家に置きっぱなしだけどよ」
「少なくないですか……?」
「そうかあ?」
山田は首を捻る。
「テレビくらいお買いになってはどうですか? いつまでも私の部屋でご覧になるくらいでしたら」
「お前だってオレの部屋に居ついてんじゃねえかよ」
「……あの、それで本題なんですけど」
「おう、悪い悪い。で、何だよ? ……まあ、オレたちに聞きたいって事は、あんまり楽しい話じゃねえんだろうけどな」
フリーランスに尋ねたい事柄など決まりきっている。一はちゃぶ台を挟んで山田の対面に腰を下ろした。アイネはしれっとした顔で彼の傍に陣取る。
「もったいぶっても仕方ないですから単刀直入に聞きます。『広場』ってフリーランスを知っていますか?」
溜め息が漏れた。山田からも、アイネからも、である。
「マジでつまんねえ話じゃねえかよ。はーあ、酒、酒」
「そんな、やばい連中なのか……」
「第一印象、見た目からですと、まともにお見えになるんですけれど。……あまり、良くおっしゃる方もいらっしゃらないと存じます」
フリーランス『広場』、同業者からの評判はイマイチだった。
「具体的には、どういう感じで」
「神様だよ、神様。あいつらは神様だの、天使の声が聞こえるって言い張ってんだ」
「そりゃあやばいですね。……え? 本当に? そう言ってるんですか?」
アイネが頷く。何か言おうとするが、すぐに俯いてしまった。彼女は慎重に言葉を選んでいるらしい。
「正確に申し上げますと、声を聞けるのは『広場』でもただ一人、そう、うかがっています」
「一人、か。じゃあ、そいつの言ってる事が嘘か本当か分からないじゃないか」
「それでも信じてやがんだよ。だから厄介で、やばい。一はさ、どうして飯を食う? どうして水を飲む?」
その質問は、どうしてお前は生きているのかと、同じレベルのものだった。一は目を瞑り、低く唸る。
「どうしてって、お腹が空いたから、喉が渇いたから、でしょう」
「『広場』ってのはそうじゃねえんだ。神様がそう言ってたから、そうするんだよ。誰かを殺せと言われりゃ殺すし、死ねと言われたら喜んで死ぬだろうな。極論でも誇張表現でもなく、マジでそうなんだから手に負えねえ。何かを信じるのは勝手だけどよ、いき過ぎだぜ」
「信仰心が篤いと言えば聞こえがよろしいのでしょうけど、私たちは『広場』を電波、などとお呼びしています」
殺せと言われれば殺す。
死ねと言われれば死ぬ。
ならば、子供をさらえと言われればさらう?
一は降って湧いた考えを、くだらないとは切って捨てられなかった。
「誰だったかな、何て言ったっけあのガキ。確か、『広場』の女が天使の声を聞けるとか抜かしてやがったな」
「実際、神様だとかの声って、マジに聞けるんですかね」
「巫病という言葉をお聞きになった事はおありですか?」
「ふびょう? いや、何それ?」
アイネは瓶底眼鏡の位置を人差し指で押し上げる。外せば良いのにと一は思った。
「呪術者がシャーマンになる過程において罹患する心身の異常状態です」
「……はあ? シャーマン? シャーマンって、イタコみたいな奴の事か?」
「そのようなものです。巫病は思春期に発症するのが殆どで、発熱、幻聴、神様の現れる夢、昏睡や異常行動が症状として現れますの。シャーマンでなくとも、世界中で患者が散見される症例ですわ」
「へえ、神様の……」
一は何となく山田を見てしまう。
「オレはシャーマンじゃねえぞ」
「でも、巫女ですよね」
「関係ねえよ、病気なんだろ? なる奴はなるし、ならねえ奴はならねえ」
男らしい発言だった。と言うか巫女かどうかも分からなかった。
「まあ、言っちまえばアレか。宗教的な、本当か嘘か分かんないって奴だろ」
「巫病は医学的にも病例として取り上げられていますわ。ノイローゼ、てんかんといった精神症の一種と考えられております」
「へえ、アイネは物知りだな」
「ありがとう存じます。……ウーノは、ジャンヌダルクをご存知ですか?」
一は乾いた笑みを浮かべる。どうやら、自分は相当に物を知らない人間だと思われているらしいと、少しだけ悲しくなった。
「オルレアンの乙女だろ。百年戦争で活躍したって、フランスの英雄じゃんか」
「へえ、一、良く知ってたな」
「はっはっは、俺を誰だと思っているんですか」
「……そう言えば、この間ジャンヌダルクを取り扱った映画がテレビで……」
「アイネ、しっ! ……で、ジャンヌダルクが巫病とどう関係するんだ?」
言ってから、一ははたと気付く。
「もしかして、ジャンヌは巫病、だったのか?」
ジャンヌダルクはオルレアン解放に貢献し、シャルル七世をランスで戴冠させ、フランスに勝利をもたらしたと、そう言われている。宗教裁判では異端者と断罪されて火刑になったが、それでも、彼女は聖女の、大天使の声を聞いたと言い張った。その声に従った事で、一介の村娘が救国の英雄となったのである。
「彼女は脳疾患患者だったとおっしゃる方もいらっしゃいますわ。声を聞いたなどは、幻覚症状のみの、てんかんによるものだと。原因、考察、報告、様々なものが確認されておりますが、やはりジャンヌダルクは健常だった、とは申し上げられないと存じます」
話を聞いていた山田が、酒瓶を持ち上げた。
「側頭葉てんかんだったら、更にありえる話だな」一は山田に視線を送る。
「側頭葉には神の回路ってなもんがあって、そこを刺激されたら神がかり的な言動で、すっげえ事やっちまうんだーって話。聞いた事ねえか?」
「博学ですわね『神社』。補足程度に申し上げるなら、自律的なジャンヌは時として人が変わったかのように攻撃的になるという、典型的なてんかん気質だったそうですわ」
一は腕を組んで思考に耽った。神の声を聞くというのも、全くありえない話ではないのだろうか、と。
「……『広場』の、天使の声を聞けるって奴も、もしかしたら」
「かはは、マジだったにしろそうでなかったにしろ、ややこしいってのに変わりはねえっつーの。色んな意味で世界は一つじゃねえ。私の神とオレの神、どちらが正しいか比べてみましょうなんて、存在すんのかどうか、存在したとして姿見せねえもんなんか、比べようもねえって話だ。信仰心にうるさい奴なんか鬱陶しいだけなんだよ。関わらないのが一番だ」
「ウーノ、もしかして『広場』と……?」
「いやいやいや」一は首を振り、手を振った。
「今日、店でそいつらの話を聞いてさ、別に、それだけだよ」
「噂をすれば何とやら、じゃねえの?」
「やめてくださいよ、そういうの……」
駅前の裏路地、そこに停めた自転車を確認して、少年は安堵した。鍵を掛け忘れていたので、盗まれるかどうか、気が気でなかったのである。ついさっきまで遊び回っていた友人と分かれ、後は帰るだけだ。彼は歩くペースを落として、人波を擦り抜けていく。路地に近づくと、奥の方から人影がぬっと現れるのが見えた。沈む陽を背にしたそれ。目を凝らすと、外套を羽織った老人なのだと気付けた。少年は特に怪しむ様子もなく、自転車のハンドルに手を伸ばす。
「若いの」
少年は暫くしてから振り向いた。彼のきょとんとした顔を見て、老人は愉しげに口の端を歪める。少年はその笑みに嫌悪感を覚えた。
「兄弟はおるかの?」
知らない人に声を掛けられる。返事をしてはいけないと教えられたのはいつの事だったか。少年は考えてから、答える。
「……いないよ」
「ほう、そうかっ」
老人は笑みを深めた。少年は困惑する。
「あの、何? 何か用でもあんの?」
「おうおう、焦らなくても良い。さ、ついてこい」
老人は駅前には出ようとせず、路地の向こうに歩を進める。
「はあ? いや行かねえし。勝手にしろよジジイ」
サドルに跨ろうとする少年だったが、老人に肩を掴まれた。存外に強く、年老いた者の力とは思えなかった。
「いかんなあ。目上、年上の者には敬意を払わんと」
「……っ、離せよ!」
変質者だ。少年は通行人に助けを求めようとする。声を出し、足を踏み出そうとした瞬間、掴まれていた肩に爪が食い込む。老人は素早い動きで彼の首を締め上げた。
少年は苦しそうに呻いた。空気を取り込もうとして、逃れようとして必死にあがく。だが、時間が経つにつれて大人しくなり始めた。やがて、彼は動きを止める。老人の傍らに影が立った。漆黒色の外套を羽織った男である。突然の出現にも関わらず、老人は動じなかった。
「くびり殺したのですか?」
低い声が尋ねる。老人は男と知り合いだったらしく、軽口を叩いた。
「かっ、馬鹿な。こんな、そそる声の持ち主を簡単には殺さんよ」
その言葉を聞き、男は哀れむような視線を少年に送る。
「いずれ死する運命にあるなら、ここで逝かせてやるのも……」
「いやいや、わしと出会った時点で生殺与奪は握られておる。残念じゃが、恨むなら己を恨んでもらわんと。……この期に及んで、殺人を忌避するような妄言は吐くまいな?」
男は獰猛な笑みを見せる。ひとしきり笑った後、彼は老人を見下ろした。
「血を吸う鬼に何を尋ねるかと思えば。失礼ですが、あなたよりも多くの人間の血を啜ってきたつもりですよ」
「ほっほ、愚問じゃったな。陽も落ちる。儀式には良い頃合いじゃなあ」
「では、戻るとしましょう。我らが祭壇に」
老人は頷き、少年を男に任せた。
駒台。何と禍々しい気が充満した街か。ビルの屋上から見下ろす街並。反吐が出そうだった。風が髪を撫でていく。その音に紛れて、背後に誰かが立った。
「青髭を捉えました」
「ご苦労」振り向かずに言う。答えたのは、フリーランス集団『広場』をまとめる男、ジャンである。彼らが駒台にやってきたのは、青髭と呼ばれるモノを殺害する為だ。
「ジャン隊長、神は何と……?」
「声は彼女にしか聞こえない。呼び戻さなくてはならないな」
先行させたメンバーを思い浮べて、ジャンは苦笑する。
「しかし、働かないお人だ。今頃は何をしているのやら」
「……ご自分が副隊長だと理解していらっしゃるのでしょうか。正直、戦闘力、判断力から考えても、ジェイルの方が優れているのでは……」
「では、ジェイルに神の声が聞けるのか? 無理だろう。我々は、あの人抜きでは成り立たない。成り立たせる意味がない」
自分たち『広場』は、神に従い、神の為に動く。神はいつか、ソレが出現した混迷極まる世界を救済する筈だ。彼の声を聞くには、彼女が必要だった。ジャンは遠くを見つめる。下った命、完遂するまでは死ぬのを許されない。
「青髭は?」
「コマダイの中心部からは離れた鉄塔に祭壇を用意しています。生け贄も揃っているようでした」
「儀式の始まる瞬間に仕掛ける。少しは弛緩しているだろうからな。その前に準備を終えたい」
「揃っています。ただ、一人を除いて」
「ならばあの人抜きで仕掛ける。……戦場には似合わない方だ。声を聞いているのだから、仕事は終わっている」
青と白。二色を基調とした服は、『広場』のメンバーが着用する制服である。彼らの腰には西洋の剣が提げられていた。全員が同じ服、同じ武器を持つ事で統一感が生まれる。仲間意識は強まり、絆が芽生える。『広場』には神が、神の声を聞き届ける巫女がいる。ジャンは抜剣し、天を示した。
「向かうぞ戦場。我らには神の加護がある。恐れる心はここに置いていけ」
逢魔が時。『広場』は戦場を目指す。標的が神に捧げる供物なれば、退く事はありえない。
夕闇が周囲を染め上げる。『広場』の構成員、七名が駒台を駆け抜ける。人々は悲鳴を上げた。見慣れない服装をした男女が剣を掲げ、構えている。道は空き、人波が割れた。
目的の地へ向かうにつれ、人気はなくなりつつある。件の鉄塔が見えて、メンバーに緊張が走る。長であるジャンはそれを感じ取り、口を開いた。
「恐れるな諸君、我らは一騎当千の強者だ。神がついている。破れる筈がない」
言葉は安い。しかし、神の名を聞いて『広場』の面々からは笑みが零れる。一時的とは言え、絶対の自信が、彼らをストレスから解き放っていた。
次の瞬間、それが崩れる。鉄塔の前に、炎が立ち上っていた。何かが焼け焦げる臭気、揺らめく景色。牡牛を模した、どこか悪趣味な祭壇が視界に入る。火炙りになっているのは、その祭壇だった。
「これは……!?」
「……儀式はもう始まっていたのか?」
驚愕の声が上がる。『広場』の七名は散開を始めた。注意深く、じりじりと歩を進める。肝心の青髭の姿が見当たらない。火の粉が爆ぜる。陽炎の向こうから泣き声が聞こえた気がして、ジャンは思わず足を止めた。彼だけでなく、全員が祭壇を注視する。巨大なそれから、やはり何かが音を立てているのだ。想像を巡らせて、結論に辿り着く。分かっていて犠牲にした。それでも罪悪感が身を苛む。
「子供の声だ……」
誰かが呟いた。助けを求める声は大きくなる。
「ジャン、子供を、子供を助けなきゃ」
「ならない」ジャンは逸る者を押し留めた。生け贄について伝えていた筈だったが、実際、その場に出くわせば揺らぐ。動揺が広がるのを理解しつつも、彼は伝播を止める術を知らなかった。ジャン本人も、未だ迷っている。奇襲を仕掛けたつもりだが、失敗に終わった。次に打つ手が思いつかない。
「ジャン!」
呼び掛けられて気を取り直す。仲間が指差した、鉄塔に備え付けられた階段の踊り場、そこに、敵がいた。
外套を羽織った、背の低い老人である。笑みを浮かべるその姿、一見すると髭を蓄えた好々爺だが、この場には相応しくなかった。少年の悲鳴、肉を焦がす臭い、立ち込める暗い闇。獣じみた笑みは人間の顔ではない。
「青髭……!」
声に応えるかのように、青髭が両手を広げた。
「ようきなすった、ここはゲヘナ。悪魔を呼び出すには格好の、絶好の場所じゃろう」
「戯言を」悪魔を召喚する。青髭の発言を受け、『広場』は彼を嘲笑した。精神に異常をきたした、行き着くところまで行ったサタニストだ、と。
気付いていない。
誰一人として気付かない。悪魔の存在を、青髭の所業を笑う彼らが信じるモノも、それに近しいモノだという事を。
「ほっほ、笑うが良い。慣れておる。それよりも残念じゃなあ、お主らには、魔が降臨するその瞬間を見せる事が叶わんとは」
青髭は諦めたようにうな垂れる。『広場』の一人が足を一歩踏み出した。背の高い黒髪の女性である。彼女は祭壇、それから、青髭に視線を移した。
「子供を助けるわよ」
女性メンバーの鋭い視線を認めて、青髭は顎を擦った。
「むう、事ここに及んでは仕方あるまい。まだ息はあるじゃろうて、許そう」
「てめえは許さねえけどな」大柄な男が青髭を睨み付ける。
「かかか、好きにすると良い」
二人が祭壇へと向かった。残った五名はジャンを先頭に青髭のいる階段を目指す。
「気付かぬかなあ」
ぽつりと青髭が漏らした。声量が小さかったせいか、誰にも聞こえていない。
「現世はやりやすくて仕方ない。愚図と無能が蔓延りよるわ。鬼には些かつまらんかもしれんなあ」
鉄塔前から影が伸びる。祭壇へと向かう、動くそれを気に留める者はいなかった。
「のう、ドラクリヤよ」
影が、祭壇の周囲に広がる。『広場』の二人は制服を脱ぎ、それで炎を消そうとしていた。
「全くその通りで」
真下から声が聞こえた事により、ようやくになって二人は異常に気付く。しかし、あまりにも遅い。生死を掛けるフリーランスとしては致命的なまでの鈍重さだった。
「おおおっ!?」
男がその場から飛び退こうとするが、彼の行動が終わるよりも先に影が現れる。長く、太い。それはまるで――――。
鮮血が迸った。男の腹部には、杭状になった影が深々と突き刺さっている。喀血し、彼が顔を下げたと同時、別の影が立ち上った。避ける事は不可能で、一切の慈悲もなく眼球を貫き、脳にまで達する。尚も頭蓋を貫いて、杭の先端が脳漿を巻き込み、外気に触れた。
一瞬遅れて、祭壇からパニックが伝染する。青髭に向かっていた者は足を止め、仲間だったモノを忘我に近い表情で見つめた。
「……っ、ジューン! 早く逃げろ!」
ジャンの声に、ジューンと呼ばれた女が反応する。彼女の顔面にはおびただしい量の血液が付着していた。女は影から逃れようとするが、
「血化粧とは何とも」
足の甲に激痛が走る。男を貫いたものよりも細長い、串のような影が、女に突き刺さっていた。その串は長く、引き抜くのは困難極まる。地面に縫い止められた彼女は低い唸り声と共に顎を反らした。
他の『広場』が女を助けようとして走り出すが、ジャンは彼らを制止する。
「全滅する気か!?」
「ほっほう! さぞかし痛いじゃろうなあ! ほれっ、早く助けに行ってやらんと!」
死ねと、青髭は『広場』を煽った。ジャンたちは動けない。仲間はまだ死んでいない。足を刺されただけだ。しかし、正体不明の相手に向かえるほど士気は高まっていなかったのである。次は誰の番だと慄いていた。
「違えるなっ、『広場』は神の声に従い、青髭を優先する!」
「ですがっ」
「青髭は目の前なんだぞ!?」
仲間を失い、激情に駆られたジャンは大声を上げる。
「見捨てられるか!」
男が一人が飛び出した。残りの者は彼を追えずに、かと言って青髭にも迫れずに立ち尽くす。
女のもとへ駆け寄る男は勇ましい声を放ち、剣を振り上げた。どろどろと蠢く影に向かって、得物を振り下ろす。だが、影は一瞬にして形を変えた。切り付けられそうになった部分は霧状になり、周囲に散っていく。
「ジューン、今助ける……!」
その隙に串を引き抜く為、男は影の切断を試みた。短くなれば、何とか引き抜けるだろうと考えたのである。細く、長く、鋭い影に剣の腹を当てた。
瞬間、四方八方の空間から串が出現する。霧状になっていた影が、いつの間にか『広場』の二人を取り囲んでいたのだ。……逃れられる筈はない。数十を超える串が檻となっている。
ジャンは惨劇から目を逸らす。だから言ったのにと、内心で犠牲者を軽蔑していた。
「撒き餌に集るのは雑魚の習性じゃなあ! ほれどうしたっ、わしを殺すのではなかったか!?」
「外道が……!」
「かかっ、吠えろ若造。それが主らの精一杯じゃろう?」
見下され、それ以上何も言えない。ジャンは長い息を吐くと、号令も掛けずに単身で青髭に向かった。そも、残ったメンバーには戦意が残っていない。根こそぎ刈り取られてしまったのだ。