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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
モロク
214/328

HIT IN THE USA



 星を見るのが好きだった。

 夜空に浮かぶささやかな光は、嫌な事も、どんな悩みだって忘れさせてくれた。

 今でも、夢に見る。

 風の出てきたあの日、彼と共に空を見上げた日、いつもの屋根が、いつもとは違う風に感じられた日、星と月は自分だけのものではないと気付いた日。

 星を見るのが好きだった。

 空を見るのが好きだった。

 月を、見るのが好きだった。

 だが、もう叶わない。十五夜の月は味方ではなくなってしまった。この身を変えて、血を騒がせ、心を狂わせる魔性のそれとなり果てている。だからもう、星空と、月夜を見上げる事はないのだろう。



 出ているから、逃れられない。



 路地裏の薄闇に、ぽつぽつと灯りがちらつく。すぐにそれは消えて、橙色の光源が代わりに浮かび上がった。紫煙が幾つか立ち昇る。声変わりが始まったばかりであろう、少年たちの声が小さく聞こえた。

「明日どうする?」

「学校? いや、行けば良いじゃん」

「えー、めんどい。宿題やってねえし」

 学生服を着た少年たちはそれぞれゴミバケツの上に座ったり、汚らしい壁に背中を押し付けている。彼らは駒台中学校の生徒で、未成年なのは言うまでもない。ここは先日、ムシュフシュと呼ばれたソレが出現した近くのビルとビルの間であり、見咎める者も、そもそも通り掛かる者すらおらず、少年たちにとってはうるさい大人のいない、ある種、楽園のようなところであった。

「あーあーあー、義務教育ってのは誰が考えたんだろな。学校なんか行かなくても死にゃあしないってのに」

「どうせならさあ、ソレが、こう、国会議事堂的なところに出てくれば良いのにな」

「だったら小倉ん家に出てきて欲しいよな」

「あいつ俺ら目ぇつけてんだぜ。マジうぜえ、そう思うよな? つーか、お前も吸えよ」

 差し出された煙草を一目見て、大人しそうな少年は首を横に振る。

「僕は良いよ。……もう、塾に行かなくちゃいけないんだけど」

「はー? んなのサボっちまえって。高校なんか行かなくても楽しくやってられるっつの」

「やっててよ」

 冷めた目をした少年は雑踏に足を向けた。だが、彼は肩を思い切り掴まれてしまう。

「お前さ、最近付き合い悪くね? つか完全調子乗ってんじゃん。寒いんだよ、マジで」

「……ほっといてよ」

「ああっ?」

 拳が振り上がる。大人しそうな少年は目を瞑った。くぐもった呻き。場違いな水音。それはやけに粘度を帯びた音であり、妙に生臭い。恐る恐る瞼を開ければ、眼前にいた筈の友人が宙に浮いていた。否、浮かされていたと言うべきか。

「……あ、が」声が零れる。血が漏れる。落ちた煙草にそれが滴り火種が消えた。

 少年は瞬きも出来ないまま、広がるそれへ視線が釘付けになる。視線が、体が、思考が、固められるものの殆どが固められている。

「くくく、暴力はいかん。人間だものなあ、ルールに縛られなければけだものと何ら変わりはないと言うに」

 耳元まで這いずるような足音が聞こえて、少年は背後に意識を向けた。

「飲酒、喫煙結構だろうが、この国では二十歳未満がそれをやるには早いのではなかったかな? それに、若い内からの酒と煙草は体を腐らせる。臭いがな、きつくなるんじゃよ。そうは思わんか、若いの」

 血が滴り落ちる。黒く、太い影がそそり立っている。それは少年の友人たちを串刺しにして、今も尚鮮血を吸い出していた。白目を剥いたモノと目が合ったような気がして、唯一生き残った少年の膝が笑いだす。

「ん? 礼も言えんか? わしは助けてやった。若いのは助けてもらった。いやいや、今更、神だの倫理、道徳など説くつもりも、説ける資格もありはしない身じゃが」

「……何、これ……?」

 少年の肩にしわくちゃの手が置かれる。影の中から老人が姿を現した。口元は醜く歪んでおり、目は血走っている。髭は青々と、好き放題に伸びていた。

「これとは、串刺しになったモノを指しておるのか? それとも、この杭そのものか? あるいは、この状況を言っておるつもりか?」

 少年は答えられない。非日常に叩き落とされたせいか、正常な判断を下せない。

「それは死体じゃよ、とっくに命が失われた、もはや肉塊でしかない。友人だったか? わしにはそうは見えんかったがの。ならば悪い事をした。が、まあ、杭に貫かれたのだから諦めてもらうしかない。ほっほ、ある意味、そうなるのは必然とも言えたがなあ」

 白い外套を羽織った老人は冗舌だった。彼は目を細めて死体を見遣る。

「最後の質問じゃが、この状況をどう取るかは各人に委ねるとするかの。……さて、そろそろ連れていっても?」

 どこに連れていくと言うのか。少年は体を震わせる。

「ふむ、ところで、兄弟はいるかの? 若いの、お主が長男なら喜ばしいのじゃが。何せ、チェックメイトまで後一手に迫っているのでな」

 得体の知れない、淀んだ雰囲気に圧されてしまい、少年は首を横に振る。老人は少しだけ残念そうに息を吐いた。

「では、良いところに連れていこう。最初は苦しいかもしれんが、すぐにイイ思いをさせてやるからなあ……」

 老人の瞳はぎらついている。宿した光は凶暴で、歓喜にも満ちていた。

 杭状の影が引っ込むと、多量の血液を失った、からからに乾いた死体が地に落ちる。ぬめる水溜まりが跳ねた。少年は何も考えられないまま、老人の後ろをふらふらと追い掛ける。誰もいない。助けは来ない。そこをそう呼ぶのなら蹂躙された楽園、ここから抜け出せるのなら悪魔の手引きだろうと構わなかったのだ。尤も、青髭と共に行く先は新たなユートピアではない。どうあがいても結末は変わらない、彼の向かう先はゲヘナでしかないのだから。



「ハーイ、ファインだったカシラ、ボス?」

『……ゴーウェストか。どうした、お前の退院はまだ先の筈だと聞いていたが』

 ブロンドをツーテールに括った少女、ジェーン=ゴーウェストは携帯電話をくるりと回した。彼女は今、駒台病院の入り口前にいる。傍にはオンリーワン医療部の炉辺が、困ったような顔をして立っていた。

「アタシがいなくてサーミッシイだろうカラ、ベッドから下りてきたのヨ。今日から仕事に戻るわ」

『こちらとしては拒む理由もないが、具合は良いのか?』

「トゥー、バッド。お兄ちゃんに会えなかったもの。そろそろリミット。と、言うワケで」

『お前がそう言うのなら構わんがな。では、店で待つ』

「ウェイウェイウェイ。ボス、お兄ちゃんをこっちによこして。電話、つながらないの」

 炉辺はジェーンの肩をつつく。

『何故私がそこまでしなくてはならないんだ。出るまで掛けろ』

「お兄ちゃんってば、アタシからだとシャイがって出ないノ。こっちもかけるけど、そっちからもかけてチョーダイ。それくらいオッケイでしょ?」

『まあ、暇があったらな』

「オーウェイズヒマじゃナイ」

 電話は向こうから切られてしまう。ジェーンは不満げな表情を浮かべると、炉辺の存在にようやく気が付いた。

「ジェーンちゃん、退院はまだ早いと思うんだけど」

「トゥーレイト。ノープロブレム」

「怪我は大丈夫だけど。けど、だってそろそろ……」

 ジェーンは首を振り、その続きを遮った。炉辺の言いたい事は誰よりも、自分が良く分かっている。

「ティアドロップしたって、上を向いて歩かなければ良いだけヨ」

「でも……」炉辺は食い下がろうとする。

「なら、止めてみる? アタシを止められるかしら?」

 ジェーンは挑発的に笑んだ。まだ幼さの残る顔つきだが、意志の強さは歳に似合わず確かなものである。炉辺は諦めて、相好を崩した。

「寂しいからすぐに戻ってきてね。私、待ってるから」

「エンギでもないわネ……」



 かしましい声が部屋の中から聞こえてくる。扉を背にしながら、一は何度目になるか分からない溜め息を吐いた。

「……いつまで掛かるんだか」呟きは嬌声に掻き消されてしまう。一は煙草に火を点けようとして、やはり思い直した。

 一が立っているのは、中内荘の新たな住居人、山田栞の部屋の前である。中にいるのは山田、アイネ、チアキの三人だ。

 まだ、現実味が湧いてこない。昨日の今日の約束を果たすとは思いもしなかった。約束と言うのは山田と一が交わしたもので、その内容は――――。

「……デート、ねえ」口に出しても、相変わらずふわふわとした現実である。午前十時の空の下、一はあくびを噛み殺した。こうして待たされてから、既に三十分は回っている。

「師匠師匠、もうちょい待ってな」

 扉が僅かに開き、チアキが楽しそうに口を開いた。

「もう三度目だよ、その台詞は。つーかお前らだけで盛り上がってんなよ? 栞さん、嫌がってないか?」

「くふふ、それがそれがまんざらでもないっちゅう感じやねんなあ。ほら、いっつも巫女巫女ナースやん? 女の子やもん、色々と着てみたかったんとちゃう?」

「ナースは違うだろ」

「ほほほ、ナースはお嫌いですかな?」

 一は口元を歪めた。馬鹿らしいとでも言いたげに。

「まあ、男って制服が好きやからなあ」

「俺は何も言ってねえぞ」

「目ぇは口ほどに物を言うねんで。……ま、あとちょーっとだけ。な?」

 もとより、待つしかない。一は頷き、あっちへ行けとジェスチャーを見せた。

 それからもう十分経つと、扉が完全に開く。一は苛立ちから少しだけ眉をつり上げた。が、すぐにその感情は消え去っていく。驚いて、思わず目を見開いた。

「あら、何を恥ずかしがっていますの? 今のあなたは立派なレディです」

 アイネに手を引かれて現れたのは山田栞その人である。だが、一はすぐには彼女だと認識出来なかった。いつもの巫女装束とは違う。フェイクファーのついた黒のコート。チェックのミニスカート。ブラックとブラウンでまとめた、彼女は実にそれらしい格好をしていたのだ。

「みっ、見んなよ減るじゃねえか!」

 山田は俯き、それから、一の様子をじっと窺う。彼は困ったように頬を掻いているだけだった。

「あ、はは、やっぱ変だよな。っつーか! 何だよこのグラサン!」

「ああっ、お止めになって!」

 正気を失ったかのように暴れ回ろうとする山田を見て、一はどう声を掛ければ良いのか、余計に分からなくなる。そんな彼の背中を、チアキは小さく叩いた。

「ししょー、はよ何か言ったりぃや」

「……何かって、何を言えば良いんだろうな?」

 チアキは呆れた風に息を吐く。一は仕方なく、素直な気持ちを言葉にしようと思った。

「栞さん」

「なっ、何だよ?」

「かっこいいですよ」

「……お? あ、ありがとよ」

「かっこいいはないやろ」

「そうですわねえ、でも、女心を知り尽くしたペルフェットなウーノは想像出来ませんわ」

 何と言われようとも、一には山田が格好良いとしか思えない。可愛いは当てはまらないだろうし、勿論、彼女は綺麗だが、最初に思ったのはそういう事だった。

「そんじゃ、そろそろ行ってきい。結構時間食ってもうたしなあ」

「なっ、お前らがオレを好き勝手にいじりやがるから……」

「んんー? 迷惑やったん? えー、うちにはそうは見えへんかったけどなあ。『なあなあ、一はこういうの好きだと思うか』『オレには似合わない』とか言いながら乗り気で……」

「一っ! 行くぞ!」

「どこに」

「居酒屋」山田は一の手首を掴み、ずんずんと歩き始める。チアキたちは意地悪い笑みを浮かべて手を振っていた。



 電話は通じない。何度掛けても誰も出ない。結局、一は見舞いにすら来てくれなかったのを思い出す。もしかして、もう二度と会えないのかもしれない。そんな不安がジェーンの頭を過った。

「何よ妹、中に入って待てば良いのに」

「シャラップ」

 ジェーンの隣に立つ糸原は、スーツの上から借り物のコートを羽織っている。彼女は目の前で揺れるツーテールをくいくいと引っ張った。

「一、まだ電話に出ないの?」

 小さく頷き、ジェーンは携帯電話の蓋を閉じる。

「どっか行ってんじゃないの? あいつ、知り合い多いし。厄介な事に巻き込まれてたりね。もしくは、誰かとデートに、とかね」

「……ヨユウ、あるじゃない。お兄ちゃんが取られちゃってもイイの?」

 問われて、糸原は意味ありげに微笑む。

「ま、お子様には分からないかもねー。私みたく良い女なら、そんな心配いらないのよ」

 眉根を寄せてつり上げて。ジェーンは足で床を踏み付ける。

「とっておきのおしおきを用意しちゃうんダカラ」

「あんまり縛っちゃ可哀相だと思うけどー? がちがちに固めたってこっち向いてくんないとさあ」

「うるさいっ、ペイ下げちゃうんだから!」



 中内荘を出発してから二時間。目的地はなかったが、中心街をぶらついて、それっぽくはなったのではなかろうか。と、一は隣を歩く山田に目を遣る。パンプスを履いたのは初めてだったのか、彼女は歩きづらそうにしていた。

 そも、一は山田にプランを投げていたので、平静を失った彼女からは何も聞き出せなかったのである。さっきからの山田といえば、恥ずかしそうに俯くのが常で、話し掛けても大した返事はしなかった。

「お腹減ってきちゃいましたね。どっか、適当なところ入りましょうか」

「ん、あ、頼む」

「……そういや、さっきはコート見てもらって助かりました。いや、前のはぼろぼろにされましたからね」

「お」山田は少しだけ顔を上げる。自分にはサングラスなんか似合わないと断言していたが、今の彼女は何故かそれをつけていた。

「おお、似合うと思うぜ。もっとさ、かっこいいもん着ろって」

「栞さんと釣り合い取れてませんしね」

「そういうんじゃなくてだな。一にはそういうのも似合うって言ってんだよ」

「努力してみますよ」

 一は握った袋を引き寄せる。少しばかり高い買い物だったが、山田が選んでくれたものなので気にしないように努めた。

「あの、それより、体調でも悪いんですか?」

「いや、別に。悪くねえよ。気分はむしろ良いぜ」

 その割には挙動不審である。どこか落ち着きがなく、サングラス越しにも山田の目は泳いでいるように一には思えた。

「……何か、すげえ見られてる気がする」

「ああ、栞さん、背ぇ高いし、銀髪ですし、美人だから」

 一は先程から、小さな優越感を覚えていたのである。山田をブランドのバッグみたく扱うのは気が引けたのだが。

「なあ」山田は申し訳なさそうに一を見る。

「オレ、無駄にでかくってごめんな。……どうせなら、アイネか、チアキみてえな女の子と歩きたかっただろ?」

「疲れてますね?」

「あー、実は。慣れてねえんだ、こういうのは。やっぱし、いつもの格好のが気が楽だ」

「俺に言った台詞、丸々返されちゃいますよ。心配しなくても、俺は楽しんでますから」

 本心から、一は言う。それが伝わったのか、山田は弛緩しきった笑みを浮かべた。

「お前がそう言ってくれたんなら、この服も捨てたもんじゃねえな」

「借り物でしょ」

「買う。で、またこういう風にしような」

「俺なんかが相手で良ければ。で、お昼はどうしましょう」

「酒飲みたい」山田はきっぱりと言い放った。

「いや、流石にそれは……じゃあ食べた後は? 映画見たいとか、どっか行きたいとか」

 サングラスを外して、じっと一を見つめた後、山田は瞳を潤ませる。

「お酒飲みたいよう」

「ああ、心が折れてる……」

「正直限界だ。デートは楽しいけど、オレの体とかがついてこられねえ。帰って着替えたい」

「着替えちゃうんですか? ……歌代、カメラ持ってたかな」

「やっ、止めろよ! オレの弱み握ったって良い事ねえぞ!」

「いや、ただ額に入れて飾ろうかな、と」

「うわああああ!?」

 あまり良い意味ではない注目を浴び始めたので、一は頭を掻いた。詰め寄る山田を引き剥がして、すまなさそうに口を開く。

「冗談ですって。じゃ、名残惜しいけど帰りましょうか」

「……割に、あっさりだよな」

 だったらどうすれば良いのだ。一は乾いた笑いを顔に張りつけた。



「ありゃ?」

 一と山田の姿を認めたチアキは、意外そうな声を漏らす。アパートの二階、一の部屋の前に立つ彼女は、そこから大きく手を振った。

「おーおー、はしゃいじゃって」一は小さく手を振り返す。

「もう帰ってきたーん!?」

「……下りてきて話せば良いのに」

 チアキの喉は完治していない。そも、完全に治る見込みすらないのだ。声を発するのに苦はないらしいが、擦れ切ったそれは、以前の透き通るような、清廉な声と比べれば……。一は手招きする。大声を出させるのは良くないと思ったのだ。

「ししょー」

「語尾を伸ばすなよ」

 一向に下りてきそうにないので、焦れた一は山田を置いて駆け出す。階段を上って、チアキを指差した。

「電話、さっきからずーっと鳴っとるみたいやで」



 戻ってきたばかりではあったが、店長からの電話を受けて、一は病院へと急いだ。ジェーンが退院して、今も入り口前で待ち惚けを食らっているという。大人しく中で待っていれば良いのにと思う反面、一度も見舞いに行ってやれなかった、罪悪感めいた気持ちが彼の足を速めていた。

 途中、一は花でも買っていってやろうかと考えたが、これ以上待たせれば何を言われるか分からない。まっすぐに目的地を目指す。二十分は歩いただろうか、病院が見えて、彼は息を吐き出した。一月も経っていないが、久しぶりに顔を見るなあと、少しだけ感慨深くなる。

 歩き始めて目を向ければ、小さな人影が視界に入ってきた。向こうも気付いたのか、大きく手を振ってくる。陽光を受けて、ブロンドのツーテールが輝いて見えた。

 待ちきれなくなったのか、ジェーンが走りよってくる。一はどんな顔をして良いのか決めかねたまま、彼女を受け入れた。

「おっそーい。ロスならチコクはデスペナルティなんだから」

「嘘吐け。元気だったか?」

 今し方退院した者に掛ける言葉ではないかもしれない。一は言ってから後悔する。

「お兄ちゃんに会えたから、今は元気なう」

「そりゃ良かった。……荷物、少なくないか?」

「タッキュービンで送っておいたの」

「荷物持ちくらいなら俺がやったのに」

 ジェーンは一の横に並び、彼の手を意味ありげに見遣る。

「お兄ちゃんの手がふさがっちゃうじゃナイ。こっちは、アタシの手をぎゅってしてくれなきゃ、ダメ」

「……どれだけ物を持ち込んでたんだ」両手いっぱいの荷を想像して、一はげんなりとした。

「で、家に戻るのか?」

「ボスにあいさつしたいから、お店にゴー、ね」

「あいよ」

 返答し、一は手を差し出す。握ってきたジェーンのそれは小さかった。細く、柔らかい。入院生活のせいなのか、前と比べて酷く頼りなくて、か弱かった。

「……なあ、本当に大丈夫なのか」

「もっと入院しててくれって聞こえるんだケド?」

 一は空を見上げる。まだ、はっきりと見えてはいない。だが、それは常にある。逃げ場などない。

「元気になったのは嬉しい。だけど、お前には危ない目に遭って欲しくないんだ」

「お兄ちゃん、アタシはここへ観光しに来たんじゃない。戦いに来たの」

「勤務外を辞めるってのは無理か?」

「パートタイマーじゃないんだから。アタシ、お兄ちゃんよりも立場が上なのヨ」

 ジェーンが手に力を込める。一は負けじと握り返した。

「アタシのが強いし。お兄ちゃんこそやめれば?」

「やだね。……なあ、続ける意味はあるのか? だって、お前の目的は……」

「バッドバグが多いんだもん。お兄ちゃんが取られちゃうのは、ヤだ」

 誰かに取られるつもりはないが、そう言ったところでジェーンは納得しないだろうと思われた。一はどう言い包めたものかと考える。

「でも、お前はまだ子供なんだし」

「――――ガキじゃない」

 手が離れた。温かさを失って、一は立ち止まる。

 ジェーンは一を強く見据えていた。感情を殺そうとしているものの、目の端には光るものがある。

「アタシはお兄ちゃんの妹だけど、子供なんかじゃナイ」

「何泣いてんだよ……」

「泣いてなんかっ」

「そういうところが子供だってんだよ。泣いてわがままが通るなんて思ってないだろうな」

 頬に赤みが差す。ジェーンは涙を零して、それでも一から視線を外さなかった。

「どうして分かってくれないのっ」

「何を分かれってんだ」

「アタシに決まってる!」

「分かってるよ」言って、一はジェーンの手を握る。その力が強かったせいか、彼女は拒む素振りを見せた。

「ほら、行くぞ」

 ジェーンを引っ張るようにして、一は歩き始める。

「……分かってないよ」

 呟いた声は風に流された。



 オンリーワン北駒台店に着くと、カウンターからナナが手を振るのが見えた。一はジェーンの手を離して、彼女に向かって手を上げる。

「マスター、おはようございます。あら、ジェーンさんではないですか。お体の具合はよろしいのですか?」

 問われて、ジェーンは小さく笑う。

「それはようございました。マスター、外は寒かったでしょう。何か温かいものをご用意させていただきます」

 ジェーンは訝しげにナナを見つめた。

「いや、俺はすぐに帰るから」

「折角いらしたのですからごゆっくりしていってくださいな。ナナも、マスターのご来訪を心よりお待ちしておりました」

 ナナは一のコートを脱がそうとする。彼はそれを強く拒まなかった。

「買ったばかりだから大切に扱って欲しいんだけど」

「存じております。ああ、マスターのにほひ……」

「嗅覚ねえだろが」

 疑惑は強まる。ジェーンが口を開き掛けた瞬間「あっ、はじめ君だ! ジェーンちゃんもいる!」 バックルームから立花が姿を見せた。彼女は身を低くして、タックルのように一へと飛び掛かる。彼は腰を低くして、それを切った。

「今日も元気だね」

「触らせてくれても良いじゃないかっ」

「何だか、つい」

 一は立ち上がり、立花から離れようとする。しかし、彼女は食べ物をもらった子犬のように彼へついていった。

「はじめ君、アルバイト? お客さん?」

「今はお客さんかな。また後でバイトに来るけど」

「いらっしゃい! 何にしましょう!」

「威勢が良いね。なら、おすすめを一ついただこうか」

「軍手です!」

 一はナナを見る。彼女はバックルームを指差した。

「……店長め、発注の数間違えたな」

「ねえねえジェーンちゃん、軍手いらない? 店長さん一押しなんだって」

 差し出された軍手を一瞥する事もなく、ジェーンは立花とナナを睨んだ。

「ニアい」

「二……?」

「ニアいっ、お兄ちゃんに近寄らないで!」

「多分、近いって意味だと思う」一が頭を掻く。

 立花とナナは顔を見合わせる。

「そうかなあ?」

「いつもと同じ距離を保っていると思いますが」

「いつ……!? アタシがいない間に……!」

「何を怒ってんだよ」

「ガキじゃナイっ」まだ何も言っていなかった。一は困ったようにジェーンを見る。

「分かったから、店長に挨拶しとこうな」

「ジェーンさん、カルシウムが足りないのなら牛乳を」

「ヨーグルトもいっぱいあるよー。店長さんの二押しだってさ」

「店長――――!」

 一がバックルームに駆け込んでいく。残されたジェーンは二人を押し退けるようにして彼の後を追った。

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