表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ゴリアテ
213/328

青空に遠く酒浸り



 小さな世界。小さな人間。

 男の体躯はここには狭く、どこにも行けない。

「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」

 対峙する少年を嘲り、男は自らの得物を掲げた。

「お前は……」

「あ?」

 少年が口の端をつり上げる。

「剣と槍を持って向かってくるが、私は、お前が嬲った戦陣の神、万軍の主の御名によってお前に立ち向かう」

 だからどうした。男は苛立つ。臆する事のないままに口を開く少年をねめつけた。

「今日、主はお前を私の手に渡される。お前を打ち、頭を胴体から離し、お前らの陣営の屍を空の鳥、地の獣に与える。全ての国は、我々の国に神がおられる事を知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを、我々の手に渡される」

 これ以上は喋らせておくものか。男は少年を迎え撃つべく歩き出す。

 少年は戦場を素早く駆け、袋から石を取り出した。

「そんな、そんなもので俺を!」



 小さな世界。小さな人間。人間など、路傍の石に過ぎない存在なのだ。

 男の体躯が崩れ落ちる。前のめりに、ゆっくりと。

「……お、おぉ……」

 男と、一の視線が交錯する。男の記憶が混濁する。薄れ行く意識の中、もう二度とは見られないであろう景色が滲む。

 一の姿と、あの少年の姿が被って見えた。

 男は悔やむ。どうして、忘れてしまっていたのだろう。この身を打ち滅ぼしたのは、小さな世界の、小さな人間であった事を。たった一つの石ころで、大きく運命を変えられてしまったのを、どうして、思い出せなかったのだろう。



 倒れたソレを確認すると、一は息を吐き出した。

「……死んでますか、こいつ」

「仕留めたって手ごたえはあったぜ」

 山田はソレの頭を蹴飛ばす。反応は一切ない。既に、巨人は事切れているのだから。

「けど、念を入れとくか」

 ぐるぐると腕を回して、山田は事もなげに言い放つ。

「もう良いじゃないですか。オンリーワンの情報部が後片付けをしてくれますって」

「そうかあ?」

「それより、その、手。何とかならないんですか?」

 山田の拳は皮がずる剥けて、血が滴っていた。一は目を逸らしながら、それを指差す。

「ってもなあ、オレにはこれしかねえし」

「せめて晒を巻くとか」

「唾でもつけりゃあすぐ治るって」

「栞さんの手は綺麗なんだから、もっと大切にした方が良いですよ」

 言ってから、一は気恥ずかしそうに俯いた。

「そういや、前にもそんな事言ってたよな。フェチって奴か?」

「俺は手じゃなくて……そうじゃなくて、勿体ないなって。そう思っただけですよ」

「ふうん? ま、考えとく」

「それよりも」と切り出して、一は頭を掻く。

「こいつの名前、何だったんだろう」

「名前なんかどうでも良いじゃねえか。オレらが立ってて、こいつは死んだ。そんだけで充分」

「名前は大事だと思いますけど?」

 意地悪く一が言うと、山田は眦をつり上げた。

「……あんだよその顔。言いたい事でもあんのか」

「いやいや別に。ただ、自分の名前とは死ぬまで付き合うもんなんだなあ、と」

「だっせえ苗字で悪かったな! んだよ、突っ掛かるなあ」

 一はアイギスで肩を叩く。視線をさ迷わせて、俯いた。

「……どうして、来ちゃったのかなあって」

「オレが、か?」

 来てくれたではなく、来てしまったと一は言う。山田は不満げに彼を見据えた。

「オレは……心配だったからじゃねえ。いてもたってもいられなくなったから。待ってるだけってのは性に合ってねえのさ」

 山田が来なければ、こうして立っていたのはソレなのだろう。分かっていて、一は口を開く。

「俺は、待ってて欲しかったんです」

「……オレにか?」

「いえ、誰でも良かったのかもしれません。ただ、いて欲しかった」

 扉を開ければ、お帰りと声を掛けてくれる人が。一はいつの間にか、自分が寂しがりになったのに気付いていたのである。

「糸原さんが出てった時、部屋ががらんとして、一人きりじゃあ寒かった。どうしても、それが忘れられないんです」

「トラウマって奴か」

「そこまでではないと思うんですけど」

「かははっ、良い歳してガキみてえだな」

 一は苦笑し、彼女の言葉を甘んじて受け入れる。

「分からないでもないけどよ、ちっとばかし勝手な話でもあるよな。てめえは好き勝手外に行くけど、誰かには家で待ってて欲しいって言いやがる」

「立つ瀬がないなあ」

「だから、オレに突っ掛かったのか。ふうん、可愛げあるじゃねえかよ」

 山田は一の肩を叩き、ぐっと顔を近付ける。にやついたままだが、彼女はそれを隠そうともしない。

「そっちだって、待つのが嫌だって……お互い様じゃないですか」

「独りぼっち同士、仲良くしようぜ」

 頷きかけて、一は山田が駒台からいなくなるのを思い出した。

「とりあえず、帰りましょうか」

 一は白い息を吐きながら、ゆっくりと歩く。一歩、一歩を、踏み締めるようにして。彼はやがて立ち止まる。機能停止したナナの傍にしゃがみ、彼女の髪の毛を撫でた。

「悪いな、駄目なご主人様で」

 ナナから得た情報を活かせなかった。どうせなら自分を見限って欲しいと一は思う。

「あ、こいつは……そうか。運んでくのか?」

「連れてくんです」

 一はナナを背負おうとするが、

「重っ! うわあ何だこれ!?」

 彼女がオートマータであるのを失念していた。

「ああ、オレが背負ってってやるよ」

 迷ったが、一は首を横に振る。自分がやらなければ、意味がないと感じたのだ。

「でも、持ち上がらないんで、背中に上手い事乗せてやってください」

「意地張んなよなあ」

「これでも男ですから」

 山田は目を瞬かせて、静かに笑んだ。

「知ってるよ。おら、気合い入れろよ」

「おわあ!? 何食ったらこんな……食えないんだった。……重い」

 一は全身に力を込めて歩き始める。ナナの腰辺りに手を添えて、よたよたと。

「ふらふらしてんなよ。酔っ払ってんのか? 羨ましいぜ」

「……酔ってなかったでしょ。あの時」

「んー、かはは、バレてたか」

「と言うかバラしたんでしょうが」

 酔わないのではなく、酔えない。酒に溺れず逃げられず、一は少しだけ、同情する。してしまう。

「なのに、飲むんですね。酔えないのに」

「本当はさ、一緒に飲んでる奴が酔ってんのを見るのが好きなんだ。オレの分まで楽しんでんなあって、こっちまで楽しくなっからよ」

 その言葉が強がりなのか、本心なのか、一には分からない。山田は豪快に笑って、ただ、それだけで。

「サシで飲むのが良い。潰れた奴を介抱すんのも嫌いじゃねえ。雰囲気に酔えるからな」

「また、飲めたら良いですね」

「飲むさ」言い切って、山田は前を向く。

「借りは返してもらうからな」

「何でも言ってください。必ず叶えます」

「じゃあ、名前をくれよ」

 一は山田を見ようとするが、おぶったナナが重くてまともに顔を上げられない。

「オレはよ、お前の苗字が好きなんだ」

「名前をくれって言われても。はいどうぞで上げられるものじゃあ……」

「鈍い奴だなあ。だからよ、名前をもらうっつーか、あー……オレをもらってくれりゃ良いんだ。簡単な話だろ?」

 一は山田の顔を見られない。だから、気付いていない。彼女も自分の顔を見られないという事に。

「そんな、良いものじゃあないと思いますけどね」

「だったら、お前が山田になるか?」

「……その手の話は前にもやられたんで、勘弁してくださいよ」

「オレはしてねえぞ。誰だ、言えっ。誰にんな話持ちかけられた!?」

 プライバシーを守るというのは、自分を守る事に繋がるのだ。一は余計な口を利かぬように押し黙る。

「勝手によそんちの子になんなよな。オレに相談してからだ。許可はしねえけど」

「あなたは俺の母親ですか。違いますよね、だったら……」

「違うな。オレは女だよ。知らなかったか?」

「……知ってますよ」

 わがままなくせに、まっすぐな奴だ。一は苦笑して、山田を見ないようにする。

「ま、借りを返せとは言ったけどよ、もっと簡単に返してもらえそうなもんにするぜ」

「そうしてもらえると助かりますね。お酒とかどうですか?」

「オレを満足させるような酒を出せるとは思えねえなあ。あー、物はいらねえんだ」

「はあ、じゃあ、どうしたら良いですかね」

「デートしようぜ」

 肩の力が抜ける。一は慌ててナナを担ぎ直した。

「俺と、ですか?」

「他に誰がいんだよ」

「自慢じゃないですが、女性を楽しませる事なんか出来ないですよ。つまらない思いさせちゃうかもしんないです。いや、そっちのが可能性高いですよ」

 山田は難しそうな顔を作った。

「オレが引っ張るから気にすんな。一はさ、一緒にいてくれりゃあ良い」

「そんなんで良いなら……」

「ありがとうよ」

 一は山田の横顔を盗み見る。満足そうな笑みを浮かべていた。悔いなんか、もうないのだと、そう言っているように、彼には見える。

「俺は一旦店に戻りますけど、どうしますか?」

「ついてく。まっすぐ帰るんだろ?」

「そのつもりです」

「そっか」

 それきり、二人は一言も発さなかった。暗い道をゆっくりと歩く。吹く風が血の香を連れ去っていって、一の鼻を酒気がくすぐった。



 店の前にはワゴンが二台停まっていた。きちんと駐車しておらず、乗り付けたようになっている。

「おっ、おおっ……!」

 一は目を見開く。ワゴンの中から、陰から、大勢の男が姿を覗かせたからだ。山田は反射的に身構える。

「一君っ、ナナは無事かい!?」

「あ、あなたたちは……」

 男たちがオンリーワン技術部の者だと気付いて、一は安堵した。しゃがんで、ナナが彼らに見えるようにする。

「エネルギーが切れちゃったらしくて。酷い怪我はしてないと思うんですけど」

「……あ、ああ、そうか。そうか、怪我か」

「あの……?」

「いや、何でもないよ。さあ、ナナを連れていくぞ。全員、今日は枕とは会えないと思いたまえ!」

 技術部の人間がナナを抱えていく。一の体が軽くなり、彼は寂しさのような気持ちを覚えた。

「一君、娘を助けてくれてありがとう。本当、君にはお世話になってばかりだ。……色んな意味でね」

「は、はあ。気にしないでもらえると助かりますが」

 一は天津から目を逸らした。

「それじゃあ、またね。……あ、いや、一つ良いかな?」

 頷き、一はそれとなく続きを促す。

「フツノミタマ、君は見ていないかな」

 その話なら店長から聞いていた。神野の遺品なのだから、見つけてやりたいという気持ちはある。しかし、一はフツノミタマの行方を知らなかった。

「申し訳ないんですけど、やっぱり、俺の知らない内に……」

「そう、か。うん、それじゃあ、何か分かったら連絡してくれないか。と、店長さんにもよろしく頼むよ」

 それだけ言って、天津はワゴンに乗り込む。一たちは二台ともが走り去るのをぼんやりと眺めていた。

「……良いよな」

 山田がぽつりと言う。

「人形だとか、そんなの関係ないんだな。親がちゃんといてよ、心配されてる」

「答え辛い事、聞いて良いですか?」

「親なら死んじまった。言わなかったっけか、だから、ここに来たんだよ」

 山田栞は鬼を、蛇を追って駒台に来た。蛇を殺すのを定められ、愛した鬼を殺す為に、彼女は拳を握り締めた。

 一は俯き、やっぱり聞かなければ良かったと後悔する。

「いや、お前がそんな顔すんなよ。別に割り切っちゃねえけど、済んだ事だしな。うん、全部終わってっから」

「強いんですね」

「強くはねえよ。ヤマタノオロチを倒した、鬼は死んでた。やった、オレは自由だ! もう何も気にしなくて良いんだ! って、よ。そういう風に誤魔化してんだ。そんだけ」

 かははと笑ってから、山田は決まりが悪そうに頭を掻く。

「ただ、さあ。結婚式とか、そういう時が来たら、オレの相手には申し訳ねえなあとか思っちまうんだろうな。呼べる人がいねえからガランとしててよ、すげえ寂しいもん」

「そういうのを気にしない人と結婚すれば良いんじゃないですか?」

「誰でも良いって訳じゃねえんだぞ。オレにだって選ぶ権利はある。と、思う」

「栞さんは美人さんですから、選ぶ側に回れますね」

 一は煙草を取り出して、火を点ける。

「へえ? じゃ、煙草を吸わない奴を選ぶとするか」

「ありゃ、それは残念です」

「だあっ、バーカ嘘だって。そこはお前『じゃあ煙草止めます』とか言えよ」

 山田は一から煙草を取り上げようとするが、彼はそれをするりと避けた。

「栞さんは気にしてましたけど、このご時世です。親兄弟が皆死んじまったなんて、そう珍しくもない話でしょう」

「お前と結婚したら、一ん家の人らは来てくれんのかな」

「さあ、どうでしょう。家族とは折り合いが悪いんで、来てくれないかもしれませんね」

「かはは、じゃ、オレとお前だけで式挙げるか」

 勝手に話が進んでいるが、こういった展開には慣れていたので一は聞き流す。山田よりも、もっと面倒な相手をやり過ごしているのだ。彼には、そんな自信があった。そんな自信があった事に気付いて、少し悲しくなる。

「あ、そういや、宿はどうするんです?」

「悪いけどよ、泊めてくんねえか? 宿泊料は言い値で払うぜ」

「栞さんからはお金を取れませんよ。第一、お金を取れるほどの部屋じゃあないですから」

 そっかと呟き、山田は笑った。一もつられて笑い、それから、音が消える。何となく話し辛い雰囲気に包まれて、二人は黙々と歩いていた。だが、決して居心地が悪い訳ではない。少なくとも、一はそう思っている。この時間が終わるのを心のどこかでは惜しんでいた。

 ふと、思う。もう山田とは会えないのか、と。今までろくに見舞いにも行かなかったくせに、今になって思うのだ。彼女が駒台からいなくなってしまったら、寂しくなるのだろうと。

「……嫌だなあ」

 都合の良い自分が、とても嫌に思えた。一は俯き、何となく足を止める。アパートはもう目の前だった。

「帰らないのか?」

「あ、そう、ですね」アパートに着く。階段を上って、鍵を取り出す。

「…………あの?」

 鍵を、山田に掠め取られた。一は困った顔になって彼女を見つめる。

「約束破って、ごめんな」

 山田は鍵と、扉を開けた。彼女は一を押し留めたままで先に部屋の中に入り、明かりを点ける。振り返り、彼に笑顔を向けた。

「――――お帰り」

 ああ、と。一は息を漏らす。彼は何も言えず、その場に立ち尽くした。糸原は元気でやっているのだろうかと、ぼんやりと思う。

「おい、ただいまはどうしたんだよ?」



 目を覚ます。

 こたつから這い出ると、卓の上が無茶苦茶になっているのに気付いた。空いた瓶、缶、グラス、袋。昨夜の酒盛りを思い出して、一の頭がずきりと痛む。水を飲みたくて立ち上がると、部屋には自分しかいないのだと分かった。

「……ああ、そっか」

 山田は帰ると言っていた。湿っぽいのは苦手な彼女だから、自分に気付かれない間に部屋を出たのだろう。一は自身を納得させて、落胆する。せめて、挨拶ぐらいはして欲しかったのだ。駒台に『神社』はいない。山田栞はここから去った。

『オレらしいって、何だろうな?』

 昨夜、山田はそんな事を問い掛けていた。一は答えられなかった。

『良く分からなくなる時ってあるよなあ』

 何を言って欲しかったのだろう。何か言って欲しかったのだろうか。一は覚醒しつつある頭を振り、無理矢理に笑みを浮かべる。山田はきっと、笑顔で見送って欲しかったのだろうから。

「おー、起きてんじゃん」

「………………んん?」

 急に扉が開いたかと思えば、赤ら顔の山田が顔を覗かせる。彼女は酒瓶を振りながら、部屋に入ろうとした。

「ちょ、あ、あのっ、な、なんで?」

「あー? 減るもんじゃねえんだしよ、入ったって良いじゃねえか」

「そりゃそうですけど、駒台を出るんじゃなかったん、ですか」

 山田は卓の上に瓶を置き、どっかりと腰を下ろす。

「酷い言い草だなあ、一はさあ、もっと近所付き合いってのを大切にした方が良いぜ。オレんとこじゃ……」

「近所……?」

 一は首を傾げた。まだ、上手く頭が回っていないのだろうかと目をしばたたかせる。

「同じアパートに住むんだからご近所だろ」

 耳がおかしくなってしまったらしい。一は立ち上がって、グラスに水道水を注いだ。それを一息に呷り、山田を見る。

「ここに? いや、だって……」

「あー、実家に帰るのは止めた、やめ。オレは今日から駒台市民になる。大家とも話がついたしな。いや、部屋が空いてて良かったぜ」

 山田は豪快に笑い飛ばして、瓶を持つ。一分と掛からず、ラッパ飲みで中身を空にした。

「今日は色々と忙しくなるな。市役所とか、買い物とか、あ、電話貸してくれよ。荷物送ってもらうように頼むからよ」

「……突然、ですね」

「何かあったのかって? かはは、別にねえよ。ただなんとなーく、な。ま、今日からもよろしく頼むぜ」

 困惑していたが、状況を理解し、飲み込むにつれて一の頬が緩んでいく。山田がこの街に住む事が嬉しくてしょうがなかった。

「引っ越し蕎麦とかねえんだよなあ。出前頼むか。なあ、ついでに他の奴らも紹介してくれよ。縦ロール頭の奴は知ってるけどな」

「ああ、アイネを知ってたんですか」

「随分と仲良くしてるみたいじゃねえか。妬いちまうぜ」

「仲良くしてくださいね。あいつ、気難しいから」言って、一はこたつに足を入れる。

「酒、まだ残ってたよな」

「冷蔵庫に何本か。缶しかないですよ」

「飲めりゃあ良いよ。開けて良いか?」

 首肯し、一は冷蔵庫を指し示した。山田はそこを開けて、数本の缶ビールを抱えてくる。

「アイネたち、下にいると思いますけど、呼んできましょうか?」

「もう少し、独り占めさせとけよ」蓋を開けて、山田は口の端をつり上げた。

「はい? いや、つーか俺も飲むんですか?」

「二日酔いには迎え酒だろ普通」

「えーと……」

 無言の圧力に屈し、一は諦めて缶を掴む。

「じゃ、オレの新しい生活に乾杯って事で」

「そうっすね。そういや、表札とかどうすんですか?」

「表札だあ? んなもん後回しで良いじゃねえかよ」

 一は忘れていない。山田には自分の名前を勝手に使われているのだ。

「色々と面倒臭いから、ちゃんと自分の名前使ってくださいよ山田さん」

「あっ、てめえ今なんつった。喧嘩売ってんだな、買うぞ」

「聞こえてるし。だから、自分の名前使ったら良いんですよ」

「嫌だってんだろ! あーもうっ、酒がまずくなる!」

 山田は卓に、缶を叩きつけるようにして置いた。中身が飛び散り、一は眉根を寄せる。

「お前の借りるからな」

「俺は好きですけどね、栞さんの名前も、勿論苗字も」

「おべっか使うなよ」

「良い名前なのになあ」

「へ、ありがとうよ」



 ここで何をしているのかと問われれば、彼女はこう答えるであろう。

「雨宿り」

 今は雨が降っていないではないかと訝しげにされれば、彼女はこう答えるであろう。

「……ああ、そういや止んでるな」

 雲はない。虹もない。あるのはただ、抜けるような青空だけだ。差し出された傘を払い除けて、彼女は彼の手を握る。

 雨なんか、最初から降っていなかったのだと気付いて、彼女は豪快に笑ってみせた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ