青空に遠く酒浸り
小さな世界。小さな人間。
男の体躯はここには狭く、どこにも行けない。
「さあ、来い。お前の肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」
対峙する少年を嘲り、男は自らの得物を掲げた。
「お前は……」
「あ?」
少年が口の端をつり上げる。
「剣と槍を持って向かってくるが、私は、お前が嬲った戦陣の神、万軍の主の御名によってお前に立ち向かう」
だからどうした。男は苛立つ。臆する事のないままに口を開く少年をねめつけた。
「今日、主はお前を私の手に渡される。お前を打ち、頭を胴体から離し、お前らの陣営の屍を空の鳥、地の獣に与える。全ての国は、我々の国に神がおられる事を知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちを、我々の手に渡される」
これ以上は喋らせておくものか。男は少年を迎え撃つべく歩き出す。
少年は戦場を素早く駆け、袋から石を取り出した。
「そんな、そんなもので俺を!」
小さな世界。小さな人間。人間など、路傍の石に過ぎない存在なのだ。
男の体躯が崩れ落ちる。前のめりに、ゆっくりと。
「……お、おぉ……」
男と、一の視線が交錯する。男の記憶が混濁する。薄れ行く意識の中、もう二度とは見られないであろう景色が滲む。
一の姿と、あの少年の姿が被って見えた。
男は悔やむ。どうして、忘れてしまっていたのだろう。この身を打ち滅ぼしたのは、小さな世界の、小さな人間であった事を。たった一つの石ころで、大きく運命を変えられてしまったのを、どうして、思い出せなかったのだろう。
倒れたソレを確認すると、一は息を吐き出した。
「……死んでますか、こいつ」
「仕留めたって手ごたえはあったぜ」
山田はソレの頭を蹴飛ばす。反応は一切ない。既に、巨人は事切れているのだから。
「けど、念を入れとくか」
ぐるぐると腕を回して、山田は事もなげに言い放つ。
「もう良いじゃないですか。オンリーワンの情報部が後片付けをしてくれますって」
「そうかあ?」
「それより、その、手。何とかならないんですか?」
山田の拳は皮がずる剥けて、血が滴っていた。一は目を逸らしながら、それを指差す。
「ってもなあ、オレにはこれしかねえし」
「せめて晒を巻くとか」
「唾でもつけりゃあすぐ治るって」
「栞さんの手は綺麗なんだから、もっと大切にした方が良いですよ」
言ってから、一は気恥ずかしそうに俯いた。
「そういや、前にもそんな事言ってたよな。フェチって奴か?」
「俺は手じゃなくて……そうじゃなくて、勿体ないなって。そう思っただけですよ」
「ふうん? ま、考えとく」
「それよりも」と切り出して、一は頭を掻く。
「こいつの名前、何だったんだろう」
「名前なんかどうでも良いじゃねえか。オレらが立ってて、こいつは死んだ。そんだけで充分」
「名前は大事だと思いますけど?」
意地悪く一が言うと、山田は眦をつり上げた。
「……あんだよその顔。言いたい事でもあんのか」
「いやいや別に。ただ、自分の名前とは死ぬまで付き合うもんなんだなあ、と」
「だっせえ苗字で悪かったな! んだよ、突っ掛かるなあ」
一はアイギスで肩を叩く。視線をさ迷わせて、俯いた。
「……どうして、来ちゃったのかなあって」
「オレが、か?」
来てくれたではなく、来てしまったと一は言う。山田は不満げに彼を見据えた。
「オレは……心配だったからじゃねえ。いてもたってもいられなくなったから。待ってるだけってのは性に合ってねえのさ」
山田が来なければ、こうして立っていたのはソレなのだろう。分かっていて、一は口を開く。
「俺は、待ってて欲しかったんです」
「……オレにか?」
「いえ、誰でも良かったのかもしれません。ただ、いて欲しかった」
扉を開ければ、お帰りと声を掛けてくれる人が。一はいつの間にか、自分が寂しがりになったのに気付いていたのである。
「糸原さんが出てった時、部屋ががらんとして、一人きりじゃあ寒かった。どうしても、それが忘れられないんです」
「トラウマって奴か」
「そこまでではないと思うんですけど」
「かははっ、良い歳してガキみてえだな」
一は苦笑し、彼女の言葉を甘んじて受け入れる。
「分からないでもないけどよ、ちっとばかし勝手な話でもあるよな。てめえは好き勝手外に行くけど、誰かには家で待ってて欲しいって言いやがる」
「立つ瀬がないなあ」
「だから、オレに突っ掛かったのか。ふうん、可愛げあるじゃねえかよ」
山田は一の肩を叩き、ぐっと顔を近付ける。にやついたままだが、彼女はそれを隠そうともしない。
「そっちだって、待つのが嫌だって……お互い様じゃないですか」
「独りぼっち同士、仲良くしようぜ」
頷きかけて、一は山田が駒台からいなくなるのを思い出した。
「とりあえず、帰りましょうか」
一は白い息を吐きながら、ゆっくりと歩く。一歩、一歩を、踏み締めるようにして。彼はやがて立ち止まる。機能停止したナナの傍にしゃがみ、彼女の髪の毛を撫でた。
「悪いな、駄目なご主人様で」
ナナから得た情報を活かせなかった。どうせなら自分を見限って欲しいと一は思う。
「あ、こいつは……そうか。運んでくのか?」
「連れてくんです」
一はナナを背負おうとするが、
「重っ! うわあ何だこれ!?」
彼女がオートマータであるのを失念していた。
「ああ、オレが背負ってってやるよ」
迷ったが、一は首を横に振る。自分がやらなければ、意味がないと感じたのだ。
「でも、持ち上がらないんで、背中に上手い事乗せてやってください」
「意地張んなよなあ」
「これでも男ですから」
山田は目を瞬かせて、静かに笑んだ。
「知ってるよ。おら、気合い入れろよ」
「おわあ!? 何食ったらこんな……食えないんだった。……重い」
一は全身に力を込めて歩き始める。ナナの腰辺りに手を添えて、よたよたと。
「ふらふらしてんなよ。酔っ払ってんのか? 羨ましいぜ」
「……酔ってなかったでしょ。あの時」
「んー、かはは、バレてたか」
「と言うかバラしたんでしょうが」
酔わないのではなく、酔えない。酒に溺れず逃げられず、一は少しだけ、同情する。してしまう。
「なのに、飲むんですね。酔えないのに」
「本当はさ、一緒に飲んでる奴が酔ってんのを見るのが好きなんだ。オレの分まで楽しんでんなあって、こっちまで楽しくなっからよ」
その言葉が強がりなのか、本心なのか、一には分からない。山田は豪快に笑って、ただ、それだけで。
「サシで飲むのが良い。潰れた奴を介抱すんのも嫌いじゃねえ。雰囲気に酔えるからな」
「また、飲めたら良いですね」
「飲むさ」言い切って、山田は前を向く。
「借りは返してもらうからな」
「何でも言ってください。必ず叶えます」
「じゃあ、名前をくれよ」
一は山田を見ようとするが、おぶったナナが重くてまともに顔を上げられない。
「オレはよ、お前の苗字が好きなんだ」
「名前をくれって言われても。はいどうぞで上げられるものじゃあ……」
「鈍い奴だなあ。だからよ、名前をもらうっつーか、あー……オレをもらってくれりゃ良いんだ。簡単な話だろ?」
一は山田の顔を見られない。だから、気付いていない。彼女も自分の顔を見られないという事に。
「そんな、良いものじゃあないと思いますけどね」
「だったら、お前が山田になるか?」
「……その手の話は前にもやられたんで、勘弁してくださいよ」
「オレはしてねえぞ。誰だ、言えっ。誰にんな話持ちかけられた!?」
プライバシーを守るというのは、自分を守る事に繋がるのだ。一は余計な口を利かぬように押し黙る。
「勝手によそんちの子になんなよな。オレに相談してからだ。許可はしねえけど」
「あなたは俺の母親ですか。違いますよね、だったら……」
「違うな。オレは女だよ。知らなかったか?」
「……知ってますよ」
わがままなくせに、まっすぐな奴だ。一は苦笑して、山田を見ないようにする。
「ま、借りを返せとは言ったけどよ、もっと簡単に返してもらえそうなもんにするぜ」
「そうしてもらえると助かりますね。お酒とかどうですか?」
「オレを満足させるような酒を出せるとは思えねえなあ。あー、物はいらねえんだ」
「はあ、じゃあ、どうしたら良いですかね」
「デートしようぜ」
肩の力が抜ける。一は慌ててナナを担ぎ直した。
「俺と、ですか?」
「他に誰がいんだよ」
「自慢じゃないですが、女性を楽しませる事なんか出来ないですよ。つまらない思いさせちゃうかもしんないです。いや、そっちのが可能性高いですよ」
山田は難しそうな顔を作った。
「オレが引っ張るから気にすんな。一はさ、一緒にいてくれりゃあ良い」
「そんなんで良いなら……」
「ありがとうよ」
一は山田の横顔を盗み見る。満足そうな笑みを浮かべていた。悔いなんか、もうないのだと、そう言っているように、彼には見える。
「俺は一旦店に戻りますけど、どうしますか?」
「ついてく。まっすぐ帰るんだろ?」
「そのつもりです」
「そっか」
それきり、二人は一言も発さなかった。暗い道をゆっくりと歩く。吹く風が血の香を連れ去っていって、一の鼻を酒気がくすぐった。
店の前にはワゴンが二台停まっていた。きちんと駐車しておらず、乗り付けたようになっている。
「おっ、おおっ……!」
一は目を見開く。ワゴンの中から、陰から、大勢の男が姿を覗かせたからだ。山田は反射的に身構える。
「一君っ、ナナは無事かい!?」
「あ、あなたたちは……」
男たちがオンリーワン技術部の者だと気付いて、一は安堵した。しゃがんで、ナナが彼らに見えるようにする。
「エネルギーが切れちゃったらしくて。酷い怪我はしてないと思うんですけど」
「……あ、ああ、そうか。そうか、怪我か」
「あの……?」
「いや、何でもないよ。さあ、ナナを連れていくぞ。全員、今日は枕とは会えないと思いたまえ!」
技術部の人間がナナを抱えていく。一の体が軽くなり、彼は寂しさのような気持ちを覚えた。
「一君、娘を助けてくれてありがとう。本当、君にはお世話になってばかりだ。……色んな意味でね」
「は、はあ。気にしないでもらえると助かりますが」
一は天津から目を逸らした。
「それじゃあ、またね。……あ、いや、一つ良いかな?」
頷き、一はそれとなく続きを促す。
「フツノミタマ、君は見ていないかな」
その話なら店長から聞いていた。神野の遺品なのだから、見つけてやりたいという気持ちはある。しかし、一はフツノミタマの行方を知らなかった。
「申し訳ないんですけど、やっぱり、俺の知らない内に……」
「そう、か。うん、それじゃあ、何か分かったら連絡してくれないか。と、店長さんにもよろしく頼むよ」
それだけ言って、天津はワゴンに乗り込む。一たちは二台ともが走り去るのをぼんやりと眺めていた。
「……良いよな」
山田がぽつりと言う。
「人形だとか、そんなの関係ないんだな。親がちゃんといてよ、心配されてる」
「答え辛い事、聞いて良いですか?」
「親なら死んじまった。言わなかったっけか、だから、ここに来たんだよ」
山田栞は鬼を、蛇を追って駒台に来た。蛇を殺すのを定められ、愛した鬼を殺す為に、彼女は拳を握り締めた。
一は俯き、やっぱり聞かなければ良かったと後悔する。
「いや、お前がそんな顔すんなよ。別に割り切っちゃねえけど、済んだ事だしな。うん、全部終わってっから」
「強いんですね」
「強くはねえよ。ヤマタノオロチを倒した、鬼は死んでた。やった、オレは自由だ! もう何も気にしなくて良いんだ! って、よ。そういう風に誤魔化してんだ。そんだけ」
かははと笑ってから、山田は決まりが悪そうに頭を掻く。
「ただ、さあ。結婚式とか、そういう時が来たら、オレの相手には申し訳ねえなあとか思っちまうんだろうな。呼べる人がいねえからガランとしててよ、すげえ寂しいもん」
「そういうのを気にしない人と結婚すれば良いんじゃないですか?」
「誰でも良いって訳じゃねえんだぞ。オレにだって選ぶ権利はある。と、思う」
「栞さんは美人さんですから、選ぶ側に回れますね」
一は煙草を取り出して、火を点ける。
「へえ? じゃ、煙草を吸わない奴を選ぶとするか」
「ありゃ、それは残念です」
「だあっ、バーカ嘘だって。そこはお前『じゃあ煙草止めます』とか言えよ」
山田は一から煙草を取り上げようとするが、彼はそれをするりと避けた。
「栞さんは気にしてましたけど、このご時世です。親兄弟が皆死んじまったなんて、そう珍しくもない話でしょう」
「お前と結婚したら、一ん家の人らは来てくれんのかな」
「さあ、どうでしょう。家族とは折り合いが悪いんで、来てくれないかもしれませんね」
「かはは、じゃ、オレとお前だけで式挙げるか」
勝手に話が進んでいるが、こういった展開には慣れていたので一は聞き流す。山田よりも、もっと面倒な相手をやり過ごしているのだ。彼には、そんな自信があった。そんな自信があった事に気付いて、少し悲しくなる。
「あ、そういや、宿はどうするんです?」
「悪いけどよ、泊めてくんねえか? 宿泊料は言い値で払うぜ」
「栞さんからはお金を取れませんよ。第一、お金を取れるほどの部屋じゃあないですから」
そっかと呟き、山田は笑った。一もつられて笑い、それから、音が消える。何となく話し辛い雰囲気に包まれて、二人は黙々と歩いていた。だが、決して居心地が悪い訳ではない。少なくとも、一はそう思っている。この時間が終わるのを心のどこかでは惜しんでいた。
ふと、思う。もう山田とは会えないのか、と。今までろくに見舞いにも行かなかったくせに、今になって思うのだ。彼女が駒台からいなくなってしまったら、寂しくなるのだろうと。
「……嫌だなあ」
都合の良い自分が、とても嫌に思えた。一は俯き、何となく足を止める。アパートはもう目の前だった。
「帰らないのか?」
「あ、そう、ですね」アパートに着く。階段を上って、鍵を取り出す。
「…………あの?」
鍵を、山田に掠め取られた。一は困った顔になって彼女を見つめる。
「約束破って、ごめんな」
山田は鍵と、扉を開けた。彼女は一を押し留めたままで先に部屋の中に入り、明かりを点ける。振り返り、彼に笑顔を向けた。
「――――お帰り」
ああ、と。一は息を漏らす。彼は何も言えず、その場に立ち尽くした。糸原は元気でやっているのだろうかと、ぼんやりと思う。
「おい、ただいまはどうしたんだよ?」
目を覚ます。
こたつから這い出ると、卓の上が無茶苦茶になっているのに気付いた。空いた瓶、缶、グラス、袋。昨夜の酒盛りを思い出して、一の頭がずきりと痛む。水を飲みたくて立ち上がると、部屋には自分しかいないのだと分かった。
「……ああ、そっか」
山田は帰ると言っていた。湿っぽいのは苦手な彼女だから、自分に気付かれない間に部屋を出たのだろう。一は自身を納得させて、落胆する。せめて、挨拶ぐらいはして欲しかったのだ。駒台に『神社』はいない。山田栞はここから去った。
『オレらしいって、何だろうな?』
昨夜、山田はそんな事を問い掛けていた。一は答えられなかった。
『良く分からなくなる時ってあるよなあ』
何を言って欲しかったのだろう。何か言って欲しかったのだろうか。一は覚醒しつつある頭を振り、無理矢理に笑みを浮かべる。山田はきっと、笑顔で見送って欲しかったのだろうから。
「おー、起きてんじゃん」
「………………んん?」
急に扉が開いたかと思えば、赤ら顔の山田が顔を覗かせる。彼女は酒瓶を振りながら、部屋に入ろうとした。
「ちょ、あ、あのっ、な、なんで?」
「あー? 減るもんじゃねえんだしよ、入ったって良いじゃねえか」
「そりゃそうですけど、駒台を出るんじゃなかったん、ですか」
山田は卓の上に瓶を置き、どっかりと腰を下ろす。
「酷い言い草だなあ、一はさあ、もっと近所付き合いってのを大切にした方が良いぜ。オレんとこじゃ……」
「近所……?」
一は首を傾げた。まだ、上手く頭が回っていないのだろうかと目をしばたたかせる。
「同じアパートに住むんだからご近所だろ」
耳がおかしくなってしまったらしい。一は立ち上がって、グラスに水道水を注いだ。それを一息に呷り、山田を見る。
「ここに? いや、だって……」
「あー、実家に帰るのは止めた、やめ。オレは今日から駒台市民になる。大家とも話がついたしな。いや、部屋が空いてて良かったぜ」
山田は豪快に笑い飛ばして、瓶を持つ。一分と掛からず、ラッパ飲みで中身を空にした。
「今日は色々と忙しくなるな。市役所とか、買い物とか、あ、電話貸してくれよ。荷物送ってもらうように頼むからよ」
「……突然、ですね」
「何かあったのかって? かはは、別にねえよ。ただなんとなーく、な。ま、今日からもよろしく頼むぜ」
困惑していたが、状況を理解し、飲み込むにつれて一の頬が緩んでいく。山田がこの街に住む事が嬉しくてしょうがなかった。
「引っ越し蕎麦とかねえんだよなあ。出前頼むか。なあ、ついでに他の奴らも紹介してくれよ。縦ロール頭の奴は知ってるけどな」
「ああ、アイネを知ってたんですか」
「随分と仲良くしてるみたいじゃねえか。妬いちまうぜ」
「仲良くしてくださいね。あいつ、気難しいから」言って、一はこたつに足を入れる。
「酒、まだ残ってたよな」
「冷蔵庫に何本か。缶しかないですよ」
「飲めりゃあ良いよ。開けて良いか?」
首肯し、一は冷蔵庫を指し示した。山田はそこを開けて、数本の缶ビールを抱えてくる。
「アイネたち、下にいると思いますけど、呼んできましょうか?」
「もう少し、独り占めさせとけよ」蓋を開けて、山田は口の端をつり上げた。
「はい? いや、つーか俺も飲むんですか?」
「二日酔いには迎え酒だろ普通」
「えーと……」
無言の圧力に屈し、一は諦めて缶を掴む。
「じゃ、オレの新しい生活に乾杯って事で」
「そうっすね。そういや、表札とかどうすんですか?」
「表札だあ? んなもん後回しで良いじゃねえかよ」
一は忘れていない。山田には自分の名前を勝手に使われているのだ。
「色々と面倒臭いから、ちゃんと自分の名前使ってくださいよ山田さん」
「あっ、てめえ今なんつった。喧嘩売ってんだな、買うぞ」
「聞こえてるし。だから、自分の名前使ったら良いんですよ」
「嫌だってんだろ! あーもうっ、酒がまずくなる!」
山田は卓に、缶を叩きつけるようにして置いた。中身が飛び散り、一は眉根を寄せる。
「お前の借りるからな」
「俺は好きですけどね、栞さんの名前も、勿論苗字も」
「おべっか使うなよ」
「良い名前なのになあ」
「へ、ありがとうよ」
ここで何をしているのかと問われれば、彼女はこう答えるであろう。
「雨宿り」
今は雨が降っていないではないかと訝しげにされれば、彼女はこう答えるであろう。
「……ああ、そういや止んでるな」
雲はない。虹もない。あるのはただ、抜けるような青空だけだ。差し出された傘を払い除けて、彼女は彼の手を握る。
雨なんか、最初から降っていなかったのだと気付いて、彼女は豪快に笑ってみせた。