ジャイアントキリング
膝をついたナナにソレの腕が迫った。一は彼女の前に身を躍らせて、アイギスで攻撃を受け止める。強く、重い衝撃が彼の両腕に伝わった。
「マス、タ……」
まさか。まさか。まさかまさかまさかまさか。一の頭を最悪の想像が駆け巡る。まだ早いのではないか。しかし戦闘を行って消耗したのは事実だ。信じたくない事実。認められない展開を振り払う為に、彼は喚いて頭の中から追い出そうとする。だが、事実は動かない。ナナのエネルギーは切れ掛かっていた。
ソレは一を不思議そうに見下ろす。自分よりも小さい体で、どうして攻撃を受けられるのかが分からない。巨人は辺りをきょろきょろと見回し、口の端を歪めて歩いていく。
「ナナっ」
その隙に、一はナナに駆け寄った。彼女の瞳からは光が失われつつある。動かそうとしているのだろうが、その腕は上がらない。
「……申し訳、ありません」
「逃げられそうか?」
「いえ、もう、エネルギーが。……それより、伝えたい事があります。ソレの正体、現時点で最も可能性が高い名前を……伏せてマスター!」
ナナが一を押し倒す。彼らのすぐ上を、通学路を示す道路標識が通り過ぎていった。
「マスターっ、ソレの名前はゴリア――――」
返す刀、ソレは標識を力任せにスイングしてナナの体を弾き飛ばす。彼女は黙したまま宙に浮き、地面を転がった。それきり、動かない。
「ナナ、ナナっ!」
「あははぁ、命中ぅ……」
「ゴリア、なんだよ!? その続きは!?」
半狂乱になった一はエネルギーが切れて完全に沈黙したナナへ呼び掛ける。
「お前ぇ、俺の名前が知りたいのかぁ?」
「野郎……!」
「じゃあ、教えてやらねえぇぇ」
ソレは引き抜いた標識を得物とし、一に向かって振り被った。彼はそれをかわし、背中を見せてみっともなく逃げる。まともに戦っても勝ち目なんて見えなかった。
が、ソレは一を追い掛ける。鈍い足音を引き連れて、巨人の兵士はアスファルトを踏みしだく。
「だっ、おい! 走れんのかよ!?」
歩幅が違う。速度が違う。一はすぐに追いつかれ、ソレは標識をまっすぐに振り下ろした。一は右方向に避け、柵を越えて民家の中に逃げ込もうとする。だが、ドアの鍵も窓の鍵も閉まっていた。
「うおおおおおっ!? ばっちりしてんじゃねえぞ!」
ソレが己の腕を振り上げる。一は塀を飛び越えて隣家の庭に逃げ込んだ。彼の背後から破砕音がする。扉は壊されて、破片を散らせていた。そして、逃げ込んだ先の家の戸締りも完璧だった。
一は諦めて道路に飛び出す。ソレは得物を横に薙いだ。一は避けきれないと判断して、アイギスで攻撃を受けようとする。だが、ナナをも吹き飛ばすほどの攻撃だ。生身の人間では完全には受け切れない。彼の体は易々と宙に浮かされ、後方へと飛ばされてしまう。一は背中から地面に激突し、呼吸困難に陥る。
「小せええぇええ、やっぱ、お前らは小せえよなぁ」
逃げるか、防ぐか、それとも運に任せてメドゥーサを使うか。一は自身の状態を確かめる。逃げるのも防ぐのも、当分の間は難しそうだった。
「ご、ゴリア……」
アイギスを握る。喉からはひゅうひゅうと音が鳴っていた。だが、何とか声は出る。ナナが告げようとした名前は何だったのか。ゴリアの次の文字は? アか、イか、ウか、エか、オか、カかキかクかケかコかサかシかスか……果たして何文字なのか? 四文字か、五文字か、六文字か、七文字か八文字か九文字か十文字か……そもそもその名前が合っているのか? ソレが迫る。彼は思考を中断して、声を発した。
「『止まれゴリアン』!」 止まらない。
ソレは標識を振り下ろした。一は身を捩って何とか回避する。そのまま、残った力を使って彼は立ち上がった。すぐそこにある民家に逃げると、扉は開いていた。一も二もなく飛び込む。扉を背にしてへたり込もうとするが、背筋に嫌なものを感じた。飛び退き、土足のまま外へと通じる場所を探す。瞬間、巨人の大音声と共にものが砕けた。
「『止まれゴリアイ』!」 止まらない。
きっと、壊れたのは扉だろう。このまま屋内に留まっていても逃げ場がなくなる。一は見も知らぬ他人の家のリビング、そこの窓を開けた。寒風が吹き荒む外へと逃げ出し、彼は心中で謝罪を繰り返す。
一は走りながら考える。ナナを残している為に遠くへは逃げられない。死なない、初めから生きていないオートマータとはいえ、ソレが彼女を粉々に壊してしまう可能性もあった。ここでソレを仕留めたい。だが、彼ではソレを倒せない。鍵であるメドゥーサを発動させる為には、巨人の名前を割り出すしかなかった。が、動きながらでは殆ど何も思い浮かばない。
「見えてるぞぉ、チビぃ」
「やべえやべえやべえ……」
髪の毛を掻き毟りながら、一は電信柱に背中を預ける。息を吐き、目を瞑った。
暗く、寒い。身を切るような風の中、戦っている者がいる。強く、歯を食い縛る。
「丸くなった、だ……?」
舐められていた。アイネの目を思い出す度、怒りに震える。彼女が自分の何を知っていると言うのか。課せられた使命も、焦がれていた男も消え失せた。そんな自分に何を望むと言うのか。
山田は駆ける。脳裏には、網膜には、消えない雨が焼き付いていた。止まないそれから逃れようとして、駒台に立ち止まっていた。浴びるほど酒を飲んだって、深く酔えない。忘れたいのに忘れられない。
あの日、どうしていれば止められたのだろう。男は裏切った。否、最初から利用するつもりで近づいたのだろう。オロチを甦らせる為に、八塩折の酒に邪魔されない為に、振りをしていただけなのだ。馬鹿な女が引っ掛かっただけで、犠牲になったのはお人好したちなのだ。それだけの話だろう。
だから、涙を流す必要なんかない。分かっているのに、頬を伝うものがある。温かくて、全てを忘れてしまいそうだった。過去を振り切ろうとしてもいつかは追いつかれる。胸の中ではまだ、雨が降り続けている。曇天が晴れるのを望んだ。無理だと分かったから、せめて、傘を欲した。一時の雨宿りだけを、彼女は求めた。
「舐めやがって、舐めやがって……!」
走りながら、拳を握る。もう、待っているだけでは駄目なのだ。あの日、あの夕暮れ時、出来た事はあった筈で、行かないでくれと、彼の手を一度でも握っていたなら――――。
自分らしくとは何だ。アイネ=クライネ=ナハトムジークが、山田栞の何を知っている。結局、こうするしかない。自分には殴り、壊すしかない。優しく包んでやる事も、温かなものを与えてもやれない。だから、行く。一が戦っている。このしみったれた街で繋がった絆が引き裂かれようとしている。考えるな、走れ。全細胞に命令を下す。殴って、壊して、道が開ける事もある。その先で得られるものもある。ただ、口を開けて待つだけでは何も掴めない。世界は自分の為に動かない。動くのは、いつだって自分からだった。臆病になるのは、自分らしくない。過去を振り切れ。昔日を切り捨て、失敗を恐れずに割り切れ。それが無理ならば、全て背に負い引きずって走るまでだ。
振られたから、どうした。一度や二度の失敗で諦められるのか。山田は頭を振る。無理だと断じて足を速める。何故なら、一はまだ生きていた。待っているだけで手に入るものなら、とうの昔に得ていた筈である。彼の気持ちを無視してでも、欲しい。取り戻したいものがある。
ソレが新たな標識を引き抜き、人家の扉を砕く。室内に潜んでいた一は声を出すまいと堪えた。二階に上がる階段に目を遣るが、上へ行けば追い詰められた際、逃げ場がなくなる。彼はリビングの隅に腰を下ろした。
全く、敵わない。力押しのソレは確かに相性が悪かった。基本的にアイギスは防ぐしか能がない。メドゥーサも動きを止められるだけで次に繋げるには協力者が不可欠だ。
「……童貞、だよな、多分」
巨大なソレの相手を出来る者がいるとは考えられないが、万が一もある。アイギスを手放すのは恐ろしい。
一はソレの名前を五十音順、上から一つずつ確かめていた。今はナナを信じるしかない。ゴリア。この後に続くものを見つければ、隙は作り出せるのだ。ア、カ、サ行は試して、失敗に終わっている。鬼ごっことかくれんぼの繰り返しに、彼はすっかり疲弊し切っていた。
「次、何だっけ……」
「おおぉーいぃ」
一の全身が強張った。動くか、様子を見るか、ソレは屋内に侵入している。声が聞こえてきた方角から考えると、玄関から律儀に来たらしい。大きな音が立ち、一は物陰から顔を覗かせる。
「おぉ、いるいるぅ」
姿勢を低くしていたソレの顔が、そこにあった。目が合い、一は短く叫ぶ。
「見つけたぁ!」
ソレが腕を伸ばした。一は窓に向かって逃げ出している。が、巨人の手からは逃れられない。彼の体は掴まれ、
「うっ、お……!?」
窓に放たれた。窓ガラスが砕け、一は庭に投げ出される。背中を地面に打ち付けたが、それ以外に目立った外傷はない。彼は咄嗟にアイギスを広げて、破片からは身を守った。が、突き破った際に、コートの所々は裂けてしまっている。
「逃げるのも終わりかぁ?」
息が出来る。声は出せる。まだ体は動く。一は塀に足を掛けて、三角飛びの要領で真横に逃げた。飛び出していたソレは、彼が足を掛けていた場所を殴り壊している。破砕音を聞きながら、一は建物と塀の間をするすると抜けていた。
ソレは一を追おうとするが、隙間に巨体が突っ掛かる。が、巨人は塀をぶち壊して無理矢理に前進を開始した。
「クソっ」道路に出た一はアイギスを広げて、深く息を吸う。
「『止まれゴリアタ』!」 止まらない。
ソレは叫びながら両手を組み、振り下ろした。一はその攻撃の回避には成功するも、横に流れてきた攻撃は受け止めるしかなかった。
アイギスにソレの両拳が接触し、強烈な衝撃が一の両腕に伝わる。彼は踏ん張って堪えようとしたが、いとも容易く弾き飛ばされた。低く地から離れたまま、一の体は後方に。ソレは落ちていた標識を拾い、走った。
「しぃ、ねぇ……!」
一の両足が地面に着く。彼は勢いを殺せずに転び、転がった。アイギスを手放してしまい、起き上がってすぐ、拾いに向かう。
ソレは得物を振り下ろした。
「がああぁぁああああっ!」
紙一重、一はアイギスを掲げてソレの両腕を阻む。膝が折れそうになるのを我慢して、歯を食い縛った。斜めに受け流して、その場を脱する。彼は巨人の脇をすり抜けて、そのまま振り向かずに駆けていく。ソレの足音が腹の底にまで響いてきた。立ち止まればそこで終わる。掴まって、殺されて、踏み潰されて、まともな死体も残らない。
「はっ、はあっ……!」
緊張と恐怖で呼吸が、鼓動が早まる。足を出しているのか腕を振っているのか判然としない。立ち上る白く薄い煙、一は振り返りざまにアイギスを突き出した。ソレの腕は彼の得物を捉える。声も発さないで、一はアスファルトを転がった。体中が痛くて、擦った場所は熱を持ち、涙が零れる。
「楽しかったぜぇ、じゃあなあぁ」
ソレが足を上げた。金属の擦れる音がして、一は目を瞑る。先刻踏み潰された男を思い出して、彼はぼんやりと、嫌だなあと嘆いた。最後、約束を守れなかったのは心残りになる。一は四肢に力を込めた。
「――――花は桜木」
影が揺らめく。それは一歩ずつ、焦った様子もなく、堂々と足を進めた。
「人は武士、柱ぁ桧で酒は八塩折、女がオレなら男は一人」
「ああぁぁあぁ?」
ソレが一の傍に足を下ろす。彼は情けない悲鳴を上げた。
「オレの男足蹴にしてんじゃねえぞ、木偶の坊」
袖の破れた白い小袖。緋袴。短い銀髪。何よりも、頼りがいのある声。
下げていた瓢箪から酒を呷り、彼女はソレを見上げる。睨み付け、拳を固めた。
「たっ、助けて……!」
「ったりめえだろ、じっとしてろよ一。こいつぶっ飛ばしたら飲み直しだ」
豪快に笑う。フリーランス『神社』が、己の敵を見定めた。彼女は身を低くしてソレの左足を狙う。巨人はその速度についていけず、がむしゃらに腕を振るう。
「おおぉらあっ――――!」
一は目を見開いた。山田の一撃が、ソレの左足、その鎧を破壊したのである。オートマータのナナと同レベルの破壊力を有した人間なんて、果たして、人間と呼んでも差し支えないのだろうか、と。
砕け散る青銅。それを認めて山田は口元を歪める。
彼女は再び拳を固めて、むき出しになったソレの素肌へ重い一撃を叩き込んだ。ソレは呻き、片膝をつく。膝を狙い、まっすぐに突きを放つ。一発、二発、山田が鋭い声を上げた。
ソレは腕を振り回し、山田から逃れようとする。彼女は巨人の腕を殴って弾いた。
「ぐひいぃ、何だぁお前ぇ!」
「かははっ、マジかよ! でけえなてめえっ、効いてんのかオレの拳はよう!」
一はゆっくりと立ち上がり、その場から少し離れた。何度も呼吸し、アイギスの柄を握り締める。流れは変わっていた。やるなら今しかない。
「止まれゴリアチ」止まらない。ならば次だと呼吸を整える。
ソレは山田を振り切り一に向かっていた。メドゥーサを脅威と捉えているのではない。巨人は一の方が与し易いと判断したのである。彼は小さく笑んだ。
「背中向けてられんのかよ」
アイギスに衝撃が伝わる。重く、強い攻撃だ。が、次の瞬間にはソレの膝が崩れ落ちている。巨人の踵に山田の拳がめり込んでいた。手応えありだと判断した彼女はもう一度打ち込む。ソレが顎を上げた。苦痛から逃れようとして醜く呻く。
いけると一は確信した。しかし、山田が表情を歪めているのに気付き、彼は歯を噛み合わせる。
山田はナナと同程度の打撃が可能だ。青銅の鎧を壊し、素手のみでソレにダメージを与えられる。だが、彼女はあくまで人間だ。オートマータの装甲には適わない。打てば傷つく。壊せば痛む。山田の手の皮は剥けて、鮮血が滴り落ちていた。あの状態から、活きたパンチが何発打てるか。そも、拳を作れるのか。
「栞さん……」
山田は一の視線に気が付くと、何でもなさそうに笑う。
「いっ、でえぇ……! ちぎしょっ、くそおぉ……」
「タフじゃねえか。まだまだ楽しませてくれるってのか」
後、何発食らえばソレは倒れる。このままでは山田が持たない。一は思考をめぐらせ続ける。巨人の急所は人体と変わらない筈だ。しかし、届かない。ソレが膝をついた状態でも、山田の攻撃は足までだ。体に飛び付き、取りつけばどうにでも出来る。問題は、両腕が健在のソレが許してくれるかどうかで、巨人はきっと許さない。必要なのは一撃でソレを倒せる箇所、そこに攻撃を打ち込む隙だ。
一の考えている事は、山田にも想像がついている。ただ、無闇には仕掛けられないのだ。捕まれば二度目はない。絶対且つ必中の一撃、狙うのはそんな、馬鹿げたものだった。
どこまでやれる。どこまで防げる。どこまで山田はソレを阻んでいられる。
メドゥーサには頼っていられない。発動するかどうか分からない、不確定で不安定なモノには頼れない。一はソレを擦り抜けて山田の傍に立つ。
「強がりはいりませんから」
「あ?」
「後、何回いけますか」
「あいつが死ぬまで」
山田は拳を合わせて力強く宣言した。一は顔をしかめる。
「冗談きついですよ。相討ち狙ってんなら、それだけは勘弁してくださいね」
「だったらお前がやれんのか」
「一発で仕留めるなら、どこを殴りますか」
「……やっぱ頭だな。けど、どうしたって届かねえよ」
一は視線をさ迷わせる。電信柱が視界に入ったが、そこからでは高度は足りても充分な助走、反動は付けられないだろう。もっと足場が、ゆとりのある空間が必要だ。尚且つ、ソレの頭部に届く場所。そして、彼はそれを捉える。
「ああ……屋根だ。そこからなら、届きますよね」
山田が一の視線を追う。住宅の屋根からなら、確かに届きそうだと彼女は判断する。
「けどよ、オレだってバッタじゃねえんだ。そこまでおびき寄せなきゃ話にならねえぞ」
「俺が引き受けます。ソレを良い位置まで持ってきますよ」
「……一人で囮か? そりゃ、無理だろ。一にやばい真似はさせらんねえ」
「……ヤマタノオロチ。あの時にも似たような事を言ってましたよね、俺たち」
静かに頷き、山田は目を細める。
「任せろって言いたいのか?」
「時間はないです。……決めてくれよ、相棒。スサノオはどこにもいないけど、俺とあなたとならやれる筈だから」
ソレが首をめぐらせる。その形相は苦痛と、それを覆い隠さんばかりの憤怒とで歪んでいた。
「アレだ。あそこの、真っ赤な屋根が良い。ここらで一番高いし、何より色が良い」
「あそこなら、鍵は……いや、見りゃ分かりますか」
山田が指すのは、一がついぞ侵入した人家だ。ソレによって、鍵もろとも扉は壊されている。
「ぎりぎりまで寄せます。そっちのタイミングに任せますから」
「おうよ」
それだけ言うと、山田は人家に向かって駆ける。ソレは、彼女の姿を見送るが、不思議そうにしていた。
周囲には砕かれたアスファルトが転がっている。一は手頃な大きさの破片を掴んだ。
「おいゴリアツ、さっさと止まりやがれってんだ」
「おぉれは、そんな名前じゃねえぇ」
「さいですか」
一は破片を真上に投げる。畳んだアイギスで、落ちてきたそれを打った。破片はソレの頭上を越えて、後方の道路に落下し、再度砕けてしまう。
「いくぞー」気だるげに言って、一は新しい破片を拾った。
それを再び、打つ。ソレの肩に当たる。打つ。手前で落ちる。打つ。ソレが顔を上げる。叫ぶ。打つ。外れる。打つ。外れる。打つ。
「お前ぇ、いつま――――ううっ!?」
ソレの額に、破片が命中した。
「おー、結構当たるもんだな」
「ううううっ、お、おおお……!」
額を押さえ、ソレは蹲る。一はアイギスで肩を叩き、立ち上がる巨人を見上げた。
ソレの注意を自分に引きつければ、その分山田は動きやすくなる。怒らせれば怒らせるほど、自分を追いかけてくるだろう。
「おおおおおおおおおおおぉぉぉぉ!」
「石ぶつけただけじゃねえか」
少しばかり怒らせ過ぎた気もするが。一は困ったように唸り、アイギスを広げた。山田はまだ姿を現さない。もう少し、ソレに付き合う必要がある。
ソレは走り出し、拳を振り上げた。一は逃げずにその場に留まる。最悪の想像が頭を過ぎった。頭を振って不吉なイメージを打ち消す。アイギスを突き出し、巨人の振り下ろしが炸裂。一は苦痛を誤魔化す為に絶叫した。両腕から嫌な音が鳴る。折れてはいないが時間の問題だろう。長く耐え切れるものではない。彼はシグルズとの戦闘と同じく、ソレの攻撃を斜めに受け流そうとする。
「潰れろ! 潰れろっ! 潰れろぉぉ!」
ソレの拳がアスファルトを砕いた。破片が一の横を抜けていく。彼は距離を取り、民家の庭に侵入した。その後ろを巨人が追い掛ける。数秒後、庭は、家人が二目と見られないほどに踏み荒らされていた。
一は距離を取り、時間を稼ぎながら山田の姿を確認する。彼女は屋根に上がると、その場に座り込んで酒を呷り始めた。いい気なものだと、彼は口の端をつり上げる。
「おぉっ、おおっ、ふっ、ざけやがってぇ。絶対に逃がさないぃ」
後はおびき寄せるだけだ。山田の待つ人家は二軒先にある。一は物陰から飛び出した。姿勢を低くして、塀に向かって跳躍する。アイギスを庭先に放り投げ、両手両足を使って上り切った。瞬間、コンクリートで作られた塀が粉々になる。すぐそこにソレがいる。耳を塞ぐ暇はない。一は走りながらでアイギスを拾う。後、一軒。そこを越えれば目的の家まではすぐだ。
ソレはブロック塀を一に向かって投げ飛ばす。彼はアイギスを広げて、それを防いだ。まっすぐに目的地を目指す。頭に血が上っている巨人は、山田の存在に気が付いていない。
「つかまえっ、つかまえたぁ!」
振り下ろした両腕が、一が乗り越えたばかりの柵を破壊する。彼は再度振り向き、アイギスを構えた。玄関先の狭いスペース、ソレは自身が圧倒的優位に立っているのを悟る。
一は視線を上に向けてから後退りを始める。しかし、背中は壁とぶつかった。
「終わりだぞ、チビぃぃ……」
叫びたくなるのを堪える。山田の名を呼びたくなるが、ソレに感付かれては一巻の終わりだった。
まだか、まだか、まだなのか。この土壇場で山田は怖気付いたのか。早くしないと殺されてしまう。一の中を焦燥感が満たしていく。ソレを睨み付ける事で、戦意を掻き集めて、逃げ出すのを我慢した。そこで、彼は気付く。巨人は僅かに身を屈めているだけだ。山田は狙いをつけられないのだろう。
仕留められるかもしれない。だが、機を逃すかもしれない。可能性、確率を少しでも高められるのならば――――。
一は家を背にするようにして向き直る。ソレが手を伸ばせば、彼の体はその、掌の中に隠れてしまうだろう。
「打ってこいよ」
ソレは一を見下ろす。
「受け止めてやっから、さっさと殴れ」
「………………おぉ」
腕が振り上げられた。一の頭よりも大きなソレの腕である。
「お前、頭悪いんだなぁ」
勢いのついた攻撃は重く、鋭かった。アイギスの中心へと的確に突き刺さる。
「頭ぁ! 悪いのはお互いっ様だろうが!」
一からすれば、ソレの攻撃は雑だった。何故、まっすぐに拳を振るう事しかしないのか、彼には理解出来なくて、有り難い。馬鹿正直にアイギスを狙う必要はない。殴らずに、その手で包んで、覆って、奪ってしまえば良い。盾だけを退かせる手段なら一にも幾つか思いつく。だと言うのに、ソレは殴るだけだ。その拳は他の人間よりも強靱で、頑丈だろう。しかし、アイギスに打撃を加え続けていた為に皮はめくれてしまっている。
ソレが力を込めようとして、頭を下げる。一は叫んだ。彼女の出番はここしかない。ここをおいて他にない。
「そいつを待ってたぁ!」
山田が屋根から飛び降りる。彼女は、下がり切ったソレの後頭部を両足で踏み付けた。その攻撃を受けて巨人の力が弛む。一はアイギスを引き抜くようにしてその場から脱した。
「おっ、おぉぉ……!」
ソレが闇雲に腕を振り回す。山田は巨人の髪の毛を片手で掴み、反動をつけた。
一は見た。山田の拳が、ソレの首にめり込むのを。巨体が前のめりに、ゆっくりと倒れていく。