進撃の巨人
優しい。
だから、気味が悪い。
ソレを殺し、殺される為に生まれて、生きてきた。
人外になった自分に声を掛けて、笑い掛けてくれる一が、気持ち悪くて、でも、嬉しかった。
一は不思議だ。勤務外なのに、ソレと戦っているのに、普通なのである。だからこそ、人に優しく出来るのかもしれない。もう二度と、彼のような者とは会えないかもしれない。
「……振られちまってるもんなあ」
山田は卓の上の缶ビールを空けて、一息に飲み干した。幾ら飲んでも、酔えない。使命からは解放された。だが、この後何をすれば良い。先の事を考えれば気が重くなる。酒には逃げられない。彼女は虚ろな目を天井に向けた。
「ありがとうございましたー」
レジを閉め、一は溜め息を吐く。時刻は午後、九時四十分。もう少しでアルバイトも終わる。山田が待っているから、今日は寄り道せずに帰ろう。そう思って、店に入ってきた者に声を掛けた。
いらっしゃいませと頭を下げれば、メイド服の女が手を振っている。ナナだ。一の顔面が蒼白になる。
「……マスターに頭を下げてもらうというのも、中々に良いものですね」
にっこりと微笑み、ナナはカウンターに向かってきた。一は視線を忙しなく動かす。何もしていない筈なのに、ここから逃げないと駄目な気がしていた。
「あ、あれ? ナナさん、シフトの時間には十時間ほど早い気がするんですが?」
「気のせいではありませんよ」
ナナは酒のコーナーまでつかつかと歩いていき、そこで立ち止まる。商品をじっと眺めた後、一升瓶を手に取る。鬼をも殺せそうな瓶だった。一の膝が少し震えた。
「これをいただきましょうか」
「お酒、飲めるの?」
「いいえ。飲むのはナナではありませんから」
「は、はあ」
一はバーコードリーダーを持ち、酒瓶のバーコードを探す。
「飲むのはマスターです」
「はあ?」
ナナは柔和な笑みを見せた。見せつけていた。これでもかと言わんばかりに。
「まさか、『神社』のお酒が飲めて、私のお酒が飲めないなんておっしゃいませんよね? ええ、お酒に違いはありませんもの。ご満足いただけるまで、浴びるほど飲んでいただきます。完全に、完璧に、完膚なきまでに。マスターの喜ぶ顔が目に浮かぶようです。ああ、メイドとしてこれ以上の幸福は存在しません」
やられた。一は己の浅はかさを呪う。そして思う。俺が一体何をしたのか、と。
「あのさ、何で怒ってるの……?」
ナナは不思議そうに小首を傾げる。
「私は怒ってませんよ。何せオートマータですから。……そうですね、仮に私が怒っているとするならば、私が怒っている理由に気付かないマスターが悪いのではないでしょうか。仮の話ですから、マスターは何も気にしないでくださいね」
「……怒ってじゃん」
「怒ってませんからさっさと私の酒を飲んでください。今すぐに」
「そっ、そんな乱暴な言葉遣いを!」
口元に手を当てると、ナナは取り繕うような素振りを見せた。
「失礼致しました。ですが、マスターはもう少しナナに優しくしてくれても良いのではないでしょうか」
「優しくって言われてもなあ。具体的には何をしたら良いんだろう」
「それを考えるのがマスターのお役目ではないでしょうか」
一は、ナナからマスターと呼ばれるのは諦めている。しかし、身も心も彼女のご主人様になったつもりはない。少なくとも今のところは。
「じゃあ、今度ナナと一緒にお酒を飲もう。とは言っても、そっちは見てるだけだろうけど」
「では、ナナがおつまみを作りましょう」
「うん、よろしく。えーと、納得、してくれました?」
ナナは唇に指を当てて、わざとらしく唸る。
「勿論です。マスターがおっしゃる事に逆らうなんて有り得ません。納得しました」
「……そりゃ、どうも」
小さい。
小さな世界だ。
男は見下ろし、目に映るもの全てを嘲笑う。無理もない。男の体躯は並の人間では有り得ないものなのだ。身には帷子を纏っている。巨人の兵士はくつくつと笑った。風が吹き、汚らしく伸びた髪が流れていく。
その身長、三メートル。身に着けた帷子は五十キログラム。
旧約聖書に登場する、巨大な男だ。それが今、駒台にいる。この街を、この街の人間を笑っていた。
「おいおい……」
オンリーワン近畿支部情報部、氷室はソレを確認する。出現場所は駒台の住宅街だ。住民の避難は殆ど間に合わない。何せ気付いた時には、目の前にソレがいるのだから。
電話が鳴った後、一はバックルームに呼ばれた。時刻は午後の九時五十五分。あと、五分。たった五分さえ過ぎれば、今日は終わりだったのである。
「ん、何を不機嫌な顔をしているんだ」
「いえ、別に」
「構って欲しそうな顔をしやがって。……分かっていると思うが、ソレが出たぞ」
一は溜め息を吐いた。またか、と。また出たのか、と。また戦うのか、と。
「今度は何が出たんですか」
牛。魔女。もう何でもこいだった。
「巨人だ」
「……巨人? 巨人って、でかい人間って事ですか?」
店長は小さく頷き、煙草に火を点ける。
「それ以外に何がある」
「漢方医学で言う内分泌系や免疫機能の低下により起こる症状ですね」
「それは腎虚だ。ん? ナナ、どうしてお前がここにいる?」
当たり前のようにそこにいるナナを見て、店長は僅かに目を見開いた。
「マスターに用事がありましたもので。ソレが出現したのは、本当なのですか?」
「ああ、間違いない。情報部から今しがた連絡が来た。現れたソレは、一言で言えば、巨人、だそうだ」
「また適当な……他に特徴を教えてくださいよ」
店長は面倒くさそうにして、送られてきた書類に目を遣る。命が掛かっていると言うのにその態度。何て奴だ。一はそう思ったが、決して口にはしない。
「あー、そうだな。そいつは、鎧を着ているそうだ。兵士のような、そんな感じに見えたらしい」
「兵士、ですか。巨人の兵士……」
ナナは考え込む様子を見せた。
「知っているのからいで……ナナ」
「幾つかはデータベースに該当するモノがいます。巨人と言えば、枚挙に暇がありませんからね。アトラス、エウリュトス、ギガス、グレンデル、トロル、大入道、だいだらぼっち、フンババ、ゴリアテ、盤古、ヘカトンケイルにスプリガン。他にもおりますが」
一は首を振る。とてもじゃないが覚え切れそうにない。
「被害は出ているんですか?」
「出現場所が住宅街だから、家が何軒か潰されているみたいだな。人的被害は今のところ聞いていない」
「うーん、何も分からないのに、行きたくないですね」
「そうだな、私としても送り出したくはない相手だ」
「えっ」と、一は目を丸くする。まさか、店長が自分を守ってくれるような事を言うとは、思いもしなかったからだ。
「相手が悪い。巨人なんて、言ってしまえば力馬鹿だ。ミノタウロスの時もそうだったが、単純な相手にお前は弱い。力の差だけで言えば、一。お前が勝てる相手など限られている」
その通りだと一は頷く。少しだけ情けなかった。
「あ、だったらナナ、手伝ってくれない、かな?」
「私がですか? 勿論、私はマスターに付いて行くつもりでしたが……」
ナナは伏し目がちに店長の様子を窺う。煙草の火を揉み消した店長は、腕を組んで椅子をくるくると回転させた。
「実はな、ナナのバッテリーが切れ掛けているらしい」
「ええっ? 本当、ですか」
「嘘は言わん。……ナナ、充電はもう済んでいるのか? いや、その顔は済んでいないな。まさか、勝手に抜け出してきたのか?」
「いいえ、技術部の方に、きちんと許可をいただいてきました。私も、技術部も、ソレが出るとは思っていなかったものですから」
ううんと唸り、一は困ったようにうな垂れる。ソレとの戦闘、しかも相手との相性が悪いとなればナナの助けが必要だ。しかし、十全ではない彼女を戦場に連れて行くのは躊躇われる。
「どれくらい持ちそうなんだ?」
店長に問われて、ナナは自らの胸に手を当てた。
「明朝までは持つと言われていましたが、ソレとの戦闘ともなれば消耗は激しくなります」
「厳しいな。仕方がない、一、とりあえず様子だけでも見て来い。最悪、立花か堀を呼ぶ」
「立花さんって、十時回ってますよ?」
時計を見て、店長は新しい煙草に火を点ける。
「立花には、勤務外してではなく、善良な一般市民として戦ってもらうか」
「きったねえ」
「お前が頼りないからこうなるんだ。汚い真似が嫌いだったら筋肉の一つでも付けてみせろ」
「ヤですよ面倒くさい」
睨み合い、今にも掴み掛からんとする二人を見て、ナナは遠慮がちに口を開いた。
「あの、やはり私が行きます。今の状況でソレの正体を見極められるのは私だけですし、猶予も残されていない筈ですから」
「いや、でも……」
「マスターを一人では行かせられません」
それでも渋る一の手をナナが握り締める。
「心配は不要です。私が、マスターを守りますから」
「……分かった。でも、まずは逃げるの優先だからな」
「認めよう。では、一とナナでソレの対処に当たれ。全て任せる。責任は誰かが取る。好きにやってくれ」
「せめて責任は私が取る! ぐらいは言って欲しかったんですけど」
「責任は私が取る!」
「似合わねえ」
一は店長に頭を叩かれて文句を言った。が、睨み返されてすぐに出掛ける準備を始める。残念ながら、彼は、不安げなナナの表情に気付いていなかった。
店を出た一とナナは、住宅街までの道を黙々と進んでいた。
言葉を交わさないのは、ナナの機嫌が悪いからではない。彼女が、無駄なエネルギーを使わないようにと提案したのだ。そこで、一も気付いてしまう。ナナは明朝どころか、ソレとまともに戦えないのではないか、と。声を掛けても、返事は望めないだろう。信じるしかない。
厚い雲が空を覆っていた。星一つ見えず、嫌でも心細くなる。ナナが倒れれば、一対一で相手をしなくてはならない。溜め息は止まらなかった。
「ひゃっ、ひゃあああああああ!?」
ソレは乗用車の天井を叩き、大穴を開けた。中には運転手が一人。若い男である。掛けていた眼鏡はずり下がり、見下ろす巨人と目が合い、情けない悲鳴を上げた。
「逃げ遅れたなぁ、間抜け」
低く、太い声が男の鼓膜にまとわりつく。ソレはにいっと口の端をつり上げた。
「うわっ、わあっ、うわあああああっ!」
ドアを開けようとするが、ロックが掛かっているのに気付かない。男が慌てふためく様を見て、巨人は笑みを深めた。
ソレは外から車を揺すり、げらげらと笑った。
ようやくドアが開く。男は震える両足をむちゃくちゃに動かして走った。刹那、ソレに頭を掴まれる。一際高い悲鳴が男の口内から迸った。
「楽しいよなぁ」
男の体が宙に浮く。ソレは片腕だけで掴んだモノを、車のフロントガラスに叩きつけた。ガラスにひびが入り、けたたましい音とともにそれが砕けていく。巨人は男を引き抜き、おもちゃのように振り回した。
男の顔面にはガラスの破片がいくつも突き刺さり、おびただしく流血している。ぼたぼたと、コンクリートには赤い染みが作られていた。
「……や、やめ……」
「聞こえねぇなあ」
ソレが、今度は男を地面に落とした。その衝撃で、男の腰骨が砕ける。耳汚い絶叫を聞いて、巨人はうるさそうに顔をしかめた。その時、向こうから別の人間がやってきたのが見える。新しい獲物の出現を喜び、舌なめずり。ソレは品のない笑みを零した。
確かめる必要はない。全身を青銅の装備で固めている、人並み外れた体躯の男が笑っていた。近くにはその男に壊されたであろう車があり、
「いっ、いで、でぇぇ……」
若い男が倒れている。
まだ息があった。一は舌打ちする。ソレがやったのだろうが、どうにも趣味が悪い。
「面倒ですね」
ナナが口を開いた。彼女は怪我をした男を見てから、一に目を向ける。
「戦闘の邪魔です」
「え? いや、助けないと」
「あの巨人には知能が備わっているようです。少なくとも、獲物をいたぶって弄ぶ程度には、ですが」
ソレは一たちを見て、倒れた男を足で転がす。
「助け出すのは難しいでしょうね」
「……ソレの名前、分からないか?」
名前さえ分かればメドゥーサを使えるのだ。隙さえ出来ればどうにかなる。まだ、目の前には生きている者が残っていた。だが、ナナは申し訳なさそうに首を振る。
「一度、退きますか?」
ナナの声は男にも届いていた。彼は縋るような目付きで彼女に視線を送る。
「見捨てるのは後味悪いぞ」
「救出の算段がつかないです。ナナはマスターの安全を優先します」
「た、たすけてくれ……!」
助けてやりたいのは本当だが、一だって死ぬつもりはないし絶対に死にたくなかった。
「げっへへ、こいつの次はお前らだぜぇ。逃げなくて良いのかぁ」
「うお、喋れんのかよ」
「巨大とはいえ人間ですから」
ソレは男を摘み上げ、指に力を込める。男の顔が苦痛に歪んだ。痛々しいほどの悲鳴が一の耳をつんざく。
「おが――――っ、ぎっ、ひ、ひぃいいいい!」
「だっ、おい! ちょっと待てって!」
言葉が話せるのならと、一がソレに呼び掛けた。
「殺すのは待った! タンマっ、ストップ! 助けてやってくれって!」
「あぁ?」
「ぎいいいいいいいい! いいいいいいっ!」
一は思わず両耳を塞ぐ。
「……何とかなんないか?」
「なりませんね」
ならないか。一は目を瞑り、アイギスを強く、握り締めた。割り切れ。捨て去れ。自身に言い聞かせて、誤魔化そうとする。吐息を一つ。白い呼気はすぐに掻き消え、彼はゆっくりと目を開いた。
「じゃあ、せめて仇だけは取ってやるか」
「……よろしいのですか? てっきり、マスターは自身を省みずにあの方を助けると思っていたのですが」
以前の自分ならそうしていただろうと、一は思う。自分は英雄ではない。なれないと分かり、ならないと誓った。身の程を弁えずに動けば、夢の国に運ばれるだけでは済まない。立花との約束を早速破ってしまったが、死んでしまうよりは良いだろう。
男の悲鳴を聞きながら、一は口を開く。
「それに、ありゃあもう助からないだろ。下手に突っ込んで怪我すんのもヤだし」
「あら、マスターにしては珍しい意見ですね。全面的に同意します」
「とりあえず、ある程度は戦ってみるか。やばくなったらすたこらさっさで」
「あいあいさー」
悲鳴がぷっつりと途切れた。ソレは流れる血を顔に受け、滴り落ちたそれを美味そうに舐める。死体と成り果てた男を捨てて、物珍しそうに一たちを見遣った。
「お前ら、何だ?」
問われて、一とナナは顔を見合わせる。
「名乗らせるつもりなら、てめえが先に名乗れよ巨人ザジャイアント」
「マスター、意味が少し被っています」
ソレは大声で笑い、事切れていた男を踏みつけた。足を退かせば、赤い花がコンクリートの上に咲いている。
「小さいけどぉ、ただの人間じゃないなぁ」
「ナナ、やっぱこいつの正体は分かんないか?」
「攻撃パターンなど、幾つかの情報が欲しいです。現状で割り出すのは非常に困難かと」
「無視っ、すんなぁ!」
豪腕が迫っていた。一は背を向けて逃げ出し、ソレの振り下ろした腕をナナが受け止める。
片腕と両腕。腕力ではソレに軍配が上がっていた。
「しゃあっ、掛かって来い木偶の坊が!」
「お前ぇ! 好き勝手ぇ!」
「隙だらけです」
ソレが一に気を取られた瞬間、ナナが両腕で巨人の腕を弾く。彼女は腕を大きく振り被り、ソレの右足、そこの脛当てを破壊した。次いで、剥き出しになった場所に攻撃を仕掛けようとするが、
「おおお――――!」
戻ってきたソレの腕が彼女の胸部を捉える。
ナナの体が一瞬間重力から解放されて、地に落ちた。衝撃を殺し切れずに、彼女の足はアスファルトを削っていく。一がナナの後ろに回り込み、アイギスで彼女を受け止めた。
「……マスターの両手で受け止めて欲しかったのですけれど」
「そりゃごめん」言い、一はソレの追撃を防ぐ。
「のわ……っ!?」
が、重い。今にも潰れてしまいそうだった。両足に力を込めて地面を踏み締める。歯を食い縛り、敵を見上げた。
「お前ら、人間なのかぁ」
ソレが不思議そうに呟き、一は唾を吐き捨てる。
「てめえよりかよっぽど人間やってんだろうが」
ナナがソレの腕をアッパー気味に殴り飛ばした。巨体が怯み、彼女は一の前に立つ。
ソレは何度も腕を回し、ダメージを確かめていた。
「いけそう?」
「予測数値以下です。恵まれた体とは言え人間、ナナの敵ではありません。前に出ます。マスターはフォローを」
「あいよ」
広げたアイギスをソレに向け、一は頷く。ナナは足を一歩踏み出し、糸が切れたかのようにくず折れた。
山田は頭を掻き毟る。彼女は時計を見ては、落ち着かなさそうに部屋の中を歩き回っていた。十時を回っても一が戻ってこないのだ。気が早いと自覚している山田は、仕事が立て込んでいるのだと自身を納得させる。第一、彼は遅くなるなら連絡を入れると言っていた。一が約束を違えるとは思えなかったので、結局、待つしかない。
酒気に浸された部屋の中央に腰を下ろし、山田は日本酒の瓶とグラスを置いた。一献傾けた後、彼女は何気なく窓を見遣る。気付けば、胸の内がざわついていた。フリーランスとしての勘が、何かが起こったのだと騒いでいる。
「……出やがったか」
ソレが出現した。山田は勘だけで、そう決めつける。一の帰りが遅いのはソレの対応に当たっているからだろう。納得のいく答えを見つけて、彼女は安堵する。助けに行ってやろうかとも思ったが、彼は待っていてくれと言っていた。それに、もう『神社』の役目は終わっている。フリーランスとして戦う必要もないのだ。開けられた穴は酷く大きいが、故郷に戻り、少しずつ元の形に戻していく。役目が残されているのなら、きっと、それなのだ。
山田栞の出番は終わっている。
駒台で出来る事はなくなってしまった。大蛇の血も途絶え、男の影も見えなくなっている。青髭と名乗った老人を仕留められなかったのは心残りだったが、全て終わり、もう気にならなくなった。この街に残った者に任せれば、きっと上手くいく。そう、山田は信じていた。
満足そうに目を瞑っていると、扉がノックされる。一が帰ってきたのだろうかと、山田は返事をしてから扉を開けた。前に立っていたのは、真っ黒なジャージを着た女である。彼女は髪の毛をだらしなく伸ばしており、分厚い眼鏡を掛けていた。一言で言えば野暮ったい。
「どちら様だ?」
「……相変わらず、はっきりしてらっしゃる方ですこと」
「お前、オレとどっかで会ったか?」
しかし、山田には心当たりがなかった。
「私を覚えておられないとおっしゃるのですか?」
「何だ、新手のナンパか?」
女は苛立たしい様子で眼鏡を取る。これで分かるだろうと言わんばかりの態度であった。山田は首を傾げる。
「だから誰だよ。用がないんなら閉めるぞ。留守番任されてるからな」
山田は扉を閉めようとするが、女がそれを阻んだ。
「『神社』」
「……てめえ、やる気か」
「やりませんわっ。ああっ、どうして覚えていてくれないのでしょうか! 私悲しみの涙で溺れてしまいそうです!」
そこでようやく気が付いたのか、山田は扉から手を離し、女を指差す。
「『貴族主義』?」
「おっしゃる通りでございます。もう、悪意はおありにならないのでしょうけど……」
フリーランス『貴族主義』、アイネ=クライネ=ナハトムジーク。山田が彼女と出会ったのは、とある国でソレの討伐を行っていた時である。その時は、獲物を取り合う形になってしまったのだが。
「すげえ落ちぶれたな」
アイネは何も言わず、静かに微笑んだ。
「お前、どうしてここにいやがる。つーか、ここが誰の部屋か知ってて来たのか? やめとけよ、お前にゃ合わねえ相手だぜ」
「そういうお考えもありますのね。……私、先日からここに住んでおりますの。そして、ここは私の大事なお友達のお部屋ですわ。友人を訪ねるのに、理由が必要でしょうか」
「なっ……!」
頭がこんがらがる。山田の知る限り、アイネは誰とも話そうとせず、誰にも心を開かない、閉じた人間だった。何を問うても静かに微笑むのが彼女の常だったのである。こうして、嬉しそうに『友達』などと言うような人間ではなかった。
「てめえ偽者だろ!」
「本当にはっきりしてらっしゃる方ですこと! 私は本物ですわ!」
「何で一とお前が知り合いなんだよ」
「はじめ……下の名前で……」
アイネは眉間に皺を寄せたが、それも一瞬のことである。彼女は平静を装い、髪の毛をかき上げた。
「知り合いではございません。お友達、ですわ」
「そんで図々しくこのアパートで暮らしてるってか」
「誘ったのはウーノですわ」
聞き慣れない言葉に山田は眉根を寄せる。
「あの方のあだ名です。私とウーノはあだ名で呼び合う仲なのですよ?」
アイネは何故か勝ち誇るような顔をしてみせた。
「お前は一に何て呼ばれてんだよ?」
「……え?」
「え、じゃねえ。別に、少し気になっただけだ」
そして、山田は少しだけ羨ましかった。知らない間に、知らない者と仲良くしているのだろう。一が、少しだけ憎らしくなった。
「ク……」
「あ?」
「く、クーちゃん、と、あの方はお呼びになります……わ」
冷めた目でアイネを見下ろし、山田は扉を閉めようとする。
「お、お待ちになって」
「どしたよクーちゃん。一に何か用事でもあったのか?」
「用事がなくても、私とウーノは会える仲ですから。それよりも、何事ですかこの臭いは」
酒臭い室内に気付き、アイネは僅かに顔を曇らせた。
「さっきまで酒盛りしてた。もしかして、お前も混ぜて欲しかったのか? あー、そりゃ無理な相談だぜ。俺と一はサシで飲んでたからな。邪魔者が入る余地はなかったってもんだ」
かはは、と、山田は豪快に笑う。アイネはぐぬぬ、と悔しそうに彼女を睨んだ。
「はっは、冗談だよ。あいつならお仕事だ、当分は戻ってこねえよ」
「……さようで」
「折角だから、二人で一緒に待ってようぜ。退屈してたんだ」
山田は部屋に戻るが、アイネは不思議そうに彼女を見つめている。何か言いたい事でもあるのだろうかと、山田は見返した。
「ソレが現れ、ウーノが戦っておられる。なのに、あなたは何をなさっているのですか?」
「留守番だよ。見て分からねえか?」
「さようでございますか」
「ん、おいおい、どこに行こうってんだよ」
アイネの視線は暗く、冷たい。
「ごめんあそばせ。私、誇りを捨てた方とは話す舌を持ち合わせておりませんの」
「てめえっ」
「おつむがよくっていらっしゃる。……今のあなたとは、お友達になれませんわ」
それだけ言うと、アイネはわざとらしく、ゆっくりと歩き去っていく。山田は彼女の背中を追い掛けられず、掛ける言葉すら見つからなかった。