白い梟とビニールの傘、赤い目と黒い体
傘。
雨や雪から、自身、もしくは持ち物を濡らさない為に使うもの。一般的に、雨傘、と言う。
強い日差しから、肌を守るための日傘と言うものも存在する。
妙齢の女性が日傘を差して歩いている姿なんかには、ピンと来る人もいるんじゃないだろうか。
蜘蛛の戦場。
蜘蛛だらけの道路。
蜘蛛の死骸と、蜘蛛の遺骸と、蜘蛛の成れの果て。
動く蜘蛛、歩く蜘蛛、飛ぶ蜘蛛、動かない蜘蛛、獲物を狙う蜘蛛、糸を吐く蜘蛛、目を光らせる蜘蛛、今まさに、糸原へ足を振り下ろそうとしている蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛。
そこに、人間が一、二。
一人は地面に倒れこみ、一人は地面に立っている。
一人は女、一人は男。
一人は糸原四乃、一人は一一。
「久しぶりね」
まるで、街中で会ったかのような軽い口調で、糸原が一に声を掛けた。体中は糸まみれ、服も所々破れて、情けない姿になっていても、糸原は一に対しては、少し上目線である。
糸原の声を聞いて、一が安心したように、息をついた。そうして、動かない蜘蛛の体に触れない様、おっかなびっくり足を踏み出す。
「大丈夫でしたか?」
「見て分からない? 髪はボサボサ、おろし立ての服は返り血やら何やらで汚いし、オマケに蜘蛛の糸のサービスまで付けられたわ」
そう言いながら、糸原が自分の姿を、自分の姿と信じていないような、もう何も信じられないといった風に見回した。
「そりゃ災難ですね。ちなみに、そのダメージ加工なんて言ったらダメージ加工に失礼なぐらい、ダメージ受けてる汚い服は、糸原さんが俺の金で買ったものなんですけど」
そんな事を言いながら、一が蜘蛛の群れの中を歩く。
およそ、戦場に似つかわしくない、相応しくない会話をしながら。
「それよりさ、何であんたが来てんのよ? 仮に、仮によ? もし私を助けに来るならヤンキーか、あの店長だと思ってたんだけどさ」
「俺じゃ不満ですか?」
体を、恐怖と、得体の知れない感覚に震わされながら、一が歩く。
「馬にでも乗ってきたら、面白かったんだけど」
「白馬の王子様ですか? しかし、意外な意見ですね」
「何よ? 私にメンヘルは似合わない?」
「糸原さんってやっぱ病んでたんですね」
軽口を叩きつつ、一が少し開けた所までやってきた。一が視線を下げると、片手を挙げた糸原が、何とも微妙な格好で、何とも言えない表情をしていた。
「……酷い格好ですね」
「ふふん、今の私扇情的じゃない?」
「ええ、たしかに戦場的です」
「?」
それより、と言いながら一が首を動かす。
自分たちに今にも飛び掛ってきそうな蜘蛛の群れ。
全身の汗腺から冷たくて、嫌なものが吹き出る感覚。
一はただ只管に、その感覚をおぞましく思って、この光景をおぞましく思った。
「いったん、店に戻りましょう」
「逃げていいの? てっきり私は死ぬまで戦え犬! とか言われるのかと思った。そんならとっととこんなトコから逃げるわよ」
肯定の返事をして、一が糸原に背を向ける。
「行きますよ」
「……あー。ちょっと待って」
「何ですか?」
「肩貸してくんない? 一人で歩くのだるいわ。面倒だし」
傘。
最近では、ビニール傘が割りとポピュラーらしい。
コンビニでも手に入るお手軽さと、百円均一で売られているお手頃さが人気の秘密。ただ、コンビニのビニール傘は、結構高いものである。雨の日など、分かりやすい所に陳列されていて、「ほら、傘がほしいんだろ? 買えよ、このいやしんぼめ」なんて言われてるようで、腹が立つ。おまけに、ついつい買ってしまったときには殺意が芽生えそうになる(主にコンビニへの)。
逆に。
百円均一の、超良心価格なお値段のビニール傘。ちょっとした突風にあおられたり、車が向かってきたので、端に寄った拍子にどこかにぶつけたりしたら、すぐに壊れてしまうあれ。
だけど、自分を雨や雪といった、自然災害から守る為に払ったのが百円である事を考えれば、それはまあ、何かもう仕方の無い事である。
ビニール傘と言うのは罪深いものである。
「ねえ、あんたってさ」
「後にしましょう、時間もありませんし」
一は蜘蛛の間を、糸原を支えた状態で難儀そうに抜けていく。
「時間? 何のよ?」
「……気付いてますよね? この状態は、正直、後一分も持ちませんよ。ていうか、持たせたくないですね」
言いながら、二人はやっと蜘蛛の道を抜けた。
一は糸原に肩を貸したまま、走れますか、と尋ねてみる。予想通り、と言うか、糸原の状態を見たとおり、嫌よなんて答えが返って来た。嫌だなんて言っているが、どっちにしろ、糸原の疲弊しきった姿を見れば、走らせるなんて事も一には出来そうに無かった。
「なら、少しでも距離を稼ぎます」
糸原からの返事は無い。口を閉ざしたまま、一に体重を預ける。一を巻き込んでしまった罪悪感か、蜘蛛との戦闘で疲れきったせいか、それとも口を開けるのも面倒なだけなのか。
「ごめん」
と、糸原から小さな声。もはや、軽口を叩けるほどの気力もなくなってしまったのだろう。
さっきまでの饒舌は気を紛らわせる為だったらしい。緊張の糸が切れ、糸原はもう、完全に力をなくした。
いつもとは違いすぎるほど違う糸原を、肩で感じながら、一はゆっくりと、一歩ずつ、帰るべき場所へと向かう。
そうして、一分ばかり経った頃、先ほどの一の言葉が予言だったかのように、今まで動かなかった蜘蛛たちが動き出す。
さっきまで蜘蛛が囲んでいた傷だらけの獲物は、そこに居ない。
では、どこに行ったのか。
赤い、赤い赤い眼を光らせて、蜘蛛が暗闇をそれで照らす。
――ああ、そこに居たのか。
よろよろと歩く一を、一匹の蜘蛛が発見した。一匹が見つけると、即座に他の赤い目も、一の方を照らす。サーチライト。脱走者。蜘蛛の監獄。
煙草の吸殻が、オンリーワン北駒台店の店先に無造作に捨てられていた。
ポイ捨ての犯人は、店主であり、店長。店を仕切る二ノ美屋の仕業である。
既に一箱は消費しているらしい。
それでも、落ち着きの無い様子で、新しい煙草に火を点けては、何か考え込み、消し、また点ける。意味の無い行動を繰り返している。
「勿体無いわよ」
「ちっ、鳥に煙草の価値が分かってたまるか」
そう言いながら、店長は煙を至極不味そうに吸い込んだ。
「……神様ってのは、人間ってのをまるでおもちゃみたいに扱うんだな」
いきなり、どこかの漫画から引っ張り出してきたような台詞が飛び出したもので、梟は元から丸い目を、更に丸くさせた。
だが、それが自分のやった事に関しての皮肉だと気付いて、
「力ってのは、無条件で振るっちゃ駄目なのよ」
と、諭すように言った。
「おまえが一にやった力っていうのは、人間一人の、人生を変えてしまうほどの、馬鹿みたいな制限を与えるようなものなのか?」
「そうよ。言ったでしょ? 私の力の中でも極上の、最高のものをあげたって」
「力? ビニール傘一本がか?」
店長は言いつつ、ついさっき傘を持ったまま走っていった人間を思い出す。
一一。
雨も降ってないのに、そもそも戦場に向かうのに。
ソレとの戦闘に関しては、全くの、完璧の、百パーセント、混じりけなしのズブの素人。そんな彼が、蜘蛛との戦闘へ、蜘蛛との戦場へ持っていった武器は、コンビニエンスストア、百円均一のお店で売っているビニールの傘一本。オンリーワン北駒台店にて、一本五百円で提供している安っぽい作りのビニール傘。ありふれた、どこにでも文字通り転がっていそうな傘である。一つ、他の傘と違う点を上げるとするならば、傘の手元の所に、「オンリーワン」とロゴが入っている事だろう。是が非でも、意地でも、ほんの少しでも、店の事を宣伝したい商人根性である。そんな格好悪い傘を持って、一は戦場へ駆けていったのだ。
「性質の悪い冗談かと、目を疑ったぞ」
白い梟、アテナを睨みながら、店長が恨み言を呟く。
「じゃあ、傘を千本持たせれば文句は無かったのかしら?」
「………………」
「冗談よ。そうね、あの子にあげたのは私の中でも最高で、最硬で、最強の力よ。確かに、と言うか、なぜか傘一本だったけど、それはただの傘じゃないわ。この国でも、いいえ、この世界でもトップクラスの防御力を誇るモノよ」
梟が、さも自慢げに胸を反らした。
「……防御?」
店長が、「おいちょっと待て話が何かおかしくないか、普通こういう時に渡すのは武器として、攻撃力が優れていたりする剣とかじゃないのか」みたいな、俗な事を考えていたのかはさておき、見る見るうちに変な顔になる。
「あの子は、助けたい、守りたいと言ったの。土蜘蛛を殺す力なんて望んじゃいないわ。レージングを持っている、あの女の子を助けたいと言ったの。だから、あげたわ、とっておきでうってつけな、守ることに関しては、ギリシャで一番の、いえ、世界で一番の盾を」
糸原を自分の後ろにやって、庇う様な体勢で一が立っている。
庇う。
〜〜を危険から遠ざける。守る。
危険。
何から。何から、何から?
一と糸原へ襲い掛かろうとする土蜘蛛から。
土蜘蛛の群れから。
赤い眼球が、土色の体躯が、八つある足の蜘蛛が。
小さい蜘蛛が、大きい蜘蛛が、遅い蜘蛛が、早い蜘蛛が。
一へと走る。糸原へと走る。獲物へと走る。
やがて、小さくてすばしこい一匹の蜘蛛が、一の眼前にまで迫った。
「…………」
既にソレと遭遇した事はあるが、一にとっては勤務外として、初めてのソレとの遭遇。
前回、前々回のソレとの戦闘では、全て三森が一人で片付けた。
だが、その三森も今はこの場に居ない。一が一人でこの状態を、現実を片付けるしかないのだ。
恐怖も、緊張も、焦燥も、大よそネガティブな感情しか、今の一にはないだろう。
それなのに。
蜘蛛の足が一に迫る。
土蜘蛛の群れの中でも、小柄なモノだろう。が、それでも人間にとっては、どっちでも良い事の筈だ。大きい蜘蛛だろうが、小さい蜘蛛だろうが、怖いものは怖いし、痛いのは痛い、死ぬときは死ぬ。
そう、死ぬ。
攻撃を食らえば死ぬ。
あっけなく、簡単に、なすすべも、面白くも無く死ぬ。
昨日まではただの、どこにでも居る一般人の一でも、絶望的に運が悪くなければ、奇跡的に運が良ければ。
蜘蛛の攻撃を避けられたならば、打ち所が悪く無かったならば。
たら、れば。
助かる可能性はあるだろう。
命を繋げるならば、がむしゃらでも無茶苦茶でも、動けば良い。動かなくては悪い。
それなのに。
一は全身から汗をかきながら、体は震え、膝は笑い、視線は定まらず、喉は渇き、糸原は重くて、蜘蛛が怖くて、何も考えられなくて、声が、声が震えても、
「止まれ」
目の前の蜘蛛に、当たり前のように言い放った。