無名砂漠
すんすんと鼻を鳴らして出入り口の前にへたり込んだ公口を見下ろすと、九十九は物憂げに息を吐いた。
「いい加減起き上がったらどうだ」
「ナコトちゃんに押し倒されるなんて。あんなに止めたのに、う、私、私」
時折、九十九は公口が素面なのかどうか判断に困る時がある。
「お前は黄衣に対して過保護だ。アレも、元はといえフリーランス。ソレに立ち向かい苛烈な戦場に身を置き続けてきた者だ。生半な意思では止められん」
「止める気もなかったくせに、良く言えますね」
「手厳しいな。お前も、黄衣が来て変わったようだ」
九十九は公口の頭に手を置き、それから、彼女に背を向けた。
「『黄衣の王』、か。アレには相応しい。実物ではないが、フランス語版のオリジナルに迫るモノだったらしい。助けになってくれるのを祈るしかあるまい」
「……館長は、どうして、私を雇ってくれたんですか?」
「む」立ち止まり、九十九は禿頭に手を遣る。
「理由が欲しいのか?」
躊躇ってから、公口は口を開いた。
「今は、欲しいです」
「ラヴクラフトを好かんと言ったな」
「は? はあ、言いました、けど。あの」
「私は、アレは好きだ。特に、彼の海産物が嫌いなところが好ましい」
納得のいかないといった表情を浮かべ、公口はゆっくりと立ち上がる。
「何、この歳になるとな、敵に回る者も少なくなるのだよ。こちらに遠慮してか、はたまた畏怖して、か。だから、強く批判されたのは久しぶりだった。公口、お前を雇ったのはな、それだけの話だ」
「もしかして、あの時の事をまだ気にしてます?」
「気にはしていないが、一生忘れる事はないだろうな」
「……何を言いましたっけ、私」
それは、墓の下まで持っていくつもりだ。九十九は喉の奥で笑みを噛み殺した。
仮眠室のソファに横たわる一の寝顔を見つめて、ナコトはリュックサックから『黄衣の王』を取り出した。
表紙には何かを模した、シンボルのような黄色の印が記されている。蛇の皮で装丁された不気味な魔導書――――否、魔導書とはえてして不気味なものなのだ。
ナコトは、その魔導書と向き合っている。新たな力を得る為には魔の力を借りるしかなかった。しかし、彼女には踏ん切りがつかない。
『黄衣の王』は湧き出る泉にも似た澄み切った言葉と、毒々しいダイヤモンドのように煌めく言葉で埋め尽くされた、一種の詩劇、戯曲集であり、正確には魔導書ではない。しかし、読む者を狂気へと誘い、その内容全てを知ってしまった者には恐ろしい運命が待ち受ける。
表紙を開くのを躊躇っているのは、我が身に破滅が待ち受けているからではない。そも、読めなければどうしようもないのだ。表紙に浮かび上がる黄色の印、掠れたタイトルは読み取れる。だが、もしも読めなければ? 魔導書に選ばれていなければ? もう、自分には力がない。魔女に立ち向かう為の武器がない。一を夢の国から解放出来ない。だから、この期に及んで手が震えている。
「……オキナ」
胸中を過ぎるはかつての相棒、『図書館』の片割れ、黄衣オキナ。『ナコト写本』に選ばれ、ソレの知識を蓄え、風と共に生きた男。彼なら、どうするだろうか。彼なら、何を言ってくれるだろうか。背中を押して、共に戦ってくれただろうか。
ナコトは自身の掌を見つめる。その手に、自分に力がない事は理解していた。『図書館』と呼ばれていたが、オキナがいなければ何も出来なかった、嫌と言うほど、身に沁みている。
名前を捨てて、新たな名を得た。共に歩もうと、共に仇を討とうと故郷を出た。ソレとの戦いに身を投じ、魔導書を探し求めた。そうする内、『館』に当たると思ったからである。旅路は、閉ざされてしまったが。
「オキナ……っ!」
残った片目は頼りない。世界を見るには、この世を知るには心細かった。
「……また、泣いてんのか」
俯いていたナコトは弾かれたように顔を上げる。彼の前では二度と、そうしないと決めたのだから。
「一、さん? 目が……」
「今だけ、らしい」
一の目は開ききっていない。彼は眠気を覚まそうと、頭をテーブルにぶつけて、ソファの上にあぐらをかいた。
「お前ってさ、独り言が多いよな」
「なっ……! きっ、聞いてたんですか!?」
頷き、一は手の甲を抓る。気を抜くと、今すぐにでも眠ってしまいそうだったのだ。
「……どうなってるか、いま、いちわかんねえけど。『館』と、戦うのか?」
「その、つもりです」
「悪いな」目を瞑りそうになった一の頬を、ナコトが力強く叩く。
「痛いな」
「まだ、寝ないでください」
ナコトは抱えていた『黄衣の王』をテーブルの上に置いた。一はそれを不思議そうに見遣ってから、納得したような笑みを見せる。
「見つかったんだな、お前の、本」
「決まった訳じゃあないんです。まだ、読んでませんから」
「……なんて、書いてるんだ?」
「読めないんですか? 『アルアジフ』は読めたのに?」
一はあくびを噛み殺して、本をもう一度見た。
「見えねえんだ。ちょっと、やべえ。眠過ぎて、さ、ぼやけてる」
「ああ、そう言う事でしたか。これは『黄衣の王』、黄色い衣の王様で、黄衣の王」
「そう、か。……ああ、そう言う事か」
「勘違いしないでくださいよ」
釘を刺され、一は黙る。黄衣ナコト、その名の由来を。恐らく、彼女が名前を捨てた事を彼は理解したのだろう。
「良い、名前じゃんか」
あの日、毒の回ったナコトの体を一はメドゥーサで止めた。黄衣ナコトと、そう叫んで、止めたのである。だから、それで良いのだと彼は思った。
「ええ、そうです。あたしは黄衣ナコト。それ以外に、名前はありません」
強い意志で、そう訴える。ナコトは一を横目で見、彼の頭を魔導書の角で殴った。
「寝てないってば」
「一さん、お願いがあります。一緒に読んでください」
差し出された魔導書。ナコトの手は微かに震えていた。
「これ、読んだら狂っちゃうかもしれないんです。本物ではないですけど、限りなく近い力を持っています。正直、どうなるか、分かりません」
「お前、俺を道連れに、する気、なのかよ」
「あたしの命を拾ったのはあなたです。だから、責任を持って落ちてくれませんか?」
仮に、一が『黄衣の王』を知らなかったとして、その全てを理解していたとして、彼はこう言った筈だ。
「仕方ないな」と。
一はふらつきながら、ナコトの隣に腰を下ろす。
「狂ってやるよ、一緒に」
ナコトは何も言わず、ただ微笑んだ。彼女は表紙に手を掛け、一はその手に自らの手を重ねる。開かれた魔への道、二人はそこに足を踏み入れた。
駒台駅前の雑居ビルの五階に、それはいた。魔女と呼ばれるモノたちは、小さな窓から眼下を見下ろす。
「まばらになってきたねえ」
ランダは机の上に座り、行き交う人々を楽しそうに眺めていた。ヴィヴィアンは部屋の真ん中の机に座り、何も考えていなさそうに天井を見つめている。
『館』が占拠している部屋、元は、塾として使われていた場所だ。現在は、ランダが真っ当な手段で借り、塒として利用している。
「お師匠、私、勝てるんでしょうか」
心細そうに姫が呟いた。彼女も、先日からはここの住人となっている。姫が家を出てから一週間と経っていないが、捜索願いが出ている事には気付いていた。尤も、ここにいる限りは誰にも見つからない。ランダの張った結界は、人をここから遠ざける。魔女の庇護下にある限り、彼女は人の手から、目から逃れられるのだ。
「勝てないね。あんたはあの子に勝てない。当然じゃないか」
姫がランダの師事を受けたのは、神野が勤務外になり始めた頃の話である。正真正銘、彼女は純粋な人間だ。ただ、魔術の素養が備わっており、彼女自身が魔に興味を示したに過ぎない。
「あんたには魔導書なんて便利なもんもないし、あったとして読ませるつもりはないよ」
ランダは窓から視線を外す。
「出来ると言えば、あたしの真似事ぐらいのもんだ。立花とか言ったっけ? 昨日今日の付け焼き刃じゃあ無理さ。戦いにもなりゃしない。……魔法抜きなら、あたしら全員一分と経たずに殺されちまう」
実際に立花の力を受け止めたランダはつまらなさそうに告げた。更に言えば、立花の底はまだ見えていない。新しく手に入れた刀に振り回されていた様子でもあったし、一に気を取られて集中していないようにも見えた。十全ではない。その状態ですら圧倒されてしまいそうだった。
「でも、私たちには魔法があります。刀がなんだと言うんですか」
「あたしゃ、そんなもんに溺れて欲しくはないんだけどね。ま、そうさ。あんたと立花、一対一じゃ到底勝ち目がない」
くるりと、ランダは手の中でモップの柄を回した。
「けど、あたしらがいる。ヴィヴィアンは戦闘に集中出来ないけど、あたしとあんたでじわじわとなぶり殺せるよ。気に入らないやり方だけどね」
「……私は後衛に回れ、と」
「チャンスが見えるまでは絶対に前へ出るんじゃないよ」
姫は納得する。つまり、チャンスさえあればこの手で立花を殺せるのだ。
「さて、何人連れてきてくれるかねえ」
「皆さんの仇、まとめて取れると良いんですけど」
ランダは頷く。その為に、人数の指定はしなかったのだ。だが、望みは薄い。キルケを切った立花はともかく、パシパエを焼いた三森は別の何かによって病院送りになったと聞いている。
「盾の坊やはヴィヴィアンの魔法でぐっすり眠っちまってる筈さ。気にせず、立花真を仕留めるだけ、あんたは考えとくんだね」
「……増援の線、あると思いますけど。一さんという方は兄さん以外にも慕われているらしいですし」
「ああ、そういや……」
何とも言えない表情を作り、ランダは寂しそうに目を伏せる。
「『図書館』が来てたっけ、前は」
ヴィヴィアンに目を向けるが、彼女はランダの視線に答えなかった。
「ま、誰が来たってヴィヴィアンが片手間にやっちまうよ」
「そう、ですね」姫は胸に手を当てる。疼いているのだろうと、ランダは息を吐いた。
「苦しいかい?」
「あ、少し」
照れ臭そうにして、姫は胸から手を退かす。
「慣れるまでは我慢するんだね。……痛かったら言うんだよ。こっちは時間まで指定しなかったんだ。あんたが無理だって言うなら、使い魔を飛ばしてやっても……」
「お師匠、優しい。ふふ、私には兄しかいませんでしたが、お姉さんみたい」
「馬鹿言うんじゃないよ」
「年齢から考えるとお婆ちゃんになるんでしょうけど」
余計な口を叩けるなら大丈夫だろう。ランダは姫の頭を小突いて、帽子を深く被り直す。
「それに、今日中には来るでしょうね。その為の人質ですから」
ヴィヴィアンが一に魔法をかけたのは、確実に、立花を誘き寄せる為だった。仲間を助けたいなら、必ずこちらに牙を剥く。彼女が拒んでも状況が許さない。逃げ回られてはつまらない。しかし、効き過ぎの感はあった。
「あんな顔を見られるなんて、思わなかったんですけどね。へらへらと、男に媚びるような……あの女から暗いモノを引き出せると分かっただけでも、一さんには犠牲になってもらった甲斐があるというものです」
「まだ死んじゃいない筈だよ?」
「ヴィヴィアンさんが解かない限りは。けど、本物の魔女に本気を出させるなんて、人間には無理ですから」
「……姫、そいつらの死は付いて回るよ。あんたが生きてる間はずっとね」
姫は答えない。何故なら、今の彼女にとって、ランダの言葉は起こりえない事だからだ。立花の死を見届けたなら、生きる理由はない。姫はそう、決意していた。
「目標は『館』、可能なら生き残りの三名を全て仕留めろ」
「姫ちゃんは駄目だって言ってるのに」
「可能ならばと言ったろう」
「しかし、魔女の仕掛けた場所へと飛び込むのです。相手かこちら、どちらかが全滅するまでは戦闘は続行されるでしょう」
「あるいは学校の時と同じように、『館』がごめんなさいと言うまで叩き続けるか、ですね」
「策はない。とことんまで付き合って、最後に立っていれば良い訳だからな」
「流石脳筋勤務外、あたしは嫌ですからね。もっとスマートに」
「スマートに?」
「スマートにボコります」
「そういう事だ。働けイヌども」
わんと鳴き、立花が椅子から立ち上がる。
「クリオネのように、天使のように美しいあたしも行くとしましょうか。ナコトちゃんマジ天使」
「クリオネの補食シーンは悪魔を思わせますが」
「せめて綺麗な薔薇には……にしておくべきだったな」
うるさいですよと喚き、ナコトが椅子から立ち上がる。
二人はそれぞれの得物を携えて、顔を見合わせた。
「駅周辺の人払いは間もなく完了する。が、電車は動いているから、余計な被害は出さないように」
「止めれば良いのに……」
「金が掛かる」
息を吐き、立花は仮眠室を見遣る。
「行ってきます」
「あたしの足を引っ張らないでくださいね」
「それはボクの台詞だよ。前みたいにすぐ逃げないでよね」
「吠え面をかかせてやりますよ」
足並みを揃えないまま、二人はバックルームを去っていく。
「大丈夫でしょうか。ナナ、不安です」
「さて、どうだかな。……しかし、『館』の計算を狂わせられるかもしれん。あの手のタイプは想定外の事態に弱いと相場が決まっている」
「油断してくださるのなら、魔女を壊滅出来る可能性もあります。策士策に溺れてくれれば助かるのですが」
店長は煙草に火を点け、難しそうに唸る。
「学習して、手を変えてくるか。否、変えないだろうな」
「『館』とは馬鹿なのですか?」
「魔女であるなら、人間を舐めてなんぼだろう。力比べになるなら、分はあるんだが……さっぱり分からん」
無責任に言い放ち、店長は天井を見上げた。
駅前に着くまでの間、ナコトは立花に自分の考えを伝えていた。
「姫ちゃんは戦わないの?」
「前回の『館』戦、神野姫は姿を見せませんでした。正体が露見するのを恐れていたのかもしれませんが、力がなかったのでしょう。一対一に持ち込めるならあなたが負ける筈はありません」
「じゃあ、ボクたちはどうやって戦おうか」
「あたしに良いプランがあります」
指を一本立てて、ナコトは笑う。気味の悪いそれだったが立花は気付かなかった。
「数で不利なのはこちらです。向こうには乗らず、掻き回していきましょう。基本的に、あたしが隙を作るので、散開した敵をあなたが各個撃破していく、というのはどうでしょう」
「う、うん、それでいこうよ! ナコトちゃんはすごいなあ、ボクには考えらんないよ」
「いえいえ、とんでもない。……あ、見えてきましたよ。アレが件のビルでは?」
駅前に人影はない。立花たちは立ち並ぶ雑居ビルの一つに入り、注意深く周囲を見回す。
「五階……最上階ですね。馬鹿と煙は高いところを好むを地でいっているようで」
「エスカレーターで行こうよ」
立花はエレベーターの前に立ち、物珍しそうにそれを見つめていた。
「区別がついていないんですか? それはエレベーターです。と言うか、使いませんよ」
「ええっ、なんで?」
戦闘に入るまでは落ち着きのない、考えなしの憎たらしい子供である。ナコトは立花にそんな印象を受けた。
「罠が仕掛けられていたらどうするんです。密室がどれだけ恐ろしいものか、もっと考えて行動してはどうですか」
「じゃあ、階段?」
「空を飛べるなら外からどうぞ。全く、これだから勤務外は嫌いなんです。応用が利かない力馬鹿」
「……頭でっかち」
「まさか、あたしを指してそうだと?」
予想していなかった反撃にうろたえるも、ナコトは立花を睨み付ける。
「本ばかり読んでるから目と意地が悪いんだ」
立花は憤慨した様子で、先んじて階段を上り始めた。
「あなたは頭が悪いでしょう!」
先に進む立花の後を追い掛け、ナコトは叫ぶ。
「う、うるさいなあ。ほっといてよ。掛け算ぐらい出来るもん」
「そんなものアシカにだって出来ますから。掛け算ぐらいで何を偉そうに」
「九かける九は!?」
「救えませんね本当に!」
階段を上りながら言い争う二人だが、ここに罠が仕掛けられているという可能性については、完全に頭から抜けていた。
「ボク、君の事は嫌いだ!」
「あなたに好かれるぐらいならゴリラのメスに会話を試みた方がマシです」
「ぼっ、ボクがゴリラだって言うの!?」
「心配しなくても、あなたは霊長類以下ですよ。蟻の巣に木の枝を突っ込むチンパンジーを見て感銘を受けていたらどうですか」
一階、二階、三階、四階、そして、五階。二人は流石に黙り込み、フロアに足を踏み入れる。
「く、暗い……」
電灯が切れているらしく、廊下には積み上げられた段ボールや足の折れた長椅子が多数。そのせいで窓からは光が入ってこない。
「一番奥でしょうか」
薄暗い廊下を進み、ナコトは最奥の扉に手を掛ける。緊張し、手が震えそうになるが、自分よりも情けない醜態を晒す立花を見てどうにか落ち着いた。
「袖を掴まないでくださいよ、チキン」
「とっ、鳥肉は関係ないじゃないか……」
ノブを回し、ゆっくりと押し開ける。瞬間、
「…………うそ」
世界が白一色に染まった。乾いた風が吹いて目を瞑る。足元から固い床の感触がなくなる。目を開ければ、広大な空と砂が敷き詰められていた。室内だった筈なのに、ここには太陽がある。
「な、どっ、どこ? ボクはどこにいるの?」
扉は掻き消え、背後にも砂漠しか見えなかった。だだっ広い空間には太陽と砂、空以外には何もない。ナコトは目眩を起こして片膝をつく。砂を握り込んでみたが、その感触は確かに本物だ。幻ではない。
「ヴィヴィアン……」
何か仕掛けられるとは思っていたが、想像を遥かに超えていた。この砂漠は作られたものではない。繋げられたものだ。地球上か、あるいは異世界か。スケールが違い過ぎる。ナコトには分かっていた。魔女の狙いはこちらの戦意を挫く事ではない。ただ、見せたかったのだろう。こんな事も出来るのだと自慢したかったのだろう。
「こっから、出られるのかな……」
「あたしたちの意志で脱出するのは不可能でしょう。魔女が法を改めない限りは、ここで乾くのを待つだけです」
ナコトには、空間同士を結合、召喚させる魔法に心当たりはない。だが、これだけ大掛りなものならば、どこかに魔法陣が仕掛けられている筈だ。……尤も、それを探し当てるよりも自分たちが朽ち果てる方が早いのは目に見えている。
「なんだ、『館』を倒せば良いんだね」
立花は雷切を解き放った。
「いきなりでびっくりしちゃったけど、やる事は変わらない」
「……ま、考えたって仕方ない事もありますか」
ナコトは立ち上がり、『黄衣の王』を取り出す。表紙を撫で、前方を見据えた。
景色が歪み、揺らめく。蜃気楼ではない。『館』のお出ましだ。三人の魔女が姿を見せ、訪問客に恭しく頭を下げる。
「意外と早かったねえ。今生の別れは済ませちまったのかい?」
ランダが帽子のつばを上げ、挑発的に笑う。
「おーや、まーたあんたかい『図書館』。つくづく、縁があるねえ」
「ええ、本当に」
「姫ー、言う事はないのかい?」
立花が身構えるが、姫はあらぬ方に視線を向けていた。
「今は、何も」
「あっそ。淡泊な子だねえ」
モップ――――魔法で硬質化させたもの――――を構え、ランダは立花たちを強く見据えた。
「その縁、どこまで続くもんかね」
「勿論」
ナコトは、一度も口を開かないヴィヴィアンを睨み付ける。
「ここで断ち切ります!」
静けさを取り戻したバックルーム。仮眠室で寝息を立てる一、店長は彼の対面のソファに身を沈ませる。
「……寝ながら働いてくれれば良いのに」
一が口を開けば文句と愚痴だ。黙ってさえいれば有能なんだがと、店長は溜め息を吐く。
そろそろ、『館』との戦闘が始まっただろうか。店長は一の体に毛布を掛け直す。今は、今だけはゆっくり休んでいれば良い。誰かの盾になろうとする彼に、魔女から与えられた休息の時なのだ。強引ではあるが、首を突っ込みたがる一には丁度合っている。こんな状況にならなければ、彼も立花たちに付いていっていただろう。
「たまには守られてみるんだな」
煙草に火を点け、店長は美味そうに煙を吸い込む。
フリーランス『館』。立花が恨みを買った相手は悪い。神野姫がなりたてのそれだとして、ただでさえ厄介な魔女が三人もいる。普通にやり合えば、立花の勝ちはない。彼女は強いが、頭を働かせる事には弱い。搦め手を使われれば脆い。
だから、黄衣ナコトが鍵となる。『館』にとって計算から外のイレギュラー。彼女がどれだけ場を掻き回し、魔女の裏をかき意表を衝くかが生死の分かれ目となる筈だ。尤も、ムシュフシュ戦のままのナコトでは当てにならない。鎖だけが得物のフリーランスは必要ない。鍵となるなら、相応の戦闘能力が不可欠になる。
「魔導書か」
店長は魔導書について、殆ど何も知らない。魔法使いを量産させる悪魔の道具としか捉えていない。しかし、その力は本物だろう。魔術の素養がある、選ばれた者だけに行使できるとはいえ、人知を軽々と超えたモノを使役出来るのだ。ナコトは新たな力を手に入れたと言っていた。その言、どこまで信用可能なものか。
店長は一に向かって煙を吐く。これで起きるならしめたものだと思ったのだが、彼は寝返りを打つだけに留まった。
黄衣ナコトの力は信じられない。だが、彼女の、一を助けたいという思いは信じられる。そして、その先にある思いを。隠し通そうとする思いをも、店長は信じている。