ドリームランドに連れてって
「風邪、引いてしまいますよ?」
優しい声だった。
この世を恨む。皆、死んでしまえば良い。しかし現世を捨て去れない。そんな思いが自分の根源なのだ。魔女と蔑まれ、疎まれ、人を呪った。運命を呪った。不毛だと、心のどこかでは理解していたのかもしれない。ただ、怖かった。今まで自分と言う存在を形成していたのは、正にそれなのだ。捨て去った瞬間、形を失い、現世から消えてしまうのが恐ろしかった。
だから、彼女は『館』を作ったのである。似たような境遇の女を集め、助け、魔を授けた。名を捨てさせて、新たな名を与えた。同情かもしれない。久しく得られなかった何かに餓えていたのかもしれない。
「聞こえていますか?」
差し出された傘を見遣って、厭世的に笑む。こんな自分に声を掛けた事を後悔させてやろうかと。
「……ちゃあんと、耳は付いてるよ」
傘を差し出したその少女は、美しかった。彼女は濡れた前髪に片手を添えて、ずっと微笑んでいる。こちらに笑みを向けている。憐憫、ではない。自己満足も感じられない。少女は演じているのだ。深く、暗い闇が彼女の中に潜み、だからこそ、美しく思えたのである。
「素質なら、ピカイチかもね」
「あの、頭、大丈夫ですか?」
失礼な奴だと、女は笑った。
あの日から、あの時から、あの女の顔を見た瞬間から、沸々と煮え滾っている。自分の姿が映るものからは逃げていた。今の顔はきっと、誰にも見せられない。自分でも見たくない。どす黒い感情に突き動かされて、強く拳を握り込む。このままでは狂ってしまうかと思われた。
「……姫、どうしても付いてくるのかい?」
神野姫は『館』の先達、自らの師を見遣って、頷く。もう、帰るべき場所などない。あの家に未練はない。彼のいなくなった世界など、滅びてしまっても構わない。だが、その前にすべき事がある。
「私の戦いですから」
姫の師、ランダは三角帽子を被り直して溜め息を吐いた。
「今から会う人は本物だよ。あたしなんかとは比べ物になんないぐらいの、本当の魔女。何をされても文句は言えないし、何をされたって不思議じゃない。分かってんのかい」
もう戻れない。否、とっくに戻れなくなっていたのだ。だから、姫はもう一度頷く。
ランダは辛そうに目を伏せた。今更だと自分を戒めるも、姫の深くなった隈と鋭くなった目付きを見て、やはり後悔する。自分の気まぐれがこんな事態を引き起こす事になるとは思っていなかったが、それでも。
「お名前、伺っていませんでしたね」
「ヴィヴィアン。大体、そう通ってた筈さね」
「案外、可愛らしい名前。もっと仰々しいものを想像していました」
名前自体に強い意味はない。ランダは何も言わず、分かれ道の前で足を止めた。
「お師匠よりも魔女らしい魔女、なんですよね。どんな魔法を使えるんですか?」
「あのね、今みたいな質問をヴィヴィアンにぶつけるんじゃないよ」
「ああ、お師匠よりも凄いんですね、その方は」
「そうだけど、言い方が悪い……しっかし、アレだね。あの人が『館』を抜けてから会うのは初めてだよ」
「今、何をなさっているんですか?」
「この辺りで辻占をやってるって聞いたけどねえ」
姫は小首を傾げる。駒台で辻占を見る事自体珍しい。その上、ここで占い師を見かけた覚えもなかったのだ。
「あの人の姿が見られるのは、あの人に選ばれた者だけなんだよ。あたしなら、無理矢理にでも結界なり何なりぶっ壊せるんだけど、そうしたら、機嫌が、さあ……」
「お師匠の考えナシ」
「でも、その心配はなさそうだね」
前方の景色がぐにゃりと歪む。姫は目を見開いた。先まで、そこには何もなく、誰もいなかった筈だと言うのに、襤褸を纏った老婆がこちらを見ている。年齢のせいか、背筋は大分曲がっていたが、その視線はまっすぐで、逃れられないと姫は直感した。
「……久しぶりじゃないか、ヴィヴィアン」
ランダが声を掛けるも、ヴィヴィアンと呼ばれた老婆は反応を見せない。彼女は、姫だけをじっと見つめていた。
「あなたが、ヴィヴィアン、さん?」
「神野姫あなたの未来を見させてあなたが何を選ぶのか教えて欲しい私はあなたの未来に興味がある」
最初、姫は老婆が何を言っているのかが聞き取れなかった。一息に言い切る独特な話し方に戸惑ったのである。それから、声だ。年相応にしわがれた声ではなく、若い女の、張りのある声音にも驚いた。
「私の未来を……? あの、そうじゃなくって、私は……」
占いなど必要ないと姫は内心で憤る。自分がどうなるかなんて、分かっている。必要なのはヴィヴィアンの力なのだ。
「姫、ご機嫌でも取っときな。あんたの未来が気に入れば、ヴィヴィアンは力を貸してくれる筈さ」
未来なんて、ない。立花真をこの手にかけるだけの人生だ。それを選んだのである。その為にここにいて、兄のいなくなった世界を生き延びているのだ。
「構いません。どうぞ、お好きに」
ヴィヴィアンは口元を歪ませて低く、引き付けを起こしたように不気味な声で笑う。姫は彼女を冷めた目で見据えていた。
心配していたのだが、どうやら立花は大丈夫らしい。少なくとも表面上は、ではあるが。
「美味しかったね。ね、ね、また二人で来ようよ」
「ん、そうだね、機会があれば、また」
立花に腹芸が出来ると、一は思っていない。彼女はいつだってまっすぐに感情を露にする。だから、今はきっと心から笑っているのだろう。神野の死を乗り越えた訳でもない。忘れる必要はないのだ。折れた刀は甦る。芯に通ったものが本物なのだから、立花に関しては心配ない。
心配なのは自分なのだと、一は俯く。ミノタウロスと戦った際に気付いた異常が彼の心を苛んでいた。一つは、煙草の箱がアイギスになった事である。傘以外のものが神具となったのは心強い。また、新たな何かを得たのだと喜べる。だが、いよいよ人外じみてきた。北が言っていた事を実践出来る程度には人を外れている。その気になれば、葉っぱ一枚、あるいは空気をアイギスにするのも、そうなのだと思い込むのも可能なのだろう。尤も、一にその気はなかった。追い詰められたからこその変化であったのだと彼は認識している。
もう一つは、メドゥーサからの警告についてだ。力を酷使すれば鼻血程度では済まなくなるのだろう。連続、連日で彼女に力を借りていては身が持たない。メドゥーサは最も近しく、頼りになるパートナーだが、見誤れば彼女に殺される。身に宿ったアイギス。それに囚われているのはか弱い姫ではないのだ。檻を食い破らんとする怪物であるのを忘れてはならない。
今まで通り、アイギスを盾として扱うのは問題ないだろうが、メドゥーサに頼るのは暫く時間を置いた方が良いかもしれないと、一は立花を見て思った。新から彼女に受け継がれた雷切、その力、『立花』の名は、やはり伊達ではない。自分よりもソレを殺す事に長けている。立花は自身を剣だと言った。ならば、攻撃の一切を彼女に任せて、防御は自分が担えば良い。
「はじめ君はさー、お母さんが帰って寂しかった?」
幼く見えていた立花が、少しだけ大人びたように感じていた。心境の変化は、あったのだろう。怒濤のように起こった事物が、彼女を良い方向へと押したに違いない。
「新さん? あー、まあ、正直に言うとほっとしてるけどね」
「やっぱり、苦手だったの?」
「押しが強くて……あ、でも、嫌いじゃあなかったと思う。アレだね、ちょっと不器用なだけ、だったんだと思うよ」
「……はじめ君は強引に来られるの、嫌い?」
一は言い淀む。
「うーん、ほら、あの、ジェーンが、ね? あいつがあんなだから、どっちかと言うと控え目な感じの人のが良いかなあって」
「肉食系って奴だね。ジェーンちゃん、アメリカ人だし」
「関係あるのかなあ? まあ、肉ばっか食ってたら馬鹿になっちゃうってのは確かだね」
「ボク、馬鹿になっちゃうのかな……お肉、好きだから」
鳥肉はセーフかなあ、などとのたまう立花から、一は視線をずらしてフェンス越しの線路を見遣る。
「立花さんは、家に帰りたいって思わない?」
「え?」
立花のポニーテールが揺れた。一は、駒台を過ぎていく列車を羨ましそうに見つめる。列車が完全に彼らの視界から消えた後、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「思うよ。はじめ君は、お母さんの事を好きじゃないかもしれない。けど、ボクは、さ、ボクにとっては、たった一人のお母さんだから」
「後悔、してる?」
「ううん、ボクはここに残って良かったんだって、思ってる」
微笑み、立花は目を細める。彼女がそう言うのなら、これ以上は何も言うまい。一は線路から視線を外して、立花に目を向けた。
「けん君が守ろうとした街だから、あのね? はじめ君、二人で、守ろうよ」
「二人だけで?」
「ふ、二人だけでもだよっ」
一は苦笑する。立花もまた、自分と似たような事を考えていたらしい。ヒーローにはなれないけれど、なりたいとも思わないけれど、彼女と一緒なら、ヒーローの真似事ぐらいは出来るだろうとも考えられた。
結局、魔導書を選ぶ事は出来なかった。探し求めていた本がそこにあった。なのに、手を伸ばす事が出来なかった。恐かったのだ。『図書館』になると決めた日から、ずっと追い続けてきたもの。ナコトにとっては目的で、全てだ。存在する理由の一つで、それしか残っていない。
魔導書は選ばれた者にしか閲覧出来ない。本を見つけても、ページを繰っても意味はない。その魔導書に選ばれなければ、魔術師にはなりえない。黄衣ナコトは確かにそれを求めていた。だが、もしも読めなければ? 選ばれなかったなら? これから先、何を信じて生きていけば良い。
考える時間が欲しかった。願わくは、本を開く勇気も。
「駄目駄目です」昼になると、九十九たちから半ば追い出されるようにして図書館から出てきた。駒台の街に行き場はない。どこに行っても、誰と会っても、何をしたって頭からは魔導書が離れないだろう。それでも、たった一人だけ心当たりがある。会いたいと思う者がいる。
一と立花が、二人で歩いていた。
「……本当に」
以前は、一は立花を遠ざけようとしていたように思う。でも、二人の距離は何だか近くて、彼らだけの世界を形成しているように思えた。躊躇う事はない。自分だって一に用がある。話したいと、会いたいと。足が動かない。
――――馬鹿みたい。
黄衣ナコトは気付かれないように息を潜めて、一たちを見送った。
殺してやりたい。
今すぐにでも、兄の恨みを晴らしてやりたい。だが、あまりにも早過ぎやしないだろうか。覚悟は決まっていた筈なのに、ヴィヴィアンからもたらされた案を実行する段階に至って、神野姫は少しだけ揺れていた。
本物の魔女、『館』の元住人、ヴィヴィアン。彼女に、姫は自分のペースを乱されている。流されるままに、まるで、そこに自分の意志が介在していないように思われた。
「久方ぶりに人の業に触れた神野姫あなたには期待しているどうか私を楽しませて欲しい」
「……お好きに」
姫は楽しそうに微笑む童女を見下ろす。ランダはやれやれとでも言いたげに頭を振った。どこにでもいそうな、小さな女の子。彼女こそが、今のヴィヴィアンだ。
ランダの言によると、ヴィヴィアンは自分の姿を自由に変えられるらしい。姫は、彼女が襤褸を着た老婆から童女に、一瞬で姿を変えた時には絶句した。これだけでも充分に驚異的だというのに、ヴィヴィアンが所有する魔法の、ほんの序の口だと言う。
「姫、チャンスってのはいつ飛び込んでくるか分からないもんだよ。ヴィヴィアンはあんたにそいつを与えた。……あいつを、殺したいんだろ?」
「ええ」
「……そうかい」
まるで、答えが欲しくなかったような反応を見せると、ランダは三角帽子を深く被った。
姫はヴィヴィアンの使い魔の視界を通して、前方にいる立花と、一を静かに見据えている。戦闘を行うにあたって、ヴィヴィアンから授けられたものは何もない。だが、彼女が立花真に理由を与えてくれる。
神野姫は神野剣の実妹であり、立花にとっては友人の妹だ。だから、立花は自分と戦わない。そう、姫は睨んでいる。きっと、彼女は逃げの一手を打つだろう。話し合いで解決しようとするだろう。
させるものか。
姫は歯を食い縛る。ただ殺すだけでは済まさない。立花の力も、感情も、全てを引き出してから、絶望の只中へ落としてみせる。……兄はそれを望んではいないだろう。望んでいるのは、自分だけだ。当然である。何故なら、死者は何も望まない。思わないのだから。
影が頭上を覆う。高架下に差し掛かった一は立ち止まった。立花も彼に倣い、足を止める。列車が真上を走っている為に、二人は声を発しない。揺れる地面に視界がぶれて、世界が歪んだ気がしても、言葉を紡げない。
前方に、黒い女が見えた。モップを持った女は三角帽子を目深に被り、漆黒色のマントを翻す。彼女を、一はどこかで見たような気がしていた。
「はじめ君、後ろに」
立花が提げていた竹刀袋を肩から外す。
「……まさか、ソレなのか?」
「『館』の魔女だ。けん君が言ってた奴に似てる」
似ているだけでソレ扱いされる女はたまったものではないだろうが、一は立花に従う。格好だけでもそうだと言うのに、身に纏う雰囲気は尋常のものではない。常人では放つ事など許されない、魔性のそれを漂わせている。
しまった、と。一は自らの甘さを悔いる。立花はこうして得物を持ってきていたのに、自分はアイギスになりうるものを所持していない。煙草の箱はポケットにあるが、ちっぽけなものに自分と、立花の身を託すつもりはなかった。
「逃げよう。俺が足手まといになる」
振り向けば、そこにももう一人。見覚えのある少女がこちらを見つめていた。北駒台高校の制服を着た彼女の相貌が一の心を揺さぶる。
「姫、ちゃん……?」
立花が呟き、列車が完全に過ぎ去っていった。静けさが返り、ようやくになって口を開く者が一人。
「逃げようなんて考えない事だよ、勤務外」
魔女が口を開く。帽子のつばに手を遣り、彼女は愉快そうに一たちを見た。
「『館』の生き残りかよ」
「ご名答だよ、ぼうや。あたしはランダ。あの時は出会わなかったけどさ、あんたのお仲間には煮え湯を飲まされたねえ」
「自業自得じゃねえか。何か、復讐にでも来たってのか?」
フリーランス『館』。そこに住む者たちの結束は固いと、一は聞いている。だからこそ、襲われた。関係のない人間が大勢死んだ。
「んにゃ、今日はそっちの用じゃない。尤も、あたしゃ最初からその気はなかったけどねえ」
「だったら……」
立花が息を呑む。彼女はランダではなく、姫から視線を逸らせないでいた。
「そっちのお嬢ちゃんは分かってるみたいだね。そう、今日の狙いは立花真、あんただよ」
「なっ、待てよ! 立花さんは魔女を殺してない!」
「――――ええ、殺したのは魔女ではなく、私の兄ですから」
ようやくになって喋ったと思えば、それか。一は歯噛みし、姫に視線を向ける。
「殺した、だって?」
「一さんとおっしゃいましたか、確か。はい、その女は兄を殺した。あなたも、その場にいた筈だと思いますけれど?」
勘違いしているらしい。神野を両断したのは立花ではない。ミノタウロスだ。その場にいたからこそ分かる。言ってやれる。
「神野君を殺したのは、ソレだよ」
一が声を絞り出すと、姫はきょとんした顔になり、それから、腹を抱えて哄笑した。狂気じみた彼女の笑い声に彼は震える。
「あははははははははっ! 面白い事を言うんですね、あなたもっ。知っていますよそんなの!」
正気とは思えない。立花の顔色は少し、青くなっていた。一はランダよりも姫を脅威だと感じる。
「だから? だからなんですか? ソレも、勤務外も、大して違いはないでしょう。命を奪う存在が怖気づかないでくださいよ。殺すんだから、殺されたって構わないじゃないですか」
「あのさ、言いたくないけど、君の兄さんだって勤務外だったんだぜ?」
「言いましたよね? だから? と」
話は通じない。姫は本気で立花を殺そうとしている。だが、一に戦うつもりはなかった。姫は神野の妹で、恐らくは一般人。彼が死んでしまったところを『館』の魔女に唆されたのだろう。
「何さ。おいおい、あたしをそんな目で見ないでおくれよ。と言うか、あたしはむしろ……」
「お師匠、余計な事を言わないでください」
「はいはい」ランダは肩を竦める。
聞き捨てならない言葉を聞いて、一は眉根を寄せた。今、姫は魔女を師と呼んだ。ランダが姫を操縦しているのではないのか。先ほどから気になってはいたのだが、何か、おかしい。何故、『館』のモノとこうまで普通に接しているのか。
とにかく、一度逃げた方が良いだろう。一はそう判断して、立花の肩に手を置く。彼女はびくりと震えたが、彼の顔を見て、安心したように目を瞑った。
「あ、逃げようとしていますね。そうはいきません。そうはいきませんから、一つ、面白い話をしましょう」
「悪いけど、今は興味ないんだ」
姫はくすくすと、手の甲を口元に当てて微笑む。
「火祭愛美。馬越泰江。嵐山明衣」
「……それが、何?」
立花はお伺いを立てるようにして姫に話し掛けた。一は、体中から力が抜けるのを感じていた。何故、その名前を知っている。情報部でもない、勤務外でもない姫が知っている。どうして、愉しそうにしていられるのだ。
「そこの、頭の回転が鈍い女は気付いていないみたいですけど。流石は一さん、兄が言っていた通り、頼りがいのあるお兄ちゃんですね」
「まさか……そんなっ」
一は思い出す。内部犯がいると、口の軽い情報部は言っていた。
「では、改めてましてこんにちは。私は『館』のレヤックと申します」
問い質す時間すら与えられない。立花は何も言わず、雷切の柄をぐっと握り締める。
「どうしました? あなたたち勤務外にとって、私は憎い仇なのでしょう?」
「かた、き?」
「ええ、だって学校に『館』を招き入れたのは私なんですから」
脳裏に、あの日の光景が蘇った。グラウンドで野晒しになった死体。豚になった女生徒。錆びた剣に、蠢く骨。何よりも、哄笑する魔女! 腹を揺すって死体を指差す魔女が、一の脳裏により強く、鮮明に浮かび上がる。信じられない。信じたくない。駒台を守ろうとした神野の妹がフリーランスで、よりによって『館』のメンバーだったなど、そんな事を、誰が信じられる。誰が信じたいと思うのだ。
「まだ信じられないのなら、もっと面白い事を聞いてみますか?」
「……やめてくれ」
「何なら、ここでスパルトイを召喚しても良いんですけど」
全て、納得出来る。神野姫が『館』の住人なら、魔女が起こしたあの事件の謎、その殆どは解決するのだ。
「やめてくれっ、どうして、君なんだ。どうして、神野君の妹の君が……」
「甘っちょろい人ですね、あなた。兄さんの言っていた通りで想像通り。でも、迷っていると殺されちゃいますよ?」
空気が重くなる。一はそれでも戦えない。あまりにも、救いがなさ過ぎる。神野が守りたかった者に、殺されるのだとしても。
「無理だよ、姫ちゃん」
「っ、あなたが私の名前を呼ばないでくださいよ」
「姫ちゃんには無理だ。ボクは、はじめ君を殺させない」
雷切が鞘から解き放たれる。立花は切っ先を下げたままではあるが、切れ長の瞳で姫を見据えた。
「兄さんを殺したのに、その人は殺さないと?」
「ボクはけん君を殺してなんかない」
「いいえ、殺したんです。あなたは、私の知る兄を殺した」
ランダがモップを構える。姫は腕を組み、鼻を鳴らした。
「次は私を殺しますか? 『館』に入り、招き入れた憎い仇を。あなたたちの邪魔をするフリーランスを、その刀で」
「殺さない。……ボクは、姫ちゃんを殺せないよ。学校を襲ったのは悪い事だ。けど、殺したいとは思わない」
「綺麗事を。間接的とは言え、私は人を殺しました。あなたの大事な日常を壊し尽くした。憎いと、どうして思えないのですか。私が神野剣の妹だからですか?」
一は押し黙る。姫が『館』のメンバーである事に驚いたからではない。その事実は信じ難いが、徐々に飲み込み、理解し始めている。彼が不自然に思ったのは、姫が長々と話をしている事だ。
「ボクには、そういうのが分からないから」
「あっ、そうですか。そうですよね。化け物だもの、人間の気持ちが分からなくて当然ですよね」
「う、この……っ」
こうなった経緯は一にはまだ分かっていない。が、立花は姫にとっての仇、憎悪をぶつけるに値する敵らしい。その相手を前にして、立ち止まる。冷静になって話を始める事が分からない。我を忘れて飛び掛かるのが、むしろ自然ではないだろうか。北駒台高校を襲った魔女で、一が知る限り死んだのは三人。人間を豚に変えるキルケ。体から虫を沸かせるパシパエ。モノを隠すカリュプソ。
神野は以前、モップを使う魔女と戦ったと言っていた。ならば、姫に師と呼ばれた女がそうなのだろう。スパルトイを召喚した内通者が姫なら、『館』の構成員はこれで全て、五人の筈だ。魔女の力は割れている。手の内を暴かれている。なのに、姫には余裕があった。敵前で我が身を晒し、立花に挑発的な態度を取っている。まだ隠し玉があるのか。何か他に意図があるのか。何にせよ、ペースに乗るのはまずい。
「立花さん、妹さんの方へ逃げよう」
一は声を潜めて立花に話し掛ける。逃走を図るなら、やはり姫を狙うのが常道だろう。ランダの力は未知数だ。モップで戦うだけなら魔女とは呼ばれまい。彼女にはまだ、何かある。仮にも師と呼ばれる者なのだ。穴があるならそこに付け込む。
……また、生き延びようとしていた。
神野が殺された時も、今も。足を止めたくて、思考を止めたくて仕方がない話を聞いた筈なのに、一にはそうする事が出来なかった。
「姫、そっちに行くよ」
「分かっています」
走り出した一たちをランダが追い掛ける。モップによる振り下ろしは立花に避けられ、固いコンクリートを穿った。
「お師匠の馬鹿」
「うるさいねっ」
一は内心で『館』を嘲笑する。追い詰めたいなら、何故姫を連れてきたのかと。挟撃するには彼女はあまりにも頼りない。立花が雷切を横に薙ぐ。姫はそれを下がって回避した。ほら見ろと、一は彼女の脇をすり抜けていく。
立花と姫の視線が交錯した。
彼女は笑う。
「やっぱり、私ですよね」
立花の前を走っていた筈の一が、彼女の視界から消える。
「はじめ君っ」
一はその場に、前のめりになって倒れ込んだ。彼は呻き声すら発さないまま、冷たい地面に顔を預ける。立花の呼び掛けにも答えられないで、ぴくりともしなかった。
「ほら、後ろが空いていますよ」
「う、わああああああっ!?」
大きな衝撃を受けて、立花の体がフェンスにまで弾き飛ばされる。背中を強打し、それでも彼女は雷切を離さない。明滅する視界が、僅かにぶれる。姫とランダの傍に立つ、若い女を確かに認めた。