一緒に帰ろう
女子高生が自分の上に跨っている。
男としては喜ばない方がおかしい状況だが、人としてそれはどうなのだろうと一は自分に問うた。勿論答えは返ってこない。
「た、立花さん……何、やってんの?」
立花に問い掛けても、彼女は身動ぎ一つしなかった。ただ、黙って一を見つめている。
「はじめ君」
「は、はい」
「はじめ君は、いなくならないよね?」
「え?」
思考が上手く纏まらない。冷たい感触がすぐ傍にある。寝返りを打てば顔面が裂かれてしまうだろうと思われた。
「はじめ君は死なないよね?」
一は、頭を鈍器でしこたま殴られたような衝撃を受ける。上気した顔と濡れた瞳。立花が何を言いたいか、彼には分かっていた。
「……うん、死なないよ」
人間はどうせいずれ死ぬ。いつか死ぬ。必ず死ぬ。真っ赤な嘘だが、立花が望んでいるのは陳腐な言葉なのだ。彼女は安心したような顔になり、一の胸に手を置く。
「ボク、はじめ君を好きだよ」
「うん」
「ボク、けん君を好きだったよ」
「うん」
「ボクは……!」
立花の涙が一の頬に当たった。彼は目を瞑り、小さく息を吐く。
辛い目に遭ったろう。苦しい思いをしただろう。剣を上手く使えても、ソレを上手に殺せても、彼女だって人間なのだ。誰にも嫌われたくなくて、恨まれたくなくて、憎まれたくなくて。駒台に残れば、今よりも、今日よりも酷い光景を目にするかもしれない。今度死ぬのは自分で、また、友人が殺されるかもしれない。純粋な彼女にとってこの街は毒だ。それでも、立花は残った。自分の意思で、母親から離れて、『立花』の呪縛を振り切って、ここにいる事を決めたのである。
「ごめんね」
「……どうして、はじめ君が謝るの?」
「俺は逃げたんだよ」
神野の家族と会う事を、一は結局、選ばなかった。店長に強く言われたからではない。自分が傷つきたくなかったのだ。立花だけを辛い目に遭わせてしまった。だから、一は謝ったのである。
「ボクから逃げるの?」
「えっ、いや、そういう意味じゃなくて」立花は刀の柄に手を伸ばす。何をするつもりだと問う前に、彼女は一の顔をじっと覗き込んだ。
「ヤだよ、はじめ君がいなくなるなんて。ちゃんと、ボクの傍にいてよ」
「分かったから、その、退いてくれないかな」
「ボク、『立花』なんだ」
立花が真顔で言うので、一はますます意味が分からなくなった。
「お母さんの事がちょっとだけ分かった気がする。欲しいものは手に入れなくちゃ嘘なんだ。だから、はじめ君はボクのものになってよ」
流石親子と言うべきか。押しの強さと駆け引きの妙はしっかりと受け継がれている。一は眉間に皺を寄せて、必死に頭を回転させた。この場から逃れられるなら悪魔に魂を売り渡そうと構わない。
「ねえ、ちょうだい?」
媚びるように、縋るように。立花は甘い声で一を誘った。彼女本人が狙ってやった事なのか、それとも血に組み込まれた女としての本能なのか。どちらにせよ、一は理性を保つので精一杯である。
「はじめ君をちょうだい。ボク、そうじゃないと駄目なんだ。君が傍にいないと我慢出来ない」
「落ち着いて話をしよう」
「落ち着いてるよっ!」
「せめてこれを退かして……」
全然落ち着いていなかった。
「嫌だ。ちゃんと答えてくれないと、ずっとこのままでいるから。逃げようとしたら、怒るよ」
ぐりぐりと、立花は雷切で床を深く抉り始める。一は生きた心地がしなかった。と言うか殺されてしまう。
「はじめ君がボクのものになるなら、ボクをはじめ君にあげる。何でもする。だから……」
「そんな事言っちゃ駄目だよ。お願いだから、離して。店に帰ろうよ」
「答えて」
「……立花さん、疲れてるんだよ」
「答えてよ」
見下ろされた一は視線を横に逃がす。
「ボクのものになるのかっならないのか言ってよ!」
「ならない」間髪を入れず一は答えた。
「ならない。俺は君のものになるつもりはないよ」
「う、ううっ、なんで、なんで? なってよ、ボクのものに」
ならないと、一はもう一度、さっきよりも語気を強める。
「俺は誰のものにもなりたくないよ。人間だからさ、イヌや人形みたいに扱って欲しくない」
「ぼっ、ボクのものにならないなら……!」
地面から雷切が引き抜かれた。立花は柄を短く持ち、切っ先を一に向ける。
「ボクはもう、あんな思いをしたくない。はじめ君には死んで欲しくないんだ」
「矛盾してるよ」
「手に入らないんなら、いっそボクの手でって! はじめ君が悪いんだ、皆がボクに優しくするから!」
一はばらばらになったソレを見遣る。ああなるのかもしれないと、諦めたように笑った。
「どうしたいのかって聞いたよね。答えは、出たの?」
「……楽しくやりたい。誰も嫌な思いをしないように、皆で、仲良く」
刀を向けたまま、立花は口を開く。
「ボクは皆を守れない。でも、皆の為に戦える。盾にはなれないけど、剣になら、なれる」
「良いよ」
一は両手をだらりと伸ばした。
「俺を殺して立花さんが楽しくやれるなら、殺してくれて良い。言ったよね、味方になるって。だから、君の願いを叶えてあげたい」
雷切が立花の手から落ちる。甲高い音が響いて、一の胸に温かいものが零れ落ちた。
「君が剣になるなら、俺は盾になれる。戦う事で君が街を守るなら、俺は君を守るよ」
二人で、二人だけでも街を守ろう。それが神野の願いなら、彼が遺した思いなら。一は手を伸ばして、アイギスを握った。
「ボク、ボクね……!」
「うん」
「けっ、けん君……皆、うっ……うあ」
一は目を瞑る。
「うああああああああああっ!」
立花の泣き顔を見たくなくて、ただ、彼女が泣き止むまで待ち続けた。そうして、一頻り泣いて落ち着いた立花に声を掛ける。帰ろうと、一言だけ。彼女は頷き、一の胸に顔を埋めた。
受話器を置き、店長は煙草に火を点けた。紫煙を吐き出し、所在なげに立っているナナに目を向ける。
「終わったそうだ」
ナナは両手を組み、探るような目付きで店長を見た。
「ソレの死亡を確認、勤務外二名の生存を確認、だ、そうだ」
「私はマスターを信じていましたから」
その割に、今日のナナは落ち着きがなかった。搬入された商品を段ボールごと落としたり、むちゃくちゃな陳列にしていたりとミスを連発していたのである。
「ひとまずは肩の荷が下りた気がするよ。実際、危なかったがな」
「神野さんと立花さん、お二人ともが抜けてしまえばシフトは回りませんし、大幅な戦力ダウンですからね。立花さんだけでも残留してくださったので、良かったですね」
なんだかとっても見も蓋もなかった。その通りと言えばその通りなのだが、自動人形のナナに繊細な人間の機微を理解させるには当分先の事になりそうである。
「……まあ良いか。ミノタウロス死んだし」
「さあ、お二人を迎える準備をしませんと」
「準備?」
ナナは大きく頷く。心なしか、彼女は嬉しそうにしていた。
「お疲れになっている筈ですから、まずはお食事を召し上がっていただきましょう。と言う訳でナナはお買物に行ってきます」
「ふざけるな! いらんいらん、何もしなくて良い。黙って仕事してろ」
「マスターが餓えても構わないとおっしゃるのですか!?」
ナナの扱いが日を追うごとに面倒臭くなってくる。誰よりも簡単だった彼女の操縦の成否は、今や誰よりも面倒な一にかかっていた。
「ああ、そうだ。情報部が聞きたい事があるんだと」
「私にですか?」
「と言うか技術部に、だな」
ナナは小首を傾げてみせる。
「でしたら、私を通さず直接お聞きになった方が……」
「大人のプライドという奴だ。情報部ってのはそういう連中の集まりだからな、素直に頭を下げられる者など皆無に等しい。情けない話だろ」
「はあ、で、その方は何について尋ねたのでしょうか」
「お前ら技術部が神野に渡したフツノミタマ、それに変わった機能はあるかどうかを聞きたがっていた」
「フツノミタマですか」ナナは目を瞑り、顎に指を遣る。
「詳しいスペックについては聞かされておりませんが、特別な機能は備わっていないと思います。あくまで、アレは剣ですから」
店長は煙草を銜えたまま椅子を回転させた。
「それが現場からなくなっていたらしい。ミノタウロスが持ち去ったのかと予想されていたが、結局、どこにも見当たらなかったそうだ」
「妙な話ですね。誰が、いつ持ち去ったのでしょうか」
「フツノミタマが消える場面を情報部は確認していない。つまり、一たちがソレと戦闘し、ウチの社員が神野の死体を回収する間に消えたと見るのが自然だろう」
「しかし、一さんたちがアーケードを辞した後もミノタウロスは残っていた筈ですし、情報部だってその場を見張っていたのでしょう?」
その通りだと店長は頷く。自然だが、不自然だ。フツノミタマがひとりでに消える要素はない。ならば何者かが拾っていったのが自然だろう。……ミノタウロスと情報部の目を掻い潜って、という点を除けばの話だが。
「そもそも、フツノミタマを持ち去る利点が見えませんね。ソレに狙われるリスクを背負ってまで武器が欲しかったのでしょうか」
「しかし、アレはウチの技術部が作り出したものだろう。どこぞの企業か、あるいはソレに関わる者が欲しがったとして不思議ではない」
「そこが不思議だと思います。何故なら、フツノミタマの存在は殆ど知られていませんでしたから」
眉根を寄せて、缶コーヒーを一口。店長はそれから新しい煙草に手を伸ばした。
「フツノミタマは神野さんの、つまり社外からの依頼でしたから、天津さん筆頭に暇な人たちがこっそりと作ったものなんです」
「……こそこそとやる理由があるのか」
「先日の失敗により、技術部は様々なところから目を光らせられているそうなのです。ですから内密に。つまり、フツノミタマが技術部の作ったものである事を、また、フツノミタマの存在自体を知る方は殆どいません」
「技術部が誰かにリークしたとは考えられないか? ……いや、薄いか」
「身内贔屓になりますが、技術部の方々はそういった事に対しては興味をそそられないと思いますよ。基本的に、モノを作るのが好きな人たちですから」
そう言えばと店長は思い出す。神野にフツノミタマを渡したのは、技術部の長、天津ではなかったか、と。わざわざ彼が出張ってきたのは、別の者には任せられない、あるいは知られたくない理由があったから、ではないのかと。
「実際、消えてしまった訳だがな」
「まるで魔法のようですね」
「魔法……?」
「ええ、魔法のようですね、と」
ナナは不思議そうに店長を見つめる。
「まさか、な」
その言葉を聞いた時から嫌な予感がしていた。店長は不安をかき消すように煙草の煙を払う。だが、煙の元は彼女が銜えた先にある。結局、そういう事らしかった。
勤務外も、情報部も、ソレも、誰もいなくなったアーケード。そこに、二つの影がぬらりと揺らめいた。背の高い影と低い影、それは寄り添うようにしてゆっくりと動き始める。
「良かったのかい?」
声を放ったのは背の高い方だった。全身黒ずくめで三角帽子を被り、その手にはモップを握っている。まるで、魔女のような――――。
「何がですか?」
答えたのは背の低い方、駒台高校の制服を着た少女である。彼女は苛立ちを内包した表情で、隣にいる女を強く見据えた。
「仇をあの子らに取らせた事だよ。本当は、あんたがミノタウロスを殺したかったんじゃないのかい?」
「アレは私の仇じゃありませんから。私が殺したいのは、あんなものより数段上の怪物です」
「復讐ってかい。良いもんじゃないってのは、こないだ身に染みて分かっただろうに」
少女は首を横に振る。
「重みが違います。前回は、私の中ではあくまで任務で、義務でしたから。お師匠たちに認めてもらえるよう、信じてもらえるように」
「じゃ、今回は違うってのかい」
「人生です。私の全てをかけてでも、投げ出してでも遣り遂げる意味があります。やらなきゃ、私が生きてる意味はないんです」
魔女の格好をした女は呆れたように息を吐く。
「あんたじゃ勝てないよ。向かっても殺されちまうし、そもそも相手をしてくれないと思うけどね」
「お師匠、手伝ってくれるんですよね?」
にっこりと少女は笑う。さっきまでの刺のある表情からは想像もつかないようなそれだった。
「充分助けてやってるじゃないか。殆どタダで魔法について教えてやってんだし、昨日だって、それ、拾っといてやったし」
「私に黙ってですよね」
「そりゃ、あんたにはショック与えたくなかったからじゃないか」
「いずれ分かる事実だとしても、ですか?」
女は黙る。三角帽子の位置を直して、恨みがましい目付きを少女に向けた。
「その辺の魔女より怖いね、あんた」
「その辺に魔女がごろごろしているような事を言うんですね、お師匠は」
「……それ、何なんだい?」
女は、少女が先ほどから持っている、箱のようなものを指差した。
「兄さんの形見である事は確かですね」
「ま、あんたの兄貴が持ってたもんだ。勤務外なんかに渡すよりは、あんたが持ってた方がよっぽど良いと思ってね」
「お師匠、たまには素晴らしい事をするんですね。見直しました。お師匠と出会ってから初めて」
「ホント、出会った時にはこんな奴だとは思いもしなかったよ」
呟き、女は少女の横顔を見つめる。……魔女よりも、ある意味恐ろしかった。誰かを殺すと言ってのけ、どうして笑顔でいられるのか。彼女が傍にいるだけで、空気が張り詰め、凝固していく。そんな気すらしていた。
「何か考えがあるんだろうね」
「はい。ヴィヴィアンさんに助けを求めます。あの人なら、どうにでも場を用意してくれるでしょうから」
眩暈がする。女は額に手を遣り、少女の怖いもの知らずさを嘆いた。
「あの人が力を貸してくれる筈ないよ。貸してくれたとして、魂まで根こそぎ持っていかれちまう」
「頭を下げなきゃ始まりません。それに、アレを殺せるんなら私の魂ぐらい捧げてみせますよ」
「……魂ぐらい、ねえ。まあ、良いさ。あたしもあの人には用がある。頼みごとならついでにしといてやるよ」
少女は訝しげに女を見る。
「お師匠が? でも、これは私の……」
「よしときな、一対一であの人と話そうなんて、あんたにはまだ早い。それに、弟子の仇はあたしの仇でもある。心配しないでも、ちゃんと手伝ってあげるよ」
「ありがとう、ございます?」
「どうして疑問系なんだい」
「日頃の行いですよ」と、少女は屈託のない笑みを浮かべた。
二人はそれきり黙って、ミノタウロスの死体を眺める。
「一応言っとくけどさ、もう、戻れないんだよ?」
「覚悟は出来ています。でも……」
少女は、
「……兄さんの仇を、あの女を殺せるなら、私は――――」
フリーランス『魔女の館』の住人は、
「――――魔女にだって、何にだってなります」
神野姫は、拳を握り締めた。