STAND BY ME
「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ」
注文したホットコーヒーに口を付け、一は新を睨んだ。
「……あら、どうしました店員さん。何か気に入らない事でも? 私が何かしましたか? それとも、あの子を連れ帰る事にご不満でも? もしかして、私が帰る事が気に食わないのですか。嬉しいですわね。では、店員さんも一緒に帰りましょう。部屋ならいくらでも空いていますが、寝室だけは共にしましょうね」
「あなたたちが九州に帰る事に不満はありませんよ、一切。ただ、あなたの一存で決めてしまうのはどうかって、そう思ったんです」
「つまり、真に選ばせろと、そうおっしゃりたいのですか?」
一は小さく首肯する。当然だろうと、彼の目はそう訴えていた。
「しかし、選ばせる必要もないかと思いますよ。正直、私にはどうして良いのか分かりませんから。真が辛そうにしているのに真正面から向き合う事は、私も辛いのです」
「それでも、ちゃんと話してあげてください。立花さんに選ばせるのがあなたの役目なんです」
新は視線を下げ、近くの壁に立て掛けてある竹刀袋を見遣った。
「……そう、ですか。やはり、真はもう必要ないのですね」
自嘲する新に、一は何も言えない。
「引き止めてくださるとも思っていたのですが、店員さんがその様子では、駒台に真の居場所はないのだと思い知らされます」
「引き止めたところで、立花さんにはまた辛い思いをさせてしまうかもしれません。何度も言いますけど、選ぶのは彼女じゃないといけません」
「初めて出会った人たち、友人も、好きな人も出来たでしょう。あの子にとっては喜ばしい事ですが、初めて失ったものもある筈です。私が言うのは筋違いなのでしょうが、今までに何も与えられなかったせいで、あの子の心は折れてしまったのだと思います」
ぎゅっと、新は竹刀袋をかき抱く。一はその中身について見当がついていた。今後立花がどうなるのか、その鍵なのだ、と。
「勿論、選ぶのは真です。ですが……」新は続きを躊躇う。次に彼女の口から出た言葉を聞き、一は逡巡の理由を理解した。
「母親としては、やはり一緒に帰って欲しいという気持ちが強いのです。帰ったとして、私はあの子に大きな喜びを与えられないでしょう。ですが、悲しませるつもりもありません」
「……変わりましたね、新さん。まるで立花さんの母親みたいです」
「店員さんのお陰ですわ。出来れば、あなたとは今後とも深いお付き合いを期待したいところですわね。……苗字、変えたいとは思いませんこと?」
一の皮肉を受け流して新は微笑む。
「生憎、自分の名前が好きなものですから」
「残念ですわね」
「全くです」
二人は作り笑いで互いを見つめあった。しかし、新はふっと表情を沈ませる。
「もし、もしも、真がここに残ると言った時は、あの子をよろしくお願いします」
「新さんは、帰るんですか?」
「『立花』は今も苦境に立たされています。本来なら、こうしているのは許されないのです。ソレを狩り、名を上げねばなりません。ですから、ちょうど良いと言えば、そうなのでしょうね」
「お休みは終わりですか」
新は寂しそうに頷いた。彼女については、未だに信用出来ない部分もある。だが、どうしたって嫌いになれないところもあって、つまり、一は少しだけ寂しくなった。
「居心地が良かったものですから。あの子も、そう思っているのかもしれませんね」
「帰るとして、いつになるんですか?」
「駒台を立つのは、今日にでも、と。幸い、荷物は少ないですからね」
随分と急な話だが一は驚かない。行動的な新なら、むしろ当然だとも思える。
「お店には迷惑を掛けてしまいますが、ご寛恕くださいな」
「今更、何を言いますか」
「あなたと私の仲ですものね」
そういう意味ではない。が、訂正する意味もない。一は黙ってストローの先を齧った。
「……店員さん、一つ、頼まれてはくれないでしょうか」
「無理なお願いじゃないなら。最後になるかもしれないんだし、出来る限りの事はしますよ」
「ふふ、やっぱりあなたは優しい方ね。それなら、お願いします。今の話、私からではなく店員さんから真に伝えて欲しいのです」
「俺から? いや、でも」
テーブルに置いていた一の手に、新は自らの両手を重ねる。
「分かっています。責任から逃れようと、あなたに甘えようとしているのは。ですが、自信がないのです」
「立花さんと向き合う自信が、ですか?」
「いいえ、選ばせる自信が、です。これ以上あの子を見ていても……無理矢理に引きずっていきそうな自分が容易に想像出来るんです。張り倒して気を失わせてでも、私はあの子を連れて帰ってしまいそうで」
それは一にも容易に想像出来る。立花が何を言っても、いや、有無すら言わせる前に手を出す新が。
「じゃあ、携帯を貸してください。今、伝えます」
「いいえ、考える時間を与えたくありません。私は一度あの子の部屋に戻り、それから真を店に送り出します。あなたたちはまた、ソレと戦うのでしょう? その直前に、お願いします」
「……マジでぎりぎりじゃないですか」
「真は優柔不断ですから。追い詰められないと、選べないと思います」
「良く知っていますね。なんだかんだできっちり親子やってるじゃないですか」
一は新の両手を引き剥がそうとする。だが、彼女はそれを拒んだ。彼が逃げる素振りを見せると、両の手、十指を余さず使い、蜘蛛の糸のようにねっとりと絡み付かせる。
「あの子は私と弱い部分が似ていますから」
「誰のどこが弱いですって?」
「私は常に追い詰められているのです。本当の私はもっと儚く、たおやかな大和撫子なのですよ?」
絶対嘘だ。一は更に力を込める。逃れられない。もがけばもがくほど新の指が離れない。
「気付いていらっしゃったとは思いますが、その話を伝える時、あの子に渡して欲しいものがあるのです」
一の視線が、それに向く。
「……中身は刀、ですか?」
「はい、歴代の『立花』だけが振るうのを許された家宝です」
「じゃあ、立花さんはまだ……」
「半人前ですし、五代目の私が健在ですから。でも、もしもあの子が戦う事を望み、何かを見いだし、駒台に残ると言ったなら、私は『立花』の名を譲ろうと思います」
新は袋の結びを解き、中身を一に見えるようにした。
「雷切。それがこの刀の名です」
少しだけ覗いた柄、刀身は鞘に納められているが、徐々にその姿を現していく。ソレと戦っている訳でもない。ここは公衆の面前で、こんなものを見せる場ではない。なのに、一は何も言えなかった。刀が纏う一種の魔力に取りつかれている。そんな気がしていた。
「似ていますね、立花さんがいつも使っている刀と」
「目が利きますね。真の使っているものは、言わば雷切のコピー、レプリカなのです。それでも並の日本刀と比べれば、充分に出来は良いのですけれど」
新は雷切の鞘に指を這わせる。
「やはり、本物には敵いません。触れただけで違うのだと分かります」
「……それを立花さんに渡せば良いんですか」
「ええ、それから、私の思いを」
雷切を袋に戻すと、新は再び一の手を取ろうとした。彼は両手をテーブルから逃がす。
「『立花』は抜き身の刀です。戦う以外には能のない女、魑魅魍魎が跋扈する今だからこそ必要とされる場面もありますが、殿方の心を射止めるにはあまりにも武器がないのです。あの子にも、ろくなモノを与えられませんでした」
「抜き身の……」
一は思い出した。初めて立花と出会った時の事を。周囲の視線をひきつけておきながら、それら全てを傷つけるのも厭わない、鋭い空気を。
「それでも、あなたが、この街の誰かが真を必要としてくれるのなら、真の居場所を与えてくれるのなら。誰かが、あの子の鞘になってくれたなら、私は満足です」
「はあ……どうして、最初からそういう事を言ってくれなかったのかなあ、と。そう思いますよ」
「ですから、あなたのお陰なのですよ。本当、一一さん、あなたとはもっと早く、そうね、十五年も前に出会いたかったものですわ」
「それは、ちょっとばかり早過ぎやしませんか」
と言うか犯罪だった。
「この刀と、先の話と、私の思いを。どうか店員さん、真に届けてください。あの子が苦しむのは見たくありません。ですが、私の娘が真に『立花』を理解し、真の『立花』になる事を、心のどこかでは願ってもいます。勝手な話かしら?」
勝手な話である。つい先日までは立花を道具のように利用し、北駒台店の人間を引っ掻き回した張本人が何を言うのか。しかし、一は首を縦に振る。新は人よりも不器用で、人との付き合い方を知らなかったのだろう。彼女もまた、彼女の母親に剣を握るのを強制され、愛情を注がれずに年だけ重ねてきたのだろう。
「届けますよ、絶対に」
「ああ、やはり、あなたは手放したくありませんわね」新は笑った。その笑みはまるで童女のようで、本当の彼女が見せるものなのかもしれなかった。
「もののついでに、こんなおばさんでよろしければ、もらっていってくれませんか?」
「結構です」
「え、結婚……?」
「図太過ぎるわ!」
新と別れて、一は店へと向かう。もう暫くすれば陽も落ちる。託された雷切を握り直して、彼は足を速めた。
立花が戦えなくても、もう二度と彼女と会えなくても仕方がない。自分ひとりでもミノタウロスの前へと再び立つ。戦い、殺す。
店の前に辿り着いた一は覚悟を決めた。この扉を潜ればもう戻れない。自分が選べる場面はない。一直線にソレへと進むだけなのだ。
「マスター、お帰りなさいませ」
ナナが扉を開けて、箒とちり取りを軽く揺らす。
「……あー」
「どうかなさいましたか? お体が優れないのでしたら、仮眠室で横になっては……」
「いや、良いよ良いよ。なんつーか、出鼻を挫かれたって言うか」
人生とは概ねこんなものなのだろう。一は頷き、暖かい店内に入った。
「マスター、店長が呼んでいます。ソレの事について話があるそうですよ。……あの、マスター、その荷物は?」
「ああ、これは。これは、お届けものだよ」
「では、ナナが代わりにやっておきましょう。マスターはゆっくりとお休みになっていてください」
一は首を横に振る。そういう訳にはいかない。これは、自分が頼まれ、託されたのだから。
「大丈夫、俺の仕事だからさ。それよか、立花さんはいつ来るか、連絡あった?」
「はい、立花新さんからの連絡を取り次ぎました。三十分以内にはこちらに向かうそうです」
「そっか。じゃ、店長の話は立花さんが来てから聞こうかな。ナナ、俺も何か手伝うよ」
「いえ、そのような……」
「良いって良いって、俺がそうしたいんだから」
ナナから箒とちり取りを取り上げて、一は代わりに竹刀袋を預けた。
「マスター、店長と会いたくないのですか」
「どっちかと言われりゃあそうなるかな。休みたくても、ぐちぐち言ってきそうだし」
「ならば私が盾となりましょう。マスターは立花さんがいらっしゃるまで仮眠室でお休みください。蟻の一匹すら、中には入れません」
「いや、仕事を……」一の言葉をナナは手で遮る。
「二ノ美屋店長がここの長と言えども、ナナのご主人様はあなただけです。番はしっかりと果たします。ご心配なさらず。さあっ」
促されて、一は歩き出した。彼の背中を楽しげにナナが押す。バックルームに入った瞬間、彼らと店長の視線が交錯した。
「……お前ら、遊んでいるなら」
「マスターっ、ここはお任せを! さあ、早く仮眠室へ!」
どうでも良くなって、一はわざとらしく頷く。
「任せたぞナナ!」
「阿呆かお前ら」
一々口に出さずとも、彼らはそれだった。
店にやってきた立花を見て、一は少なからず安堵する。最後に会った時とは違い、彼女の表情にはおおよそ感情と呼べるであろう色が宿っていたのだ。
店長も一と同じ気持ちだったのか、難しい顔をする事もなく話を切り出す。
「何を言われるのか、大体分かっているだろう。そう、簡単な話だったんだよな」
紫煙が室内を泳ぎ始めた。それらは天井に向かい、壁に向かい、一の顔に向かう。
「ソレをどうにかしろ。これだけの話だった。結果は、もう言うまでもないがな」
「回りくどいですね」
「なら、行けるな?」
一は頷いた。立花は無言のまま、さっきから俯いたままである。
「立花、無理ならそう言え」
無理だと言えばその瞬間、立花は見限られる。彼女は何も言わず、一は助け舟を出すのをぐっと堪えた。が、立花は何も言えない。答えられない。
時間がない。先に折れた店長は息を吐き、一に視線を遣る。
「……立花さん、実は、預かっているものがあるんだ」
「ボク、に?」
「うん」一は仮眠室に引っ込み、それを握って戻ってきた。彼が持っているのが竹刀袋だと分かり、立花は僅かに目を見開く。
「新さんから、預かったものだよ。中身は、立花さんなら見れば分かると思う」
「お母さんが……」
呟き、立花はそれに手を伸ばそうとする。一は彼女の動きを制した。
「渡す前に、伝えなきゃいけない事があるんだ」
一は立花の目をじっと見つめる。
「新さんは今日、九州に帰る」
「う、え、なんで? ボク、そんなの一言も聞いてないよ」
「君に考える時間を与えたくなかったって、そう言ってた。それで、立花さんも一緒に帰るんだ」
未だ飲み込めていないのか、立花は瞬きを繰り返した。
「ボクも、お母さんと一緒に九州へ、帰る、の? え、あの、また、駒台に戻るん、だよね?」
「いいや、駒台には戻らない。君は元の生活に戻るんだよ」
「そっ、そんなの! そんなの急過ぎるよ! 勝手だ、お母さんが勝手に決めた事じゃないか!」
目の端に涙を浮かべて、立花は一に掴み掛かろうとする。正直、彼は驚いていた。彼女が新に従わない事も、こうして声を荒らげている事も俄かには信じられない。
「だから、選んで欲しい」
一は立花の両肩を掴み、ゆっくりと自分から引き離していく。
「この街に残るか、九州へ帰るか」
「そっ、そんなのすぐには選べないよ!」
追い討ちをかけるようで気が引けたが、一は一言一句区切るように話を続けた。
「新さんは駅で君が来るのを待ってる」
「ちょっと、ちょっと待って! やめてよっ、ボクはっ、ボクには……!」
「これを持って、君がどこに行くのかも自由だ。君が選んで、君が決めてくれ」
雷切を立花に握らせ、一は彼女から離れる。
「酷いっ、こんなの、酷いじゃないかあ……」
「新さんは君を心配してる。出来るなら、一緒に帰って欲しいとも言ってた。でも、君が真の『立花』になる事も願ってた。自分勝手だって、そうも思ってた筈だ」
一は立花に背を向けて、店長を見た。
「一人で行くのか、一」
神野は、頼りない自分のせいで、一人でソレに立ち向かった。だから、一は頷く。一人でも戦う。今度は逃げないと誓った。
「待って、はじめ君、はじめ君! 考えてよっ、ボク、ボクはどうしたら良いの!?」
「……立花さん、前にも聞いたよね。君はどうしたいのかって」
「わ、分からないから聞いてるのにっ! 教えてよ、はじめ君はボクがどうすれば良いのか知ってるんだよね!?」
バックルームを出ようとする一の服を立花が掴む。彼はその手を、ゆっくりと解いていった。
「はじめ君、待って、待ってよ!」
「いい加減にしろ」店長は立花を振り向かせて、彼女の頬に手を伸ばす。立花は目を瞑って肩を震わせた。瞬間、
「一とお前の母親がここまでお膳立てしたんだ。お前の為にな」
立花の頬を強く、抓る。
「ひだっ! ひっ、ひだい……っ!」
「選べ立花。……一っ、さっさと行け! お前がそこにいると、立花は甘えるぞ」
「う、じゃ、じゃあ、後のことは……」
店長は蚊でも追い払うかのような風に、鬱陶しそうに手を振った。
バックルームを出ると、ナナがカウンターの中から恭しく頭を下げるのが見える。一は出入り口近くまで歩いていく。
「本当は私も付いて行きたいのですが、店長がとてもうるさいので諦めました。なので、ナナはここでマスターの帰りをお待ちしております」
新品のビニール傘を一本抜き取り、一はそれを片手に握り込んだ。
「いってらっしゃいませ、マイマスター」
「……ナナさん、お客様がいる時は勘弁してください」
好機の視線に晒されながら、一は扉を開ける。外の空気が余計に冷たく感じられたのは、気のせいではないのだろう。
すべき事はもう見当たらない。ソレの情報を得て、立花にも話を伝えた。後はミノタウロスを倒すだけである。が、好材料は少ない。ソレの名前が分かったところで殺せるとは限らない。シグルズのように、やはりメドゥーサが通じない可能性もある。前回は戦って負けたのではなく、ただ逃げ帰っただけだ。真っ向から立ち向かうとしても、そこに好機を見いだせるほど一は楽観的ではない。むしろ、悲観的になる。人間の体をいとも容易く両断してしまう力の持ち主が相手なのだ。一対一でどこまで死なずに済むか。
「やるしかねえけど」
白い息と独り言を確認する者はここにはいない。件のアーケード周辺からは人の気配が感じられなかった。
――――どうして。
ふと、一の足が止まる。戦場になりうる場所はすぐそこなのに体が動かない。怯えているのではなかった。その筈なのに、
――――どうして、どうして、どうして。
一はアーケードを見つめたまま動けなかった。
「あ」
口を開けたところに、温かなものが伝って落ちる。舐めると、妙に塩辛かった。
ああ、と。ああ、と。一の視界がぼやけていく。どうして、と。どうして、と。一の思考がぼやけていく。
どうして、神野は死んだのだろう。何故、彼のような者が殺されなければならなかったのだろう。寄せては返す波のように、彼の記憶が甦る。勇気に満ちて、希望に溢れて、彼がそこにいるだけで元気を得られた。素直でまっすぐで、人外には似合わない場所で声を張り上げていた。見てみぬふりも出来た筈なのに勤務外を志願した。きっと、この街に住む誰よりも、駒台を愛していたのだろう。ここに暮らす人たちを、身近な人たちを守りたいと思っていたのだろう。自らを犠牲にしても、ソレの脅威を退けたかったに違いない。
自分は英雄ではない。分かり切っていた。きっと、それは自分のような臆病者ではない。誰が何を言おうが、譲らない。彼がミノタウロスに向かっていった時、何を思っていたのかも関係ない。利己心だろうが虚栄心だろうが関係ない。彼がソレに立ち向かったのは事実で、その行為は真実なのだから。
だから、神野剣は英雄に違いなかった。
「…………あ、あ」
涙が、嗚咽が止まらない。一は顔を上げて鼻水を啜る。風が通り抜けると、頬に流れていた涙が少しだけ乾いた。
どうして、神野が死ななくてはならなかった? どうしてまだソレが生きている。神野のような若者が死に、クズと呼ばれてしかるべきモノたちが生き続けている。死は平等で、理不尽だ。何もかもが許せない。許さない。許してやるものか。一は足を踏み出して、アーケードを、そこにいるであろう敵を睨み付ける。何よりも許せないのは、神野を、彼に関わりのある者たちを無慈悲に切り払ったソレだ。神野の家族は、友人は、ソレに対して何も出来ないだろう。この怒り、正しい矛先にそれを向けられるのは自分だけなのだ。仇を取ったと触れ回るつもりは毛頭ない。だが、ミノタウロスを生かしておくべき理由もないのである。
「ぐ、うっ、ああ……」
息が苦しくても、一は進んだ。アイギスを握る手に力を込めて、アスファルトを踏む足に力を込めて、前のめりになって前進する。
一が今になって神野の死を思い、悼める事が出来たのは、ここにきて、考える必要をなくしたせいだ。必死に逃げ回り、疲れた体を休めながらソレについて考えた。立花を思い、新に託され、決意して店を出た。今になって、彼は解放されたのである。余裕の出来た頭は、ようやく、一に人間としての感情を思い出させた。
「あっ、ああ――――!」
一は駆け出す。涙を拭うのは諦めた。流れるまま、溢れるままに全て委ねる。泣き叫んで、戦場に向かう。
ソレは今も、新たな獲物が訪れるのを待っている。迷宮の奥で荒い呼吸を繰り返している。一は強く歯を噛み合わせた。
「おおっ、おお――――!」
アーケードは昨夜と変わらない。神野の遺体は運び出されていたが、それ以外はそのままだ。抉られた床も、固まった血も、捨て置かれたビニール傘も。それら全てが、紛れもない現実なのだと示している。覚めない悪夢でも、覚めた夢の続きでもない。諦めろと、容赦のない真実が一に突き刺さる。
「ぐっ、はあ、ちくしょう舐めてんじゃねえぞ!」
アーケードを駆け抜ける。ソレに向かって呼び掛ける。言葉が通じなくても感情を理解されなくても構わない。新たな獲物がここにいるのをアピール出来れば良い。
「にっ、人間を、人間舐めてんじゃねえぞ! てめえみたいなバケモンはなあっ、ブッ殺される為にいんだろうがよ!?」
一は分かっていた。自分には何もない事を。
テセウスのような知性はない。
アリアドネのような女性も味方していない。
ミノタウロスのような力もない。
一一には何もない。
「腹減ってんだろうがよっ、あああ!? 大物ぶってんじゃねえっつーの! それともアレかっ待たせてごめんなさいってか!」
ここには、多くのものを置いてきてしまった。奪われ、捨てたものもある。なくしたもの全部は取り戻せない。
「ブモォ――――――――!」
「おっ、おあ、あっ……来たじゃねえかよ。俺はここだっ、食ってみろよ! 殺してみろよ!」
だが、拾えるものは拾っていく。返してもらえるものは返してもらう。
正面から姿を見せたミノタウロスを確認して、一のボルテージは勝手に上がっていく。自分だけで盛り上がり、彼は再び涙を流した。
……一には何もない。ここで根こそぎ持っていかれた。だから、彼に残ったのは、一つだけだ。神野が彼に遺した、たった一つの向こう見ずな勇気だけ。それだけを胸に、一は昂ぶった。これ以上何を失うものがあろうかと、嬉々としてソレに向かっていく。
ミノタウロスも一に向かって速度を上げた。ラブリュスを振り上げて、獲物に狙いを定める。二者がぶつかった地点は、偶然にも、神野とミノタウロスが激突した場所であった。