VISTA
クレタ島の王、ミノス。
ミノスは王位継承の証として、海神に雄牛を海から送るように祈った。その牛は後日生贄として捧げる事を誓い、その祈りは聞き届けられた。しかし、送られた白い雄牛はあまりにも美しかったのである。ミノスはその牛を生贄に捧げるのを躊躇い、別の牛を代わりに差し出した。
無論、海神に見抜けぬ筈はない。激怒した神はミノス王の妻、パシパエに呪いをかけた。呪いをかけられた結果、彼女は件の白い雄牛に強烈な恋心を抱いてしまう。
人と牛。一切通じず、合切が伝わらない、何一つ実らない恋だ。
パシパエは稀代の工匠、ダイダロスに相談する。彼は大きく頷いた。その思い、見事遂げさせてみせましょう、と。
ダイダロスは牝牛の木像を作成し、その中を空洞にした。牝牛の皮が張りつけられたその像の中にパシパエが入り、彼女は雄牛と交わる事に成功した。その結果、パシパエは身ごもり、牛頭人身の怪物、ミノタウロスが生まれた。生まれてしまったのである。
ミノタウロスは成長するにつれて乱暴になり、誰の手にも負えなくなった。ミノス王はダイダロスに命じて迷宮、ラビュリントスを建造させる。
ミノス王はミノタウロスの食料としてアテナイから九年毎に七人の少年少女を送らせる事にした。三度目の時、アテナイの英雄、テセウスが立ち上がる。彼は自ら生贄を志願してクレタに到着した。
テセウスは、そこでミノス王の娘、アリアドネと出会う。彼女は英雄に一目惚れして、彼を死なせたくないが為に、脱出不可能とされた大迷宮の脱出方法をダイダロスに尋ねた。
方法とは単純なものである。アリアドネはテセウスに短剣と魔法の毛糸を持たせた。迷宮の入り口にいる彼女が毛糸の端を持ち、片側の端をテセウスが持つ。ミノタウロスを隠し持っていた短剣で倒した彼は、魔法の毛糸を手繰り寄せて迷宮を脱出する事が出来たのだ。
「簡単に言ってしまえば、ミノタウロスに関するお話はこんな感じでしょうか」
話し終えたナコトはふうと息を吐き、一の感想を待った。
「牛とヤったって、すげえ話だよな」
「……あなた、やばいですね。びっくりするくらい最悪です」
「まあ、俺も言おうか言うまいか迷ったけどな」
ナコトの反応が見てみたかったとは言えまい。一は何食わぬ顔でガムを噛む。
「何か、もっと他に思った事はないんですか」
「んー。じゃあ、なんでミノタウロスに生贄なんかやったんだろうな」
「ほう。あなたにしては面白い質問ですね」
「だってさ、脱出不可能な迷宮なんだろ? そこに閉じ込めたんなら、別に怖くも何ともないじゃん。乱暴で手がつけられないって言っても、ミノタウロスが餓死するの待てば良いんだしさ」
わざわざ生贄を送る意味が一には分からない。
「では、あなたはどう考えていますか?」
「アレかな、父親としての情って奴?」
「違います。全く、センチメンタリズムに溢れたお方ですねあなたは。ミノス王は、ミノタウロスを処刑の道具として利用したのですよ。何かおかしいと思いませんでしたか、どうして、自国から生贄を集めなかったのかを」
「そりゃ、自分の国の奴を生贄として使うには気が引けるもんじゃねえの?」
ナコトは首を振る。それから、にやりと口角をつり上げた。
「王たるもの、一々民の事を考えてられませんよ。……クレタはその時期に戦争を仕掛けているんです。世界史、取ってませんでした? クレタは報復として、アテナイに攻め込んでいたのです」
「報復? 何かされたのか?」
「ミノス王の息子がアテナイで殺されたんですよ。戦争で勝利したミノス王は賠償、と言いますか見せしめとしてミノタウロスの食料になる少年少女を要求したんです」
「確か、九年毎だったっけ? ……足りるのか? 九年で十四人だろ、やっぱり餓死しちゃうんじゃないのか?」
じっと一を見つめて、ナコトは呆れたように溜め息を吐く。
「さっきから疑問符ばかりですね。まあ良いでしょう。出来の悪い人間に教えるのも、また勉強になりますし。九年毎というのは、古代の人が九年を一つの周期として考えていたからでしょう。第一餓死とかどうとか、神話、伝説に整合性を求めてはいけません。話を変えて、クレタの人たちにとって、牛と言うのがどんな存在なのかを考えましょう。はい、一君、答えてください」
「先生、考える時間をください。え、えーと、怖い、かな」
「はい残念、ぐどーん。ミノス王は牛を海神にねだったんですよ? クレタでは古くから牛を聖なるものとして信仰していたんです。同時に、斧を重視していたとも思われますね。さっき言った神話上のラビュリントスというのはですね、クノッソス宮殿を参考に造られていたとも、あるいはクノッソスこそがミノタウロスを閉じ込めた迷宮だとも言われています」
「……クノッソス? そんなの出てきてたっけ?」
「一般常識です。言わなくても普通知ってるでしょう。あ、普通じゃないんでしたっけ。勤務外はイヌと同じですからねー、わんわんっ」
一はナコトにガムを投げつけた。
「とにかく、ラビュリントスのモデルとなったのがクノッソス宮殿だと、あなたにはそれくらいの認識で充分でしょう。で、クノッソス……つまりラビュリントスには両刃の斧の館という意味があるんです。両刃の斧、つまりラブリュスが語源となっている訳ですね」
あのソレも両刃の斧を得物として扱っていた。どうやら、正体は牛頭ではなくミノタウロスで間違いないらしい。だが、そうなるとメドゥーサが動かなかった理由が説明出来ないのも確かである。一と彼女は一心同体、メドゥーサとて彼に不利益を与える事はしない筈なのだ。
「ラブリュスは宗教上、最も重要且つ神聖なシンボルだったんです。神官が様々な儀式に使っていましたし、レリーフとしても遺されています。特に、ラブリュスと雄牛は密接な結びつけがなされていますね」
「牛と斧が関係あるのか」
「ええ、両方、クレタ文明にも関わりがあります。そも、雄牛というのはギリシャ神話の主神、ゼウスの象徴なんですよ。ゼウスは雷神であり、彼もそうですが、他の神話の雷神も雷を起こすのにラブリュスを使っていたんです。また、とある場所にあるとある絵には、ラブリュスと共にジグザグな線が描かれているそうです。この事から、両刃斧というのは雷、稲妻を示しているのだと分かりますね。分かりますよね。分かってますよね?」
一は何度も頷く。話は半分程度しか頭に入っていなかった。
「古代ギリシャでは動物を生贄として捧げる場面を描く際、ラブリュスも一緒に描いていた事もあります。特に、雄牛を殺す際の武器として描かれるのが多いとも聞きます。つまり、牛と斧はクレタにとって非常に重要な、アイテムなんですよ」
「……あ、だからミノタウロスみたいなのが出てきたのか。牛と斧を重視してたトコからなら、まあ、出てきてもおかしくない話だし」
「それだけでなく、当時のクレタは地中海でも強国でした。近隣の国々から大層恐れられていた事でしょうし、だからこそ、荒々しい牛頭人身の怪物が登場したんだと思いますよ」
なるほどと呟き、一は懐から煙草を出そうとする。病院は禁煙だと気付いて、その手を情けなく下ろした。
「次はテセウスとミノタウロスについて語りましょうか。んー、そうですね。では、雄牛は男らしさ、力を意味します。あなたからは涙が出ちゃうくらいにかけ離れた言葉ですね」
「そうだね」
「テセウスのミノタウロス討伐。これが意味するもの、分かりますか?」
問われて、一は考える。以前なら全く分からず、そもそも思考するのですら放棄していただろう。だが、これに似たパターン、話を聞いた事があった。
「牛、力ってのはミノタウロス。テセウスがどんな意味なのかは知らねえけど、多分、アテナイを示してんじゃねえのかな」
「…………お」
「お?」
「おお、主よ……! すごい、すごいです神様。一さんみたいなお馬鹿な方にもあなたは知恵をお貸しになられるのですねマイゴッド!」
ナコトは興奮しているらしかったが、一はすっかり冷め切っている。結局、馬鹿にされているのに違いはないのだ。
「大方その通りです。当時、ギリシャ人は力よりも知性を重視していたんです。テセウスはアリアドネが授けた策でミノタウロスを打倒する。ミノタウロスはクレタ、テセウスはアテナイを表しているのはもうお分かりですよね。ミノタウロス討伐は、アテナイがクレタからの支配を脱した、クレタを終わらせたのを意味しているんです。知恵と勇気でババンバーンと!」
やはり、ミノタウロスの話はゴルゴンのそれと似ている。同じギリシャ神話であるのを思い出し、一は口に出さず、心中で納得した。余計な事を言えば、ゴルゴンについてもナコトが喋り始めるかもしれないから、である。
「でも、つまらないですね。簡単に答えが出ちゃったから、喋り足らない感じです」
「いやー、充分喋ってるだろ。もう当分はお前の話も声も聞かなくて良さそうだし、顔も見ないで済みそうだわ」
「まーたまたー、そんな事言っちゃってー。照れてるんでしょう?」
「触るな」自分の頬に触れようとしたナコトの手を叩き、一は短く返した。
「う、酷い。酷いっ、ああ、さめざめと泣いちゃいます!」
ぶん殴ってやりたかったが、今日くらいは年下に優しくしようと一は決意する。
「あ、無視ですか。そうですか。……じゃあ、名残惜しいですが最後に一つ問題です。ミノタウロスの神話が登場した理由を考えてみてください」
「ん? いや、さっき言ったじゃん。牛と斧がクレタとの関わりが深いから……」
「は? 違いますよ? 話を作ったのはギリシャ人ですから。ギリシャ神話って名前ついてるでしょ? そもそも、牛を重視するクレタ人がミノタウロスなんてモノ考えると思います? 結局殺されてるのに。あたしがクレタの人間なら、もっとこう、テセウスがなんぼのもんじゃいってぐらいに人をガンガン食べまくって殺しまくるような話を考えますけどね」
水を得たように一を馬鹿にするナコト。彼は一言、そうだねと返して眉間に寄せた皺を見られないように俯いた。
「しかし、あなたには時間がないんでしたね。ヒントを差し上げましょう。クノッソスでは、人骨が多数出土しているんですよ」
「人骨ぅ? それがどうしたよ。骨の千本や二千本、見つかっても不思議じゃねえぞ」
「……人骨は殆どが少年少女、子供のものだったんです。その上、骨の一部にはそこから肉が削ぎ落とされたような痕跡が確認されているんです」
「え? じゃあ、神話じゃなくて、マジでミノタウロスって実在してたのか?」
実在も何も、一はその目で見てきたのだ。だが、神話に登場する怪物だとしか思っていなかったので驚いてしまう。ナコトは鼻で笑っていた。
「違います。あたしが言いたいのはそういう事じゃありません。神話ではなく、生きていた人間が、実際に人肉を食べていた痕跡なんですよ、それは」
「カニバリズムって奴か。けど、そこまで珍しい話じゃなくねえ?」
「あなたは、どう思いましたか?」
一は思わず聞き返す。
「ですから、今の話を聞いてどう思いました?」
「いや、そりゃ、まあ良い感じはしないよ。気持ち悪いとか、えげつねえとか」
「それです。誰だって普通の神経、精神をしてればそう思うでしょう。ヒント終わり」
「わっかんねえよ!」
ナコトはわざとらしく肩をすくめた。
「答えられるまで帰られませんよ。あ、PTAとお母さんには先生が悪いって言っちゃ駄目だからね」
「小学生かよ。絶対チクられるわお前みたいなスパルタ教師」
「文句ばっかり言ってたら家に帰ってアニメ見られないですよー。魔法少女が全裸になる変身シーン見逃しちゃいますよー」
ここで帰ってしまっても良いのだが、ナコトはまだミノタウロスの弱点と名前、一が本当に知りたい事を出し惜しみしている。飴を握られたまま、鞭でばしばしと遠慮なく叩かれているのだ。
「………………駄目だ。マジで分かんない。なあ、頼むよ。もう座りっぱなしでケツが痛いんだよ」
「椅子から立てば良いじゃないですか」
「話が長いって言ってんだよ!」
「そんなに怒らなくても良いじゃないですか。仕方ないですね、あなたを苛々させるのは本意ではありません。お教えしましょう」
咳払いを一つ。ナコトはベッドの縁に座って、一に人差し指を向けた。
「人間を食べるなんて最低最悪の行為ですよね、基本的には。『あいつマジ最悪だよなー』ってな具合に話を広めて、ギリシャ人はクレタ人を悪人に仕立て上げた訳です。怪物ミノタウロス、迷宮ラビュリントス、周期毎に捧げなければならない生贄はクレタによる恐怖政治や支配下国の苦しみを表しています。神話とは、戦争に勝利した国の都合によって作り変えられるものです。『俺たちギリシャってあったま良いよなー! でもクレタって脳みそ筋肉で出来てるんじゃないかってぐらい馬鹿だよなー』と言いたいが為に、広めたいが為に伝えたいが為に、ミノタウロスは作られたのです」
「プロパガンダって訳か」
「お、難しい言葉知っていますね一さん。褒めて差し上げます」
「あはは、ありがとう」
「うんうん、こう考えてみると、ミノタウロスも被害者だって、そういう側面もあるんですね」
やっぱりぶん殴ってやろうか。ここで全部ぶちまけてやろうか。暗い衝動に駆られたが、一はどうにかして堪えた。ミノタウロスが誰に利用されようが、どんな扱いを受けていようが、関係ない。ミノタウロスはモノを壊しモノを殺すだけの存在でしかない。殺すか殺されるか、ただの敵でしかないのだ。
「話もまとまったところで、飴、欲しいんだけど」
「売店なら……」
「ミノタウロスの弱点だよ。あんだけべらべら話せてたんだから、流石に何かあるだろ」
「ないですね」
「そっかー」そんな気はしていた。
一は椅子から立ち上がり、大きく伸びをする。
「帰るわ。前も言ったけど、死ぬほど無駄な時間を過ごした」
「失敬な」
「弱点と名前を聞きたいって言ったろ。知らないんなら最初に言えよ。お前の暇潰しに付き合う暇は……」
「知ってますよ。名前なら」
一は椅子に座り直して大きく頭を下げる。
「教えてあげても良いんですけど、一つだけ条件があります。と、言いますか、確認と言うか約束と言うか」
「確認?」
「ヤマタノオロチの時も、こういう風に話をしましたね。その時、あたしが最後に言った事、覚えていますか?」
「『さっ、触らないで下さいっ』じゃなかったっけ?」
ナコトはにっこりと微笑んで、枕を一の顔面に叩きつけた。
「なんですかその記憶力の良さは。――――なんて、無意味」
「冗談だよ。アレだろ、俺は英雄じゃないとか、どうとか」
「しっかり覚えているくせに。そうですよ、あなたはペルセウスでも聖ゲオルギウスでもスサノオでも、ましてやテセウスでもないんですから」
一は知っている。自分は英雄になれない。そして、ならないと思ったのだから。英雄なんて損な真似、ペルセウスが一人でやっていればそれで良いのだ。
「あたしはあなたに借りを返していません。だから、勝手に死なないでくださいよ。それだけです」
「はいはい、言われるまでもないね。俺だって死にたくねえよ」
「……あたしは、アリアドネじゃありませんから」
ナコトは俯き、枕をぎゅっと両腕で抱きしめる。
「は?」
「あなたはテセウスじゃないんです。……だから、その……」
「あー、何が言いたいのかは知らんけど、お前を置いて死んだりしねえよ」
「う、あ、はあっ!?」
一は首を傾げた。ナコトの頬が朱に染まったのを見て、気味が悪いなと、ぼんやり思う。
「だから置いてったりしないって。俺が死ぬ時はお前が死ぬ時だ。お前が死ぬ時が、俺が死ぬ時なのかもしれない」
「に、一さん。あ、あたし……」
「ふっ、当然だろう。お前を殺すのはこの俺だからな! それまでは誰にも殺されるなよ。お前だけはこの手で捻り潰してくれるわ」
一の顔のすぐ横を辞書が飛んでいった。
ナコトからミノタウロスについての話を聞いた後、一は北駒台店に戻っていた。そこで彼は、店長から立花がいなくなった事を聞かされる。
「立花が神野の家に行ったそうだ」
そして、事態が最悪の方向に進んでいるのだと思い知らされた。
「その場にいた情報部からの報告だ。間違いない」
立っているのが辛い。一は店長の隣の椅子を引き、よろよろと座り込む。
「正直、動ける状態だとは思っていなかった。家に閉じこもっているので精一杯と見ていたんだが」
「立花さん、大丈夫なんですかね」
「ん、大丈夫、とは?」
「店長が言ったんじゃないですか。神野君の家族とは関わるなって」
のこのこと出向いて関われば誰も彼もが痛い目を見る。誰一人得をしない。そう言ったのは店長だ。だから、彼女は不味そうに煙草を吹かす。
「聞いたんなら、大丈夫と思える筈がないだろう。神野の妹に強く詰られたらしい。ただでさえ参っているところに、は、とどめだな」
紫煙が立ち上る。室内を満たす安っぽい臭いに一は顔をしかめて、煙草に火を点けた。
「完全に折られてしまっただろう。立花は、戦闘に関しては光るものを持っている。ウチどころか国内においてもトップクラスの能力はあるだろう。だが、やはり精神面が、な。若過ぎるし、今までが今までだったんだ」
「今後、勤務外として続けていくには、その」
一は言葉を探し、選ぼうとするが、都合の良いものは思い浮かばなかった。
「勤務外どころか、普通にレジ打たすのだって無理だろう。第一、ここは学校でも病院でもない。あいつの手助けをするほどの余裕はないんだぞ」
「クビ、ですか」
「妥当だな。本人から話を聞かない事には進められないが、ほぼ決まりだ。それに、そっちのがお互いの為になるだろう」
立花にとっては、駒台での経験は殆どが初めてのものだったに違いないだろう。それは彼女の心を豊かにし、貧しくもした。喜怒哀楽を体験して、立花は成長もしたのだろう。ただ、今回の出来事に耐え切れるほど育っていなかっただけだ。
店長は灰皿で火種を揉み消して、ポケットから一枚の紙を取り出す。
「一、お前はどう思う」
「人事に関しちゃ、バイトの俺が口を挟む余地はありませんよ。堀さんかジェーンに聞いた方が良いと思いますけどね」
「分かっていて聞いているつもりだ。私も、人間だからな。投げっぱなしじゃ気分が悪くもなるさ」
「……店長は王様にはなれないですね」
「それは人の上に立つ資質を言っているのか、私が女だと言う事に疑問を抱いているのか。後者なら原型を留めないくらいに殴るけどな」
何をだ。とは問うまい。一は声を上げて笑い、誤魔化した。
「大体だな、お前は高がコンビニの店長に何を求めると言うんだ」
「とりあえず、真面目に働いてさえくれれば」
「一、これを見ろ」店長は一の話を聞き流して、持っていたものを彼に渡す。それは、彼女が新から受け取っていた名刺であった。
「新さんの名刺がどうかしたんですか」
言って、一は名刺の裏を見る。筆で書かれたような、端正な字が並べられていた。『娘に何かあったら、お伝えください』、と。彼は乾いた声で笑う。
「親バカ」
「結局、自分の子供は可愛いんだろ。他人のガキを預かる身にもなって欲しいものだがな」
「お別れですね、立花さんとは」
「ああ、そうだな」
二人は同時に煙を吐き出した。新はきっと、立花を連れて帰るだろう。これ以上娘が傷つくのを見ていたくないのなら、当然の判断だ。
だから、もうさよならなんだ。一は短くなった煙草を床に落として、受話器を手に取った。
電話を切った新はフローリングで横になっている立花を見遣った。せめてベッドに行けば良いのに、しかし、そうしろと言えない自分もいて、彼女は自身を情けなく思う。
疲れて、傷ついた娘に掛ける言葉を知らない。そも、あんな状態になった立花を新は知らなかった。
「……真、私は少し出掛けてきます。しっかりと留守を守るのですよ」
立花は返事をしない。こちらを見ようともしない。僅かに首を動かしただけだ。九州の実家にいた頃なら平手の一つでも打っていたのだろうと、新は少しだけ甘くなった事に気付く。
一との待ち合わせまでは時間がない。新は鞄と、それから、竹刀袋を一つ携える。
今まで、ずっと、『立花』であれば良いのだと思っていた。刀さえ上手く使えれば、ソレさえ殺せれば何もいらないと信じていた。強ければ、力があれば。だが、打ちのめされた立花を見て、新は願う。もっと別に得るものがあって、与えるものがあって、それを欲する事を、心から。
新に指定された待ち合わせ場所に向かう。店内を見回すと、奥の席でアップルパイを持ったままでこちらに小さく手を振る彼女が見えた。何も知らない者には、新は楚々とした美女にしか見えないだろう。自分もそうでありたかった。余計な事など知りたくなかった。
「もっと良い場所はあったと思うんですけどね」
「私、ここしか知りませんもの」
対面へ座った一に笑い掛け、新はアップルパイを平らげる。
「こうして二人きりで会話出来るなんて、夢のようですわね」
「……立花さんの様子は、どうでしたか?」
「ああ、その話でしたか」
「その話以外に何をするって言うんですか」
新が余裕ぶっているのか、無理矢理に笑っているのか、一には判断出来ない。
「神野君が死んで、神野君の妹に酷い事を言われて……俺は、立花さんは元気ですかと聞いているんじゃないんです。彼女がどうしたいのかを聞いてるんですよ」
「あら、それなら私ではなく真に尋ねてはどうでしょうか」
「あなたが名刺に余計な事を書かなければ、そうしてたかもしれませんね」
テーブルの上に名刺を置くと、新は「それが何か?」 と扇子で口元を隠した。
視線をどこかへ逃がそうとしている新を見て、一は溜め息を吐く。
「案外、分かりやすい人だったんですね」
「何の事やら。……店員さんは、真をどう思っているのですか」
一は答えに窮した。新がどんな答えを求めているのか、それに応えられなかったなら、彼女は――――。
「真とはただの同僚で、恋愛感情を持っていないと言いましたね。しかし、私には分からないのです。ただの同僚の為に、あそこまで命を張れるものなのでしょうか」
「張れるんじゃないんですかね。実際、神野君は俺たちの為に死んでしまった」
神野は、一が前へ出なかった為に、立花を守ろうとした為に死んだ。ならば、自分はどうなのだろうか。一一は、立花真の為に何が出来る。何故、何かしてやりたいと思える。
「店員さんはどうなのかを聞いているんですけれど」
「さあ、どうなんでしょうね。ただ、立花さんがいなくなったら寂しいとは思います」
「……ああ、お気づきでしたか。そうですね、私は、真を連れて帰ろうと思います。この街はあの子にとって、刺激が強過ぎたのかもしれません」
無垢な立花がこの街で暮らすには酷だったのかもしれない。ソレも、人間も、何もかもが汚くて、彼女はあまりにも綺麗過ぎた。一は頷き、少しだけ寂しそうに笑う。そうですかと、口から出たのはどうでも良い台詞だった。