かよわきハートビート
誰もいない街の上、陽が差し込み始めた夜明けすぐ、件のアーケードを見下ろす場所に彼はいた。ドレッドヘアーの情報部、氷室である。彼は携帯電話片手に、路地裏に進んでいくソレを見ていた。
「ソレは駒台北部の商店街付近から動かないみたいだな。奥へ奥へ、袋小路をめざしてるみたいだ」
氷室はソレから、アーケードへと目を移す。
「死体の回収もそろそろ良いだろ。早く運んでやらなきゃ、今度は残らないぜ。遺族に下げる面もなくなるってもんだ。……あ、俺? 関係ねえもん」
開かれた惨劇は未だ幕が下ろされていない。何もかもが昨夜から、そのままなのだ。吹き曝しになった死体の片足はソレに食われている。氷室とて出来るなら助けてやりたかったが、ソレと一戦交えるつもりはなかった。ようやくになって、ソレはこの場から立ち去ったのである。
「避難はさせたままだ。悪いが、当分はすし詰めの体育館で雑魚寝だよ。は、死ぬよりマシだろ? ……へえ、勤務外は北から出るのか。ま、後はよろしくって感じだけど」
彼が死んだ事については残念だと、氷室は思う。前途のある若い人間がこんな目に遭う世界を呪う。だが、無理に首を突っ込む事もなかっただろうに。彼は選べた筈なのだ。勤務外に関わらない事を。戦闘から逃走するのを。結局、自業自得なのだ。
「神野剣の遺族に連絡を。葬式は、まあ、今晩か。……は、俺? だから関係ないっての」
眠れるし、腹も減る。生きていれば当たり前だ。身震いする。早朝の冷たさか、間近に迫った恐怖を思い出しての事か。
とにかく、一は今日も生きている。彼は布団を跳ね退けて、長い息を吐き出した。戦わねばならない。ソレの脅威は、今、この瞬間にも駒台を覆っているのだから。
目下、一が必要としていたのはソレの情報である。メドゥーサが力を発動しなかった理由を解明するのが生存への近道なのだ。
それから、神野の家族が少しだけ気になった。彼には確か妹もいた筈である。だが、自分が何か出来るのかどうか、そう問われては何も言えないのが真実だった。神野を生き返らせる事など不可能であり、遺族に頭を下げるのも筋が違っている気もする。精々、神野の家族の、行き場のない憤りのはけ口となる事ぐらいしか思いつかなかった。非生産的であり、殴られ、罵られる趣味もない。店長に今後どうするのか尋ねた方が良いだろう。そう判断した一は出掛ける準備を始めた。
「マスター……、おはよう、ございます」
「ああ、おはよう」
自動人形のナナからは疲れた様子を感じられない。しかし、昨夜から今までずっとフロアに立ち続けてくれたのだろう。
「大丈夫か?」
「あ、そんな、ありがとうございます。でも、ナナよりも、マスターはどうなのですか?」
「怪我ならしてないよ」
ナナは僅かに顔を伏せる。一も分かっていた。彼女はそんな言葉を求めていない。ただ、大丈夫だと言いたくなかった。自分でも驚くくらいに、いつもと変わらないのである。それが何だか腹立たしくて、悲しかった。
「店長に話を聞きに来たんだ。悪いけど、まだ手伝えそうにない。ごめんな」
「勿体ないお言葉です。マスターのお気持ちだけ受け取らせていただきます。それから、その気持ちでナナはあと十年は戦えますっ」
ナナは神野の死をどう受け止めているのだろうか。悲しんで、悼んでくれているのだろうか。少しでも、感傷に浸ってくれればと一は思う。
「頑張ってくれ。……俺も頑張るから」
「……? はいっ、がんばります!」
バックルームの空気が重たく感じられて、一は俯いてしまう。店長は彼を認めて、煙草を箱から摘み上げた。ライターを手で弄び、
「神野を遺族の許に帰した」
そう、告げる。
一は暫くの間、何も言えなかった。夢か幻か、そんな現実に縋っていた自分に気付いてショックを受けたのである。
「あんなもの見せて誰が喜ぶんだろうな。……一、神野の足な、ソレに食われていたそうだ」
まだ、これ以上の衝撃があったのか。底辺まで落ち込んでいなかった心を奮い立たせ、一は店長を見返す。
「神野君の家族は、何か言っていましたか?」
「さあな。実際に会ったのは私じゃあない。第一、あいつの家族が何を言うか、私たちに何を言うか、分かるだろう」
身内がソレに殺された。恨み辛みをぶつける相手は近くにいない。ぶつけたとして、ソレに言葉は通じない。やり場がない。
「……妹さんは、何か」
「いや、知らないな。本人に会って確かめるしかないんだろうが、その必要はない」
店長はゆっくりと紫煙を吸い込み、不味そうに吐き出す。
「神野の家族には近づくな。痛い目を見るだけだ。誰もがな」
「……式にも、ですか」
「どの面下げてだ? 勤務外、同僚としてか? 止めろ、誰も望んじゃいない。私らの位置を忘れるなよ。つまるところ、遺族にとっちゃ神野を殺したソレも、ソレを殺す勤務外も同じなんだ」
人を外れた身で、のこのこと何をするつもりだ。それでも、一には何一つ納得出来ない。
「病院にいる三森たちにも伝えている。神野の死は、勤務外やフリーランスにも広まっただろうな」
一はおもむろに煙草を取り出した。ぐしゃぐしゃになった箱から、無事だった一本を摘んで火を点ける。
「禁煙してたんじゃないのか」
「許しをもらえたんで。……とにかく、納得はいってないけど、分かりましたよ。今は神野君の家族とは関わりません」
店長は眦をつり上げる。
「今は?」
「いつかは向き合わなきゃいけない問題じゃあないんですか」
「お互い、一生顔を合わせない方が良い。そうに決まっているだろう」
「逃げてるだけじゃないんですか」
紫煙を吐き出し、一はそれを通して店長を見遣った。
「痛い目見るのから、嫌な目に遭うのから逃げてるだけでしょう」
「黙れ。オンリーワンの親心が分からんのか」
「大抵は、子は知らないんですよ、それ」
「何をしに来たんだ、お前は」
尤もである。一は短くなった煙草を店長の足元に落とした。彼女は嫌がらせに対して何も言わず、彼もまた何も言わなかった。
「ソレの名前、分かりませんか」
「……ミノタウロスか牛頭だと言った筈だ」店長はどこか投げ遣りに言う。
「牛の怪物、他に思い当たる奴はいませんか」
「知るか」
瞬間、一の頭に血が上った。
「言い方ってもんがあるんじゃないんすか? 仮にも店長なんだし、ソレの情報くらい集めといてくださいよ」
「知らんと言っている。気になるならお前が自分で調べろ」
ここでソレに関しての情報が得られないなら他を当たるつもりでいたのである。しかし、一は店長の態度が気に食わない。どうにも、気に入らない。
「その怠慢が神野君を殺したんだとは考えないんですか?」
「現場にいたお前が言える口か?」
店長もまた、一の態度が気に食わない。最初から気に入らない。だから二人は煙を挟んで睨み合う。
「出るな。関わるな。会うな。それは全部そっちの都合でしょうが」
「お前らの為でもあるんだぞ」
「そっちからすりゃあ俺たちは消耗品だろうとは思いますけどね。あんたの都合で動く駒じゃないんだって話ですよ」
「だったら偉くなってから物を言え。雇われの分際ででかい口を叩くな」
「何とも思ってないんですか」
「主語を抜いて喋るな」
「神野君が死んだってのに、あなたはどうして……!」
「お前だってそうだろうが」
店長は短くなった煙草を一の足元に放り投げる。
「神野の為に泣いてやれ? じゃあ、まずはお前が泣いてみろ」
泣けなかった。一は神野の死を悲しむよりも、ソレに対しての怒りよりも、その場を切り抜けて生き延びる事を考えていた。
「夕方からは一、お前がシフトに入れ。ご主人様なんだろ、メイドを休ませてやれ」
一は何か言いたげだったが、諦めたように息を吐き、分かりましたと頷いた。彼はバックルームを出て行き、その直後、電話が鳴る。店長はすぐに受話器を取り、耳を傾けた。
『ウチの真を見ていませんか?』
「……知るか」
目覚め、何かに突き動かされるようにして予備のセーラー服に着替えた立花は新の目を盗んで、こっそりと部屋を抜け出していた。彼女は定まらない視線のまま、ぶつぶつと何事かを呟きながら歩く。勤務外専用のマンションの階段を一段ずつゆっくりと下っていく。
「……けん君、死んだから」
括っていないので、目の中にちらちらと髪の毛が入ってくる。それでも立花は気にした様子もなく、下っていく。
「お葬式、行かなきゃ」
テュールが『立花』の人間を切り捨てていったあの日、優しかった父親も、良くしてくれた親戚も、皆焼かれて灰になった。その時、自分は泣いていなかったかもしれない。母親は慰める事もしてくれず、ただ、炎に魅入られていたように思う。
「けん君、けん君」
彼は何を言いたかったのだろうか。
彼は何を思っていたのだろうか。
彼は自分に何を遺して、逝ったのだろうか。
神野姫がその報せを受けたのは、いつものように塾で女性講師からの授業を受けている時だった。彼女はそこから飛び出して、ひたすらに走った。通行人と肩がぶつかっても、信号を無視して、息を切らして必死に駆ける。もう、何もかも済んでしまった後だと言うのに、まだ信じられなくて、信じられる筈がなくて。
どうして、帰ってこなかったのか。連絡の一つもなしに兄が消えたとは思えなかった。
だから、家の前にいた見知らぬスーツの男と、泣き崩れる両親を見た瞬間、聡い彼女は全てを理解する。何故、兄が帰ってこなかったのかを。誰に殺されてしまったのかを。
恐らくは、あのスーツの男はオンリーワンの人間で、両親は彼によって仕事から呼び戻されたのだろう。朝出て行ったのと同じ格好をしていた父親は、オンリーワンの男の胸倉を掴み上げて喚き散らしていた。その気持ちは痛いほど分かる。だが、彼に罪はない。責任はないのだ。
「お父さんっ!」
「……姫」
姫の父親は男から手を離し、彼女の顔を見つめて、済まなさそうに頭を下げる。姫は、父親の白髪が交じった短い頭髪に老いを感じる事は今までになかった。だが、今になって初めてそれを思う。
「私は、何も知らなかった……!」
こんな事になるのなら、兄が勤務外になっていたのをもっと早くに報告すべきだったのだ。そうすれば、無理矢理にでも辞めさせられた。死ぬ事はなかった。誰一人、悲しまずに済んだのである。
「全て、私の責任だ」
「お父さん、お父さんは何も悪くないよ……」
誰に責がある。誰に罪がある。誰を責められる。誰を責めれば気が楽になる。神野を殺したのは言葉の通じない、感情の伝わらないソレなのだ。どれだけ恨んでも、いくら呪っても、その思いが届く事はない。きっと、この先行き場のない憤りを抱えて生きていく。打ち込まれた楔は家族に決定的な亀裂をもたらすのだろう。
「あっ、ああ……! 剣っ、剣!」
母親が兄の名を呼ぶ。その声に答える筈の人はもういなくて、それが分かって、姫は全身から力が抜けていくのを感じた。
勤務外に関わらなければ。
ソレがここに現れなければ。
「けん、君……?」
「…………あなたは」
あの女さえ、いなければ。
烏の濡れ羽色をしたセーラー服と艶やかな髪。彼女の瞳に感情は宿っていないけれど、切れ長のそれは強い意志を有していたように思う。忘れるものか。いつしか、姫の四肢には力が戻り始めていた。どろどろとした熱に浮かされて、黒い感情に心が支配されていく。抗う事はしない。身を任せて、この身を捧げる。
「あなたが」
誰を責めれば。誰を恨めば。誰を呪えば。誰に、気持ちをぶつければ。
「あなたさえ、いなければ……!」
「え……?」
神野剣。
兄の身を失わせたのも、心を奪ったのも、何もかも、立花真のせいなのだ。
「姫……?」
母親がこちらを見ている。父親が呼び掛ける。オンリーワンの男は既にこの場から退散していた。存外、賢しいものだと思って内心で笑う。そして、立花が自分を見つめていた。何故、自分が睨まれているのかも分からなくて、媚びるような視線を向けている。その目で、兄を篭絡したと言うのか。
「ひめ、ちゃん? え、あの、ボク……」
「呼ばないでください」
遮る。
「私の名前は、あなたに呼ばれる為にあるんじゃない。消えてください」
「どう、して?」
家族の手前、強くは出られない。沸々と煮え滾るものは内に流れている筈なのに、冷静にこの場面を見ている自分も中にはいて、姫の目頭が熱くなる。
「どうして? あなたこそ、どうしてここに顔を出せるんですか? どうして、平気な顔をしていられるんですか? どうして、どうして、まだ生きているんですか?」
「姫! いきなり何を言い出すんだっ、それに、この子は……」
思えば、両親の前で感情を露わにするのは初めてだったかもしれない。今までわがままを言わずにいられて、良い子を演じられてきたのは兄のお陰なのだ。彼の前でだけ、己を曝け出せたのである。もう隠さなくても良い。偽らなくても良い。平穏は壊れてしまったのだから野となれ山となれ。
「消えろと言っているんですよ? あなた、言葉が通じないんですか?」
「あ、あれ? あの、ひめちゃ――――」
「――――人殺し」
立花は伸ばし掛けた手を引っ込めて、凍りついた。
「あなたがソレを殺さないから、兄さんは殺された。あなたがこの街に来なければ、兄さんが危ない目に遭う事もなかった。あなたのせいで、兄さんは死んだ」
「ちっ、ちが……」
「違いません。あなたのせいで兄さんは死にました。あなたが兄さんを、殺した」
立花は何度も首を横に振る。違う。ボクじゃない。悪いのはソレだよ、と。そうかもしれない。いや、そうなのだろう。
姫は立花の頬を張り、とびきりの笑みを作った。暗く歪んだ、極上の憎悪を込めて。
「必ず、殺してあげますから」
両親に取り押さえられるまで、姫は立花を睨み続けた。立花は目すら逸らせず、まっすぐに向けられた敵意に震えていた。
手土産はいらないだろう。見舞いの花などもってのほかであり、こうして顔を見せただけでも、むしろ向こうが礼を言うべきなのだ。
「ありがとうは?」
「ありませんよ」
ベッドの上でそっけなく返すのは黄衣ナコトである。彼女は一を瞥見した後、つまらなさそうに本のページを繰った。分厚い洋書を暫く見つめてから、
「何か用があるんでしょう? 勿体ぶらずにさっさと言ってはどうですか。時は金なり。あなたごとき人間があたしの一秒、ましてや一分を潰す権利はありませんよ」
本を閉じる。
「退院はいつになるんだ?」
「上から目線ですね。流石、一足先に娑婆に出た方は言う事が違う」
「娑婆言うな。別に、いつまでだらだらしてられんのか聞いただけだよ」
「あたしの勝手でしょう。あなたはあたしの母親ですか? 違いますよね、だったら勝手な物言いは避けていただきたいものです。著しくデリカシーに欠けていますよ」
今日も良く回る舌だと感心して、一はパイプ椅子を組み立ててそこに座る。
「あたしの許可を得ずに椅子を使わないでください」
「どこに座れってんだよ」
「空気なら、まあよしとしますか」
「中学の部活じゃねえんだぞ」
言って、一は懐からガムを取り出した。
「あ、あたしにも一つください。甘いもの、ここにいたら中々食べられないんですよ」
「そうなのか? ああ、分かったから袖を引っ張るな」
奪い取ったガムをナコトは口に入れる。嫌そうな顔をして、彼女はすぐさま包み紙に吐いた。
「甘くねえじゃん!」
「ブラックだし」
「中学生じゃないんだからかっこつけないでくださいよ。もっと甘味を、甘味を口にしてはどうですか。ブラックなんか味がないのにっ、味がない食べ物は存在価値ゼロなんです。あなたみたいに」
「眠気覚ましだよ。俺だって味はある方が良い。甘いもんなら尚更そっちのが食いたい」
噛む度に嫌気が差してくる。そのお陰か、眠気は今の今まで訪れてはいない。ナコトの話を聞くなら、これくらいの対策は必要だろうと一は判断していたのだ。
「出ましたね寝てないアピール。『俺昨日は二時間しか寝てなくてさー、二時間だけしか寝れないってマジきっついよー、えー、それどこ情報よー? 俺が二時間しか寝てないってどこ情報よー?』 って奴ですか」
「長い」ばっさり。
「長くないです」きっぱり。
「クソまずい病院食しか口にしていないあたしの身にもなってください。食べ物の差し入れはデフォでしょう。ああ、先輩の作ったクッキーと紅茶が懐かしい……」
「そんな甘いもの好きだったっけ?」
ナコトは小さく首肯する。
「読書は頭を使いますから。疲労した脳を回復させるには甘いものを摂るのが一番なんです。ちなみに、あなたの事はさっきのガムよりも好きですよ」
「わーい嬉しいなあ。……疲れるなら本読まなきゃ良いじゃん」
「あたしにとって本は空気と同じです。あなたは空気なしに生きられますか? 無理でしょう? そういう事ですよ、低能」
一、歯軋り。
「もう良いや。黄衣、聞きたい事があるんだけど」
「……変態!」
「まだ何も言ってねえだろ」
「『もう良いや。黄衣、聞きたい事があるんだけど』」
「それだけで変態扱い!?」
ナコトは大きく首肯した。
「本来ならここに来た時点で通報ものですよ。ガンジーですら助走して通報するレベルの変態です」
「助走いらねえじゃん」
「いーりーまーすー。助走いりますよ。まああなたは女装して喜んでますけどね。除草剤散布されてナパーム弾投下されてもおかしくないド変態ですから」
「エコロジーの真逆をいく女だな」
「二酸化炭素を無駄に生産して資源を食い潰すクズをこの世から消すんですよ? これがエコロジーでなくて何になりますか」
そろそろ一は頭が痛くなってきた。年下の小理屈は聞いていて面白いものではない。
「黄衣、そういう話なら次の機会に聞いてやる。今日は、マジで違うんだ。聞いてくれ、いや、聞かせてくれ」
「ふうん。なるほど、そっち方面の話ですか。あたしを便利な図鑑みたいに扱っているのは気に入りませんけど? 切羽詰まっているようなので、助けてあげても良いかなあ。なんて」
「ミノタウロス、知ってるよな?」
ナコトは目を丸くさせた後、ゆっくりと瞑って、一を馬鹿にするような笑みを見せる。
「知らない人がいるんですか? 分かりやすい怪物ですから、ゲームや漫画と引っ張りだこの存在じゃあないですか。ギリシャでもまだメジャーな名前ですよ」
話が早くて助かる。やはり、彼女のところに来たのは正解だと一は思った。
「そんな事をわざわざ聞きにくるなんて。拍子抜けすると同時にあなたには落胆です。本当にあたしより年上なんですか? 脳の皺の数で言うなら、あなた幼児と変わらないですよ」
やっぱり不正解だったと思い直す。面倒でも図書館まで出向いた方が良かった。
「教えてくれるのかくれないのかどっちなんだよ。時間がねえんだ、無理なら無理ではっきり言ってくれ」
「……あたしよりも優れた解説役がどこにいると? よござんす、ミノタウロスについて余すところなくお教えしましょう」
ナコトはベッドから起き上がって一を指差す。彼女は得意気だったが、言ってて悲しくなるような台詞だと気付いているのだろうか。
「何から聞きたいのですか。とは言いません、今までの経験から考えてみても、あなたは駄目な学生の見本ですからね。まともな質問は用意していない筈です」
一は頷き掛けたが、ちっぽけなプライドが邪魔をした。
「まずミノタウロスとは……」
「あ、悪い。あんまり深くは話さなくて良い。欲しいのはさ、弱点か、名前くらいなんだ」
「えー、喋らせてくださいよー。あたし、話ながらじゃないと考えがまとまらないタイプなんです」
「まあ、そういう事なら。でも、なるべく手短にお願いします」
一は頭を下げる。ナコトは彼の後頭部を叩きそうになった。
「……あ?」
「すいません、つい。話を続けましょうか」
「始まってすらいないけどな」
茶々を入れる一を一睨みして、ナコトはこほんとわざとらしい咳払いをする。
「忘れてました。あたしにソレについての話を聞きたいって事は、ソレが出たって事で良いんですよね?」
「あれ、聞いてなかったのか」
「基本的にベッドの上から一歩も動かない生活ですからね。看護士、特に炉辺という方は良く話し掛けてくれますが、そういった事に関しては口が堅くなりますし」
「あー」一は納得した。駒台に来たばかりで、しかも無駄に攻撃的なナコトに友人がいるとは思えない。
「今、何か余計な事を考えませんでしたか」
「いや、でもアレだな。もっとお前には優しくした方が良いような気がしてきたわ」
「余計なお世話です!」
本を投げつけようとしたナコトだが、結局は枕を一に投げつける。彼はその枕を避けて、壁に蹴飛ばした。
「ゴォォォォル!」
「もう一度入院してはいかがですか? 今度は脳外科……精神病院あたりに」
「いや、遠慮しとく。俺ナースより喪服派なんだよね」
蹴飛ばした枕を拾い上げてナコトに放り投げる。一は椅子に座って、困ったように頭をかいた。
「ソレは出たよ。まだ生きてる」
「まだ? その言い方だと、一度は交戦したように聞こえますが」
「したよ」
戦ったと言うよりも、殺され掛けただけの話ではある。実際、殺された者もいる。逃げ出して、捨て置いて。
「神野君って覚えてるか? 確か、カトブレパスん時も、『館』の時もいたろ」
「いたような、いなかったような。殆ど、顔すら合わせなかったような気もしますが」
「ああ、そうか」
ナコトは覚えていないのだ。街の人間も、彼の存在すら知らない。ソレと戦った者を、街を守ろうとした者を、誰も、覚えていない。
「ああ、そうか」
「その、神野さんがどうかしたんですか?」
「殺されたんだよ」
言ってから、投げ遣りな口調になっていたのに気付く。一は何だか虚しくなり、そうなったのは自分のせいなのに、誰かのせいにしたくなった。
「お気の毒にと言っておきましょう。勤務外になったのなら、覚悟はしていた筈ですから」
殺す覚悟も殺される覚悟もしていたと言うのか。一は何も言えず、長い息を吐く。
「仇を取るおつもりですか」
「ソレは放っておけないしな」
「……妙に冷めていますね。あなたにしては珍しい。それとも、一晩経って頭が冷えましたか。何にせよ、無駄に熱血するよりは良い事です。冷静さを欠いたまま戦っても、後を追うだけですから」
「そのつもりはねえよ。だから、こうしてお前に頭を下げてんだ」
「いつ下げました?」
ついさっき。
「そう言う事なら協力は惜しみません。あたしはあなたに借りがありますからね」
「だったら最初から素直に返してくれれば良いのに。つーか、もうそんなん気にしなくて良いぞ」
「します。時間は、まだ大丈夫なのですか?」
一は頷く。夕刻まではまだ余裕があった。
「少し長くなるかもしれませんね。あなたにとってはつまらない話になるかもしれません。が、掛かっている事の重大さを理解していれば充分に我慢の出来る問題です。文句を言わず、余計な茶々を挟まず、しっかりと学んでくださいね。……返事は?」