同じ月を見てたのに
大した準備も出来ないままに避難させられたのだろう。商店街に近づくにつれて通行人の数は減り、耳を蝕むような静寂さが一たちを包み込み始めた。そのくせ、人家に明かりだけは点いたままなのである。さっきまでそこに人がいたのだ。そして、今はソレがいる。
「あ、はじめ君、あそこの壁が壊れてるよ」
「うわ、ざっくりいってんな」
神野が顔をしかめた。一たちはソレの痕跡を辿りながら、少しずつ歩を進めている。道中、看板が真っ二つにされ、ブロック塀が破壊され尽くしているのも見てきた。
「接近戦は避けたいけど……」
一は立花たちの得物に視線を遣る。
「神野君、それって、飛び道具?」
「俺は剣しか使えないっすよ」
「まあ、仕方ないか」
しかし、一は悲観的にはなっても絶望的にはならない、と。そう、高をくくっていた。何せこちらはソレの名前を知っている。人身牛頭のソレならば、ミノタウロスか、牛頭か。そのどちらかだろうと店長は言っていた。必要なら両方試せば良いだけである。動きさえ止めれば、どんなパワーファイターだろうと脅威は感じられない。メドゥーサで止めて、剣士二人が切り刻めば済む話なのだ。
「あっ、猫だ! おいでおいでー、ああっ、逃げられちゃった……」
緊張感の欠けらすら見受けられない。が、一はその事について心配はしていない。立花も、神野も、戦闘となれば自分よりも頼りになる。いざ戦うとなれば、即座に気持ちを切り替えてくれるだろう。その時、あたふたとしているのは年長の自分だけかもしれない。そう考えると、彼の気分は少しだけ沈む。
「ボクお腹空いてきたなあ」
「立花、お前さっきから自由過ぎないか? もっと真面目にやれよ」
「お腹が空いてたら戦えないよ?」
「腹パンパンになるまで食っても戦えないだろ」
「そっ、そんなに食べないもん! 意地悪。けん君は意地悪だ」
「そっちは食い意地が張ってるよな」
「ばかーっ!」
一は薙ぎ倒されたフェンスを確認して、ソレが進んだであろう道を選んで歩き続ける。生々しい道しるべに辟易としながらも、同時に感謝していた。どうやら、ソレは使う頭を持ち合わせていないらしい。
「はじめ君、けん君がボクをいじめるんだー。何とか言ってよ、ボク、ストレスで死んじゃう」
「立花さんは難しい言葉を知ってるなあ、偉いぞ」
「え、へ、そっ、そうかな? えへへー」
適当にあしらって、一は明るくなってきた方に目を向けた。
「……アーケード、電気がそのままだ」
嫌でも目に入る。自分たちがそうなのだから、行く当てのないソレの気が引かれるのも無理はないだろう。
「いますかね」
声を潜めて神野が言う。一はゆっくりと首を横に振った。
「分からない。だからこそ慎重に行こう」
それぞれが得物を握り締め、息を殺して進む。先頭の一は物陰に身を隠しながら、顔だけをそっと覗かせた。煌々と照らされたアーケード、シャッターが閉まっている店が殆どではあるが、営業中の札を提げたままになっている店もある。通りには倒れた自転車と背の高い観葉植物があるだけで、他には何も存在していなかった。
「はじめ君、何もいないんじゃないの?」
「多分。ソレは、どこだ」
商店街には荒らされた形跡がない。一たちを導いてきた、ソレの作った目印がここにはなかった。
「気配っつーか、嫌なもんは感じられないっすね」
「路地に隠れてんのか?」
「どれか、お店に隠れてるかもしれないよ?」
物音は立てられない。アーケードは見通しが良過ぎる。何かが動けば、すぐに気付く、気付かれてしまうだろう。
「釣りますか?」
神野が手頃な大きさの石を拾い上げる。それをなるだけ遠くに投げ、近くに潜んでいるであろうモノを引っ張りだそうと言うのだ。
「……でもさ、いきなり出てきたらすげえ怖くないかな?」
「ほ、ホラー映画だねっ」
「けど、ここでじっとしてたってしょうがないっすよ」
その通りだが、一にも心の準備というものが必要だった。彼は長く息を吐き出し、前方にあるアーケードの出口を睨み付ける。
「良し、やってくれ」
「了解っす。真ん中らへんに投げ込むんで」
石を握り、神野は物陰から僅かに身を曝け出す。オーバースローから放たれた石はアーケードのほぼ真ん中、書店とアクアリウムショップの間に落ちていった。瞬間、高く乾いた音が一たちの耳をつんざく。心臓が跳ね上がり、全身が強ばった。石は床を滑りながらからからと音を引いていく。しかし、静謐が戻ってきて暫くしても、反応は返ってこなかった。
「……びびったあ」
一がほっと息を吐く。いつの間にか立花がしがみつくように体を預けてきていたので、彼は無言で彼女をひっぺがした。
「直接確かめるしかないっすかね」
「焦らしやがって。これじゃあマジにホラーじゃんか」
アイギスを振って、一は物陰から出る。覚悟を決めてアーケードに足を踏み入れた。高い天井と眩い照明に目が眩みかける。
「抜いといた方が良いかな。けん君、本当にその箱で戦えるの?」
「箱じゃねえって」
立花は肩から提げていた竹刀袋を外して、日本刀を鞘から抜いた。上方からの人工的な光を受け、刃はきらきらとそれを反射する。神野もフツノミタマの刀身を伸ばそうかと考えたが、この状況で響くエンジンの駆動音が心臓に悪そうだったので、やめておいた。
一はアーケード右側、一つ目の路地に向かって歩いていく。正直、そこを覗くのが恐ろしくて仕方がなかった。
生唾を飲み下して、そっと身を乗り出す。アーケードからの照明が届かない為に、先は暗くて見通しが利かない。赤い提灯がぽつぽつと見える。居酒屋が立ち並んでいるらしく、鳥肉の焼けるような匂いがして一の鼻孔をくすぐった。
「駄目だ、まるで分からない」
「暗いけど、先に進むの?」
「それは嫌だなあ……とりあえず、他の場所を全部見回してから――――」
「――――――――!」
背筋が凍る。鼓膜が震える。心臓は早鐘を打つ。頭の中が空っぽになって思考がからからと回り始める。
全員がその声を聞いた。けだものの鳴き声は未だ尾を引いている。足が竦む。全員がその姿を見た。痺れを切らして出てきたのか、獲物の臭いを嗅ぎつけたのか、アーケードの出口、深い闇と濃い影が歪んでいるのを。離れているのに、強烈な重圧を感じる。人外の存在が場を侵食して埋め尽くそうとしていた。
「出やがった」
ライトに照らされたソレの姿が明らかになる。首から下は確かに人だが、まともな体格をしていない。妙に発達した筋肉と二メートルにも達する巨躯。頭は更に歪だ。魔の証明、そこからは二本の角が生えている。そして、ぬっと伸びる長いモノが目を嫌でも引きつけた。両刃の斧が鈍く輝く。てらてらとしたぬめりは先刻吸った犠牲者の血である事は間違いない。
牛男とは、随分と可愛らしい言い回しだと一は思った。パーティグッズの牛型のマスクを想像していたのだが、アレは違う。完全に皮膚と同化しているのだ。ソレの黒黒とした毛並みが、荒い呼吸で小刻みに揺れていた。牛の頭が人の頭と挿げ代わっていると言うよりも、狂暴な牡牛が二本足で立っている、そう言われた方がしっくりとくるだろう。距離感が完全にずれていた。ソレが斧を振るえば今にも両断されてしまいそうな殺気を感じている。
「はじめ君、どうするの?」
ミノタウロスか、牛頭か、それとももっと別の何かか。往くのか退くのか、誰が先頭に立つのか、ここで戦っても良いのか別の場所に誘導すべきではないのか戻って指示を仰ぐのはどうか戦うのならどこまでだ誰かが怪我をしたら退くのか誰かが動けなくなるまで殺し合うのか「一さん!」 神野が叫び、一の前に立つ。
「やるしかないんすよ!」
フツノミタマから伸びたグリップを引っ掴み、神野はソレを見据えた。
「……っ、前には俺が出る」
言い聞かせるように、一は口にする。アイギスを広げて、ソレを見遣った。
どるん、どるん、どるん、どるん、音がする。神野がグリップを引く度にエンジンが駆動する。フツノミタマの刀身、真の姿を見せ始める。
「それが……」
一と立花は息を呑んだ。大きく、長く、分厚い、剣と言うよりかは鉄の塊のような直刀が現れていく。顕現する。フツノミタマ、神の剣が。
「おおおおおおおおおおおっ!」
「ブモオオオオオオオオ、オオオオオオオオッ!」
神野の叫びに呼応するかのようにソレが足を踏み出した。動きは鈍重で、それだけが救いだと一は思う。
「一さん、俺が行きます」
「なっ、ちょっと待って!」
行かせても良いものか、一瞬の判断を迷った。神野は自らよりも巨大な剣を両手に握り、ソレに向かって駆ける。その後ろを立花が追った。
ソレの動きは重い。触れればただでは済まない、両刃の斧は恐ろしく見えるがこけおどしに過ぎないだろう。
当たれば死ぬのはお互い様だ。こちらにはフツノミタマ、神の剣、自身に相応しい新たな力が備わっている。互いに二の太刀は必要ない。先に斬った方が勝ちで、斬られた方は屍を晒す。
「おおっ」
フツノミタマを試すには打ってつけの相手だと、神野は内心で喜んでいた。丁度良い。これで立花も認識を改めるだろう。一は嫌いではない。だが、彼は積極性に欠けている。背負っている者、守るべき者を思えばここで退く事は出来ない筈なのだ。土壇場になり、慌てふためいていては何も出来ない。誰も守れない。
だから、自分を見ろ。神野は立花を一瞥し、前方に目を向けた。
ソレはもう、眼前にまで迫っている。
「下がれ神野君!」
一の声は聞こえていた。しかし、背中を見せる余裕はない。何より、一番に駆け出した自分が彼女の前でおめおめと引き下がれるものか。
判断、行動。この一撃に全てを賭ける。
ソレの動きは決して遅くなかった。徐々に速度を上げていたのである。そうして、先陣を切った神野に肉薄した。
フツノミタマが振り上げられる。両刃の斧が風を切る。二つの得物は衝突せずに、肉の切り裂かれる音がやけに大きく聞こえた。一は立ち止まり、アイギスをソレに向ける。
「うっ、ああっ! 『止まれミノタウロス』!」
止まらない。ミノタウロスと呼ばれたソレは止まらない。神野の胴に斧が食い込み両断される。鮮血がすぐ後ろにいた立花の視界を赤く染めた。彼女はふと、アーケードの天井に目を遣る。そこを、神野の上半身が浮いていた。ソレが吠える。雨が降る。真っ赤な水が彼らを濡らす。水音、鈍い音、潰れる音、壊れる音、終わる音。鳴り止まず、彼らを満たす。
「戻れっ」ソレが次の獲物を見定める。ふらふらと、足元も視線も覚束ない愚か者を確認する。斧が横薙ぎに振るわれた。が、立花は落ちてきた臓器を拾い上げようとして身を屈める。その上を斧が一瞬遅れて通過していった。
「立花さん!」
立花を庇うように一が出る。彼はソレの攻撃を受け止めるも、何かに足を滑らせて転んでしまった。それは人間の腸である。認識した瞬間、彼は顔を引きつらせた。頭の中が真っ白になって、簡単に吹き飛ばされる。商店街の床を転がりアイギスを手放した。
「ブモッ、ブモ――――!」
血を浴びて肉を浴びたソレは興奮して斧を振り下ろした。甲高い音を立てて床が砕け散る。立花はゆっくりとした動作で首をめぐらせた。立ち上がった一がアイギスを掴むのが見える。そこで彼女は、自分がいつの間にか刀を手放していた事に気付いた。
刀はどこだろうと立花は視線を動かす。辺りには血溜り。二つに分かれた神野の体。散らかる内容物。転がるフツノミタマに寄り添うようにして、彼女の得物があった。
「あ、取らなきゃ。取らなきゃ」
立ち上がった立花の頭を一が押さえる。二人は床に伏せる形でソレの攻撃を躱した。服は血塗れになって、少しずつ、ゆっくりと染み渡っていく。
「あ、は。はじめくぅん、見てよ」
立花は庇われたままであらぬ方角を指差した。彼女はこの場に相応しくない、とろけたような、弛緩しきった表情である。
「けん君が二つになっちゃった」
一は思わず目を瞑った。ここでこのままこうしていたい。全てを忘れて見てみぬ振りを通したかった。だが、背後に迫るソレの気配からは逃れられない。
「ぐっ、あ、おおおおっ!」
酸鼻極まる状況下、血の香が一の体中を充たしている。
「ああああ――――――――!」
一は座ったままで、ソレは両刃の斧を振り下ろす。彼はアイギスで直撃を防いだが、どうにも体勢が悪かった。両肩に圧が掛かり、全身が苦痛で軋んだ。それでも逃げられない。ソレは狂ったように斧を押し当て続けるのだ。
「『止まれ牛頭! 止まれミノタウロス!』」
せめて立花が動いてくれればどうにかなる。しかし彼女は動かない。刀を拾った後は、不気味に笑むだけだ。一に何度も話し掛け、とっくに絶命している神野に呼び掛け続ける。
壊れているのだ。
立花の心は今、壊れてしまっている。まともに機能していない。
否。一は思う。壊れているのは自分なのかもしれないと。ついさっきまで生きていた同僚が、友人が死んだのだ。立花の反応はむしろ当然ではないか? 身を守ろうと冷静に立ち回る自分の精神が頑丈なのか、欠陥品であるのかが分からない。死を悼む間も、ソレを憎む間も、絶望する間もない。
「いっ……てえ」
壊れられたなら、狂えたなら。一は尚も執着し続ける。生きたいのだと足掻き続ける。
ソレが斧を再び振り上げた。チャンスだと、一は渾身の力、最後に残った力を体中から集約させる。立花を抱いて地面を転がり、足腰を踏張って一息に立ち上がった。風が背中を切る。ソレの攻撃が空振ったのか確かめる暇はない。
「走って!」
「う、あ……」
立花の瞳に感情は宿っていない。しかし短い言葉、一の必死な気持ちが伝わったのか彼女はよたよたと走りだす。
「ブモォオオ――――!」
アイギスを拾う余裕はなかった。一は立花の背中を押して逃げる。ソレが追い掛けようとしているのは分かっていた。死が、すぐそこに迫っている。強烈な嘔吐感が喉元まで込み上げていた。彼はぐっと堪えて、
「そのまま、走って」
立花の背を軽く押す。彼女は振り返る事なく走り続けた。
死ぬ。死ぬ。殺される。ソレに殺されて自分は死ぬ。立ち向かう事も諦めて、不様に背中を見せ続けて。
だからどうした。神野は既に死んでいる。一はコートのポケットから煙草の箱を取り出した。ライターを取り出そうとするが、手が震えて上手く摘み出せない。彼は諦めて、ソレに向き直る。両刃の得物、ソレが斧を振り下ろした。
「……なんだよ」
呆気ない。ここで死ぬのか。一は口の端をつり上げて、何となく腕を掲げた。それは何かに突き動かされて取った行動ではない。ただ、そうしなくてはならないと、漠然と感じたのである。斧と煙草の箱がぴったりと重なる。一秒と経たない内、一は頭から切断されるだろう。
「――――――――!?」
だが、そうはならなかった。斧は一どころか、煙草の箱すら切断出来ていない。彼とソレ、双方に衝撃が走る。腕を通して伝わる重圧に一は目を見開いた。瞬間、ソレの体が後方によろめく。振り下ろされていた斧は僅かに跳ね上がり、一は軽々と弾かれた。冷たい地面に火照った頬がぴたりと張りつく。
「…………あ?」
何が起こった。死を覚悟していた筈の一は呆気に取られてしまう。だが、結論は一つだ。信じられない事ではあるが、彼を守ったのは小さな煙草の箱なのである。ソレは一を警戒しているのか、すぐには動かなかった。鼻息を荒くして彼をねめつけている。
一はふらつきながらも立ち上がり、忘我の表情で歩き始める。持っていた箱は、彼が強く握り締めたせいでぐしゃぐしゃに潰れていた。
「アイ、ギス……?」
アイギスは一の手元にない。血溜りの中にある。だから、彼が握っているのはただの箱、その筈だった。しかし、一には分かる。これもアイギスなのだと。これがアイギスになっていたのだと。
北は言っていた。アイギスとは概念に近いものであり、特定の、決まった形を持っていないのだ。使用者の精神によってその姿を変える。アイギスはあくまで一の中にあるのだ、と。
その事実を改めて確認したところで、何も変わらない。ソレは死なず、自分は死なず、立花は死なず、神野は死んだ。今更どこに向かうと言うのか。それでも、一は歩くのをやめない。彼がアーケードを抜けても、ソレは追い掛けようとはしなかった。一にはもう、どうでも良かった。
誰もいない街の中、一と立花は再び出会った。
彼女は愚直に走り続けていたのである。一はその背中を見つけて、立花が転倒するまで追い掛けた。彼女に手を差し伸べるが、その手を掴まれる事はなかった。
「風邪、引くよ」
立花は地面に倒れたまま、身じろぎ一つしない。一は見兼ねて起き上がらせようとした。彼女はその手を払い除ける。
「……けん君、死んじゃったの?」
一の胸が締め付けられた。言葉が出ない。声すら出せない。尋ねるまでもないだろう。答えるまでもないだろう。体を切断され、血液を、臓器を撒き散らして生きていられる者などいないのだから。
「答えて。教えてよ」
立花がまともになったのかどうか、今の一では判断がつかなかった。
「はじめ君、何か、言ってよ」
よろよろとしながら立花は起き上がる。彼女は刀を捨てて一に詰め寄った。
「けん君は、死んだの?」
いたたまれない。早くここから消え去りたい。一は立花の顔を見られずに俯く。彼女は何を望んでいるのだろう。何を欲しているのだろう。無慈悲な事実を告げられたいのか、酷薄な嘘に慰められたいのか。
「店に帰ろう」
多分、何を言っても無駄なのだろう。
情報部からの報告を虚偽とも真実とも受け取れなかった。だが、血塗れになった一たちの服とここにいない神野を確認して店長は全てを理解する。
一はアイギスを持っておらず、立花の刀は真新しい。戦う前に逃げ出したのだろう。ソレの強さが予想を越えていたのもあるが、神野の死が彼らから意欲を奪ったに違いない。脱け殻のようになった二人を見て、店長は何を言うべきか迷う。
「……情報部から、ある程度の報告は聞いている。お前らは帰っても良い」
「店長……」
「何も言わなくて良い。立花、帰られそうか?」
一はまだ冷静だが、立花は危うい。話し掛けても反応はない。ぼんやりと、彼女は足元に視線を落としている。
「一、立花を中に。立花新を呼ぶ。流石に、迎えには来るだろう」
頷き、一は立花の背を優しく押した。促された彼女はゆっくりと、何かを確かめるようにして足を進めていく。バックルームに入った瞬間、立花は糸が切れたように、その場にへたり込んだ。
「立花さん、椅子があるから」
「良い。それより刀を取り上げとけ」
店長の指示に従い、一は立花の手から刀をそっと外す。彼の手に、ずしりとした重みが加わった。
「新さん、どうやって呼ぶんですか」
「……名刺をもらっている。お前も、もう戻って休め」
「いや、何だか気が抜けてて。立花さんたちが帰るまではいますよ」
「そうか」短く言って、店長は受話器を取り上げる。彼女は机の引き出しから名刺を出して、少しだけ躊躇う。
――――決定的だな。
もう二度と出すまいと思っていた死者が、出してしまった死者が両肩に圧し掛かっているような気がした。
「店員さんは悲しくありませんの?」
無論、悲しい。悲しいに決まっている。当たり前の問い掛けに答えるつもりなどなく、一は口を閉ざした。
「やはり、お強いのですね。あなたは真とは違います。涙一つ流さずに、前だけを見据えているんです」
やる事は、考える事はある。停滞は諦めを呼び込む。苦しくても辛くても、あがいて、もがき続けなければならない。
また、アイギスが通じなかった。ミノタウロスでも牛頭でもないのか。もっと別の条件か。ソレはまだ生きている。アーケードに陣取ったままなのか、とっくに迷宮のような場所を抜け出しているのか。
「では、後の事はお任せしますわ」
新は立花を連れていった。忘れていた疲労感に身を苛まれ、一もアパートに戻った。血に汚れた服はクリーニングに出しづらい。彼は着替えて、着替えを持ってすぐに部屋を出る。誰にも会いたくなかった。コインランドリーに行き、丸椅子に座って回る洗濯物をひたすらに見つめる。
客は自分以外に誰もいなかった。誰かが置いていった雑誌を手に取るも、ページを開く気にはなれない。早く、風呂に入って、眠りたい。起きたら、起きたら、何をすれば良い? また、店に行くのか。また、ソレと戦うのか。また、誰か死ぬのか。
気は昂ぶったまま、ちっとも休まらない。頭の中はやけに冷め切っていて、一はようやく、神野剣が死んだのだと理解する。胴体を裂かれて、死んだのだ。
死は平等である。
誰にでも、いつか必ず訪れる。その点に関しては間違いなく平等だと言えた。
死は平等ではない。
遠い異国で誰かが死んでも、それは自分からは外れた話で、取るに足りない、心の片隅にだって留めないような事だろう。だが、自分に近しい、より近しい者が死ねば話は別である。親しければ親しいほど、その人間の死は重く圧し掛かる。感情が、思考が奪われていく。
何もかもを投げ出して、逃げ出した。あのアーケードには、あまりにも多く、重いものを置き去りにしてしまっている。悲観にくれる暇はない。立花があの様子では、明日に立ち直る事は不可能だろう。自分がやらなくては。そんな思いが一の内を占めていく。鉄のように熱く、どろどろとした血が流れるのを彼は感じていた。
何故、泣けないのだろう。大切な同僚が死んだ。自分より若い者が逝った。なのに、涙一つ流せない一一という男は、なんて不孝なのだろう。
一たちは神野に何を残したのだろうか。
神野は一たちに何を遺したのだろうか。
彼は、死の間際に何を思っていたのだろう。山ほど見てきた筈の誰かの死が、一の胸につっかえたままだった。