ボーイズライフ
天津から受け取ったジュラルミンケースの中には、新たな武器、フツノミタマが入っている。使い方も全て教わった。心構えも済んでいる。後は、出番を待つだけなのだ。
我知らず、神野の口元は歪んでいる。バックルーム、自分に宛がわれたロッカーの前にケースを置くと、彼はようやくになって笑っていた事に気付いた。
「神野、さっきの技術部はお前に何の用事があったんだ」
こちらを向かないで、店長はパソコンのディスプレイを見つめたままである。
「俺に渡したいものがあったんで、あ、これっす」
ケースを持ち上げてみせると、店長は興味深そうにそれへ視線を遣った。
「それが、お前の武器なのか」
「フツノミタマって名前らしいです」
「ほう」店長は呟き、くつくつと喉の奥で笑う。
「良く出来た話だな」
何が店長のツボを刺激したのか分からなくて、神野は曖昧に笑っておいた。
「神野、お前に相応しいモノらしい。大事にして、なくしたりするなよ?」
「当然っすよ」
「そういう事なら、遅れたのも仕方がないな。しかし立花が一人で不安がっている。早くフロアに出てやれ」
頷き、神野は手早く制服を着て、バックルームを辞す。立花がレジカウンターから手を振るのが見えた。
「けん君、遅刻」
「悪い悪い。でも、ちゃんとした理由があるんだって」
「あ、もしかしてさっきお店に来てた人?」
「おう、そうなんだ」
自然と笑みが零れてしまう。神野は気を引き締めようとして、自らの頬を両手で挟むようにして叩いた。
「立花、俺も戦えるからな」
「……? えーと、どういう、意味?」
「ま、楽しみにしてろよ」
これで、立花と肩を並べられる。彼女がこちらを見てくれる。それを思うだけで神野の胸は躍った。今までは、勤務外としての肩書きがやけに重たく感じられていたのである。他の人たちに守られて、殆ど何もしていなかった自分が、歯痒くて仕方なかった。だが、フツノミタマを手に入れた。アレさえあれば、どんな魔物とだって戦える。胸を張って、言える筈だ。
「うん、分かった、楽しみにしとくね!」
自分はこんなにも、汚かったのか。こんなにも、欲が張っていたのか。立花の笑顔を独り占めにしたい。誰にも、奪われたくなかった。
午後になってやってきた一たちと交代して、神野と立花は休憩をもらった。夕方からは一を含めた三人でシフトに入るらしい。少しだけ、神野の気は重くなった。
「一が嫌いか?」
店長に尋ねられたが、神野は強く否定した。それとこれとは別問題である。一の仕事ぶりや同情を買わない方がおかしい私生活から考えても、彼を嫌う事はありえない。嫌いなのはきっと、自分自身だ。卑しく、小さく、情けない自分を嫌っている。
「それじゃあ、また後でね」
母親と出掛けると告げた立花と分かれ、神野は一人帰路に就く。早く、チャンスが欲しかった。フツノミタマを振るって、立花に少しでも認められたい。
思えば、彼女の太刀筋を初めて見た時から、焦がれ、憧れていたのだ。人間離れした動きは微塵も捉えられなくて、気付いた時にソレは死んでいた。こんな人間がいるのかと、自分の世界が塗り替えられたのである。剣さえ握れば誰よりも強いと思っていた神野剣は、あの日に殺されてしまった。だから、部活を辞めた。剣道を続けていれば、得るものはもっとあったろう。しかし、それでは追いつけない。もっと先へ。もっと前へ。もっと、ずっと向こうへ。立花真に並びたい。出来るなら、彼女を守りたい。せめて、立花に背中を預けられると思わせるくらいには信頼されたい。
「……兄さん?」
顔を上げると、向かいの道から心配そうにこちらを見つめる者がいた。神野の一つ下の妹、姫である。彼女は学校の制服の上から黒いコートを羽織っていた。神野が去年、お下がりとして姫に渡したものである。
「アルバイトの休憩ですか?」
「ああ、姫は……塾の帰りか」
「いえ、私も休憩です。兄さんが戻ってくると思ったので。お昼、まだですよね」
「作ってくれるのか?」
「洋食で良ければ、ですけど」
「オッケオッケ、文句なんかないよ」
神野と姫は並んで歩き始める。
姫は、高校が休校になってからは駅前の私塾に通い、マンツーマンでのレッスンを受けている。神野は兄として少なからず心配したものだが、先の事を考えて勉学に励む妹はやはり自分よりもしっかりしているのだと気付いて落ち込んだ。
「学校、来年から始まるらしいな」
「ええ、そうみたいですね」
『館』の襲撃を受けて、生徒だけでなく教師も大勢死んでいる。最近の駒台と言えばソレの被害が多く評判が悪い。教師の数が揃わず、また、生徒数も減少の傾向にある。また、同じ事が起こらないとも限らないのだし、陰惨な事件のあった地から離れていった者もいた。
「ま、始まったら始まったでどうにかなるか」
神野たちはこの話題について深く、長くは触れない。彼らの目の前で級友たちは死んでいった。まだ、全てを忘れられる筈がない。傷は未だ癒えず、剥き出しになった傷口はふとした弾みに広がり、熱を帯びてしまう。
「そいや、塾ってのはどんなだ?」
「塾は塾ですよ。お勉強するところです。兄さんにはあまり縁のないところかもしれませんね」
「そういうんじゃなくて、先生は良い人なのか? だって、一対一なんだろ。変な奴だったらさあ」
姫はくすくすと笑って、右手に持った鞄を大きく振る。それを口元に持っていき、悪戯っぽく神野を見た。
「可愛い妹が心配ですか?」
「……心配だ」
「ふふ、講師は女の人ですよ。少し口は悪くて面倒くさがりですけど、優しい人です」
「でも、そういう趣味の女だって……うおっ」
真っ赤になって鞄を振り上げた姫から逃れ、神野は息を吐いた。
「変態っ、兄さんはアホですか!」
「っと、うわ危ないな! 冗談だって!」
姫は落ち着こうと何度も息を吸い、吐く。その行為を繰り返すうち、立ち上った真っ白い呼気も消えていった。
「もう、先生はおばあちゃんですよ。私なんか孫みたいに扱われてます」
「そりゃ良かった。……挨拶とか行かなくても大丈夫か?」
「心配性ですね。大丈夫ですよ。それより、私は兄さんが心配ですから」
また始まった。神野は表情には決して出さず、げんなりとする。
「勤務外なんて危険なアルバイトは辞めてください。即刻、今すぐ。父さんたちに黙っていられるのも限度があります」
「分かってるよ」
「何がですか。本当なら、兄さんが入院した日に全て言おうと思ってたのに。兄さんがあんまりにもうるさいから、お情けで黙っててあげたんですよ」
それも分かっている。神野は溜め息を一つ吐いた。
「いつ死んでしまうともしれない。そんなところに家族のいる、私の気持ちが分かるって言うんですか」
「……辞めるつもりはない。俺は、もう、嫌なんだよ」
守れなかった。がしゃどくろから発せられた怨嗟の声はまだ耳に残っている。皆を守りたかった。握った竹刀は、やはり軽かったのだろう。命を掛けるには、命を賭すには、命を奪うには、あまりにも軽かった。
「誰かがやらなきゃ駄目なんだよ。矢面に立たなきゃ、誰も守れない。皆、死んじまう」
「兄さんがやらなくったって代わりは見つかります。兄さんがやる必要はないんですよ」
「俺は俺だ。代わりがいてたまるか。……俺は、お前も守ってやりたい。危険だけどさ、でもな」
頭を撫でられた姫は俯き、肩を震わせる。
「兄さん、兄さんは誰に守られているんですか」
「……え」
「兄さんの事は、誰が守ってくれるんですか。そんなの、納得いきません。兄さんだけが危ない目に遭う必要なんか……!」
「……心配ないって。俺より凄い人もいるし」
言い掛けて、神野は息を呑んだ。フツノミタマを手に入れた。しかし、武器をもらった、などと口にすれば姫は尚更怒るだろう。往来だからこそ声を押さえているが、臨界点を越えた彼女は烈火よりも凄まじい。
「まだまだやりたい事はある。死ぬつもりはないよ。そうだな、姫が結婚して、俺は式場で祝辞読んで泣くの。それまでは死ねないな」
「じゃあ、私が死ぬまで死ねませんね」
「はあ? お前、まさか結婚する気ないのかよ」
「高校一年生を捕まえて……。あ、いえ、でも、もう結婚は出来るんでした」
神野は満足そうに頷く。
「兄に晴れ姿を見せてくれ」
「兄さんが結婚する方が先でしょう。それまでは心配で心配で、そんな事考えられませんね」
「何言ってんだよ、自分の事だけ考えてりゃ良いんだ。好きな奴とかいないのか? とりあえず顔見せろ連れてこいよ、ぶっ飛ばすから」
笑顔で物騒な事を言い放つ神野に、姫は呆れるしかない。
「そんな人いません。いたとして殴るのを前提の兄に紹介する筈ないでしょう。それよりも、頼りない兄さんである事を自覚して欲しいですね。そうすれば、私だって色々と考えられますから」
「大丈夫だって」
「じゃあ、お昼ご飯は兄さんにお任せします。食事の用意だって、大丈夫ですよね?」
「……いや、それとこれとは話が違うんじゃないか」
「同じです」きっぱりと断言し、姫は神野を強く睨みつける。彼はぐうの音も出なくなり、後はもう折れるタイミングを見計らうしかなかった。
神野たちと交代してフロアに立ってから一時間が経過した。一はふと、忙しそうにモップを掛けるナナを見た。彼女はその視線に気付いてにっこりと微笑む。
穏やかだった。
何事もなく、何も考えず、思わず。ただ時間だけが漫然と過ぎていく。これが普通で、日常で、あるべき幸せの形なのだろうか。そんな事を思った時点で、一の穏やかな時間を終わった。
「マスター、マスター」
「なーにー?」
店内には一たち以外に誰もいない。少しばかりうるさく声を張り上げても咎める者などいなかった。
「神野さんの武器、ご覧になりましたか?」
「武器って、前に言ってた新しい奴の事か? いや、見てない。もう出来たの?」
「当然です。オンリーワン技術部の科学力は駒台一ですからね。その武器、中々のスペックを誇るらしいですよ。どうですかマスター、これを機に勤務外を辞退するというのは」
「……まだ言うか」
モップを掛ける手を止め、ナナは静々と頷く。
「マスターが勤務外を止めれば、私の心労は一つ減るのです。神野さんに後を託して、私たちは二人仲良くレジを打っていましょう、そうしましょう」
「俺はともかく、ナナは戦闘に駆り出されるだろ」
「拒否します。その為ならナナは戦闘行為も辞さないつもりです」
「戦うのが嫌なのに戦うのか? 元も子もねえじゃん」
「内向的なロボットアニメの主人公しかり、ですね」
「最近はそればっかな気がするけどな」
「では、マスターが熱血になりますか」
嫌だった。一はおでん鍋の蓋を開けて、立ち上る湯気を顔で受ける。
「熱いより冷たい方が良い」
ナナは作業に戻りながらも、一の話に耳を傾けていた。
「夏はお嫌いなのですか?」
「夏っつーか、夏の太陽が。無駄にぎらぎらしやがってさ、盛ってんじゃねえっつーの」
「では、十万馬力のナナがロケットを抱えて太陽を打ち砕いてきます」
「うん、よろしくー」
言いながら、一はあくびを噛み殺す。仕事の殆どをナナが奪ってしまったので、彼には目下する事がない。相手をする客も中々やってこないのである。しかし、自ら何かしようという気にもなれなかった。する事がないなら店周辺の掃除にでも行けば良いのだろうが、激務が続いたせいかのんびりとしていたいとも、彼は思う。
「ソレ、もうちょっと考えてくれれば良いのにな。こっちの都合関係ないんだな、本当」
「はあ、しかしマスター、お言葉を返すようなのですが、マスターが首を突っ込まなければよろしいのでは?」
「性分なんだよ、多分」
「文句を言うのはどうかと思いますけれど」
「それは間違いなく性分」
文句を言って弱音を吐いて愚痴を垂れ流す。そうでもしなければやり切れなくて、そうしない人間は果たして人間なのだろうかと一は思った。
「不平不満を口にしないでどうすんだよ。ナナだって何かあるんじゃないか。店長に言いたい事とかさ」
「いいえ、私はありません。こうしていられるだけで幸福なのですから、不平不満などとは、神罰が下ってしまうでしょう」
「下せるもんなら下してみろってんだ」
昼食を食べ終わった後、神野は椅子に座ったままぼんやりとしていた。テレビを点けてはいるが、何も頭に入ってこない。姫が洗い物の為に水を流す音しか入ってこない。
学校が始まるまではこんな日々が続いていくのだろう。アルバイトでレジを打ち、時にはソレを討ち、それ以外には殆ど何もしない。……戻れないかもしれないと、神野はうっすらと感じていた。あまりにも刺激が強過ぎる。血の香は、肉を切断した感触は、圧倒的な殺意と敵意と戦場の空気は、強烈過ぎた。既にあてられている。非日常に足を突っ込み首を突っ込んだ。それは彼の日常に溶け込んでいる。学校が始まったところで、古い日常に埋没出来るだろうか。もう、物足りなくなっているのかもしれない。
「兄さん、夕方からもアルバイトへ行くんですか」
「ん、ああ、そうだよ。晩飯、適当に食っといてくれ。帰りは十時回るし」
「私も塾がありますから、帰りは十時より少し前になると思います。構いませんよ、兄さんの分も用意しておきます」
姫は洗い物を終えてエプロンを脱ぐ。彼女は冷蔵庫の中身を確認して、納得したように頷いた。
「悪いよ、疲れてるだろ」
「一人分も二人分も手間は変わりませんよ」
「そうか? じゃあ、悪いけど頼むな」
「ええ、頼まれました。……兄さん、アルバイトは忙しいんですか?」
神野はテレビの音量を落として、ううんと低く唸った。
「あんまり。お客さんも多くは来ないし、今日は三人シフトだしな。むしろ仕事の奪い合いになるかもしれない」
「ふうん、そうなんですか。兄さんは仕事、出来るんですか?」
「馬鹿にしやがって」
「だって、家にいる兄さんを見ていたら、とてもじゃないけど真面目に働いているなんて……」
くすくすと笑い、姫は神野の対面にある椅子を引く。
「しっかりやってる、つもりだよ。まあ、こないだはすげーミスしちまったけど」
「人間は失敗を繰り返して成長するのです。同じ失敗を繰り返すのはどうかと思いますけど」
「言うようになったじゃないか」
「先生の影響かもしれませんね」
ふうんと呟き、神野は頭に手を遣りながら立ち上がった。
「仮眠してくる。五時前になったら起こしてくれないか?」
「睡眠するつもりじゃないですか。……ええ、ええ、ちゃんと起こしてあげますよ。その代わり、一発で起きてくださいね」
何を一発なのだろう。聞くのは躊躇われて、神野は礼だけ言って自室に戻った。
下せるものなら下してみろとは言った。しかし、売り言葉に買い言葉を返すのがいささか早過ぎではないだろうか。これが天罰なのか、あるいは自分たちを成長させる為の試練なのか。どちらでも大した違いはないので、二度とくだらない事は口にすまいと一は誓った。
「ソレが出たそうだ。犠牲者は二人、年のいった夫婦らしい。良かったじゃないか、どうせ老い先も短いんだから」
「ひでえ」
「真理を口にしたまでだ」
バックルームに集められた一、立花、神野の三名は店長の話を聞いて締まりのなかった表情を引き締める。
「店長さん、今度のソレは? どんな奴なの?」
立花の問いを受け、店長は情報部から送られてきているレポートに目を向けた。
「牛人間、だそうだ」
「猪の次は牛ですか。なんでしょう、鍋ものばっかですね」
「だったら次は鴨か、豚か……うーん、私は鴨派だな」
「ネギ背負ってたら大笑いですね」
一と店長には余裕があるように見えて、ない。少なくとも一には欠けらだってなかった。彼が軽口を叩くのは半ば自棄になっているからである。
「ま、牛頭か、ミノタウロスってところだろうな」
「ごず? ねえねえ、けん君、ごずって何だろね」
「……さあなあ」
立花は年齢の割に無防備だった。彼女は神野に顔を近づけて無邪気に笑っている。良いぞ、もっとやれと一は内心で応援していた。
「牛の頭で牛頭だ。馬の頭に馬頭もいる。二匹揃って地獄の獄卒だ。片方だけ出てくるってのは珍しい。得物から考えても、やはりミノだろうな、ミノ」
「んな牛肉の部位みたいに。って、ソレが得物持ってんですか」
「半分は人間だからな」
店長は煙草に火を点けて紫煙を吐き出す。
「剣とかかなあ?」
何気ない立花の呟きに神野がぴくりと反応していた。
「両刃の斧だ。……ミノタウロスはギリシャの怪物だ。クレタ島の迷宮、ラビュリントスの最奥に閉じ込められている。そいつを食わせる為に生け贄も捧げられていたらしい。ま、最後には殺されるんだが」
「迷宮ねえ。その牛男は駒台のどこに現われたんですか?」
「目につくものを手当たり次第に壊しながら、北部の商店街へと向かっているそうだ。住民の避難は間もなく完了する」
「……あの辺、結構入り組んでますね。物陰から鉢合わせなんてごめんですよ」
一は思う。迷宮から出てこられたというのに、わざわざ入り組んだ場所に進むソレを。帰巣本能とでも呼ぶのだろうか。長く迷宮にいたせいで、ミノタウロスは似たような環境を探しているのかもしれない。何にせよ、皮肉っぽい話ではある。
「心配するな、破壊された看板やらが道しるべになっているだろうよ」
「あの、店長」神野が遠慮がちに口を開いた。店長は彼に目を遣る。
「今回は、誰が行くんすかね」
「……誰が行きたいのかは分かっているがな」
罰が悪そうな表情で神野は俯いた。
「誰が行きたくないのかも分かってまーす」
一は手を上げ、自信ありげに言う。
「……立花、お前はどうしたい?」
「えっ、ボク? えーと」
立花は少し考え、にっこりと笑って一の腕を掴む。
「三人で行こうよ! 皆がいた方が心細くならないよ、絶対」
「えー、俺はやだなー」
「えーっ!? 行こうよ行こうよ行こーよー」
一は、無責任ながら戦いたくなかった。どうせなら立花と神野に任せて、二人の仲が進展するのを陰から応援していたいのである。それに、三人全員を出動させるのは店長が許してくれないだろう。
「じゃあ三人で行ってこい」
「はーいっ、やったあ、皆一緒ね!」
一は驚きを隠しきれなかった。と言うか今にも店長に詰め寄ろうとしていた。
「ぜっ、全滅したらまずいじゃないですか。それに、レジは誰が打つと……」
「ナナが残ってるから、別に良い。レジも堀を呼ぶから構わん。それよりも、お前ら油断はするなよ。もう一度入院したいってんなら別だがな」
「マジっすか!? マジっすか店長! マジっすかー!」
混乱と落胆とが入り交じった一のボキャブラリーは著しく乏しくなっていた。
「相手は武器を持った狂暴な牛男。ぶちのめすイメージはしっかりな。はい、準備急げ。急いで出勤だ」
店長は手を叩いて一たちを煽る。立花と神野は制服を脱いで、各々の得物をしっかりと握り締めた。
「……うわっ、けん君の武器が箱になってる!」
「箱じゃねえって。楽しみにしとけって言ったけど、早速機会が来るとはな」
「良し、十時までに片をつけろよ。一、お前は少しだけ残れ」
「マジっすかー」一の頭に空き缶が命中する。
「だらだらするな馬鹿が! お前らもさっさと行け!」
「いっ、いってきまーす!」
とばっちりを恐れた立花たちは駆け足でバックルームを飛び出していく。
「……で、何でしょうか」
一は制服をハンガーに掛けてコートを羽織った。既に、彼の手にはアイギスが握られている。
「全員を行かせたのは、仲良くだらだらさせる為じゃないぞ」
「分かってますよ。でも、俺はあくまでフォローって事で良いんでしょう?」
「良く見といてやってくれ。あれからまだ一週間と経ってないんだ。剣が上手く使えるとはいえ、まだ十代のガキだからな。いつ折れてもおかしくはない」
「十代舐めてるとえらい目に遭いますよ、店長」
店長は喉の奥で笑みを噛み殺した。一は苦い顔でそれを受け止める。
「それより、ミノタウロスについてもっと何か、こう、ないんですか」
「何かとは何だ。抽象的に喋るな、もっと具体的に言え」
「弱点ですよ、弱点」
「知るか。第一、まだミノタウロスだと確定した訳ではない。余計な情報を与えて混乱するのも馬鹿らしい話だ。その場その場、臨機応変に動いてナンボの勤務外だろうが」
一理あるが、面倒くさがっているだけではないのだろうか。一は疑いの眼差しを店長に向けるが、彼女はその視線を涼しげに受け流す。
「やばくなったら逃げ帰ってきても良い。とにかく、まずは相手の正体を確かめろ。出来るなら、確かめるまでもなく殺せ。それが一番手っ取り早い」
「分かりましたよ。そんじゃ、行ってきます」
「ああ、行ってこい」
店を出た一は先行した立花たちに追いつこうと早足で商店街へと向かっていた。が、彼女たちは少し先で一を待っている。嬉しいが、後で店長に怒られないかが心配だった。
「はじめくーん、店長さんと何をお話してたの?」
「大した事じゃあないよ。それよりも待たせたみたいでごめんね、二人とも」
「問題ないっす。それより一さん、商店街でやり合うんすかね」
神野の問いに、一は腕を組んで思考する。
「どうだろ、完璧、向こうの出方次第だと思うけど。ただ、被害がでかくなるのは避けたいね」
「狭いところで戦っても、前の奴みたいな事になると思うんですよ」
「ああ、なるほど」神野が言っているのは、ムシュフシュ戦での失敗の事だろう。一たちにしてみれば、数の利を活かせず、地の利を活かされた苦い戦闘だった。
「路地の奥まで入り込まれてちゃあ面倒だね。広いところまで引っ張ってこられりゃ良いんだけど」
三人は歩きながら、待ち構えているであろうソレについて話し合う。
「牛男って、何なんだろうね。斧を持ってるって言ってたけど。……強いのかな?」
ソレに殺されたのは老人が二人。相手の強さを計るには頼りない物差しである。
「実際、見てみないと分からないか。二人とも、無理は駄目だからね。誰か一人でもやばいって思ったら、その時点で逃げに移るよ」
「でも一さん、俺たちがソレを何とかしなきゃ、街の人たちは……」
「気持ちは分かるけど、俺たちだってその街の人間だよ。生きてりゃどうにかなるんだし、命を大事に。うん、これでいこう」
慎重なくらいが丁度良いと一は思っていた。何せ、本人が分かっていないくらいに神野は浮かれている。否、浮かされているのだろう。彼が手に入れたという、新しい力に。頼もしいが、過信は出来ない。道具ではなく、使う者に不安があったのだ。