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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
ミノタウロス
194/328

チェリーボーイ

前書きです。ごめんなさい。

最近は鋭角で突っ込んでくる質問、感想をもらえて嬉しい限りです。何だか試されているような気さえしてきます。お話の中ではないので深くはお答えできないような質問もありますけれど、皆さんありがとうっ。でも感想欄でのネタバレだけは勘弁な! ちょっとだけでもボカしてもらえると感涙ものです。

前書きでした。ごめんなさい。そんな訳で、どうぞ、ごゆっくり。


 

 最近、兄は変わったように思う。

 朝は一人で起きられるようになったし、子供っぽい事を口にしなくなった。目を離せばすぐにどこかへ行ってしまう。遅い時間に汗だくになって帰ってきたかと思えば、そのまま一言も口を利かない日もあった。彼の顔つきは、いつの間にか大人びているように、ひと皮剥けたようにも感じる。

 変わって、しまった。否、変えられてしまった。

 その原因を知っている。分かっている。兄が変わったのは、あいつのせいだ。許さない。

 兄が勤務外店員だなんて危険なアルバイトをしている事を両親は知らない。彼が入院した時だって、見舞いに来たのは最初の一日だけ。知っているのは自分だけだ。何度も辞めてと訴えた。その度に、兄は辛そうに目を伏せる。誤魔化すように笑って、心配ないと嘘を吐くのだ。

 気付けば、鏡の前の自分が恐ろしい形相になっている。睨み付けるような、自分でも目を背けたくなるような、獣のような目だった。

「……兄さん」

 神野姫は目を瞑る。百歩譲って、変わってしまったのは仕方がない。兄が無事に帰ってくれればそれで良い。……兄を変えた、あいつが許せない。あいつさえいなければ、あいつさえ駒台に来なければ、彼女が、兄と出会わなければ――――。



「相変わらず、寂しい部屋なんですね」

 馴染みの警備員と挨拶を交わし、気が狂いそうになるほどの長い階段を下り、そこに辿り着く。エレンの部屋に入るなり、一はそう告げた。

 エレンは室内だと言うのにフードを目深に被っており、彼女の顔は殆ど隠れて見えない。エレンの整った鼻梁と艶やかな唇が覗くだけだ。

「あら、酷い事を言うのね。なら、ハジメがこの部屋を華やかにしてちょうだい」

「俺に華を求めますか」

 ビニール袋を机の上に置くと、一は無造作に椅子を引く。コートを脱ぎ、椅子の後ろにかけた。

「ハジメの周りにはたくさんあるじゃない。最近のあなたの活躍ときたら、目覚しいものがあるわね」

「知ってるんですか?」

「聞いたのよ。その後、どうかしら、体の調子は?」

 尋ねられているのは身体的な事ではない。メドゥーサの事を聞かれているのだろう。そう思った一は少しだけ考えて、相好を崩す。

「良いと思います。……それから、大した事じゃないと思うんですけど」

「聞かせてくれるかしら?」

 エレンの相槌は心地良い。ついつい、一は彼女の反応を確かめてしまうのだ。

「煙草を、その、吸いたくなった時があったんです。と言うか、今もちょっと」

「……煙草を?」

 ふうんと、興味深そうに呟くと、エレンは白魚のような指を宙に泳がせて、両手を胸の前で組んだ。

「譲歩してくれたのかしら」

「譲歩って、メドゥーサが、ですか?」

「煙草を吸っても良いですと、ハジメを主として、いいえ、パートナーとして認めてくれたのかもしれないわね。飲み込んで吸収するのではなく、共に歩みたいと思っているのかも。いじらしいじゃない」

「うーん? そう、なんですかね」

 嬉しいような、嬉しくないような。複雑な気持ちだった。持て余した感情が一の中で揺れ続ける。

「本人に聞いてみたらどうかしら?」

「そんな簡単に……。とりあえず、悪くはないって事で良いんですかね」

「ええ、心配はいらないようね。私も肩の荷が下りたわ」

「心配してくれてたんですか?」

 エレンは愉しげに口元を歪ませてから一を見遣った。

「いけない?」

「まさか、光栄ですよ。それより、エレンさんのお陰で、またここに来れました」

 彼女の助言がなければ、自分は死んでいたのだろう。一は頭を下げて、つまらなさそうに頬杖を突くエレンを見る。彼は落胆した。

「そういう話は結構よ。もっと面白い話をしてちょうだい」

「ゴルゴンの話は?」

「蛇は飽きたわ。その次は、大きな人形が暴れたって話だったわね」

 エレンにかかれば、太陽と呼ばれたタロスすら人形扱いである。

「だったら、『円卓』って知ってます?」

「まあるいテーブルの事かしら? ふふ、違うわね、ハジメが聞きたいのはもっと別の『円卓』なのだから」

 知っていたか。一は頭に手を遣って、目の前の女が何者なのか考える。この部屋に来る度、いつも。その度に、無駄だと思い知るのだ。

「でも、私の口からは言えないわね。私は助言者であって預言者ではないんだもの。だから、済んだ事については教えてあげましょう」

 机の上に置かれた女性誌に値踏みするような視線を向けると、エレンはさんざ迷ってからティーンズ向けのファッション雑誌を手に取った。

「ハジメは既に『円卓』のメンバーと出会っている筈よ。気付いていないのかしら」

「気付いてますよ。自分が『円卓』だって言う侍と出会いましたから」

「ああ、テュールね」事もなげにエレンは言い放つ。

「でも、彼だけじゃないでしょう?」

 一は物言いたげな表情を作るも、話の続きを待った。

「ハジメは青髭には会っていないけれど、彼の関与した事件に巻き込まれている」

「青髭って言うと……ああ」ヤマタノオロチ。そこで、山田が出会ったと言う老人である。青髭はテュールと同じく、自身を『円卓』のメンバーだと言っていたそうだ。

「それから、ゴルゴンね」

「……は?」

「あら、まだ知らなかったの? そうよ、ゴルゴンは『円卓』の第三席。名乗らなかったのかしら」

 聞いてない。一は頭を抱えて、自分が何を相手にしていたのか改めて思い知る。

「生きてて良かった……」

「あなた、とんでもない事をやってのけたのよ? もっと別の反応があっても良いと思うわ。まあ、そこがあなたらしいと思うのだけれど」

 エレンはクッキーの包み紙を開けて、一つ、口の中に入れる。それを胃に収めた後、彼女は何でもない風に口を開いた。

「あと、三人。少なくとも出会っている筈だけど」

「何ですって?」

「三、人。ハジメは『円卓』のメンバーを三人、知っている、見ている筈よ」

 三。その数ははたして多いのか少ないのか。混乱した頭で思考を始めるも、まともな回答は得られそうにない。

「それは、誰なんですか?」

「ふふ、秘密」

「命に関わる事だと思うんですけど……」

「あら、私には関わらない事だもの」

 一は憂鬱そうに溜め息を吐き、何か思いついたかのような表情を浮かべる。

「俺が死んだら、エレンさんに差し入れする人がいなくなりますよ」

「大丈夫よ。ハジメはそんな事で死なないもの」

「だったら、せめてヒントだけでも」

「最初からヒントを欲しがるなんて、必死なのね。可愛らしいわ」

 だから命が掛かっているのだ。必死にもなる。一はそれでも口ごたえを我慢した。

「ヒント、ヒント。『円卓』に関するヒントが欲しいのかしら?」

「何でも良いです! とにかく、俺は今後どうすれば良いのかって」

「ふふ、欲しいのね。ほら、言いなさい。お口に出していっちゃいなさい」

「あっ、ああ……ほ、欲しいです! いっちゃいます! ってエロイよ!」

 エレンは手の甲を口元に当ててくすくすと笑う。

「何言ってんですか、もう。良いです、今日は帰ります」

「えー、帰るのー?」

「急に子供っぽくならないでくださいよ」

 一は椅子から立ち上がってコートを羽織った。

「……私からは、とにかく気を付けてとしか言えないわ」

「あなたは、『円卓』なんですか?」

 奇襲をかけたつもりだった。不意を衝いた質問で、エレンがどんな反応をするのか見たかったのである。

「ふふ、内緒よ」

 やはり敵わなかった。



 タルタロスを辞してすぐ、こちらに向けて頭を下げ、手を振る人が見えた。一は手を振って返そうか迷って、結局は何もせず小走りで近づいていく。

「お帰りなさいませ、マスター」

「……何やってんだ?」

 ナナは一の体を舐め回すように見た後、薄く笑んだ。

「マスターがこちらにいらっしゃると聞いたものですから、お迎えに上がろうかと」

「ずっと、そこにいたのか?」

「ええ、あちらの警備の方たちとお話を……はっ、まさか嫉妬してくださるのですか? ご安心を、私は一途なメイドですから」

 一はちらりと後ろを見る。タルタロスの警備員が一たちに手を振っていた。

「……お疲れさま。ナナ、今日はバイト休みだったっけ」

「午前中はマスターと同じでお休みをいただいております。午後からは、神野さんたちと私たちが交代ですね」

「ふーん。じゃあな、俺は一旦帰るから」

「お供します」しなくて良い。一は嫌そうに手を振って追い払おうとするも、ナナはにこにことして全く動じていなかった。

「マスターのお昼ご飯を作らせてください」

「えー、一人でゆっくりさせてくれよ」

「私の事は空気とお思いください。でも本当に無視されると辛いので、たまには構ってください」

 存在感のある空気宣言である。

「ところでマスター、南駒台の方々はどうなったのですか。あれから、私は事の顛末を聞いていないのです」

「あー、ヒルデさんとシルトは謹慎処分になったんだってさ。別に、それ以外は変化なし」

「温い処分では? 磔刑にして火炙りの後、斬首をしてもまだまだ生温いと思いますが」

「おお、こわいこわい」

 処分と言うか処刑だった。ナナの物騒な発言を聞き流して、一は手と手を擦り合わせる。

「南の戦力はまたもやダウンですね。この調子で潰れてくれないものでしょうか」

「つーか、オープンしてないのに問題が起こり過ぎ。他人事ながら心配になってくるよ」

「それに比べて私たちには戦力アップときたものです。実は、神野さんの武器が完成したのですよ」

「そうなのか。そりゃあ、良かった」

 そう言う一はどこか不安げである。ナナは彼の表情に目ざとく、心配そうに一を見つめた。

「何かご不満な点でもありましたか?」

「いや、ただ……」

 武器は覚悟だ。戦場に行き、そこで敵を打ち倒す。神野はその資格を手にしてしまったのだ。もう、後戻りは出来なくなる。

「……ただ、アレだ。羨ましいだけだよ。新しい武器なんて、かっこいいじゃないか」

「マスターにも、後々プレゼントをお渡しする機会があるかと思います。それまでは我慢してくださいね」

「ああ」

 武器を望んだのは、覚悟を決めたのは、戦場を選んだのは神野自身なのだ。何を言ったところで、過ぎた事は終わった事である。

「楽しみにしとくよ」

 新たな武器が神野の力になってくれれば良い。どうか慢心せず、道具を扱うのは人間なのだと、それを忘れないで欲しい。一はただ、それだけを願った。



 さく。ぐさ。ずば。ざくり。

 物を切る時に生ずる音は様々だ。聞く者によってそれは変わる。十人十色、多種多様にごった返すものなのだ。

布都御魂(ふつのみたま)、知ってるかい?」

「……聞いた事ぐらいは」

 神野はオンリーワン北駒台店の店先で、初対面の男から長々と話を聞かされていた。

 その男はオンリーワン近畿支部の技術部、天津と名乗っている。ナナの生みの親との事だが、彼女を訪ねるならともかく、自分を、それも突然尋ねてきた理由が神野には分からない。

「日本神話において、建御雷神(たけみかづちのかみ)が葦原中国を平定した時に用いた霊剣だよ。その後、高倉下が新武天皇に渡したとされる……素晴らしい力を秘めた剣だね」

 前置きは殆どない。

『君が神野君?』

『はい、そうですけど、えっと、あなたは』

『僕は天津。ナナの父親だよ。オンリーワンの技術部に勤めてる。で、君はフツノミタマって知ってるかい?』

 いきなり、いつの間にか始まっていたのである。神野はただただ頷くしかない。

「なら、経津主神(ふつぬしのかみ)は?」

「聞いた事もないです。って、あの、これって何の話なんですか?」

「まあまあ、若い内から焦っていても仕方がないよ。話を聞いてくれたまえ。で、フツヌシノカミってのはね、刀剣の威力を神格化した神なのさ」

 刀剣と聞かされれば、少しは興味が湧く。神野は天津の続きをじっと待った。

「フツ。これ、何の事か分かるかい?」

「ふつ、ですか? ……仏様?」

「んー、残念。正解はね」

 天津はスーツの内ポケットからカッターナイフを取り出す。どうしてそんなものを持っているのか神野が尋ねる前、

「こう」

 彼は、カッターナイフで宙を切り裂いた。が、何が切れるわけでもない。何かを切ったという、その動作を真似ただけである。

「こういう事。フツってのは、刀剣で物がぷっつりと断ち切られる様を表しているんだ。つまり、フツヌシノカミは刀剣の神様でもあるし、そもそもが、フツノミタマを神格化したものとも言われている。だから、フツノミタマは神様と同格なのさ。分かる?」

「は、はい。何となく、凄いって事が」

「神話、伝承の刀剣って、数が多いよね。僕も迷ったんだよ」

「迷ったって……?」

 天津はカッターナイフを懐にしまうと、困ったように頭を掻いた。

「君、覚えていないのかい? 僕たちにお願いしただろう?」

 めぐりの悪かった頭に血が廻り始める。神野は息を呑み、縋るように天津を見つめた。

「察しがついたようだね。そう、君に頼まれていた君の武器、完成したよ」

「本当ですかっ?」

「ああ、僕たちは仕事に対して嘘を吐けないからね。それで……ああ、もう釘付けって感じだね。うん、このジュラルミンケースに、君の武器が入っているんだ」

 天津は足元に置いてあったケースに視線を向ける。

「やはり、日本人には日本の剣が似合うと思ってね。フツノミタマ、それが君の新しい力さ。一つ、勘違いして欲しくないのはオリジナルではないってところだけど」

「オリジナル?」

「まあ、鹿島神宮から持ち出す訳にはいかないし、アレは既に骨董品の域にある。実際に武器としては使えないよ。心配しなくても良い。本物ではないけど、本物以上だよ」

 ケースを開く。そこからは、黒い箱のようなものが現れた。剣とはいささか離れ過ぎではないか。そんな、不安げな神野を見て天津は薄く笑む。

「心配しなくても良いと言ったじゃないか」天津は、箱についた取っ手のような部分を握った。それを持ち上げると、グリップのついたロープがだらりと垂れ下がる。

「君、死霊のはらわた、悪魔のいけにえは見た事ある?」

 名前だけで判断するに昔のホラー映画だろうか。見た事がなかったので、神野は素直に頷いた。

「そうかい。残念。でも、チェーンソーは知ってるだろ?」

「……あ」

 どこかで見た事があると思ったら、天津が持っているのはチェーンソーの、柄に当たる部分である。

「まさか、俺の武器って……」

「ははっ、いやいや、それはないよ。実際、チェーンソーなんかじゃ人間は切れないからね。……見ててくれ」

 天津はグリップを強く引っ張る。

「……あれ? っと、一度じゃ……このっ」

 何度もグリップを引っ張る内、甲高い駆動音が轟いた。神野は思わず耳を塞ぎ、周囲を確認する。

「うん、成功だ。こうやってグリップを引っ張ると、クランクシャフトが回転してエンジンが始動する訳だね。勿論、スターターとクランクシャフトはワンウェイクラッチを介して結合済みだよ。これは当たり前かな。で、こうやって何度も引っ張る。その度に出てくるから。伸び切るまで引っ張って。あ、音は我慢してよ。ああ、引っ張り過ぎには要注意だ。いっぱいまで引っ張っちゃうと、ロープが戻る時、危ないからね。ゆっくり、そっと戻してくれたまえ」

 説明は聞こえていない。

 グリップが引っ張られ、エンジンが駆動する度に、柄の部分から姿を覗かせるものに、神野の心は奪われていた。

 それは、鋸などではない。一切の反りが見られない、まっすぐな刀身だ。

「刀身だけで二メートルはあるから、出し切るまでにちょっと時間は掛かるけど。威力は、申し分ない」

「かなり重いんじゃないですか? それ、思うように振れないと思うんですけど」

「いや、まあ、重いけど、それでも出来る限りの軽量化はしてある。強度重視で作ったから、そりゃ普通の得物よりは重量あるよ。でも、君なら振れそうだね」

 天津の手はぷるぷると震え始めている。

「ここが、技術屋の限界体力さ」格好付けて言うも、神野はリアクション出来なかった。

「仮に上手く振れなかったとして、多少の誤差は関係ないね。当たれば、まず致命傷は避けられないだろうから。見てみなよ、この刀身。凄いよ。肉を抉るのは当たり前、骨までかるーく持ってくよ」

 見れば分かる。ある種冗談だろう。これは果たして武器と呼べるのか。刀剣と呼べるのか。危うい域にまで達している。

「ウチのミスのせいで完成が遅れたけど、その分、技術部の粋を集めたつもりだ。こうして、一応はそこの長たる僕が出張ってきたのも分かるだろう? 見たいんだよ、自分たちの作ったものを託す、その人間ってのをね」

 にっこりと微笑まれる。神野はフツノミタマを見遣り、手を伸ばし掛けた。

「……本当に、こんなものをもらっても良いんですか?」

「ん? 勿論だよ。僕たちはこういうのを作るのが仕事だ。そして、これを使うのが君たち勤務外の仕事だろう。はい、持ってみたらどうだい」

 差し出されたフツノミタマを凝視して、神野は手を伸ばす。

「この剣、またの名を平国剣ことむけのつるぎというんだけどね。一振りすれば国中を平和にするって、そういう意味が込められてる。……君にも、この国を平和に出来ると良いね」

 神野は頷き、フツノミタマを掴んだ。しっかりと、その手中に収めたのだ。



 ご飯を作ってくれるのも、掃除をしてくれるのにも不満はない。だが、やはり落ち着かない。居候の糸原は家事など滅多にしない。と言うかしない。なので、一以外の誰かが彼の部屋で働いている事が、一にストレスを与えている。こたつで寝転がるだけのくせに、ナナがいては気が休まらないとも思ってしまうのだ。

「ちょっと出てくる」

「…………では、お早いお帰りを期待しております。あと少しで、シフトに入らなくてはなりませんから。遠出はご遠慮くださいね」

「あいよ」

 ナナは一緒に行きたいと言おうとしていたのだろうが、目の前の家事を投げ出すのを躊躇ったのである。尤も、一はそこに付け込んだのだが。

 ともあれ、一は僅かに自由な時間を得られた。少しばかり気が軽くなるも、行く当てはない。彼はアルバイトに間に合うように、その辺りをぶらつこうと思った。

 そして、彼と出会った。

 路地裏に座り込んだ彼は口にソーセージを銜えている。どこで手に入れたのか、美味そうにそれを食んでいた。

「……よう」

「ん。ああ……」

 食事を邪魔されたせいか、物憂げに顔を上げるのは灰色の毛をした犬である。否、彼は犬ではなかった。コヨーテである。久しぶりの再会に、一の頬が緩んだ。

「良いもん持ってんじゃねえか」

「欲しいのかい?」

「いらねえ」

 コヨーテは残りの肉を丸呑みして、満足そうに喉を鳴らした。

「久しぶりだなリトルボーイ。どうだい、その後嬢ちゃんとは?」

「いや、それがだな……」

 コヨーテはまだ知らなかったらしい。一は暴力を具現化したような少女の話をする。コヨーテは目を瞑って口を挟まずに話を聞いていた。

「ミーが新しい餌場を探している間にそんな事が起きていたって訳かい。随分とスリリングな経験をしたものじゃあないか。エレクトリカルなパレードよりも楽しそうだ」

「アトラクションで済むならそれで良いよ。こっちはマジ、リアルに殺されそうだったんだからよ」

「ま、嬢ちゃんが無事なようで何よりだ。……しかし、とんでもないモンスターだな。狼男が可愛く見えるぜ」

「全くだよ」一は溜め息を吐いてみせる。

 コヨーテはゆっくりと寝そべり、ぱたぱたと、尻尾で体を叩いた。

「そいつに比べりゃ、ミーのキャッチしたソレなんざ大した事ないな。クラッカーでも鳴らして歓迎してやりたい気分だぜ」

「……ソレがいるのか?」

「ん、ああ、気付いてなかったのか。これだから人間ってのは困る。今後の為にも鼻を鍛えた方が良い」

「壁にしこたま打ち付けろってか」

「は、そりゃあ良いな。是非そうしてくれ、ペーストされたユーの顔を見て、ミーは腹を抱えて笑うとしよう」

 犬のくせに自分よりも舌が回る奴だ。一は返す言葉に窮して、動き続ける尻尾に視線を遣る。

「……お前、さっきから何やってんだ」

「家賃を払わない不届きものを追い出してるのさ」

「ただの蚤だろ。つーか、犬だよな」

 コヨーテはぴくりと眉をつり上げ、一を見据える。

「ミーは犬じゃない。誇り高きコヨーテだ。勘違いしてたら痛い目に遭うぜ」

「痒い目に遭ってる奴が言うか。風呂っつーか、水浴びくらいしろよ。どっかあるだろ。水溜まりとかさ」

「ミーを何だと思っていやがる」

「獣が何を言うか。つーか、何、マジでソレが出たの?」

 あくびして、退屈そうにコヨーテは首肯する。一はがっくりとうなだれた。

「出過ぎ。ついこないだも出たんだぜ。神様ってのはえげつねえよ」

「神の与えたもうた試練だと思いな。ハレルヤ、アーメン。尤も、ミーは無神論者だけど」

「へらず口を。で、どんなんが出たんだよ。何か、弱っちいソレなら助かる」

「さあ、知らないな。ただ、臭うぜ。酷く臭う」

 お前が風呂入ってないだけじゃないのか。野暮な突っ込みを入れようとして、一はやっぱりやめておく。

「獣の臭いだ。それも、かなり強い。隠そうとしても無駄、いや、隠していないらしい。気をつけろよリトルボーイ、相手は愚鈍な馬鹿か、よほどの力自慢らしい」

「……近いのか?」

 コヨーテは鼻を鳴らして口角をつり上げた。

「まだ遠い。この街には、今晩にでも来るんじゃないか」

「近いじゃねえかよ。うわ、マジか。俺の命も今日限りなのか……コヨーテ、手伝ってくれよ」

「ごめんだね。リトルボーイに付き合うなら、ハムを括り付けてサファリバスから降りた方がマシだ」

「人でなし!」

「ミーは人じゃない。ま、頑張りな。ナイターでも見ながらだが、心から応援するよ」

 一は舌打ちしてポケットから煙草の箱を取り出す。

「……吸うのかい?」

「副流煙を食らえ」ライターで火を点けて、たっぷりと紫煙を吸い込んだ。久方ぶりの能動的な喫煙に、一は少しだけくらりとする。

「ああ、うまいわ」

「キャンディでもしゃぶっていた方が健康的だと思うぜ」

「この歳でか? ……ふう。何か久しぶり」

 思っていたよりも辛くない。むしろ、今まで吸わなかった事が不思議でしょうがない。一は肺の隅々まで行き渡るようにイメージしながら煙草を吸った。

「逃げるかい?」

「何で? 別に逃げねえよ」

「何だか、少し見ない間に変わったじゃないか。良い事でもあったのか?」

「煙草がうまい」

「はっは、そりゃあ良い事だな!」

 笑い、コヨーテは四肢を伸ばす。蚤が痒くて、彼は地面に転がった。

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