ブリュンヒルトは彼の甲冑となる
アイギスは万能ではない。
物理的な攻撃、衝撃に対しては絶大な真価を発揮するも、身を守るだけで終わってしまう。攻撃に転ずる事はほぼ皆無だ。
しかし、アイギスには稀代の怪物、メドゥーサが埋め込まれている。彼女が力を行使すれば有象無象の区別なく、万物はその動きを縫い止められ、時には石と化せられる。
だが、メドゥーサとて絶対ではない。その力をアイギスの持ち主が行使するにはいくつかの条件をクリアしなくてはならない。
一つ、声を出せる状態である事。
一つ、視界が良好である事。
一つ、対象の名前を知っている事。
その三つを満たしていない限り、メドゥーサは力を使えない。また、全て満たしたとしても対象の相手によって効力にはムラが出来る。
では、条件を満たさない限りメドゥーサは力を使わないのだろうか。
一は思い出していた。シグルズに対して発動出来なかった力。その理由を。過去にも、何度か失敗した事はあった。だが、今回は違う。全て満たしていた筈なのに、メドゥーサが力を貸さなかった。声は? 視界は? 名前は? 全て問題なかった。考えて考えて、必要ないのだと気付く。
何故なら、メドゥーサは条件を満たさなくても力を使うからだ。
「掴んだぞ」
男がアイギスをしっかりと握り締めたのを見て、一は口角をつり上げた。きっと、彼はアイギスを掴むのだと信じていたのである。男が恐れていたのは一一ではなく、アイギスだ。敵に回したくないモノほど味方につけば頼もしい。力に驕り、力に浸り、力に溺れる者ならきっと欲しがる筈だった。
愉悦に歪んでいた男の顔色が変わっていく。アイギスを掴んだ左腕から、それは巻きついていく。
「……何だ、これは」
男には見えていない。ぼとりぼとりと、アイギスから大小問わず、古今を問わず、東西を問わない蛇が涌きだしているのが。蛇は男の左腕に噛みつき絡みつく。彼は異常を察知してアイギスを手放そうとするが、既にアイギスの柄と男の腕は蛇たちによって繋ぎ止められていた。
蛇姫の怒りは未だ収まらない。蛇は甲冑の隙間という隙間から入り込み、男の体に食らいつく。地面に落ちた蛇は足を、腰を、下半身を締め上げる。
一はヒルデを退かして立ち上がった。自分に近づいてきた蛇を認め、地面を強く踏み付ける。その音に驚いた蛇は男の方へと戻っていった。
「…………何が、起きてるの?」
ヒルデにも、シルトにも、男の身に何が起きているのか分からない。彼女らには、一以外には蛇が見えていないのだ。不可視の何かが男に襲い掛かっている。そんな風にしか捉えられない。
「がっ、おおおお……」
男は戒めから逃れようとして体を動かすが、剥がれていく蛇は殆どいなかった。彼にまとわりつく蛇の数は増えていくばかりで、どこまでも切りがない。
一だけが全てを理解し、把握している。ここは既に彼の掌握した世界だ。一だけが口を開ける。
「触れたな、色男」
「貴様ああああああっ」
メドゥーサは力を使う。使うのだ。アイギスに触れて良いのは女神に選ばれた汚れを知らない者。それ以外のモノが触れれば、こうなる。
逆鱗という言葉がある。竜の八十一枚の鱗の内、それに触れれば激怒を買う。竜ならたった一枚だが、メドゥーサは違う。彼女にとっては全身が逆鱗なのだ。主以外の男が触れる事は叶わない。
「そいつは執念深くて嫉妬深い。悪いけど、逃げられねえぜ」
締めつける力は強まっていく。男の両腕は淡い紫に変色してだらりと垂れ下がっていた。力を込めたくても血液の流れを塞き止められている。両足も地に屈し、彼の呼吸はか細いものに変わり始めていた。
だが、終わらない。
『ああ、主。主様』
声が響く。一にだけ届く儚い声だ。彼は胸を押さえて、済まなさそうに目を瞑る。
『私を捨てるの? 私を裏切るの?』
アイギスが光輝を帯びた。それから、鈍く、暗い輝きを放つ。瞬間、男の背中に今までとは比にならない圧がかかった。
『私を汚れた男に遣るの?』
これだ。だから使いたくなかった。相手の名前を知らなくてもアイギスに触れた対象が汚れていれば問答無用に発動する、言わば、ルールを無視した力の行使。最後の最後に取っておいた切り札である。
「捨てるかよ。悪かったな、メドゥーサ」
顕現が始まった。一にしか見えない。一にだけ見える力の具現。それは、あるいは、哀れな姫の必死なアプローチなのかもしれなかった。
男の背後に、紗幕を通したような輪郭が浮かび上がる。長い髪の毛が風もないのに浮き上がり、彼女の細い指先が彼の首を這っていく。
『……ああ、良かった』
喉に五指、十指が這い、食い込んだ。男は窒息し、その場に顔から倒れこむ。メドゥーサは一に微笑むが、彼は咄嗟に目を逸らした。
倒れて動かない男を見遣って、ヒルデは息を吐く。バーサーカーも、シューも死んでしまった。胸にぽっかりと穴が開いている。それを埋める方法を彼女は知らない。
「……あなたが招いたんだ。あなたがこれを望んだ。そう言われても文句は言えませんよ」
一の言葉は深く胸に突き刺さる。その通りだと断じたヒルデは何も言えなかった。
「あんた、そんな言い方って……」
「…………良いの。シルト、これは、私がやった事だから」
こんな自分を庇ってくれようとしている。シルトの気遣いは有り難かったが、その優しさに甘えたくはなかった。
「…………彼は、シグルズじゃなかった」
「誰だったって言うんです?」
ヒルデはゆるゆると首を振る。
「分からないの。ただ、私の知る人だったのは、確か」
男が姿を見せた時、ヒルデの心臓は強く高鳴った。もう会えない、二度と見られない筈だった顔を見られて、単純に嬉しかったのを覚えている。
ただ、同じなのは姿だけで、何か噛み合わないようなところもあった。彼はシグルズでもあり、ジークフリートでもあり、そのどちらでもなかった。夢のように甘く、霧のように儚い存在だった。それは、自分が思い続けていたから現れたのかもしれない。一時、幻でも構わないと、そう願ったから。だから、この世界に生きる自分を追い掛けてきたのかもしれなかった。
「…………私が弱かったから、皆、死んだのね。んん、違う。私が、皆を殺したんだ」
彼が何者なのか疑問に感じていたのに、追求しなかった。流されずに、もっとしっかりしていれば、誰も傷つかずに済んだ。ルルは怪我をせず、シューたちは死ぬ必要などなかった。悪いのは自分で、罪を背負い、罰を受けなければならないのは自分である。これは全て、甘く、弱い自分が引き起こした事なのだ。
「……私、どうして、死んでないんだろう」
「ヒルデさん、そんな、冗談でも、そんなの、ダメです」
涙が溢れてくる。ぽろぽろと地面に滴り落ち、頬を濡らす。
一は、何も言えなかった。ヒルデが何を思い、考えていたのか。昔の男、その面影に縋っていた彼女に、今を生きる自分では何もしてやれないと思ったからである。結果が、過程がヒルデを苦しめていた。最後の最後で自分を取り戻しても、何一つ実を結ばない。そんな現実に直面した彼女の精神は、もう耐えられないだろう。本人ではない。しかし本物でもあった。愛した男に死なれ、自分を慕っていた者も死んだ。勝手ながら、一は今のヒルデの状況を地獄だと感じる。
「ヒルデさん、今日は、その、良ければ、なんですけど。私の部屋に泊まってってください。……後の事は私に任せて、ゆっくり休んでください」
「…………ごめんね、シルト」
甘えだと、ヒルデも良く分かっていた。それでも、今はただゆっくりと眠りたい。全てを忘れるのは無理だろうが、思いは薄れる。月日が経てば、今日は明日に紛れて風化する。彼女は鎌を掴んで立ち上がった。
「シルト」
「うっ、おあ、何?」
一に名前を呼ばれたシルトは軽くうろたえる。
「お前もヒルデさんと山、下りとけよ。後始末は俺がやっとく。んで、ケータイでさ、ウチの店に連絡させてもらっても良いか?」
「あー、つーか、その、良いの?」
「良い」
シルトは視線をあちこちに向けて躊躇っていた様子だが、決してシューの死体を見ようとしない。仲の良い、その一言では片付けられない間柄だろうに、シルトは気丈に振る舞っている。そんな彼女を、一はこれ以上見ていられなかったのだ。
「じゃあ、お願い」
そう言って、シルトは一に携帯電話を差し出す。
「サンキュー。……あれ、これ、どうやって電話掛けんだ?」
「はあああっ!? フツー分かるじゃんそんなの! うっそ、ケータイ持ってないの? うーわ、ないわ、それ」
「うるせえな、良いから教えろよ」
「だっせー! バーカ、バーカ!」
シルトは一の傍にしゃがみ込み、あれこれと指示を出したり罵声を浴びせたりしている。ヒルデは彼らを優しげに見つめて、目を見開いた。
金属の軋む音が聞こえて、一は首をめぐらせる。倒れた筈の、動けない筈の男が立ち上がっていた。彼は大剣を杖代わりにしてどうにか起き上がったという有様だが、その表情は憎悪に彩られ、悪魔めいた笑みを浮かべている。
男は一を瞥見した後、大剣を振り上げる。
「マジかよ……」
一は座り込んだまま動けなかった。間近に迫る凶器と殺意を捉えてはいたが、何かしようという気にはなれなかった。彼を庇おうとして、シルトが一の体に覆いかぶさる。
「うおお――――――――ご……」
シルトの背中に、ぽつぽつと赤い染みが作られていく。
大剣を構えたままで、男は目を見開いた。
「また、うら、ぎるのか……」
「…………最初から、こうしておけば良かったのに」
男の腹から鎌の刃先が飛び出している。ヒルデは柄を握り、傷口を抉るように動かした。
「ヒルデさん……」
「…………私がこうして、私だけが嫌な思いをすれば良かった」
一たちの側面に立つヒルデは、男を見ようとしない。
「が、わったな、ブリュンヒル、ド……」
「ん、変わった。世界も、人間も。変わってないのは、あなただけだった」
一はヒルデの顔を見られなかった。彼女は一体、どんな気持ちで鎌を手にし、愛した男を貫いているのだろう。
「ぶ、りゅ……」
男は背中を貫かれながらも得物を振り上げようとする。ヒルデは、鎌を一息に引き抜き、彼の甲冑、肩当てを削ぎ落とした。瞬間、シルトが槍を両手に構えて跳躍する。
「もうっ、死んどけよ!」
露わになった男の肩口に、一本、また一本、槍の穂先を突き立て、深く沈めていく。
「お前なんかが今更出てくるから! シューも! ヒルデさんも!」
竜の鱗と同等の頑強さを持つ筈だった男の肩に、ずぶずぶと槍が刺さっていく。血が噴き出して、男が苦しそうに呻いても尚、シルトは攻撃の手を緩めなかった。
「お前なんかがっ!」
槍の穂先が根元から離れていく。力を入れ過ぎて折れてしまったのだろう。シルトが男から離れたのを確認して、ヒルデは得物を振るう。
「…………世界は、汚れてなんかない」
最初から、始まった時からそうなのだ。不正、非道、裏切り、堕落、腐敗、醜悪、悪徳、背徳、悪。それらが栄えたためしはないが、根絶やしにされたためしもない。いつだって、この世界にはそれがあった。汚れたと言うのなら、最初から汚れていたのだろう。
だが。
ヒルデは決して、世界が汚れていると思わない。
「私が生きる世界は、私の好きな人たちが生きる世界は、決して汚れてなんかない」
男の背中、同じ場所に鎌の刃先が突き刺さっていく。
「…………だから」
「お、ぶ、っ…………」
深々と突き立てられた鎌が、再び引き抜かれた。
「さようなら」
世界はきっと汚れている。
一はそう思う。自分も、自分が立つ地も、見上げる空も、取り巻く何もかもは汚れているのだ。綺麗だと、誰が言い切れる。
今日、ここで死んだ者たちも汚れていたに決まっている。なのに、彼女がそう言うだけで、いつの間にか気持ちは変わっていた。
「……ごめんね」
ヒルデはそっと、シューの瞼を閉じる。亡骸となったモノに語り掛け、謝って、涙を流す。
一は、一歩も動く事が出来なかった。ヒルデがシューの亡骸を両腕で掻き抱き、眼下の街を見下ろしている。戦死者を運ぶ者。彼女の姿は、正にそれだった。
「…………う、あ、ああっ」
戦乙女の慟哭が一の胸を打つ。
「あああああ――――――――っ!」
その涙は、汚れたと断じられた世界を浄化する尊いものに感じられた。
山がざわめき、木々が揺れる。鳥たちは一斉に空へと舞い上がり、街へ向かって、駒台を越えて飛び立っていく。自分たちの声を聞き届けた英雄の死を、世界に喧伝する為だろうか。それとも、戦乙女の声に胸を打たれて、いてもたってもいられなくなったのだろうか。
世界は美しくない。汚れてもいない。ただ、彼女だけが美しく見えた。
「店長、お電話が鳴っております」
「出てくれ」
「かしこまりました。……お待たせいたしました。オンリーワン北駒台店でございます」
店長は煙草を吹かして、缶コーヒーを喉奥に流し込む。今頃、一は死んでいるだろうか。どうせ、生きて戻ってくるのだろう。
「店長、店長に代わってくれと」
「ん」ナナから受話器を受け取ると、店長は面倒くさそうに口を開く。電話口の声を聞いているのかいないのか、椅子をぐるぐると回転させて適当な相槌を繰り返していた。
所在なげに立っていたナナはフロアに戻り、何気なく窓の外を見遣る。
「……あれは」
鳥が空を飛んでいた。数え切れない、多様な種類の鳥たちが駒台の空を抜けていく。
「地震でも来るのでしょうか」
早く一が帰ってきますように。そう思って、ナナは両手を組み合わせた。
死者を洋館に運んだ後、一たちは壁に背を預けて、鳥たちを見送っていた。数十分もすれば、オンリーワンの近畿支部から応援が来るらしい。死体を運ぶ応援、である。
もう、何もする気が起きなかった。静寂の戻ってきた空間で、誰一人口を開くことはない。
体力的にも精神的にも限界だった。ここで目を瞑り、眠る事すら考え始めている。そんな自分に気が付いた時、一はゆっくりと口を開いていた。
「名前、何だったんですかね」
「は、名前? 誰の?」
「あいつの。シグルズでも、ジークフリートでもなかったんだろ」
「……んーん。シグルズでも、ジークフリートでもあったんだと思う」
「そう言う事だから黙っててよ」
ヒルデに聞き返そうとした一だが、シルトに睨まれてしまう。
「あの人は竜を殺してその力を得ていた。鳥の声を聞いていた。私の事も、ちょっとだけ覚えていたみたいなの。ただ、記憶が混ざっていたんだと思う」
「記憶が?」
「…………ん」
一は知らない。
男が鳥の声を聞いていた為に、自分たちの狙いを把握していたと言う事を。
シルトは知らない。
不死身の肉体を持つ男の唯一の弱点を。彼が竜の血を浴びた際、菩提樹の葉が張り付いていた為に、背中のある一点のみが硬くならなかった事を。
ヒルデは知らない。
男が、果たして何者だったのかを。
全員が分かっていた。それで良いのだと。
「ま、良いか。……良いんですよねー」
一はごろりと寝転がる。知らず、口元には笑みが浮かんでいた。
「何笑ってんの。キモイ。何かウザイ」
「だってさ、あいつ、ヒルデさんの恋人って訳じゃあなかったんだろ」
「…………ん?」
ヒルデは小首を傾げる。
「…………ん、でも、ええと」
「じゃあ、なかったんですよね!? そう言ってくださいよ!」
「う、えと。…………ん」
一の気勢に圧されてヒルデは頷いてしまった。彼は両手を上げて喜びを全身で表現している。
ヒルデもつられて笑ってしまった。そして思う。何故、一は自分を思ってくれているのだろうかと。シルトも、ルルも、シューも。皆、何故、こんな奴を慕ってくれるのだろう、と。
「ヒルデさん、ヒルデさん、今日は私の部屋に泊まっていってくれるんですよね?」
目が覚めた時の世界は、目を瞑った時の世界と大きく様変わりしていた。それでも、変わらないものもある。
「…………明日もじゃ、駄目、かな?」
「へ?」
「もう、目は覚めたから。夢を見るのは、おしまいなの」
シルトはきょとんとした顔になる。その後、難しい顔を作って、喜色満面になった。
「大っ歓っ迎っです! ずっと、ずうっと! 私の部屋に、いつまでもいてください!」
「ん、ありがとう」
「そんな! お礼なんてっ、ああ、ヒルデさん!」
ぎゅっと抱きしめられる。ヒルデはシルトの頭を撫でて、恨めしそうに彼女を見る一と目が合った。彼は恥ずかしそうに目線を逸らして、再び寝転がる。
何故、一が自分を好いてくれるのかは分からない。だが、一に惹かれている理由は分かる。呪いをかけられたこの身、恐れを知らない者だけがその呪いから解放してくれるのだ。それまでは、ひたすらに夢を見続けなければならない。
一が、その呪いを解いてくれた。シグルズも、その呪いを解いてくれた。しかし、両者は似ているようで全く違う。恐れを知らない、その点は確かに同じだ。だが、質が違う。
シグルズは、恐れを知らない。自らを高める為に危険を顧みず、炎の中をも進んでいく者なのだ。
一は恐れを忘れる事が出来る。自らの危険を顧みず、炎の中に取り残された誰かを救える者なのだ。
あなたは、俺を助けてくれた。
人間。勤務外。ソレ。
その全ての狭間で揺らいだ自分に、道を指し示してくれた。
だから、こうしてここにいられる。
あなたは、私を助けてくれた。
夢。幻。霧。影。
とらわれていた自分を、もう一度目覚めさせてくれた。
だから、こうしてここにいられる。
縄に繋がれているのなら、それを解こう。
鎖に縛られているのなら、それを外そう。
檻に囚われているのなら、それを壊そう。
あなたがそこから助けてくれた。
だから、あなたを助けてあげたい。
「…………ヒルデはね、本当の名前じゃないの」
「ブリュンヒルト、でしたっけ」
ヒルデは緩々とした動作で頷いた。
「良い名前ですよね。何か、意味はあるんですか」
「ん、甲冑」
一は眉根を寄せる。仰々しい響きと、嫌なものを思い出したのだ。
「……心配、ないよ?」
「別に、してませんよ」
「もう、私は大丈夫だから」
「そうですか」と、一はここにいたって気のない風に装う。
「何て呼べば、良いんですかね」
そっぽを向いたままで一は言った。
「…………ん、好きに、呼んで」
「えっ? じゃ、じゃあ……」
「くだんない事言ったらぶっ飛ばすから」
シルトに釘を刺されてしまい、一は舌打ちする。
「ところでさー、私も本当の名前を隠してるんだよねー。知りたい? 知りたいっ?」
「うぜー、このテンション。嬉しそうな顔すんなよ、そのツラ見てたら張り倒したくなる」
「おぉい! もっと食いついてよ!」
「お前の名前なんか心底どうでも良いわ」
「ケータイ貸してやったじゃん! 色々、その、何か助けてやったじゃん!」
シルトは立ち上がって一に詰め寄る。彼は動かず、面倒くさそうに手を振って追い返そうとした。
「聞けよっ、聞かなきゃコロス!」
「ヒルデさーん、こいつこんな事言ってますよ。助けてください、俺殺されちゃいますー」
「へらへらすんなっ、あああもう! ムカつく!」
「…………ん、シルト、駄目だよ」
「だってこいつが! ……う、わ、分かりました」
ヒルデに叱られたシルトはしゅんとうな垂れる。少し可哀想になったので、一は彼女にちょっかいを掛ける事にした。
「なあ、お前の名前教えてくれよ」
「はあ、何それ? 今更聞きたいの? ふーん、じゃ、頭下げろ」
「じゃあ良い。二度と聞かない」一はアイギスをバットに見立てて素振りを始める。
「いっ、言う。言うから、ちょ、ちょい、ちょっ、こっち向けよバカ!」
ぎゃあぎゃあと喚くシルトを見つめると、彼女は何故か視線を逸らした。馬鹿にされたのかと思って、一はシルトの尻をアイギスで叩く。
「てめえマジでコロ……コロしちゃうぞ」
「…………言い直しても駄目」
「良いから言えよ。俺はもう家帰って寝たいんだ」
シルトはニット帽の位置を直して、ぼそぼそと呟いた。
「あ?」
「シルトシュパルテリン。はい言ったー」
「言い辛い。……ヒルデさん、こいつの名前には意味があるんですか?」
「……ん、えーと。シルト、言っても良いの?」
「どぞ」短く答え、シルトはじっと一の様子を窺う。
ヒルデは羨ましそうにシルトを見遣ってから、ゆっくりと口を開いた。
「盾を割り裂く者。シルトシュパルテリンには、そういう意味があるの」
「盾を……ああ」
山に入る前のシルトとシューのやり取りを思い出して、一は得心する。どうだと言わんばかりのシルトを見て、彼は納得する。だから、こいつが嫌いなのだと。名は体を現す。シルトシュパルテリンは、自分にとって天敵だったのだ。
「死ね」
「なんでっ!?」
言い争う二人を眺めながら、ヒルデは鎌の柄を握り締めていた事に気付く。
自分にはその資格がない。そうしてはならないと分かっているのに、羨ましくて、焦がれていた。彼らが許してくれたとして、自分は、自分を許せない。それでも、いつか時間が経って、己を許容出来るほどに成長すれば、彼の隣に立てるのだろうか。
一度は滅ぼそうとした世界と、殺そうとした人たち。
その全てを守ろうと、ヒルデは誓う。今はただ、彼らを守る甲冑になる。それだけで充分で、その先、周りの人たちが笑ってくれれば幸せなのだと思えた。
旅立て勇者よ。
艱難辛苦を乗り越えて、眠れる姫を助けに行こう。
黄金を守る悪い竜を打ち滅ぼして、ヒンダルフィヨルの山を越え、炎に包まれた館の中、盾の垣に囚われた彼女を救おうではないか。
見事に姫を夢から起こし、両の腕にてかき抱けば、城に帰って式を挙げよう。
勇者と姫。二人はお似合いなのだから、きっと誰もが祝福するだろう。
この物語は後世まで語り継がれる。船乗りが東西を越えて、吟遊詩人が古今を越えて永遠に紡ぎ続ける、ああ、何と素敵なお話だろう!
その後、勇者と姫に何が起ころうとも、どんな苦難が降りかかろうとも、目を背けたくなる最期が待っていたとしても、めでたしと、そう締め括るのが、人の常というものである。
ああ、めでたし、めでたし。