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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
グリンブルスティ
192/328

ジークフリートは戦士を殺す



 洋館前における一とシュー、ジークフリートとの戦闘は決して有利とは言えないが、絶望的に不利だとも言えない。

 一がジークフリートの大剣を受け止めて、その隙にシューが打撃を積み重ねていく。

 ジークフリートが初めて見せた苦痛の表情に、一は暗い喜びを感じていた。通じる。通じるのだ。竜を殺して不死身になった男を、少しずつ追い詰めていく。

 竜殺しが何だと言うのだ。不死の存在がどうした。そんなもの、今更ではないか。今更、不死がどうだの言われたところで折れる心は持ち合わせていない。

「……これは」

 シューが呆然と呟く。一はアイギスを畳んで、動かなくなったジークフリートを冷めた瞳で見遣った。

「名前さえ分かればこんなもんなんだよ」

「がっ、な……ぜ! うご……!」

 息苦しそうに喘ぐジークフリートだが、膝をつく事はしない。仁王立ちになってこちらに敵意のこもった視線をぶつけてくる。そこは、素直に褒めておこうと一は思った。

「……何故、最初からこの能力を使わなかった?」

「企業秘密。さーて、どうしよっかな」

 余裕ぶる一だが、ジークフリートの自由を奪えるのにも限界が近づいている。呼吸困難、窒息死にでもなってくれれば話は早いのだが、どうにも、彼には効きが悪かった。英雄としての矜持か、竜の血肉を取り入れた事でメドゥーサに対する抵抗力が他者よりも強力なのかは判然としない。そも、ここでジークフリートを殺してしまえばヒルデは少なからず悲しむだろう。一とて、彼の命を背負う気にはならなかった。

 重要なのは、アイギスがいかに恐ろしいか。そのイメージをジークフリートに植えつける事である。少しでも彼の動きが鈍ってくれれば、無駄な思考に気を回してくれれば。と、言うのが一の考えだった。

「……このまま殺すのか、一」

「いや、出来るんならそうしてるよ。つーか」

 一は声を潜めて続きを口にする。

「悪い、もう持たない」

「何? それでは意味が……」

「がああああああああああ!」

 ない。

 意味がない。アイギスを使い、メドゥーサに頼み込んだ結果がこれだ。シューは肩を落として短槍を構える。一に失望しているのかもしれなかった。

 激しい呼吸を繰り返して、ジークフリートを息を吹き返す。未だ瞳の焦点は定まっていないが、大剣を一に向けて、憤怒の形相を顔面に貼りつけていた。

「俺をっ、俺を! 俺をおおおおおおおおお!」

「……逆鱗に触れてしまったな。奴の体は竜の鱗、竜の頭脳と魔力を手に入れた英雄に、私たちのような者が太刀打ち出来ると思ったのが間違い、か」

「野郎の顔色は変わってきてる。不死身だろうが何だろうが死ぬ時は簡単に死ぬんだよ。竜の頭脳が何だってんだ。でかいトカゲを殺したからって、それがどうしたってんだよ」

 言わずもがな虚勢である。

 ジークフリートが大音声を上げながら突きを繰り出した。一はアイギスでそれを受け、斜めに受け流す。真っ向から力比べしても、今のジークフリートに勝てるとは思えなかった。

「何、やってんだ!」

「……しかし」

 シューは動けない。一とジークフリートとの間に割り込めないのである。一撃、一撃が重く、強過ぎた。巻き込まれれば驚くほど呆気なく、粉々になってしまうだろう。そのイメージが彼女を躊躇わせている。

「くたばれえええええ!」

「うるっせえ!」

 アイギスと大剣がぶつかる度、凄まじい音が周囲に轟き双方の体が後方に弾かれる。弾かれればすぐに体勢を立て直して、新たな攻撃をジークフリートが放った。それを一が防ぐ。シューの目には、どちらも化け物に映っていた。



 覚悟を決めたように、ヒルデは目を瞑って四肢を投げ出していた。目の前にいる筈のシルトは何も言わず、ただ、彼女の息遣いだけが周囲に音を発している。

「…………何も、言わないの?」

 シルトは肩を震わせた。溢れていた涙を袖で拭って、言葉を慎重に選ぶ。

 捨てた。捨てられた。

 置いていった。置いていかれた。

 裏切った。裏切られた。

 どう取り繕おうと、それは既に結果だ。ヒルデが、シルトたちに何も言わずに置いていった。その事実は消えない。ずっと、残り続ける。

「ヒルデさんは、私らを巻き込みたくなかったんですよね……?」

「…………シル、ト?」

「何か考えがあったんですよね、きっと。皆殺しなんて、そっ、そんなの嘘ですよね?」

 感極まったシルトはぽろぽろと涙を零している。俯くのを堪えて、ヒルデをまっすぐに見つめていた。

「私っ、私は、バカ、ですからっ。ヒルデさんが、あ、ヒルデさん……!」

 つられてしまったのだろう。ヒルデの頬に温かいものが伝っていく。

「ヒルデさんを、信じて、ますから」

 シルトも分かっていたのだろう。自分が捨てられて、置いていかれて、裏切られた事を。それでも尚、彼女は信じると口にした。信じさせてくれと、言っている。ヒルデはただ頷くだけで良い。それだけで、シルトは全てを忘れて、水に流す。

「……ごめんね」

「え、あ、あは。何言ってんですか、ヒルデさん」

「私は、あなたたちを見捨てた。ルルを守ってあげられなかった」

 一に止められなければ、ジークフリートと共に駒台の住人を手にかけていたかもしれない。

「…………ごめん、ね」

「なっ、ああ、ヒルデさんが泣かなくて良いんです! ヒルデさんは何もっ、何も悪くないんだから!」

「私、止められなかった。私……何も出来なかった」

 シルトは、ヒルデの泣き顔を初めて見た。ジークフリートは言っていた。悲しみに濡れた瞳も美しいのだと。ふざけるな。美しい筈がない。こんなにも痛ましい。胸を締めつけられて、今にも引き裂かれてしまいそうで、出来る事なら彼女の悲しみを代わりに背負ってやりたい。

「……でも、でも」

 まるで、童女だ。大鎌を構え、戦死者の魂を掻っ攫う戦乙女の長には到底見えない。思わず、シルトはヒルデを抱きしめていた。後で怒られても構わない。今はただ、そうしたかった。

「シルト、シルトぉ……」

 自分が慕っていた人は、こんなにも細く、か弱い存在だったのか。今、自分は頼られている。甘えられている。ならばヒルデの好きにさせてあげたい。彼女を抱きしめる力を弱めて、シルトは――――。


『そんなの、私が知りたい。私が知りたかったのは……!』


 一を思い出す。泣いている自分を突き放すかのように立ち上がり、前を見据えた男を。

 気に食わない奴だった。どこまでも気に入らなかった。自分とは違う。相性が悪過ぎる。口が悪く、自分の趣味からは遠くかけ離れている。嫌いで嫌いで、たまらない。なのに、あの時の彼の行動が忘れられない。あの背中は鮮烈に焼きついている。どうしたって、離れない。

「ヒルデさん、行きましょう」

 しゃくり上げるヒルデから、シルトはゆっくりと離れていく。柔らかくて、温かい。まだ、両の掌には温もりが残っていた。

「あいつを止めるんです」

「…………んーん。無理、だよ」

 緩々とした動作で、ヒルデは首を横に振る。

「無理じゃないです。止められるのは、もう、ヒルデさんだけなんです」

「……でも」

「止めて、ください。ヒルデさんがそう望んでるんなら! いえ、望んでなくても! あいつを止めるのがあなたの役割なんです」

「シルト……」

 ヒルデは涙を拭いて立ち上がった。

「もう駄目なんて、そんな事ないんです」

 落ちていた鎌を拾うと、シルトはヒルデに向けてそっと差し出す。ヒルデはじっと、己の得物を見つめた。もう随分と長い間連れ添った、相棒のような存在を愛しげに撫でる。

「まだ、間に合います」

「…………ありがとう、シルトシュパルテリン」

 瞬間、シルトは腰が砕けそうになった。これだ。これなのだ。自分が焦がれ、追い求めた者がそこにいる。まっすぐに標的を見定める、戦乙女の瞳。ブリュンヒルトが帰ってきたのだと、シルトは嬉しそうに微笑んだ。



 山がざわめいていた。木々が風に揺らされて、鳥が洋館前に集まり始める。

「俺があああああああああっ!」

「てめえがああああああああ!」

 数羽、数十羽と増えつつある鳥たちは、一とジークフリートを見下ろし、彼らの真上を飛び交っていた。羽音と鳴き声が侵食を開始し、空はそれらに埋め尽くされていく。

 ジークフリートに鳥の鳴き声は聞こえない。完全に血が上った頭では、目の前の敵を滅ぼす事しか考えられない。

「人間にっ、この俺が止められると思ったのか!」

 一撃毎に攻撃は重くなる。剣が振り下ろされる度に死を予感する。一は身の竦むような恐怖を怒りでもって打ち消していた。この世全てを呪うようなジークフリートの声と、上空で泣き喚く鳥たちの声に精神が磨耗していく。両腕は軋み、今にも骨が砕けてしまいそうだった。徐々に削られる体力が一を内部から引きずり回す。諦めてくれと嘆いている。

 うるさい。うるさい。うるさい。

「黙ってろ!」

 馬鹿の一つ覚え、繰り返される攻防に一の苛立ちが募った。

「焼いて食っちまうぞ!」

「おおおおおおおおおおおおおお!」

 どこまで続くのか、いつまで続ければ良いのか。終わりがあるようで、双方が折れるまでは決して終わらない戦いの最中、

「…………ジークっ!」

 ヒルデが、姿を見せた。

「ブリュンヒルト!?」

 ジークフリートは大剣を手元に戻して一から距離を取る。ヒルデの傍にはシルトがおり、ジークフリートは強く歯を噛み合わせた。

「何故だっ、何故止める! 何故、そいつを傍に置いているんだ!?」

「…………聞いて、ジークフリート」

 肩で息をしながら、一は片膝をつく。アイギスを強く握り締めていたせいか、もはや自分に握力が残されているのかどうかすら分からない。一度切れてしまった集中も、もう取り戻せそうになかった。

「もう、止めて。やっぱり、駄目なんだよ」

「何を、言っているんだ……?」

 ジークフリートはよろよろと後退りして、大剣を地面に、深く突き刺す。それを杖代わりにして、彼は座り込むのを堪えた。

「いきなり、何を。何を言っている。忘れたのか、いや、忘れたとは言わせんぞ。世界を、元に戻すと誓った筈だ! 穢れた世界にした何もかもをっ、汚した人間どもを殺してっ、殺していくと誓っただろう!」

「…………あなたは、変わってしまった」

「変わったのはお前だ! この世界に落とされて、お前はっ、お前はあ!」

 ヒルデは悲しそうに俯き、シルトに肩を支えられる。

「お前……は。そう、か。そうだったのか」ジークフリートはシルト、シュー、一を見比べた後、くつくつと喉の奥で笑い出す。やがてその声は高く、大きくなり、鳥たちの鳴き声を掻き消すほどに膨れ上がった。

「そいつらに吹き込まれたんだな。ブリュンヒルト、お前は騙されているんだ」

「違う。そうじゃない」

「そうにっ、決まっているだろう!」

 話が通じていない。ジークフリートの心は強過ぎる。一は舌打ちして、体の感覚を確かめた。

「違うっ、聞いて!」

「卑劣! 卑劣極まりない所業だな、そうだろう! 人間とはここまで堕ちたか!」

 大剣を地面から引き抜き、ジークフリートは一に切っ先を突きつける。

「貴様らのような人間がいるからっ、世界は、彼女があ!」

「そうかよ」

 アイギスはまだ握れる。心はまだ折れていない。ならば、何度でも受け止めるだけだ。一は覚悟し、ヒルデとシルトは叫ぶ。ジークフリートが地を蹴り、シューが、あらぬ方角を見遣った。



 狂戦士とは、北欧の神話、伝承に登場する戦士である。

 ノルウェーの言葉ではベルセルク、アイスランドの言葉ではベルセルクル、英語ではバーサーカーと呼ばれる、狂った戦士だ。その語源、熊の毛で作った上着を着た者。あるいは何も着ない者。この二つの説がある。

 呼び名も語源も分かれているが、それだけだ。それだけで、後は全て同じ。

 軍神の神通力を受けた戦士は、身に危険が及ぶと獣になりきり忘我状態となる。鬼神の如く戦う彼らは正しく戦士の鑑と言えるだろう。

 但し、彼らは決して敬われなかった。誰からも恐怖され、距離を置かれた。何故なら、忘我状態に陥ったバーサーカーには見境がなかったからである。動くものとあらば友人、肉親、恋人も関係ない。ただ、襲う。有り余る戦闘能力を御する事は誰にも出来ず、戦闘時には、彼らと他の兵士は可能な限り離して配備し、バーサーカーを護衛にする者は誰もいなかった。

 オンリーワン南駒台店、勤務外店員の鹿賀徹夫は自身がそう呼ばれているのも、そう呼ばれるのに相応しいモノだとも理解している。一般からは忌み嫌われる勤務外に成り果てたのだ。もはや、肉親にすら後ろ髪は引かれない。自分を拾ってくれた上司の為に力を振るうだけだ。それだけで生きていくには事足りる。

 殺せ。命令されたのなら実行するだけだ。元より、それ以外に能はない。ターゲットを確認して、特製の錠剤を口に含む。これより先、自分は狂うのだ。これから先の記憶は一切なくなる。次に意識を取り戻した時、自分の周囲には多くの死体が転がっている事だろう。がりりと錠剤を噛み砕き、躊躇わずに咀嚼する。

 鹿賀の視界に入るのは鬱蒼と生い茂る木々と、忙しなく飛び回る無数の鳥。狂う前に見るには、あまりにもな景色だった。あと、何秒持つか。心の中でカウントを始めて、彼は目を瞑る。これが、自身の最期に見たものだとは思わずに。今日が、彼の最期になるとは思わずに。



 忘れていた訳ではなかった。ただ、あまりにも都合が悪くて、あまりにも間が良過ぎたのである。

 それに、一番最初に気付いたのは、洋館に続く道を正面に捉えていたジークフリートだった。彼は一に対する攻撃を中断して、数瞬、躊躇ってしまう。

 誰もが時を奪われていた。

「バーサーカー!」

 誰かが叫び、全員がそちらに目を向ける。

 大男が大口を開けて涎を垂らし、四つんばいになって地を駆けていた。武器は持っていない。だが、恵まれ、鍛え抜かれた体躯を見ればそんなものはむしろ邪魔にしかならないのだと分かった。彼は、その拳一つで人体を破壊し得る。人間を簡単に殺せてしまう。

「ヒルデさんっ」一は叫んだ。バーサーカーと呼ばれた男の狙いが、ヒルデであると気付いたからだ。彼女を庇うようにシルトが前に出る。

「ブリュンヒルトっ」

 ジークフリートよりも一の方が近い。彼はアイギスでバーサーカーを止めようとするも、名前が分からないのでメドゥーサは発動出来なかった。前に出て、物理的に止めるしかない。

 だが、間に合わない。

 一も、ジークフリートも追いつけない。バーサーカーは彼らよりも早く動く。シルトは短槍を構えているが、無駄だと分かっている。触れられれば、死ぬのは自分なのだと覚悟してヒルデの前に立っている。

「退いてシルトっ」

「ヒルデさんは逃げて!」

 退けない。逃げられない。もう遅い。バーサーカーは四つんばいから二足の歩行に戻し、拳を振り上げている。

「ヒルデさん……!」

 あろう事か、シルトは戦闘中に目を瞑ってしまった。辛うじて槍だけは構えていたが、手ごたえは感じられない。肉を貫く鈍い音と、血液が噴き出し、飛び散る音だけを聞いた。

「…………あ」

 どうして痛みを感じないのか。どうして自分が生きているのか。

 シルトの疑問に気付いていたのは、彼女以外の者たちだった。彼女以外の者は、全員がその姿を認めていたのである。ヒルデの前に立つシルト。バーサーカーとシルトの間に割り込んだ者を。

「……早く、離れろ」

「う、がああああああああああああああああああ!」

 バーサーカーが叫ぶ。獲物を仕留めた歓喜によって、ではない。戦闘を邪魔された、憤怒によって、である。

「あ、ああ……」

 彼女が口を開いた時、水音が聞こえた。口内からは血液が溢れ、滴り落ちて地面に染みを作っている。

「シュー……なん、で?」

「早、ぐっ、離れろ……!」

 バーサーカーの拳が貫いたのは、シューの腹だった。だが、バーサーカーもまた腹部を槍によって貫かれている。彼女は片腕で槍を突き刺し、残った腕で彼の腕をしっかりと握り締めていた。その為、バーサーカーは身動きが取れずにいる。

 しかし、シューの行為は自らの傷口を広げる事になるのだ。バーサーカーは腕に力を込めて、彼女の内臓を引きずり出し始めている。血が止まらない。むしろ流れる勢いは増すばかりだった。

「何やってんのよシュー!?」

「……シルトっ」ヒルデがシルトの襟を掴み、後方に投げ飛ばした。彼女は尚も放心しているらしく、尻餅をついたまま動こうとしない。

「…………シュー、退いて」

「来ないで……!」

 ヒルデがシューに近付こうとするも、彼女は唸るような声を放った。

「何してくれてんだてめええええ!」

 バーサーカーを横合いから吹き飛ばそうと一が駆ける。

 が、彼よりも先に、自身の間合いへ到達した者がいた。

「だめえ!」

 ジークフリートのやらんとしている事に気付いたヒルデが叫ぶも、彼は止まらない。ばりりと歯を噛み合せて大きく剣を振り被り、眼前の敵に向かって吼えていた。


「あ」


 大きく、横に薙ぐ。

 ジークフリートの剣は右側から振るわれる。

 まず、シューの柔らかな背中に無骨な刃先が食い込んだ。その一撃は彼女の骨など容易に断ち、シューの胴体を切断し終える前に、彼女の意識は完全に断たれていた。次いで、大剣はバーサーカーにも襲い掛かる。狂った戦士は何とか逃れようとするが、寸前までシューに動きを封じられていたせいで次の動作に移るのが遅れていた。容赦なく、ずぶりと肉が切り裂かれていく。

 一のすぐ目の前で、命が終わった。彼には見えている。シューの満足げな最期の顔が。ヒルデを庇えた事が、そんなにも幸せだったのだろうか。ヒルデは、彼女の一生を捧げるに値する主だったのだろうか。一には分からなかった。

「おおおおおおおおおおおおっ!」

 一閃。バーサーカーの上半身が斜面を転がり落ちていく。半身を失った下半身、傷口からは噴水のような勢いで血が飛び出し続けていた。

「ひ、う、あ……」

「……どう、して」

 ヒルデが得物を取り落とす。呆然とした表情で、胴体を寸断されたシューの死体を見つめた。

「役立つものだな」

 血振りを終えて、ジークフリートは大剣を肩に担ぐ。近くに転がってきたバーサーカーの下半身を洋館の方へ蹴飛ばすと、その遺体にはすぐさま烏が群がり始めた。

 ジークフリートは何気なく口を開く。

「汚れてしまったこの世界に相応しい最期だとは思わないか。ブリュンヒルト、こいつらの醜い死に様こそ、俺がこの世界の人間を殺すに足る理由なんだ。分かって、くれるか?」

「…………あなたは……!」

「よせ、俺をそんな目で……」

「うっ、あああっ、あああああああああああああああああああああ!」

 シルトが声を上げて泣いていた。

「シュー! シュウウ! どう、して! なんで!? そんな、そんな……」

 ヒルデが声を殺して泣いていた。

「やだあっ、やだよ! 私を置いてかないでよっ!」

 たがが外れるとは、今のような状態を指すのだろうか。血液が全身を駆け巡り、燃えるように熱い。この体を突き動かそうとして心臓が強く鼓動している。しかし、どこか冷め切っていた。体の内側だけが熱く、表面上はすっかり冷え込んでいるように思える。空虚で、どこまでもニュートラルな気持ちで一はシューの顔を見つめた。思えば、彼女とは短く、薄っぺらな付き合いだった。初対面では三人がかりで襲われて、シルトと一緒にいたせいか、何となく気に入らない女だと思っていた。――――醜い死に様だとは、到底思えなかった。

 仇を取るつもりはない。ただ、憎い。憎いのだ。シルトの涙に後押しされた訳ではない。ただひたすらに、目の前の男が気に入らなくて、殺してやりたい。

「やりやがったな……!」

「貴様はああああ!」

 畳んでいたアイギスを力の限り振り下ろす。万感の思いを込めて、ジークフリートの肩口に叩き込む。高く乾いた音がして、一は次の瞬間、ヒルデに押し倒されていた。目の前を大剣が通り過ぎていくのが見えて、彼はけたけたと、狂ったように笑う。弾かれたアイギスは、高く宙を舞っていた。



 高く舞い上がるアイギスを見て、ジークフリートは思った。

 自分は、何者なのだろうと。

 時折、記憶が混濁するのを感じていた。この世界に産み落とされた時から、ずっと。

 シグルズ。ジークフリート。何故、名前が二つもあるのか。何故、二つともを自分の名前だと思っていたのか。

 ブリュンヒルトは自分の恋人の筈なのに、彼女は自分を知らないような素振りを見せる。話を合わされているような、歯車の噛み合わない、出来の悪い演劇めいた日々。

 果たして、自分は何者なのだ?

 今になって、実感する。自覚する。そして確認して決意する。

 自分は、シグルズでも、ジークフリートでもないのだ。何者かが生み出した、冗談じみた、幻のような存在だったのである、と。

 ニーベルング。

 かつて自身が滅ぼした筈の、小人の一族。

 ニーベルング。

 霧のように、儚く滅びていくもの。

 竜の血を浴びて不死身となった。

 竜の肉を喰らって鳥の声を聞いた。

 竜を殺して、英雄となった。

 だが、どこかしっくりと来ない。成し遂げた筈なのに、この体には何も残っていないような気がしている。

 霧。幻。夢。どれでも構わない。何でも構わない。こんな世界だ、意味など、きっとない。どこにも理由なんて存在しない。

 良いじゃないか。幻のような自分が、この世界を食らってやろう。夢のような存在が、現実をどこまでも侵してやろう。好きなだけ、貪り、殺す。もう何も考えられない。

「は、はははは!」

 殺す。まずは殺す。一番最初に一番目障りな奴を殺す。何度も邪魔をしてきた、穢れた世界の穢れた人間を殺す。

 が、シグルズは――――否、ジークフリートは――――否、もはや、夢幻に等しい存在となった男は逡巡した。

 一は、邪魔だ。だが、彼が恐ろしい訳ではない。一をこの場に立たせているモノは他にある。あの傘だ。アレさえなければ、どうと言う事はない。

 破壊するのは勿体ない。道具は使われる為にある。名剣グラムにあの盾を加えた自分は、もう誰にも止められないだろう。力ずくで、力任せに、力だけでこの世界を塗り替えられる。元に戻せる。汚れを一掃出来るのだ。

「…………ジーク、もうやめて」

「黙れ裏切り者! それに、俺はもうジークフリートでもなければ、シグルズでもない!」

 アイギスが落ちてくる。手を伸ばせば、もうすぐ届く。これさえ手にすれば、もう関係ない。

「皆殺しだ。貴様らも、アレの後を追わせてやろう」

「くっ……!」

 一はもう笑っていなかった。彼はただ、アイギスの行方をじっと見つめている。ただ、その瞳には感情が宿っていない。

「掴んだぞ」

 男がアイギスの柄を握り締める。笑みを殺しきれずに、くつくつと底意地の悪そうな声を漏らした。

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