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24時間戦う人たち  作者: 竹内すくね
グリンブルスティ
191/328

シュペールシュロイデリンは槍を投げる



 走る。走る。追いつかれないように、殺されないように。

 背後から迫る狂気と重圧。今にも足は竦んで立ち止まってしまいそうになる。

「ワル、キュウウウゥゥゥゥゥレエエエエェェェエエ!」

 殺気と悪寒を同時に受けて、シルトは走りながら身を屈めた。不安定な体勢で転びそうになるも、シューが彼女を支える。すぐ近くにあった木が軋み、みしみしと不吉な音を立てて、両断された。甲冑を着込んだ男は倒れた木など意にも介さず、ワルキューレを追い詰める。

 重装備で山中の荒れた道を、一直線にこちらに向かって走り続ける。恐ろしくて、あまりにも話が違っていた。

「あいつぅ、盾になるとか言ったくせに!」

「……運が悪かったな」

 言いながら、シューは疑問に思う。果たして、シグルズがこちらに向かってきたのは五十パーセントの運否天賦なのだろうか、と。

「ぼさっとすんなよシュー」

「……分かっている」

 シグルズの進撃は凄まじい。木々の連立するこの場所は、大剣を振るのに邪魔な筈だ。だが、彼は全てを無視している。剣を振れば、障害物を周囲の空間ごと切り裂き吹き飛ばす。力任せの大雑把な攻撃だが、風切り音を聞くだけでも背筋が凍るというものだ。

「……北駒台と合流するのか?」

 牽制目的で手ごろな大きさの石を投擲するも、シグルズの着込む分厚い甲冑の前では蚊に等しい。生半な嫌がらせは彼の怒りを買うだけである。

「んー、あー。アレ、つーか、今合流しても無意味じゃん? とりあえず、あいつをヒルデさん家の前まで引っ張ってかない?」

「……そう、だな。奴も上へ向かっているだろう。先ほどの手は、そこで打てば良い」

「オッケ。じゃ、死なないようにしよっか」

 急いては事を仕損じる。だが、シューは何か嫌なものを感じていた。こちらの手の内を読まれているような気味の悪い感覚である。すぐ傍にある脅威だけではなく、南駒台店からの追っ手も忘れてはならない。バーサーカーがいつ追いつくかが、今後の展開を左右するとも言えた。



 南駒台店の勤務外店員、戦乙女のメンバーであるルルが目覚めたのは、堀が様子を見に来たのとほぼ同時だった。彼は広げようとしていた経済新聞を畳むと、少し、驚いたように目を見開く。

 ルルは覚醒しない意識のまま、ゆっくりと、堀に顔を向けた。

「ここは」

「安心してください、病院ですよ。あなたはちゃんと生きてます」

 パイプ椅子を掴み、足で蹴って組み立てると、堀はそこに座ってにこやかに笑む。

「ああ、他のワルキューレの方々も心配はいりません。負傷したのは今のところあなただけですよ、ゲイレルル」

 ルルの表情が僅かに曇った。彼女は寝返りを打ち、堀に顔を背ける。

「あっそ。知ってるのね」

「いやあ、これでも社員ですからね。あなた方アルバイトの情報ってのは、嫌でも耳に入ってくるんですよ」

「私も、知ってる」

「ほう」

「あなたの、正体を」

「ほう?」

 堀は口角をつり上げ、新聞を広げた。活字は、目に入らない。何も読み取れない。

「英雄さん、でしょう? そんな人がどうしてこんなところにいるのかは、知らないけど」

「名前だけが一人歩きしているようですね。私は、そんなに良いものではありませんよ。……いやあ、最近はそればかりな気がしますね」

「ヒルデさんたちは、どうなったの?」

 新聞を畳み、缶コーヒーのプルタブを指で押し開ける。堀は温くなった中身に苦い表情を浮かべた。

「ついさっき、一君、シルトさん、シューさんの三名が山に入ったとの報せを受けました」

「……一? 何故、あの子がそこにいるの」

「いやあ、それに関してはこちらが聞きたいくらいでして」

「サイアク」短く吐き捨てて、ルルは上半身を起こそうとする。瞬間、堀がナースコールに手を伸ばした。

「何よ」

「炉辺さんからきつく言われてまして。あなたが動こうとするなら鎮静剤でも何でも打って大人しくさせるんだと」

「北駒台の頼りない奴が来たってシルトたちの足を、引っ張る、だけ」

 ルルの額に汗が滲んでいる。腹を貫かれたのだ。生きているのが不思議なくらいで、まともに動くどころか戦闘なんてもってのほかである。

「竜殺し、戦乙女の長に好かれた英雄が相手。私も行かなきゃ」

「その状態で、ですか。足を引っ張るのは誰なのか、火を見るより明らかでは? 事情は、詳しく知らない身ではありますが、一君がいるなら任せても大丈夫ですよ」

「無理。シグルズは英雄、アレが敵に回っているなら……」

 英雄、英雄と、壊れたテープみたいに繰り返す。堀は眼鏡の位置を押し上げて、ルルに言い聞かせるような口振りで話を始めた。

「竜を殺せるなら誰もが英雄になれたでしょう。力のある女に好かれたなら、英雄なんてものはこの世に溢れていたでしょう」

「……あなた、何を」

「つまるところあなたは知らないんですよ。英雄の何たるかを、一君の勇気を」

 竜なら竜を殺せる。竜以上の化け物にも竜を殺せる。しかしそれらは決して英雄とは呼称されないであろう。

「私なら、頼まれたって盾だけを手に戦場には行きませんよ。他人を守る為だけに自分の体を投げ出すなんて、恐ろしいとしか思えません」

「命知らずは身を滅ぼす。自分も、周囲にいる者も巻き込む」

「いいえ、彼は恐怖を知らないんです。忘れた、割り切ったとも言うべきでしょうか。……多分、あなた方の上司、ブリュンヒルトこそが、その事を良く分かっている筈ですよ」

 確かに、一はまだまだ未熟だ。いつ死んでも、殺されてもおかしくはない。それは周囲の人間だけではなく、彼自身が一番分かっている事だろう。なのに、彼は行くのだ。他人の問題に首を突っ込み、己を擲ってでも救おうとする。

 英雄ではない。一はきっと、人々が自分勝手に誉め讃え作り出した英雄を望まない。彼はきっと諦めない。自分と他者を無理矢理にでも生かそうとする。

「縛られ過ぎたのでしょう。英雄、シグルズも元は人間だ。ですが、ここは全知の神が支配する北欧の地ではないんです。ただの人間が支配する世界だと弁えずに我意を通すなら、相応の報いを受けるのが筋でしょう」

「なら、あなたは弁えているのね」

「人間だけがこの世を謳歌する。旧いモノが手を貸すならともかく、邪魔をするのはどうかと思った。それだけですよ」

 静かに笑って、堀は経済新聞を再び広げる。どうやら、明日も天気は良いらしかった。



 山中を獣の如く疾駆する。まるで自分がそこと一体になったような気がした一の鼻に枝がぶち当たった。

「…………止まって」

 ヒルデは無闇に鎌を振るわなくなった分、一に追いつく事だけに集中している。彼を捕まえてから後の事を考えるらしかった。

「嫌です!」

 一は声を張り上げ視線を前方に向ける。洋館まではもうすぐだった。

「いい加減に……!」

「ヒルデさんには言いたい事がまだあります! シルトたちが言えない事をっ、たくさん!」

 恐らく、シルトたちは洋館前でシグルズと交戦している。隙を見て彼女らと交替するのが一の狙いだった。だが、その前に出来る限りヒルデを揺さ振っておきたかった。彼女に対して、シルトたちは強く出られないだろう。会話すら難しいかもしれない。それでは、意味がない。命を張って、盾になるべく体を投げ出す理由がなくなってしまう。だからこそ、自分が言うのだ。怒らせてでも、何をされても。

「そろそろ言ってくださいよ! ヒルデさんっ、あなたは何をどうしたいんですか!」

「…………君はうるさくなったっ」

「あなたがそうさせた!」

 ヒルデが駒台に住む者を皆殺し、この世界に巣食う者を皆殺しにしたいとは思えない。昔の男がどうした、竜を仕留めた英雄がなんだと言うのだ。彼女は苦しんで、悲しんでいる。一にはそう見える。そう思わせてしまった時点で、シグルズは充分敵に値する。もしもヒルデが本心を隠し続けると言うのなら、首に縄をかけてでも、傘で動きを止めてでも阻止せねばならない。

「俺を敵に回すんだと! シルトたちを置いて行くんだと言うなら! 本気で殺してくださいよ! のろのろ立ち回ってっ、本当は止めて欲しいんじゃないんですか!?」

「……自惚れないで、君なんか、私は!」

 付け込む隙も、立ち入る余地もまだある。まだ残されている。一は自分を、何よりもヒルデを信じていた。

「本気になりゃ俺みたいな人間なんか瞬殺だろうがワルキューレ! やってみろってんですよ!」

「…………うるさい!」

 一は立ち止まって振り返る。畳んでいたアイギスを広げた刹那、ヒルデの鎌と激突し、弾いた。お互いが肩で息をしながら視線を交換する。一は嫌らしく口角をつり上げた。

「今のが本気なら、あなたはきっと誰も殺せない」

「…………殺せる」

 いいや殺せない。一は馬鹿にしたように笑って、アイギスを畳んだ。

「お願いですから、言ってください。俺はヒルデさんに、こんな事言いたくないんだ」

「…………君には言った筈だよ」

「俺はまた、ヒルデさんと話したいんです。歌代の喉が治ったら、あいつの歌を一緒に聞きたいです。栞さんも呼んで、皆で遊びたい。それは、無理なお願いなんですか……?」

 ヒルデは答えず、得物を構えた。

「もうっ、叶わないんですか!?」

「…………もう、駄目だから。君にも、シルトにも、シューにも、皆も、ルルにもっ、私は許されない事をしたんだよ……!」

 構えたまま、ヒルデはうなだれる。

「そう、ですか」

 一は諦めた風に息を吐き出した。

「もし、もしも叶うなら。あなたが望むなら。こんな事にならなけりゃ、さっき言ったの、一緒にやってくれましたか?」

「…………ん」ヒルデはたっぷりと間を取った後、ゆっくりと、しかし確かに頷いた。

「ごめん、ね。私も、本当は……」

 頷いたのである。叶えたいと、望みたいと、許されたいと。一はアイギスを広げて、ヒルデに向かって跳躍した。彼女は面食らって鎌を手から離してしまう。咄嗟に、両手で彼の体を受け止めようとして、地面に倒れ込む。勢い余って滑り落ちていくが、ヒルデは木の幹に背中を預けてそれ以上落ちるのだけは避けた。

 大丈夫と、一に声を掛けようとしたヒルデは、今になって彼の目論みに気が付いた。一は、してやったりという表情を隠さないで、むしろ露にしていたのである。

「…………ん、君」

 一はすうっと、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

「シルトォ――――! こっちだ! ヒルデさんはここにいる!」

 このままでは一たちの思うままに事を運ばれてしまう。ヒルデは一の口を塞ごうとして手を伸ばすが、彼はその手を振り払った。圧し掛かられた体勢では力を込められない。

「早くしろ――――! 間に合わなくなっても知らねえぞ――――!」

 ヒルデの鼓膜がびりびりと震える。

「……君は、諦めたんじゃないの?」

「諦める筈ないでしょう」言うと、一はヒルデの体から退いた。彼女にアイギスの石突き部分を突き付けて、申し訳なさそうに目を逸らす。

「あの人が、あなたにとって大切な人だって、そんなの分かってます。だけど、俺は、俺なら、あなたにそんな顔をさせない。させたくない」

「…………ん」

 ヒルデは薄く笑って目を瞑る。改めて、自分はなんと酷い女なんだと思って、それでも口を開いた。

「…………私は敵だよ。忘れないで。でも」

 そうか、と。

 自分が目覚めた理由を思い出して、ヒルデは気付く。どうして、竜殺しの彼だけでなく、一に惹かれたのか。

 恐れを知らない者だけが、夢の世界から、炎の山から自分を救ってくれる。

 シグルズはきっと恐れを知らない。彼は自らの夢を叶える為に恐怖を乗り越えた。

 ならば、一は? 彼は、彼もそうなのか。シグルズと同じなのか。……否、違う。今なら分かる。一はきっと彼とは違う。だから、なのかもしれない。

「…………死んだら、駄目だよ」

 一はヒルデを見なかった。アイギスを手元に戻して、こちらに向かって斜面を下りてくるシルトを見つめる。

「あなたの為なら、死んだって良い」

 そう、嘯いた。



 洋館前、シルトとシューは開けた空間でシグルズを迎え撃つ。短槍を構えて草木を薙ぎ倒す男を見定める。四肢を犠牲にしても、勝てるビジョンは浮かばなかった。だが、ある程度は戦わねばならない。

「……北駒台は?」

「わっかんない! 逃げたんじゃないの!?」

 そう言うシルトの表情からは悲愴感が見受けられない。戦闘の空気にあてられて、やや昂ぶっているように、シューには見えた。

 一をどこまで信じて良いのかは分からない。だが、シルトは信じている。ヒルデを『救う』為に必要な者なのだと、信じきっている。盾を割り裂く女が信じた男なのだ。ならば、自分だって信じるのが筋と言うものだろう。

「……奴が戻るまで時間を稼ぐ。まともにやり合えば持たないぞ」

「んなもん……」

 シグルズが大剣を振るいながら現れる。離れた場所にいるというのに刃風が届いた。

「見れば分かるっつーの!」

 シルトとシューは二手に分かれて攻撃を避ける。充分に距離を取りつつ隙を探した。

 シグルズはシルトたちはそれぞれ瞥見した後、物憂げに溜め息を吐く。

「貴様らはブリュンヒルトの部下だろう。何故、俺に楯突くような真似をする。理解に苦しむな」

「はあ? バッカじゃん、あんた。私らはヒルデさんの部下だけど、あんたの部下じゃない! 勘違いしないでよ。マジうぜえ」

「分からないのか? 貴様らが彼女を苦しめている事に」

「そっちがくだんない事言ってっからじゃん!」

 シューはシルトを強く見据えつけた。時間を稼ぐという意味ではシグルズに付き合うのも悪い選択ではない。だが、必要以上に反抗的な態度を取るには、恐ろしい相手なのだ。

「一応は、貴様らを殺すなと彼女に止められている。だが、俺は世界の浄化、その大望を背負った身だ。寸暇を惜しむ状況なのも理解はしているな?」

「だから?」

「殺されても文句は言うなと忠告している。ワルキューレよ、死ぬのが恐ろしければここで俺に頭を垂れろ。俺に忠誠を誓え。この場限りの約束ではあるが、命だけは助けてやろう」

 これが最後通牒だとシューは直感する。ぎりぎりまで返答を引き延ばすしかない。

「てっめえに助けられる命なんかあるかっつうの! 勝手に言ってろバーカ!」

「……馬鹿はお前だ」

「はああああ!?」

 シグルズは大剣を肩に担ぎ直す。

「では、戦死者を運ぶ任もここまでだ。淫婦に泣きつくか、ここで土に還るか。貴様らが選ぶのはこのどちらかだ」

 交渉、とも呼べない恫喝もここまでだ。シューは諦めて、槍を持ち直す。

「どっちも選ばねーし! 死ぬのはそっちだ!」

「使い走りが吠えると言うのか!」

 シルトがシグルズに向かって槍を構え、駆け出した。彼は大剣を力任せに横へ薙ぐ。彼女は身を低くしてそれを回避し、手首を捻って穂先を突き出した。肩を狙った一撃だが、分厚い鎧に傷を付ける事しか出来ない。

「……下がれシルト!」

 シューの呼びかけに反応して、シルトがバックステップ。彼女の前髪をシグルズの腕が掠めそうになる。間一髪、シルトの背筋が凍りついた。

「っぶねえ。死ぬかと思った」

「熱くなるな。私たちの相手はアレじゃないんだからな」

 距離を詰めてきたシグルズを確認して、二人は更に後ろへ下がる。

「左」

「はいよー」

 シューが左側から、シルトが右側からシグルズに走り込む。

 突き出された二つの槍。シグルズは大剣を振り上げてシューの得物を切り砕く。だが、シルトが剥き出しになった彼の眼球に穂先を突き立てていた。

 まるで、岩と変わらない。手応えなど皆無に等しい。シルトの腕に痺れが走り、彼女は槍を引いてシグルズの脇をそのまま抜けた。彼女の傍までシューも退き、二人して欠けた槍の穂先を認める。

「くっ、くっくっ。どうした戦乙女、戦意が萎んでいるぞ。生憎と、互いに命が残っている状況だ。続けよう」

 舌打ちして、シルトは使えなくなった短槍を投げ捨てる。新しい得物を用意してシューに視線を遣った。

「……お手上げだ。どうやら、奴が不死身ってのは間違いではないらしい」

 目玉を槍で突かれても平気な人間をシューは知らない。はたして、彼が人間なのかどうかですら。

「竜の血を浴びれば竜の鱗と同等の頑強さを。竜の臓を食らえば竜と同等の聡明さを。竜を殺した俺は既に人を外れている。貴様らでは俺に傷をつける事すら適わん。くくっ、理解したか小娘。俺を殺したいのなら竜を超える化け物を連れてくるんだな」

「うっぜーよ! 気持ち良く喋ってんじゃねーっつーの」

「不快だよワルキューレ。貴様が口を開く度に世界が汚染されていく。見ろ、この空を。この山を、木々を、鳥たちを。悲鳴を上げているのが聞こえないのか」

「バカかお前、浸ってんじゃねーよ!」

 シューは、一人だけで仕掛けようとするシルトの肩を掴んで押し止めた。

「……浸らせろ。どの道、私たちに取れる手段は限られている」

 不死身。それを端から信じるつもりはない。戦死者を運ぶ者が不死者を信じては仕事が成り立たなくなる。何かトリックが、どこかに穴がある筈なのだ。

 ――――見破る時間はなさそうだがな。

「この際だ、一度下山を考えても」

「ヒルデさんがいるんだよ!? 逃げられるワケねーじゃん。私一人でも、あいつブッ殺してやる」

 意気は買うが、気持ちだけではどうしようもない。ここで命を落とすのか。シューが覚悟を決めた瞬間、背後の山中から声が聞こえてくる。大きな声だ。希望に満ち満ちていて、それでいて、どこか嫌味たらしい。

「あいつだっ」その声に対して一番最初に反応したのはシルトだった。

「行くよシュー!」

 彼女は一切の躊躇を見せずに斜面を駆け下りていく。貧乏くじを引かされたと、シューはやはり覚悟を決めた。二人ともがシグルズに背中を向ける訳にはいかない。彼の足止めを引き受けるしかない。

 案の定、シグルズはシルトを追い掛けようとしていた。シューは両手に武器を持ち、彼の前に立ちはだかる。

「ヒルデが捕まったらしいな。あるいは、動けなくなったか、だ」

「……何?」

「ん、ああ、いや、そうか。あの男が……」

 シグルズはまるで、自分の目で見たような事を言う。シューにはただ、一がこちらに向かって呼び掛けた事しか分からないのにだ。

「……何故」

「何故分かるのか、か? 教えたところでどうにもなるまい」

 大剣の刃が鈍く輝く。数多の命を食い、血を吸い続けたであろう得物がシューを見つめていた。

「彼女に危機が迫っている。捨て置かれたとして、貴様にはブリュンヒルトに対する忠誠心がないのか」

 対するシューの得物は短槍が二本。技術部から受け取った携行可能なそれだ。人間が相手でも、並大抵のソレに対しても充分に過ぎる。しかし、相手は不可思議な能力でもっていかなる攻撃をも防ぎ、弾く肌を所持していた。正しく竜の鱗、そう言って差し支えない。

「不安か? 安心しろ、すぐに何も感じなくなる」

 目の前で大剣が振り上げられる。槍で受けても防げない。避けようとしても逃げられないだろう。しかし、黙して諦める訳にはいかなかった。シューは二槍を十字に構える。防げなくても逃げられなくてもせめて一太刀。シグルズの一撃を受け止めれば、一秒、その分の時間は稼げる。

「……ヒルデさん」



 斜面を駆け下りてくるシルトを認めて、一は息を吐く。

「ヒルデさあああん!」

「後、頼む!」

 シューがいない。恐らくシグルズの足止めに残ったのだろう。一は重くなりつつある足腰に鞭を入れる。土を踏み締め斜面を駆け上っていく。

「あっ、おい!」

「ヒルデさんは任せたっ、俺は野郎の相手に戻る!」

「……っ、くそっ、バカ、ありがとうっ!」

 シルトはまだ何か言いたげだったが、遠くなった一の背中を見て諦めた。

 一のペースが上がる。洋館はもう目の前だった。アイギスを広げて邪魔な枝葉を折り、砕く。

 深い木々の隙間を縫って陽光が照り注いだ。シグルズがいる。彼は一を認めて嫌そうな顔をした。一は目を細めて、

「……ヒルデさん」

 呟くシューを押し退ける。瞬間、アイギスにシグルズの大剣が振り下ろされた。

「人間風情が割り込む、なあああああっ!」

 一段と重くなる大剣を睨んで、一は歯を食い縛る。両腕には甚大な負荷がかかっていたが、不思議と痺れてはいなかった。

「ぼさっと見てんなや南駒台!」

「……っ、指図するな」

 シューがシグルズの背後に回り込む。彼女は跳躍して、短槍の柄でシグルズの後頭部を殴りぬいた。ダメージは通らない。不死身の英雄には通じない筈なのだ。しかし、バランスは崩れた。一はその隙を衝いて一気に大剣を押し上げる。

「……そうか!」

「調子くれてんじゃねえぞ英雄よお!」

 シューはもう一度、今度は背中を狙い、柄を使って殴打した。そして確信する。斬撃、刺突は通らない。細く、鋭い槍の穂先や剣の切っ先ではシグルズには通用しない。だが、打撃なら通じる。繰り出すのなら装甲の上から中身を揺さ振るような、鈍く、大雑把な攻撃だ。

 一はアイギスで無理矢理にシグルズを押し込んだ。たたらを踏んで後ろに下がる彼は歯軋りを繰り返す。シューが離脱したのを確認して、一はアイギスを大きく横に振った。

「貴、様……! 邪魔をするなっ」

「怪我はないかよ、南」

「……南ではない。シューだ、北」

「北じゃねえ、一一だ」

 距離を取りつつ、一とシューは山の斜面を背に立つ。

「シュー、あんたもシルトを追い掛けろよ」

「……馬鹿を言え、お前だけでアレを止められるのか? それに、ヒルデさんにはシルトがついていれば心配いらない」

 シューは無用の長物となっていた短槍の穂先を戻した。

「……ヒルデさんを一番強く慕っていたのはあいつだからな」

「あ、そ。なあ、あいつの名前を知らないか? シグルズじゃない方の」

「おおおお――――!」

 風が巻き起こり乾いた砂が一の真横を擦り抜ける。触れれば即、死に繋がる攻撃だ。だが、振りが大きい為に、身を守るだけなら易い攻撃でもある。彼はアイギスで受け止めて、シューがシグルズの側面に移動するまで凌ごうと判断した。

「蝿がっ」

 吐き捨てるように言うと、シグルズは一を押し潰さんばかりに力を込める。その間に、シューはシグルズの背部に連撃を叩き込んでいた。

「――――――――!」

 シグルズの表情にある変化が訪れる。それは不安だ。焦燥、そして苦痛に色を変えていく。初めて見せた彼のネガティブな感情だった。一はほくそ笑んだ。

「なんだ、もしかして、痛がってんのかよ?」

「黙れっ」

「やだね!」

 大剣を斜めに受け流し、一はシグルズから距離を取る。シューも彼に呼応して距離を取った。

 のらりくらりと立ち回る一たちにシグルズは痺れを切らして怒号を上げる。

「……名前? 奴はシグルズではないのか?」

「違うらしい。何か思いつかないか?」

 シューはシグルズから目を離さないで、何かを思い出そうとしていた。

「……ジーク。ジーク、フリート」

「ジークフリート? マジか?」

「シグルズでないのならジークフリートだろう。しかし、何の意味が?」

 英雄だろうが怪物だろうが、名前さえ分かれば怖いものなどない。一はアイギスをシグルズに、否、ジークフリートに向けた。

「こういう意味だよ! 『止まれ、ジークフリート』!」

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