ああ、女神様
滑り台。ブランコ。シーソー。ベンチ。
広場に点在する遊具。
ここは紛れもなく公園だった。
太陽は青空の天辺に位置している。
蝉が鳴いていた。
その鳴き声に、公園の傍を通りかかる人は、皆耳を手で塞いだり、顔を顰めたりしていた。
全ての人へと、平等に降りかかる容赦の無い光。
公園に居る人たちは、ハンカチや、シャツの袖等で、汗を拭う。
想像するに、今の季節は夏だと言える。
雑草と石が散りばめられた広場。
そこで子供たちが声を張り上げ、草野球に興じている。
体の大きさや、顔つきからして、せいぜい小学校低学年ぐらいだろう。
流れる汗や、襲い掛かる紫外線なんて物ともせずに、ただただ白い球を追いかけている。
しっかりしろよ、なんて声が外野、内野問わず上がっていた。
子供の人数は、そう多くない。
野球本来の九対九でなく、その半分ぐらい、と言ったところか。
守備側は、ピッチャー、ファースト、サード、外野が二人。
キャッチャーは、順番が回ってこない攻撃側の子供がやっていた。
適当に、決めてもいないサインらしき手真似をして笑っている。
外野の二人は、どうせここまで飛んでこないだろうと、高をくくってでもいるのか、センターに固まって次のバッターに対して野次を飛ばしていた。
攻撃側の子供たちは六人、守備側より一人多い。
赤い帽子を被り、白いTシャツを着た、バッターボックスに入っている男の子。
他の子供たちより、一回りは体が小さく、どこか頼りない印象を受ける。
金属バットを何度も握りなおしていた。緊張して、手汗でもかいているのだろう。
その小さな子の斜め後ろ。大きな体の男の子が、歪な形の円の中――恐らく、ネクストバッターズサークル――で、片膝を立て、バッターボックスで構える打者に声を掛けていた。
「ビビッてんじゃねぇぞ! しっかりバット振れよ!」
体に負けず、大きな声だった。
公園内の、誰よりも大きく、誰よりも響く声。
バッターボックスの少年は、声の主に振り向いて、歯を見せて笑ってからピッチャーを見据える。
まるで返事の代わりをするかのように、帽子を深く被りなおした。
塁上には子供が二人。
一塁、三塁、本塁と、塁は三つしかない。
どうやら三角ベースだったらしい。つまり、満塁だ。
アウトカウントが幾つかは分からないが、満塁。
絶体絶命。そんな状況ながら、子供たちが、砂を盛り上げて作った手製のマウンド上、そこに陣取る背の高いピッチャーは不敵に笑う。
打てるものなら打ってみろ。
やけに高く足を上げ、ピッチャーの男の子が白球を放った。
中々に速い。
キャッチャーミットにパン、と乾いた音が響く。
ピッチャーの気分を良くさせてくれる、魔法の音だ。
それに遅れて、バットが空を切る音。
味方から溜息。落胆の声。
「ワンストライクー」
と、間延びしたキャッチャーの声。
ピッチャーは小さくガッツポーズを作ると、キャッチャーからボールを受け取る。
バッターは肩を少し落とし、足場を慣らした。
夏場の、真昼の太陽は体力をじりじりと奪う。
流れる汗もそのままに、バッターはピッチャーを睨んだ。
その視線を軽くいなす様に、ピッチャーがまた足を上げた。
グッと、バットを握る手に力が篭る。
かっ飛ばしてやる。
そう思った男の子の目に飛び込む速球。
一球目よりも速いストレート。
うおっ、とベンチからどよめきが起こった。
さっきよりも高く、乾いた音を響かせ、ボールがミットに収まる。
今度は一瞬遅れてからスイングの音。
スイングの速度も中々の物だが、当たらなければ何の意味もない。
頼れるようでいて、頼れない。何とも空しい音だった。
「ツーストライクねー」
と、気落ちするバッターに軽くキャッチャーが声を掛ける。
攻撃側の子供たちが座るベンチが、何ともいえない悲壮感に包まれだす。
たかが子供の遊び。
たかが子供同士の草野球。
……たかが。
だが、彼らにとって、それは世界だ。全てだ。
テレビの中のプロ野球選手。
憧れ、尊敬し、畏怖の対象。
父親と一緒にナイター中継を見ながら思う。
俺たちもああなりたい。
プロではない、大人でもない、金も何もそこにはない。
そこには夢だけがある。
打って、走って、投げて、守って、声を出して。
打てばヒーロー、勝てばヒーロー。
狭い箱庭の小さな出来事。
だが、彼らにとっては、大きな出来事なのだ。
勝ちたい。勝ちたい。
でも、バッターは駄目だ。ピッチャーのほうがやっぱり強い。
バッターボックスに、子供の、汗以外の雫が落ちた。
その子は泣いていた。
――ああ、俺じゃ駄目なんだ。打てないし、期待も応援もされてないんだ。
「いいぞー! 次は当たる当たる!」
ハッと、泣いている少年が顔を上げる。
一番良く通る声。
その声の持ち主がバッターを励ます。
その声につられるように、ベンチのチームメイトも声を張り上げる。
行けるぞ、打て、やっちまえ。
男の子が、うん、と高く声を上げ、手を上げ、袖で涙を拭う。
さっきまでの悲壮感は何処へやら。
バッターの、みんなの笑顔が公園に戻った。
これだから子供なんだ、と。馬鹿にされるかもしれない。
そんな、ワンシーン。
まだ男の子の視界は滲んでいた。
それでも、負けるものかとピッチャーをその無垢な瞳に捉える。
マウンド上の男の子は、その様子を見て、面白く無さそうに唾を吐いた。
グローブの中の白球を、しっかりと握りなおす。
――俺が、
バットを短く持ち、ボールを待つ。
やがて、ピッチャーが足を上げた。
高く、さっきより高く。
ツーストライク、ノーボール。
だが、ピッチャーを務める男の子は逃げる気など毛頭無かった。
こんな奴に打たれてたまるか。
バッターの男の子は、ボールだろうが、ストライクだろうが関係無かった。
投げられたボールを、渾身の力を以ってして打ち返すだけ。
つまり、ラスト一球。
ピッチャーは、今までで一番の、最高のストレートで勝負するつもりなのだろう。
それならば、バッターは、今までで一番の、最高のスイングで勝負するだけなのだろう。
「ハジメェ! ホームランだ!」
「かっ飛ばせ!」
「勝とうぜ!」
一球目よりも、二球目よりも速い球。
それが、キャッチャーミットを目掛けて奔る。
バッターボックスの男の子が、応援に背中を押される様にして足を踏み出す。
腰を回し、スイング。
応援の声に掻き消されまいと、負けないように高い音が響く。
金属バットがボールを捉えていた。
バットから伝わる重たい感触。
小さい体を目一杯使って、負けないように力を振り絞る。
真っ直ぐな打球が外野に飛んだ。
ベンチからは歓声。
ピッチャーは溜息。
バッターは叫んだ。
叫んで、喜びを体全体で表現するかのように、大きく飛び跳ね、塁を回る。
打球の行方を今までサボっていた外野が追うが、それも無駄な徒労に終わるだろう。
公園の一番端。
低い並木が連ねる公園のフェンスの、更に向こうを恨めしそうに眺めた。
一方。
生還したランナーと、ベンチの仲間達がヒーローをホームベースで待ちわびる。
未だ響き渡る歓声に応えるように、大きく英雄が手を掲げた。
三塁を踏み、ホームベースへと急ぐ。
そして、ホームイン。
仲間に揉みくちゃにされながら、ヒーローは最後にもう一度、大きく声を上げた。
それは白昼夢。
誰かの、何処かの、いつかの記憶。
英雄が声を上げたところで、眠りから無理矢理覚まされた様に、そこでその映像は途切れた。
誰が、何処で、いつ見ていた映像だったのだろうか。
だが、それは夢だ。
だから、気にする事はない。
「一、もう一度言ってみろ」
「俺は勤務外になります」
はっきりと、一が店長に対してそう言い切った。
一の視線は、店長から頑として動かない。相手の瞳の、その奥を見つめる。
何も言わずに、店長が一の頬を平手で打った。
声を上げずに、一が店長の顔をひたすらに見た。
お互い、黙ったまま。
「時間が無いのだけれど?」
梟が声を掛けるが、両者は動かない。
やがて、舌打ちの後、店長が先に折れた。
「……一。確かに、な、このままじゃ糸原が危険なのは認める。応援もやはり期待できない。でもな、助けに行く為に、お前が勤務外になったとして、本当に救えると思ってるのか? お前はまだ一度もソレと戦った事が無いんだ、いきなり映画のヒーローみたく戦える訳無い、分かるだろう?」
一は黙ったまま。
「その前に、コイツが言っている事も百パーセント信じ切れるのか? 信じて、力を貰って、勤務外になれたとしても、お前は何かしらのリスクを背負わされるんだ。ソレと対等になるってのはそういう事なんだ。寿命が削られたり、体の一部を持ってかれたり。嫌だろ? お前もそんなのはさ」
梟が喉の奥で笑う。
「私はそんな野蛮な代償要求しないわ」
店長が目だけで、黙れ、と合図を送った。
「頼む。勤務外になんてなるな、危ない目にも遭うな。お前はずっと一般でいてくれ……」
懇願にも似た、そんな口調で店長が続けた。
「じゃあ、誰があの人を助けるんですか?」
自ら閉じていた口を重そうに開けて、一が淡々と語る。
その言葉は、感情を込めず、と言うか、今にもあふれ出てきそうな物を、何とか押さえている、そんな印象を受けた。
初めて見る一の表情。一を見て、店長が迷った。
言うべきか、否か。
何処を見ているか分からない一と、店長は視線を中々合わすことが出来ない。
――何で。
「諦めてくれ」
やっとの事で一と目を合わせ、店長はそれだけ口にした。
それだけしか口に出来なかった。
一はその言葉に、驚きも、怒りも、悲しみもしないように見える。
――何でそんな顔が出来るんだ?
一はぼんやりと、前を見ていた。
そして、徐に手を伸ばす。
伸ばした先は、白い鳥。
縋る様に、指を惑わせ、梟に声を掛けた。
「力を下さい」
震える声で。
震える指で。
「安心なさい。私は目玉を寄越しなさい、なんて言わないから」
震える体で。
震える心で。
「さ、もっと近づいて」
一が梟の元へ、一歩足を踏み出すと、店内が閃光弾でも投げ込まれたかのように、真っ白な光の中に包まれた。
何も無い。
真っ白な光以外何も無い。
そんな空間で、一は目を瞑っていた。
ここはどこ?
なんて考えも思いつかない。
一の頭の中で、重く、鋭く、喧しく耳鳴りが響いている。
耳の穴を指で塞いでも、一向に音は消えなかった。
何回か唾を飲み、やっと、音が消えていく。
次に一は、目を開けた。
真っ白。
真っ白な空間。
落ち着いてきた頭の中、ここはどこだ、とやっと思う。
「店長?」
声を掛けるも、店長からの返事は無かった。
それどころか、先程まで店にかかっていた有線のBGMも、何も聞こえない。
――おかしくなっちまったのか?
最悪だ、そう思った矢先、一が今いる真っ白な空間よりも、更に白さを増した光が目の前に現れた。
輝きの中、何かが姿を形作っていく。
だが、一の目ではそれを見る事が出来なかった。
太陽を、眼鏡でも掛けて直接見せられているような、厳しい眩しさ。
一はまた目を瞑るも、閉じられた瞼の中の眼球に、光が焼き付いて離れない。
「勇ましき者よ」
何処からか、声が聞こえた。
一の耳はその声を捕らえていたが、気のせいだと、一は再び回らなくなった頭をして、そう思う。
もう一度、同じ声が聞こえた。
「誰?」
目を瞑りながら、一が答える。
少しの間があってから、
「アテナ」
と、一の頭の中に直接聞こえてきた。
優しい声だな、少なくとも一はそう思った。
その声に安心し、一はゆっくりと目を開ける。
――誰? アテナ?
西洋の兜、胸当てを身に纏った姿。
兜から、長く垂れ流したブロンド。
手には、一本の槍が握られていた。
反対側の手には、醜いレリーフが施された盾。
優しかった声と一致しない姿に、一は戸惑う。
戸惑いながら、声を掛けてきた人物の顔を見る。
だが、後光ともいえるものに遮られ、確認できなかった。
眩しくて、一が視線を下げると、アテナと名乗った人物はサンダルを履いている。
――何で?
重々しく武装した上半身に比べると、一はそれがアンバランスに感じた。
「……安心なさい」
輝きを放っていた光が、それを徐々に失っていく。
やっと、一はそのアテナの顔を見ることが出来た。
整った顔立ち。
目鼻は筋が通っており、透き通る蒼をその瞳に宿していた。
きれいな人だな、と一は思う。
付け加えて、我ながら陳腐な表現だとも思った。
「えっと、俺はどうなるんですか?」
無表情を保っていたアテナの顔が小さく崩れる。
小さく、笑っていた。
「大丈夫よ」
何が、そう言おうとした一より先に、
「目玉を寄越しなさいなんて言わないから」
そう、女神が言った。