シグルズは怒りを振り上げる
一は自分の寝つきが良くない事を知っている。決して悪いとも言い切れないのだが、糸原と比べれば、決して良いとも言い切れない。彼女のそれは正に、眠りに落ちるのだ。布団に入った途端に、すとんと、驚くべき早さで。時には笑ってしまうぐらいに。
だから、寝る前には何か考え事をするのが一の常だった。疲れてはいるが、まだ体は昂ぶっている。シグルズの事も、ヒルデの事も、シルトたちの事も、何もかもが気になって仕方がない。
考えていては頭が回って目が冴えて眠れない。明日も朝からアルバイトなのだから体を休めなければ。とも思うのだが、どうせすぐには眠れない。一は開き直り、ずぶずぶと思考の沼に身を沈ませていく。
「……くそ」
ヒルデが何を考えているのかが分からない。彼女が昔の男に連れられてどこかに行くならば、まだ、納得出来る。しかし、シルトの話が本当なら、ヒルデは南駒台店の者には何も告げないで出て行ってしまった。なのに、ここにいる。追っ手がかかるのを知っているだろうに、駒台に留まっている。目的が見えてこない。あるいは彼女に目的などないのか。シグルズに、彼の目的に付き合わされているのか。それも、彼女が何も言わないのだからどうしようもない。
ルルを傷つけたのはヒルデ、シグルズのどちらなのか。シグルズがグリンブルスティを倒したのは何故なのか。果たして、本当に彼らに理由があるのか。
「わっかんねえ」
寝返りを打ち、頭の中で積み上げ、組み上げたものを崩していく。
昔、ヒルデがシグルズと交際していたのは確かなのだろう。昔というからには、円満であろうがなんであろうが、二人が一度は別れた事に違いない。にも拘らずシグルズは戻ってきた。彼女の前に再び現れた。そして、また、二人でいる。ヒルデがあちらで、自分がこちら。一にとっては未だに信じたくない立ち位置だった。
しかし、一には気になる事が一つある。ヒルデの顔だ。彼女は何故、あんなに悲しそうにしていたのだろうか、と。何も言わずに出て行った事か。自分がいながらルルを傷つけてしまった事か。シルトに答えられなかった事か。俯いたのは罪悪感からか。それとも自分たちなんかを見たくなかったからか。……どうせなら、嬉々として鎌を振るってくれれば良かった。本気でヒルデに襲われたのなら、こんなに思い悩む事はないのである。彼はそう思った。そう思い、考えている内に瞼が重くなる。泥に沈むかのように、ずぶずぶと体が重くなっていく。ずぶずぶとした、気持ちの悪い眠りに沈んでいく。
駒台デパートの駐車場に横たわる、切り刻まれたグリンブルスティの骸を見つめながら、ヒルデは小さく漏らした。
「…………手を出さないって」
「俺を責めるのは筋違いだ。責めるなら、お前の部下にしておけ」
シグルズは大剣の血振りを済ませて、悪びれずに言い放つ。
「それに、俺の目的が成就したなら関係なくなる。早いか遅いかの違いに過ぎん」
「…………出来ると思っているの?」
「は、ならば、何故お前は俺についてきた。出来ると、信じているからだろう」
断言し、シグルズは得物を片腕で素振りする。
「見ていろ、この世界を美しく変えてみせる。……しかし、その為にはあの男が邪魔になる。人が悪くなったな、ブリュンヒルデ。どうして、奴の事を黙っていた?」
ヒルデは俯き、両腕で大鎌を心細そうにかき抱いた。
「存在を知らなかったとは言わせん。お前も、短い間ではあるが俗世に塗れていたのだからな」
「…………教える必要は、ないと思ったの」
「それは、俺を高く評価しているのか? それとも、奴らを庇っているのか?」
否定も肯定もしない。ヒルデはただ俯くだけだ。シグルズは何も言わず、溜め息を吐く。
「無謀な男だ。この俺の前に立ちはだかろうとするとはな」
「……気付いて、ないの?」
「何?」
緩々とした動作で首を傾げるヒルデを見て、シグルズは訝しげに眉根を寄せた。
「…………ううん、良いの」
「そうか。お前がそう言うなら、気にはすまい。塒に戻るとしよう」
頷き、ヒルデはシグルズの後を追い掛ける。闇夜に、彼女の持つ鎌の刃先が閃いて見えた。
朝。
紛れもなく朝である。朝なのだから起きなければならない。
一はゆっくりと体を起こして、調子を確かめた。残念ながら、快調だった。少しでも体調を崩しているなら、アルバイトを休む理由が出来たのにと、くだらない事を考えながら冷水で顔を洗う。
ナナは上手く言っておいてくれただろうか。出来るなら、もう一度布団の中で目を瞑っていたい。そんな誘惑に駆られながらも一は身支度を済ませていく。あくびを一つ。時計を確認して、ドアを開けた。アパートの前の道に見知った顔がうろうろとしているのは予想の範囲内だった。彼は白い息を吐きつつ、階段をゆっくりと下りていく。
「よう、ストーカー」声を掛けられたシルトはわざとらしいぐらいに無反応を通した。
シルトは、昨夜と同じ格好をしている。化粧もしていない。泣き腫らした顔もそのままである。
「……うるさい」
声にも張りがなく、少し擦れていた。一晩中、ヒルデを探し回って、彼女の名を呼び続けていたのだろうか。
「寝てないのか?」
「だったら? つーか、気軽に話し掛けないでくれる?」
「話し掛けてくれと言わんばかりの態度だったのにか」
「ちっげーし。死ねよ。あー、うざい」
「そういや、お前んとこの、その、ルルってのは無事だったのか?」
「……まあ、一応」
シルトは塀に背を預けて、ずるずると座り込む。
「ただ、暫くは勤務外なんかできねーってさ」
「そりゃ、災難だ。……いや、災難でもねえのか。ああ、ところでヒルデさん、見つかったのか」
「見つけたら、こんなトコにこねーし」
「少し休めば? ……正直さ、今会ってもどうにもならないと思うぞ」
ヒルデの傍にはシグルズがいる筈だ。彼女と何か話そうと思っても、竜殺しが邪魔をするのは目に見えている。
「ルルは怪我で、シューは付き添い。だから、私がやらなきゃダメだから」
「殺されちまうぞ」
「……あんた、心配してんの? もしそうなら、マジで、気色悪い」
「気色悪くて、悪かったな」
一がそう言うと、シルトは意外そうに目を細めた。彼女は口の端を歪ませる。
「私の事、嫌いなんじゃん。何、凹んでる時に声掛けたら落ちるって? 落ちねーよバァカ。女舐めんな、クズ」
「誰が誰を落とすかボケが。確かに、俺はお前が嫌いだよ。いや、嫌いじゃないな。大嫌いだ。お前みたいな女は痛い目に遭えば良い。変な男に引っ掛かって騙されろ。この気持ちに嘘はない」
「はあ? 何それ」
「大っ嫌いだよ。けどさ、死んで欲しいとまでは思ってない。お前だって分かってるだろ。のこのこ出て行ったって、ヒルデさんは話をしてくれない」
反論せずにシルトは黙り込んでしまう。彼女も、一の言っている事が分かってはいたのだろう。
「でも、家には帰れない。絶対、張り込まれてる」
「あー、そうか。ヒルデさんの部下だもんな」
一は頭に手を遣り、視線を泳がせる。昨日のシルトを見ていた彼には、彼女がヒルデと通じているようには思えない。だが、詳しい事情を知らない南駒台店の人間にはそうは思えないのだろう。
「じゃあ、俺の部屋使って良いよ」
「……は?」
「いや、そりゃそんな綺麗じゃないけどさ、その辺で寝るよりマシだろ。隙間風だってそうは入ってこないし」
シルトは一の様子をじっと観察する。今の今まで自分を嫌いだと言っていた男が、部屋を貸すなどと、何かしらの魂胆が見え見えだった。
「どうせ、俺は今からバイトだしな。昼過ぎには戻ってくるけど、それまでは好きに使ってて良い」
「言っとくけど、あんたなんかに金は出さない。体も出さない。見返りが欲しいならもっと軽そうな女狙えば?」
「そんなもんいらんわ。一応、お前にはまだ借りがある。そいつをチャラにしてくれるだけで良い。そうすりゃ、俺は遠慮なしにお前をこき下ろせる」
「今まで遠慮してたの、アレで?」
一の吐き出した数々の暴言を思い出して、シルトは呆気に取られた。
「まあな。で、どうするよ?」
これ見よがしに、部屋の鍵を取り出す一。
「……使う」
「二〇二号室な」
鍵を投げて遣し、一はシルトに背を向けた。彼女は礼を言わなかったが、それで良いのだと彼は思った。
カウンターに立ってから数分、ナナの言った言葉が理解出来なくて、一は彼女を見つめ返した。
「それで良いのですか、マスター」
「何がだよ」
「ワルキューレを追い掛けるのだと思っていましたから」
追い掛けて、見つけて、捕まえたところで話は出来ない。お供の英雄に切り殺されるだけだろう。一は苦笑し、割り箸の補充を始めた。
「マスターは、ヒルデというワルキューレに絶大な信頼を寄せています。否定は結構、反論は必要ありません。少なくとも、私にはそう見えますから」
ナナは水道の蛇口を捻る。流れていた冷水が止まり、静寂が戻った。
「あの日、セイレーンが『棺』に納められそうになった日、マスターはヒルデさんと逃げましたね。二人で支え合いながら、三森さんを、南の勤務外を、私を、敵に回しながら。……今となっては羨望の対象で、私自身を叱責してしまいたい話です」
「……ナナ、ヒルデさんは、きっと……」
「根本的には、あの日から、ナナに変化はないのでしょう。心や命と繰り返したところで、実際にそれらは宿っていません。私はオートマータ。腕を切り落とされても苦痛はないのです。のみならず、修理さえすれば元通りに。ですが、マスターは違います」
否定はすまい。ナナがそう望んでいない。一はぐっと堪えて、彼女の話を待つ。
「マスターは、ヒルデさんと会えなくなったら、きっと寂しくなると思います。ヒルデさんが死んでしまったら悲しくて、ヒルデさんが笑えば楽しくて、ヒルデさんが悲しければ怒りだすのでしょう。マスターは、自分以外の人の為に動ける方ですから」
「情けは人の為ならずって言うだろ。買い被り過ぎだよ」
「ふふ、マスターが、ナナのマスターで良かった。……アイギス、持ってきているのでしょう?」
持ってきたと言うよりも、昨夜返すのを忘れていただけで。だから今日返そうと思っていただけで。……本当にそうか? 自分の中に答えを探すが、馬鹿らしくなって一は笑った。行ってみなければ分からない。やってみなければ何も見えない。ヒルデは自分と話したいのか。会いたいのか。関係、ない。思うままに動く。そうでないと後悔する。それに、一にそうしろと言ったのは他でもない彼女なのだ。
「良いのか?」
「後の事はナナに任せてあるのでは? マスターは何も気にせずお進みください」
「ありがとうな。……行ってくる」
「いってらっしゃいませ、マイマスター」
動かなければ始まらない。ヒルデが何をしているのか、何をしたいのか。会って、話して、確かめてみるまでは何も始まらない。
シグルズも放っておけない。グリンブルスティを倒してくれたのは有り難いが、アレは、英雄ではない。少なくとも、一には彼が英雄には見えないのだ。私情のままに、私欲のままに剣を振るう姿はまるで魔物である。世界が汚れていると言ってのけ、ヒルデに対する執着心と他者に対する敵愾心を隠そうともしていない。
『――――英雄だあ?』
彼なら、蛇姫の首を刎ね、海の怪物を石化せしめた北の英雄なら、何と言うだろうか。それも一つの英雄の形なのだと真面目な顔で言い放つだろうか。知らねえと笑い飛ばすだろうか。何にせよ、一人で良い。この世には、英雄なんて面白おかしい存在は一人だけ、北英雄だけで充分なのだ。
ヒルデがいそうな場所の心当たりが、一には一つだけある。否、一つしかないというべきか。駒台の中央に位置する自然公園だ。駒台山の洋館も思い当たったが、夜通し彼女を探し回っていたシルトが行っていない筈はないだろう。もしかしたら、シルトは駒台を隈なく走り回り、ヒルデの姿を探したのかもしれない。それでも、出会えるような気がしていた。確信めいた予感に急かされ、一は歩き出す。
芝生の上を転々とするビニールのボールに目を奪われる。それを追い掛ける子供と、ビニールシートから我が子を見つめる母親。我に返って周囲を見渡せば、誰も彼もが幸せそうに、楽しそうに笑っていた。
ここに来るな。
そう、言われているようで、一は逃げるように広場を後にした。人目を避けて、人通りの少ない道を選び続ける。やがて、疲労感を覚え始めた彼は空席のベンチを見つけた。ゆっくりとそこに向かい、ベンチに積もる落ち葉を払った。
「ふう……」
白い呼気が立ち上る。一はそれを眺めながらベンチに腰を落ち着かせた。また溜め息を吐きそうになったので、何とか堪える。尻が冷たいので、自販機を探して缶コーヒーでも買ってこようかと悩んでいた時だった。世界が、歪んで見えたのは。
それは雪の精霊か、はたまた真白い幽鬼か。いつか見たコートに、暖かそうな色をしたマフラー。トグルボタンのついたファーブーツも、いつかここで見た彼女の格好で、一の心が締めつけられた。
「……ヒルデさん」
ヒルデは覚束ない足取りでこちらに向かってくる。シグルズはどこにも見当たらない。今、彼女は一人らしい。何故だと考えるより先、一の口は開いていた。
「良く似合ってますよ」
笑顔を作って手を振ると、ヒルデは優しく微笑む。
「…………嘘吐き」
「嘘じゃないですよ。あ、ここ座りますよね?」
一は立ち上がり、ベンチに散らかった落ち葉を片付けた。
「……ありがとう」ヒルデは遠慮がちにそこへ座る。一の態度が柔らかくて、彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「今日はお一人なんですね」
「…………ん。君も」
「ええ、一人ですね」
何となく気まずくて、話を広げられない。聞きたい事はあるのに、どう切り出して良いのかが分からない。
「……何か、聞きたいんじゃないの?」
だから、ヒルデからそう言われても、一は暫くの間は何も言えなかった。
「一つだけ、聞かせてください。全部、ヒルデさんが望んでやった事なんですか?」
「…………全部って?」
「ルルって人を傷つけたのも、皆に黙って出て行ってしまったのも、あの怖い男の人と一緒にいるのも、です」
一は出来るだけ責めるような口調を避けたつもりだが、ヒルデは俯いてしまう。
「もしそうなら、理由を、目的を教えて欲しいってのが本音です。俺に言いたくないんなら、せめて、シルトには言ってあげてください」
「……君は、良いの?」
「俺は、部外者ですから。南駒台の人間でもないし、ワルキューレでもない。本当なら、ヒルデさんの隣に座るべき奴じゃあないのかもしれません」
「ワルキューレって、知って……」
「シルトから聞きました」
遮り、断言する。
「…………ん、気に、しないで。教える。でも、一つだけ、お願いがあるの」
「何でも言ってください」
「ん」ヒルデはゆっくりと頷き、
「…………もう、関わらないで欲しい」
落ちる枯葉を見つめて、言った。
それを承服するのは話の内容次第だ。だが、頷かなければ話は進まない。一は彼女の意向を無視する形になるのを予想しながらも、首を縦に振る。
「君は人間で、私は、人間じゃない。だから、ん、これ以上は……」
「俺も人間じゃあないんですけどね。でも、ヒルデさんがそう言うなら」
「…………そう」
ヒルデが悲しげに目を伏せたのは何故だろう。自分は言う事を聞いたのに。一は分からなくなり、口を噤んだ。
「……彼の、シグルズの目的はね、世界を綺麗にする事、なんだって」
「綺麗に? ああ、いや、言ってましたか、そんな事を」
世界中を箒で掃いてくれるなら、どれだけ有難いか。しかし、シグルズの様子を見ていればそんな事をするモノとは到底思えず、見えない。
「…………シグルズは、この世界が好きなの」
ヒルデは肩に落ちてきた葉を手に取り、大事そうに掌の上へ乗せた。
「葉も、草も、木も、森も、水も、土も、石も、太陽も、月も、空気も、空も、山も、海も、鳥も、鹿も、熊も、犬も、何もかもを愛してる。でも……」
饒舌なヒルデを見て、彼女にここまで語らせるシグルズの存在が妙に腹立たしく思える。子供じみた感情すら殺せないのかと、一は死にたくなった。
「でも、人間は嫌い、ですか」
「…………ん。人間は汚いって」
一は頭をかいた。否定するつもりはない。むしろ、その意見には全面的に同意である。汚くない人間など、人間ではない。裏切り、騙し、騙り、死に追い遣って時には自らの手で殺す。それが人間だと、胸を張って言い切ってやっても構わない。
「だから皆殺しに? 乱暴な話ですね。それに、無謀だ。人間全部を殺せたなら、人間以外の生き物は喜ぶとは思いますけど。けど、流石に無理でしょう」
疑念があった。シグルズが『円卓』に所属している可能性について、である。しかし、人嫌い、どころか自分とヒルデ以外を嫌っている彼はどうやら単独で動いているらしかった。それでは、いくらなんでも無理があり過ぎる。確かに、英雄の名、竜殺しの力は伊達ではない。それでも、彼は一人だ。ヒルデが協力したとして、二人。たった二人で何が出来るか。
「俺はあなたたちを止められない。でも、俺以外の誰かがあなたたちを止めるでしょうね」
「…………ん、分かってる」
「分かってるなら……」
「……シグルズはもう、誰にも止められないから」
なんとも悲痛、悲壮な決意だと、一は鼻で笑いそうになる。
「だから、せめて、私だけはあの人の傍にいてあげないと」
「追っ手がかかっているみたいですよ」
「……狂戦士、だよ、ね? ん、知ってる」
「先、誰が見てもなさそうですよ」
ヒルデは薄く笑んだ。
「…………ん、知ってる」
「そんなに、あの人の事が好きなんですか」
言ってから、一はしまったと思った。
「うん」
返事なんて、欲しくなかったのに。彼女の口から聞きたくなかった。決定的な何かが崩れて、明確な線が引かれたような気がして、一の目の前が一瞬、真っ暗になる。
「この街の人を殺すんですね」
だが、忘れてはならない。自分は勤務外で、隣に座る女は敵なのだと、気持ちを誤魔化して無理矢理に押しつけて黙らせる。
「…………最初は、南の人たちを狙うんだって、言ってた」
だから、その言い方が気に入らない。他人事のように言ってのけるヒルデが、気に食わない。
「何も思っていないんですか。部下も、仲間もいるんでしょうに」
ルルは剣に貫かれた。だが、貫かれても尚、残ったシルトも、シューも、まだヒルデの事を思って、探しているのだ。
「…………ん、あの、ごめ――――」
「――――俺なんかに謝らないでください。謝ったら、俺、ヒルデさんを軽蔑します」
謝る相手はここにいない。ヒルデが頭を下げるのは今ではない筈なのだ。
「シルトは、今、俺の部屋で寝てる筈です。謝るなら、今からにでも……」
ヒルデは緩々と首を振る。
「…………駄目、なの。もう遅いから」
「だったら、ヒルデさんも殺すんですか?」
「それ、は……」
「無理だって分かってるのに、惚れた男に付き合って、殺されるまで、殺し続けるって言うんですか? そんなの、あんまりだ」
「……でも、でも……」
苛々して立ち上がった一の目が、何かを捉えた。向こうから近付くそれは、あまりにも現実離れしている。ヒルデも彼の存在に気付き、焦燥した様子で立ち上がった。
「逃げてっ」
白昼堂々、甲冑を着込んだ男が闊歩する。大剣を担いだ男が悠然と。
アイギスを持ってきていて正解だったと、一は口の端をつり上げる。
「貴様、昨夜の……! 貴様そこから、いや、良い。そこでじっとしていろ」
シグルズが大剣を振るうと風が起こり、既に散った葉が舞い上がった。木々がざわめき、鳥がそこかしこから飛び立っていく。
一は笑った。これではまるで間男ではないかと。
「また会ったな、英雄」
「汚れた目で彼女を見たな。汚い声で彼女に話し掛けたな。腐った心で彼女を思ったな。それだけで、充分だ。充分だとも」
「綺麗好きなんだなあ、シグルズさんよう」
「貴様っ」
一は余裕ぶってアイギスを広げる。ヒルデはおろおろとしていたが、彼にはもう関係なかった。
そう、どうにだって出来る。シグルズ、その名前さえ知っていればアイギスは発動出来るのだ。ヒルデがいるので攻撃にはまず転じられそうにないが、逃げるぐらいは、英雄とやらを怒らせて一泡吹かせるぐらいは充分可能である。そう、判断していた。女々しい嫉妬と意地汚い嫌がらせだとも分かっている。
「…………ま、待って」
ヒルデが、一とシグルズの間に割り込んだ。
「退け。もはや、聞く耳など持てんぞ」
「駄目。手を出さないって……」
途端、シグルズの頭に血が上る。激昂した彼はヒルデの肩に手を置いた。抑えられない情動が彼の指に力を加えていき、整った彼女の顔が苦痛に歪む。
「お前……お前までっ、お前まで俺を裏切るつもりなのか!?」
「…………何、を?」
「俺の目を盗んで人間とっ! お前だけは! 俺はお前だけを信じているんだぞ!?」
「ちが、私は……」
「ならば退け!」
ヒルデを押し退けると、シグルズは一に切っ先を向けた。
「名乗らずとも良い。ただ、死ね」
「はっは、そうかよ。だったら『止まれ、シグルズ』」
「おおおおおおおおっ!」
シグルズが突きを放つ。
――――あれ?
「うおおおおおお!?」
シグルズへ無造作に向けていたアイギスに衝撃が伝わった。一は叫び、両足で地面に踏ん張ろうとする。落ちていた枯葉を踏んでしまっているのか、ずるずると滑って後ろに下がり続けるのみだ。
「てめえっ」
「これは何だ! 俺の剣を受け止めるか貴様!」
一は両腕に全ての力を注ぎ込む。少しでも気を抜けば突き飛ばされ、剣を突き立てられるのは明白だった。
「なんで、なんで止まらねえんだよ!?」
どうして止まらない。きちんと、手順は踏んだ筈。アイギスが発動する、その為に必要なルールは守った筈だ。なのに、止まらない。シグルズは動き続け、自分は今にも殺されそうで。
混濁する思考を繋ぎ止め、一はそれでも叫び続ける。
「『止まれシグルズ! 止まれって言ってんだろうがシグルズぅ!』」
「黙れっ」
「てめえが黙れ!」
「シグルズシグルズと!」
シグルズが得物を一度引き寄せた。肩で息をつく一を見て、彼は嫌らしく口角をつり上げる。
「さっきから何を言っている。今際に吐くならマシな事を選ぶと良い」
「……あ?」
両腕が痛い。否、あまり痛くない。また麻痺しかかっているのだ。
「止まれと言われたところで聞き入れるつもりもないが、そもそも、俺の名はシグルズではない」
目の前の男が何を言っているのか、一にはすぐに理解出来なかった。それは、ヒルデも同様で、彼女はシグルズを、シグルズの筈である男を疑わしげに見つめている。
「なんだ、そりゃ。どういう事だよ」
「答える義理も、名乗る理由もない。貴様は土に還る定めなのだからな」
意味が分からない。が、それならば納得がいく。アイギスが発動しなかったのは、対象の名前を間違えていたからなのだ。だが、シグルズで合っている筈なのである。ついさっきまで、ヒルデもそう呼んでいたのだ。
「……てめえ、イカれてんのか」
「おおおおおおおおっ!」
一の言葉を無視して、シグルズ、だった男は大剣を突き出す。
アイギスをかざすも、もう一度防げるかどうかは分からない。それでも、経験と本能から一は――――。
「何やってんだよっ」
横合いから突き飛ばされて、宙に浮く感覚を一は認識した。上下左右好き勝手に流れていく景色の中、一は誰かに抱えられている事も認識する。
「…………シルトっ」
ヒルデの声が後方から聞こえた。それでも、シルトは一を抱えたまま止まらない。
「……呼んでるぜ」
「うるさいっ、うぜーっつーの!」
どうやら、自分はシルトに助けられたらしい。休んでいろ、なんて格好付けた事が何だか恥ずかしくなって、一は少しだけ力を抜いた。