シルトシュパルテリンは盾を割る
世界は汚い。
汚濁に満ちて、大気は汚染され、目に見えるほどの不浄がこの身を包み、飲み込もうとしている。
人間は醜い。
一枚の金貨を巡って裏切り、罵り合う。爛れた欲望をぎらぎらと垂れ流し、他者を喜色満面で踏みつける。何年経っても、何世紀が過ぎても変わらない。
鳥たちは止まり木を失い、力尽きるまで翼をはためかせる。地上に楽園はない。綺麗なものはもう、消え失せてしまったのだ。自分たちを助けてくれと、奴らを殺してくれと囀る彼らの鳴き声が耳に痛い。
竜の血を浴びたのはこの為なのだと理解する。人の道を外れたのは、人を罰する為なのだと。
真に美しいものだけが、この世界に残れば良い。隣に立つ彼女を見て、男は、シグルズはそう思った。
堀がルルを病院に運んでいる為に、駒台デパートまでは歩いていかなければならない。車があったとして、免許がない。免許があったとして車がない。何たる仕打ちだと、一は勤務外に対する扱いの悪さを恨んだ。誰を恨めば良いのか分からないので、自然、憤りの矛先はかねてから気に食わないシルトに向く。
「シグルズってのは、どんな奴なんだ?」
「……教えてやっても良いけどさ、なんでそんな機嫌悪いの?」
「悪くねえよ」
ぶっきらぼうに答える一を瞥見し、シルトは舌打ちした。
「私に当たらないでよ。マジ、最悪。なんつーの、ちっちゃいっつーかさ」
「マスターを侮辱するのなら容赦はしません。問われているのですから、シグルズについて答えてはいかがですか?」
「揃いも揃って……。ふん、シグルズは英雄。そう呼ばれてる。あんたと違って、カッコイイ男って感じ」
――――英雄。
最近では聞き慣れて、どうにも安っぽく思えてしまう。一はシルトの言を鼻で笑った。
「ハンパなく強い。ヒルデさんが絡んでなきゃ近づきたくないくらい」
「ワルキューレとしては、強者の存在は喜ばしいのでは?」
「強過ぎるってのもなんだかなあって話。何考えてるか分からないし」
「漠然としてるな。強いって言っても、どのくらい強いのかが聞きたいんだよ」
今度は、一の言をシルトが鼻で笑ってみせる。
「聞いたら逃げたくなるかもよ?」
何を聞いたところで逃げたくなるのだから仕方がない。一は気にしていない風に装い、話の続きを促した。
「じゃあ、あんたは竜を殺せる?」
「竜ぅ? そんなもん……」いないと言おうとした一の動きが止まる。
「いてもおかしくはない世界ですが、竜というのはいささか飛躍している気もしますね」
一とて竜の存在を全面的に信じている訳ではない。が、こんな世の中だ。現れたとして、すぐにその現実に適応してしまうだろう。
「シグルズは竜を殺してる。そん時に、竜の血を浴びて、竜の心臓を食べたって聞いた」
「はん、血がなんだってんだよ。鳥を食っても飛べねえし、魚を食っても泳げねえんだ。だからどうしたって話だよ」
シルトは残念そうに一を見遣って、首を横に振る。
「鳥と魚と一緒にすんなよバーカ。竜ってのは、でかいトカゲじゃないんだっつーの。竜には魔力が宿ってる。すげー力が手に入っても不思議じゃないし」
「ナナ、どう思う?」
問われ、ナナは目を瞑って思考した。やがて彼女は遠慮がちに口を開く。
「戦闘の際、特別な能力を行使しているようには見えませんでした。大剣を容易く振るう腕力、身のこなしには瞠目すべきですが、それ以上となると……」
「隠し球持っててもおかしくないか。なあ、もっとさあ、何か知らないのかよ?」
「はあ? つーか、教えてくださいって態度じゃなくない?」
「ちっ」これ見よがしに溜め息を吐くと、一は面倒くさそうに頭を下げた。
「どうか、この哀れな豚めに英雄のお話を教えてくださいワルキューレ様」
棒読みの台詞を聞かされてシルトは一瞬手が出そうになる。が、ここで争っていても仕方がないと、どうにかこうにか怒りを自制した。
「……不死身。シグルズは死なないんだってさ」
「信じられませんね。人間として、生物として誕生したからには寿命がつき物。死からは逃れられません。シグルズは、機械の体をくれる星にでも行ったのですか?」
自動人形のナナが言えばもっともらしく聞こえる。が、一は不死の存在を信じるに足るモノを既に見てしまっていた。ありえない話ではない。
「不死って、マジなのか?」
「試した事ないから知らなーい。つーか、あいつの体ハンパなく硬いらしいんだよね。だから、殺そうと思っても殺せないってのがホントっぽい」
「竜の血液を浴びた事により身体を硬化する魔法、のようなものが掛かっているのでしょうか」
「馬鹿げてやがる」
一はそうして吐き捨てるが、内心ではどこか納得もしていた。
「私が知ってるのはそれくらい。あとはもう、本人に聞くか……」
一つ、溜め息。
「ヒルデさんに聞くしかないと思うけど?」
聞けるものなら聞いてみろと、シルトは厭世的に笑む。
「そうかよ。ありがとう」
まだ自分は諦めていないのか。情けなくて、小さな奴だと、一の胸が勝手に痛んだ。
体長は五、六メートル、体高は二から三メートルといったところだろうか。動物園で昔見た象とどちらが大きいか比べて、無駄な事だと一は思い直した。
物陰から覗くと、巨大な猪は駒台デパートの駐車場のど真ん中、身動きせずに前方を見据えている。何もしないのか。あるいは、何かを待っているのか。
「随分とお行儀が良いのですね」
「死んでんじゃねえの?」
「バッカじゃないの? 死んでるワケないじゃん」
願望を口にしただけで罵られる。なんてふざけた世の中で、なんてふざけた女だと一は嘆いた。
「で、どうやって仕掛けんの?」
「俺に聞くな」アイギスを握り、一は頭をかく。
「ではシルトさんが囮になってソレを引きつけておいてください。その間、マスターと私で出来る限り頑張ります」
「出来る限りって何!? 何なのバカなのっ?」
「でけえ声出すなよ。気付かれたらどうすんだ」
一はちらりと猪、グリンブルスティの様子を盗み見る。
勘違い、見間違いではない。ソレの体毛は確かに、夜を切り裂くように黄金色に輝いていた。微動だにしないその佇まいからは神聖なものを感じる。
「三方から同時に仕掛けましょう。我々の手持ちの武器では近接戦闘しか考えられません」
「俺も行くのか……」
「あんたも勤務外なら覚悟を決めろっつーの。いち、にのさんで仕掛ける」
シルトが足音を立てないように、ソレの左側面へと回り込んだ。ナナは右に行き、残った一はソレの背後を陣取――――。
「……ミスった」
――――ろうとしたら、思い切り石を蹴飛ばしていた。物音に気付き、巨大な猪がぐるりと体を捻らせる。目が合った一の鳥肌が立ち、見下ろされた彼の腰が抜けそうになった。
ソレの鼻から呼気が上がる。寒々とした空気を強い敵意が熱していく。嫌でも目立つソレの牙が、一の視線から離れない。
「マスターっ!」
ナナが飛び出す。ソレの注意を引きつけようとしたのだろうがもう遅い。グリンブルスティと呼ばれる猪は一に向かって駆け出していた。
「わあああああああああああっ!?」
一は慌ててアイギスを広げる。向かってくるソレからは逃げられないと判断して、両足を踏ん張ってアイギスを前方に向けた。その間、シルトがソレの脇腹に槍を突き刺す。しかし深くは刺さらない。僅かに肉を抉るだけに留まり、彼女は得物ごと弾き飛ばされてしまった。
瞬間、鈍い音が駐車場に響く。一は何事かを叫び、後方へと吹き飛ばされていった。アイギスを落とさない事には成功したが、彼の頭の中は混濁して、彼の体は何度も何度もコンクリートにぶつかって転がる。
尚も、ソレは闘志を漲らせている。転倒した一に向かって狙いを定めた。が、追いついたナナがソレの鼻先に拳を繰り出す。呻き声が聞こえたが、彼女は全てを無視して攻撃を加え続けた。
「よくもっ、マスターを!」
転がった槍を拾い上げたシルトも戦闘に戻ろうとするが、握った得物を頼りなく感じる。技術部が新たに開発した、携行可能なギミックのついた短槍だ。槍の柄、その半分だけが基本の状態であり、簡単な操作でもう半分の柄と、槍頭が飛び出す仕組みになっている。が、可変機構の武器と言うのは不安だった。武器はもっと単純で良い。構造が単純であればあるほど強度にも期待出来る。
――――文句は言えないか。
側面に回ったシルトがソレの体に槍を突き立てる。傷口からは血液が噴出するも、ソレは動きを止めない。体が大きいからか、ある程度の痛みには鈍いのだ。
「マスター! マスターご無事ですか!?」
殴りながらでナナが振り返る。一は立ち上がろうといていたが、衝撃が強過ぎた。まだ、意識が定まっていない。ふらふらとしながら、膝をついて苦しそうに呻いた。
「――――――ッッ!」
咆哮が一たちの耳をつんざく。ナナに正面から打たれ、シルトには横合いから攻撃を繰り返される。ソレは怒りのままに顔を振るい、牙でナナを突こうとした。
だが、怒りに身を震わせているのはソレだけではない。ナナは片腕で牙を押さえ、残った腕でグリンブルスティの顔面を殴り抜く。
「……マジで」
ナナの凄まじい戦闘能力にシルトは戦慄した。これではどちらが獣なのか分からない。
「ご主人様とは違うね、やるじゃんメイド」
「その牙、叩き折ってみせましょうっ」
ナナは両手を振り上げてソレの牙に固めた拳を力任せにぶつける。が、びくともしない。逆に、反動で体勢の崩れた彼女の腹部にソレの頭突きがめりこんだ。宙を浮くナナを見上げてシルトは舌打ちする。
地面に衝突したナナの体から甲高い音が響いた。その音で定まっていなかった一の瞳の焦点が合う。
「う、ナナ……っ」
一は無理矢理に体を動かして立ち上がった。ソレは無傷ではないものの、中途半端にダメージをもらったせいか、我を忘れて暴れ回っている。不用意に近づけば手痛い反撃を食らうのは必至だった。
「使えないぞ北駒台!」
シルトはソレの攻撃を巧みに避けて槍での刺突を試みる。だが、そのどれもが致命傷には至らない。ソレの怒りを買うだけに留まっていた。
「……どうしろってんだ」
メドゥーサで動きを止めたところで、一たちには火力というものが圧倒的に不足している。ソレの分厚い皮と肉の前では、ナナの打撃もシルトの槍もいま少し頼りなかった。勿論、時間さえ掛ければ打倒しうるだろうが、巨体から繰り出される一撃は何度も耐えられるものではない。早期に決着をつけなければなるまい。
一はアイギスの柄を強く握る。メドゥーサの能力を最大限に発揮させて、ソレを石化させる。もう、これしか残っていないように思った。問題は、ゴルゴン戦のように上手く彼女を呼べるかどうかだ。あの日あの時の召喚はまぐれに近い。メドゥーサが一の呼び掛けに応えたのは、ゴルゴンという外的要因があったればこそなのだから。
「ああああっ、もう! あんたらいつまでサボってんのよ!」
「うるせえ」
まだ、呼べない。最後の最後、ぎりぎりまでメドゥーサは取っておく。それまでは少しずつで構わない。ソレの皮を、血を、肉を削り、奪う。
「ナナいけるか?」
「問題ありません。戦闘行動を継続します。が、相手を過小評価していたようですね。マスター、指示を」
「指示って……」
「では独断で戦闘を開始します。積み重ねれば、鈍重な相手にもいつかは通ずるでしょうから」
牙を避け、ナナがソレの顎を打ち上げる。僅かに上がったグリンブルスティの頬にシルトの槍が突き刺さった。
「あぶねえぞっ」
ソレが首をめちゃくちゃに振る。一はシルトを庇う為に、アイギスでその攻撃を受け止めた。
「やっと出てきたなカメヤロウ。どんだけびびりゃ気が済むんだっつーの」
「さっさと止めろよこいつをよう!」
グリンブルスティと、それに群がる勤務外を認めて、シグルズは息を吐いた。背負った大剣を片手で掴み、大きく振るう。鋭い剣筋で空気が裂けた。
「この辺りにも鳥はいないんだな」
シグルズの傍に立つヒルデはゆるゆるとした動作で空を見上げると、悲しそうに頷いた。
「醜い世界だ。ここに、かの聖獣は似合わない。一刻も早く切り捨てて、豊穣神のもとに帰してやらないとな」
シグルズが歩く度にかしゃかしゃと音が鳴る。甲冑を着ているのにも関わらず、その足取りは場違いなほどにどこか軽快だった。
「…………待って」
「猶予はない。あのように荒れた姿を曝すのも本意ではない筈だ」
「そうじゃないの。もう、あの子たちには手を出さないで」
シグルズは肩に担いだ大剣の位置を直して、未だこちらに気付いていない一たちを見遣った。
「さっきの事を言ってるのか? 誤解だ。向こうから仕掛けてきたのだから、俺としては払うほかなかった」
「…………お願いだから」
縋るような、媚びた瞳でヒルデは訴える。
「……分かっている。お前の美しい瞳が曇るのは、俺にとって望むところではない」
言うと、シグルズは再び歩を進めた。大剣を肩に担ぎ直す。目線は前に。視線は神の乗獣に。そう、勤務外たちには目もくれず。
距離を詰めていくと、こちらの動きにナナが気付いた。彼女はグリンブルスティの牙を払い除けて、何事かを叫ぶ。釣られて、一たちもシグルズを視認した。
同時に、シグルズの後ろにいるヒルデにも気が付いたらしい。それが、彼にとっては気に入らない。見目麗しいだけではない。心根までも美しい彼女に、触れるな。汚い目で、汚れた目で、濁った目で、澱んだ目で、醜い者がこの世界だけでなく彼女までもを犯そうとするならば。
「駄目っ」
ヒルデが叫ぶ。シグルズは止まらない。大剣を後ろに大きく振り被る。上下の歯を強く噛み締めると、獣の如き咆哮が彼の喉から迸り出た。
死にたくなければ突っ伏せ愚者よ。かかる火の粉であるならば、ここで払うが後で払うも同じ事。刃風に散るならそれまでだ。戦乙女の期待に応えられる器ならば、せめてこの場は生き抜いて見せろ。
もはや、それは剣技ではなかった。剣術でもない。そこに技巧といった類のものはない。ただ、力任せに振るうだけだ。
「マスター駄目ですっ!」
巻き起こる風が周囲の者を吹き抜けて揺らす。最高速度に達した剣先がグリンブルスティ、右の牙と衝突し、砕いた。ナナが一に向けて手を伸ばすも届かない。足がもつれた彼女は倒れ込み、悲痛な声を上げる。
大剣は勢いを殺さないまま空気を切り裂き、ソレの肉に届いた。顔の真ん中に食い込んだシグルズの得物に慈悲はない。鈍い音を立て、鮮血が夜空に赤い花を咲かせる。そのまま、剣は残った牙へと標的を変えていた。
砕かれる牙。尚も剣は止まらない。余勢を残して、それは、棒立ちのシルトを捉えていた。彼女は既に掌から槍を落として、じっとヒルデを見つめている。
「やめて……!」
もう遅い。シグルズに剣を止める気はなかった。だからきっとシルトは死んでしまう。冷えた刃先が彼女の頭蓋に叩き込まれて付着していたソレの血と混ざり合い、壊れた蛇口から放たれる水のように脳漿が撒き散らされる。痛みを感じるのは一瞬間あるかないか、それだけが救いで、それだけしか救いがない。切断と言うよりもむしろ分断されたシルトの顔上半分はきっとどこかに飛んでいく。宙を泳いで地面に叩きつけられれば内容物を吐き出すだろう。首から上を失った胴体からも血しぶきが噴き出して辺りを朱に染める筈だ。痙攣を繰り返して自らを沈める血の海の中、彼女は何を思うのだろうか。だからきっと、戦乙女がまた一人、死んでしまったのだろう。
恐れを知らない者が、飛び出さなければ。
シグルズは目を大きく見開いた。彼が持つのは紛れもない凶器で、竜の鱗すら容易く貫く暴力の権化なのである。その前に、立ちはだかる者が信じられない。大きく広げた傘を盾に、シルトよりも先んじて大剣に我が身を晒す男が信じられない。
「俺の前に……!」
「マスターっ、やめてえ!」
覚悟なんて決まらない。一はただアイギスを構え、両足を踏ん張って耐えるだけだ。もう、それ以外は考えない。考えられない。
「……ううっ!」
盾に剣が触れた。それだけでとてつもない衝撃が伝わる。シグルズは憤怒の形相でこちらを睨みつけていた。力と力がぶつかった瞬間、双方が苦痛に顔を歪める。すぐ後ろにはシルトがいる。退くまいと、一は歯を食い縛った。
「何やってんだ……! 早く退けよっ!」
「ヒルデさんが……」
一向に動こうとしないシルトに苛立ちながらも、視線はシグルズから逸らさない。力の差は歴然だった。一分どころか今を持たせるのに必死である。腕はとっくに痺れて両膝はがくがくと情けなく震えていた。一はアイギスから片手を離して、その場に倒れ込む。その際にシルトを引き倒した。地面に頭をぶつけようが死ぬよりはましだと決め付けて。
一という支えを失ったシグルズは不恰好な動作で大剣を振り抜く。凄まじい音がすぐ下にいる一たちの鼓膜を襲った。
「がああぁぁぁあああっ!」
そのまま、一に攻撃を防がれた怒りを露にしてシグルズは得物を振り回す。グリンブルスティは八つ当りじみた攻撃をまともに受けた。既に牙は砕かれ、顔面を真っ二つに裂かれているソレに戦闘の続行は不可能だった。しかし、シグルズはソレを切り続ける。痛みに喘ぎ、苦しみに呻くモノに尚も襲い掛かるのだ。
ナナはその隙に身を屈め、一とシルトを脇に抱えてこの場を逃れている。彼女は一だけを大事そうに抱えて、シルトを地面に落とした。しかし、シルトから抗議の言葉は発せられない。彼女はじっと、さっきからずっと一点を見つめて動かない。
「……どう、して」
シルトはただ、答えて欲しかった。こちらを見て欲しかった。
「ヒルデさん、どうしてっ!?」
ヒルデは答えない。見ない。シルトの事を認識していないかのように。
「答えてっ、答えてください! どうして、どうして、どうして! どうして黙って行ったんですか!」
問い詰めるようなシルトの剣幕に反応したのはシグルズだ。彼はようやくになってソレに対する攻撃を止め、一たちを睨み付ける。
「黙れワルキューレ。貴様のようなモノが彼女の名を呼ぶなど、自惚れるのにもほどがある」
「うるさいっ、お前は黙れ! お前がヒルデさんを……!」
「吠えるな。ブリュンヒルトが俺の隣に立つのは、他ならぬ彼女が決めた事だ」
「黙れっ、お前は喋るな! 私はヒルデさんに聞いてるんだからあ!」
恥も外聞もなくシルトは泣き叫ぶ。一は何も言えず、何も出来ずに立ち尽くす。
「どうしてルルがあんな目に遭わなければっ!?」
ヒルデは俯いた。それが、罪悪感によってシルトから視線を逃がす行為だったのかは誰にも分からない。一に分かったのは、もう、ヒルデが以前のようには笑ってくれない、遠い世界の住人になったのだという事だけだ。
「……南は、ヒルデさんに追っ手も差し向けてます。せめて、せめて理由だけでも教えてください」
「口を開くな、彼女に貴様のようなモノの声を聞かせるなっ」
「そうじゃないと誰も納得出来ません!」
痺れを切らしたシグルズがシルトに視線を定める。
「悪いが、約束は守れそうにないぞ。お前の瞳を涙で濡らすのは忍びない。だが、悲しみに濡れた瞳というのも美しくはある。気にするな、誰が死のうとお前の美は損なわれない。腐敗し、汚れきった世界に輝くのはお前だけで良い」
「答えてっ、答えてっ!」
ここに居残っても仕方がない。ヒルデはシルトの話を聞いていない。シグルズは完全に、自分たちを殺すつもりでいる。一はアイギスを握り直して、ナナを見遣った。
「握力が戻らねえ。そこの馬鹿を頼む」
「マスター、アレと戦闘するおつもりですか。ならばナナはその命令を受諾する訳には参りません」
「そんなつもりはないよ。足は動く。なら、逃げるしかない」
ナナは安心したように、口から空気を吐き出す。
「私のご主人さまが弱虫で良かったです」
「その分働けるからか?」
「マスターが生きている限り、私はマスターのメイドでいられますから。だから、危険な橋は渡らないでもらえると助かります」
言われるまでもない。一は深呼吸を繰り返して、こちらに歩いてくるシグルズを見据えた。
「行くぞ」
ナナがシルトを抱き抱える。シルトは抵抗したが、自動人形の力には逆らえない。
「離せ、離してよ! まだヒルデさんがっ」
疾駆し、ナナは駐車場の端、ソレが破ったであろうフェンスに向かった。一は彼女を追い掛けるようにして逃げる。
背後からは甲冑の軋む音と、何かが地面に擦れるような不快な金属音が聞こえてくる。
「来てる来てる来てる来てる……!」
一足先にフェンスを抜けたナナが振り返り、左腕の袖から何かを取り出した。
「マスター、頭を下げてっ」
言われるがままに頭を下げ、一はフェンスを抜けようとする。瞬間、目の前が真っ白に染まった。前後不覚に陥りふらつく彼をナナが捕まえる。
「独断ではありましたが、閃光弾を使用しました。マスター、お許しを」
何も見えない。何も答えられない。抱き抱えられたと認識して、何も見えないと分かっていながらも一は振り向く。悲しそうに俯くヒルデが見えたような気がした。
「ここまでくれば安全でしょう」
ナナが一たちを解放したのは、北駒台店前に着いてからの事だった。買い物を終えた客が物珍しそうに、メイド服を着たナナに跪く一たちを見て、それから足早に去っていく。
「マスター、視界は良好ですか?」
「……ああ、良く見えるよ。潰れるかと思ったけどな、目」
良く見える。閃光弾による影響は徐々に薄れつつあった。満足気にしているナナと、泣き腫らした顔を今になって隠そうとするシルトが、一には見えている。
「歯が浮くような台詞を素面で並べて、おっかないもの振り回してよう、狂ってやがる」
一の網膜に、記憶にはまだ鮮明に焼き付いている。憤怒の形相をした、甲冑を着込んだ男が。
「アレが英雄ってかい。吹くじゃねえのワルキューレさんよ」
皮肉たっぷりに口を開いても、シルトはまともな反応を見せない。
「何か言えよ。俺らは殺されそうになったんだぜ」
シグルズに。否、ヒルデと一緒にいた男に、である。彼女が傍にいて、何故、自分たちが殺されかけなければならないのか。
「だんまりかよ」
「……そんなの」
「なんだよ」
「そんなの、私が知りたい。私が知りたかったのは……!」
再び泣き始めるシルトの動きが、一にはやけにゆっくりに見える。だから、自分の胸に泣きついてこようとした彼女から逃げる為に、
「ナナ、後は任せて良いか?」
立ち上がった。
まだ、ここで立ち止まる訳にはいかなかった。
「勿論です。万事、仔細に抜かりなく。マスターが望むままに。……お休みなさいませ、マスター」
「ありがとう」
今はゆっくりと休みたい。前へ進む為に。この先を、見届けたいが為に。